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2008年04月 アーカイブ

2008年04月08日

「かしみん」のこと

『料理通信』誌の連載取材で「かしみん」を取材に行く。
行き先は岸和田の「浜地区」ではない。大阪でもミナミは「吉本」のおひざ元の難波千日前である。
この店は「元祖・岸和田かしみん焼き」と称する。店名は『紙の屋』である。

店名を見て、岸和田それもだんじり祭関連の人なら「ははぁん」とわかる。
「かしみん」は「岸和田浜七町」のちょうどど真ん中の町「紙屋町」のお好み焼き屋『大和』が発祥であるからだ。
わたしはこの浜のお好み焼き屋を『ミーツ』時代に取材させていただきご紹介したことがある。
特集『関西お好み焼き世界。』の時であり、この特集が「かしみん」のメディア登場の嚆矢となったと記憶する。
ちょうどこの長屋の大家さん・内田樹せんせいの新連載『街場の現代思想』が始まった号であるから、記憶しているマニアの方も多いと思う。

「かしみん」というのは、大阪府南部のディープサウスと異名をとる岸和田の、それも浜地区のお好み焼きである。
岸和田といえば「だんじり祭」だが、そのなかでも浜七町は「祭こそ我が人生」のもっとも熱いエリアであり、この「かしみん」は大変リージョナルな存在である。

岸和田の「浜七町」、このだんじりのメッカに生まれた男たちは他の土地に住むことを嫌う。
町内は三世帯住宅が多い。三世帯住宅を建ててでも自町および「浜七町」に固執する。
やむなく他所に移っても、空き家が見つかるとすぐ戻ってくる。
冬〜夏の月一回の祭の寄り合いや、盆明けの毎日のようにある寄り合いと祭当日と落策の一カ月だけでは飽き足らない。
またこの街で生まれた女性は、配偶者には「浜七町」の男性、それがかなわぬならだんじり祭礼旧市の男性を優先する。
だんじりのDNAが濃縮され煮詰まったような町である。

わたしは若頭筆頭をする前年、このお好み焼き『大和』に、食べ物ライター曽束政昭とカメラマン川隅知明両氏と取材に行った。
案内役兼説明役は紙屋町の隣町、中之濱町の若頭・山本弘之氏と音揃政啓氏である。
山本氏は建設業「泉商」の親方で元近大相撲部。立浪部屋から入門の声もかかったという男である。彼とわたしは平成12年に若頭連絡協議会の副幹事長を中央地区からわたし、浜地区からは山本氏と同じく務めたが、平成15年の盆前、惜しくも42歳でこの世を去った。
音揃氏は「音萬水産」の若親方、つまり網元であり大阪府漁協の青年部長を務めていた。また昨年度の中之濱町の若頭筆頭である。

そして中之濱という町は、こういう町である。
昨年上梓した『岸和田だんじり讀本』から引用する。

「天下泰平中之濱 黒欄干には誉の力士 日掛けで造りしだんじりに 今も息づく濱気質」。
天下泰平の軍配はその昔、城内で行われた御前相撲で優勝し授与されたものに由来する。中之濱町のトレードマークである。
先代は「水滸伝」と呼ばれた名地車であったが、昭和二十年(1945)七月九日、浜の町に忘れえぬ悲劇が訪れる。
空爆で地車を焼かれてはいかんと、少しでも安全な場所へと移動させたところ、皮肉にもその地に米軍の焼夷弾が降った。
哀れ地車は戦争の犠牲となったのである。
この光景を目前に見て、地車移動を実行した長老たちは「戦地で戦う若者に申し訳ない」と嘆き「腹を切る」と座り込んだ人もいたという。
そして戦後、地車のない悔しい思いに耐えること数年、苦しい時代にもかかわらず全世帯公平に十円の日掛けをして資金を調達し、今の地車を造ったのである。
大工棟梁は、浜の名門大工「大安」の流れを汲む町内の天野藤一師が「町内のために」と初めての地車作事を引き受けた。
他の大工から心ない誹謗中傷があったというも、助として弟の天野喜三郎師の応援も受け、一心不乱に製作に取り掛かった。
彫物は熱い町民の心意気に応えて、名匠・木下舜次郎師が刻んだ。
助人彫物師には金光南陽師を先頭に前田正三師、上田勇次・勇造・祐次郎の各師、松田正幸師らである。
町は地車新造にまとまり一丸となった。
そして昭和二十五年(1950)九月、出来かけの地車を曳行するかどうか物議を醸す中、投票により急きょ曳くこととなり未完成のまま曳行した。
明くる昭和二十六年(1951)念願の地車が完成する。
そういった苦難連続の経緯ゆえか、中之濱町には地車をこよなく愛し大切にする気質が受け継がれている。
この地車は先代と同じく黒欄干であり正面には誉の横綱の番付標が付いている。
また曳き綱の鐶は空襲で焼け残った先代のものを流用している。
彫物は正面土呂幕に戦後を象徴するかのように朝廷に反乱した平将門が彫られており、土呂幕左の「本能寺の変」とともに木下舜次郎師の代表する逸品である。
欄干(高欄)や脇障子柱、兜枡などに黒檀が使用されることによりメリハリがつき、締まりのある姿となっている。
木鼻も細工が素晴らしく見応えがあり、懸魚のバネで飛ぶ千鳥も初めて考案された。
先代地車は明治三十年(1897)頃の新調で、大工棟梁は「大弥三」こと田端辰次郎師と伝えられている。
安政三年(1856)に新調されたといわれる地車もあり、土呂幕の一部が貝塚市某氏により保存されている。
「なかんば」の通称はかつての地名「中ノ場」による。
昔は町内に魚市場があり、セリ声とともに活気のある時代があった。

またわたしは『岸和田だんじり若頭日記』で「中之濱町地車五十年誌」の内容について書いている。

中之濱町の若頭のKが「中之濱町地車五十年誌」を届けてくれた。
Kは以前にも書いたが、三代続く度胸千両系男稼業の家に生まれた典型的な「浜」のだんじり男だ。
昨年の秋に中之濱町内で編集が進んでいることを聞き、新年の若頭責任者協議会の寄り合いの時に「一冊、頼む」と代金一万二千円也をことづけていたのだが、刷り上がるやいなや、「おい、江。できたから今日、持っていっちゃる」と電話があった。このあたりの直截的な気質が胸に小気味いい。

前文にあるリードには
「脈々と流れ続く岸和田の地車の歴史の中で、50有余年もの伝統ある地車を戦災で消失したのは、唯一中之濱町だけである。地車を持たぬ町の悲哀を身にしみて感じた町民はやがて、衣食住もままならぬ中での日掛け十円を二年間に渡って続け、ついには地車の新調を成し得たのである。」
とある。
タイトル「天下泰平」はこの町の纏や法被はじめ至る所に意匠化されている軍配団扇のことで、その昔、城内で開かれた御前相撲でこの町の志形屋権七が優勝、殿様より下賜された軍配がその由来になっている。

「日掛け十円」の話は以下の通り。
「…この有名な十円貯金を可能にしたのは、中之濱が漁師町であったからだとされている。つまり、漁師は漁に出さえすれば日銭が入ったからだ。前日に十円出し、例えすっからかんになったとしても、翌朝の漁に出て捕った魚を魚市場に持っていけばお金になり、またその日の十円が払えたというのである。」

この中之濱町、通称「なかんば(中ノ場)」とはどういう場所か。
「戦後まもなくまで、現在の幼稚園の位置に岸和田唯一の魚市場があり、町は早朝より近郊の町や村から、魚屋、仲買人が集まり、威勢のいい競り声や、大八車、リヤカーの音で目が覚めるという活気に満ちあふれた漁師町だった。皆が貧乏であったが、素朴で人が良く、よくけんかもするが人情味のあふれる住みよい町であった。」
圧巻は「若い衆への五つの提言」である。
「●二つ、内輪もめをしないようにすること
中之濱町は浜気質で気が荒く、けんかの多い町だ。内輪もめもよくした。魚市場の跡地での大げんかや、青年団が駅前に地車を放ったまま帰り、それを世話人が夜に曳いて帰ったという話もある。町内で力を合わせて地車を曳き、みんなで祭を楽しもう。内輪もめをしてはいけない。」
●四つ、責任ある祭をすること
祭の雰囲気が好きなだけの人は、地車はどうでもいい人。本当に地車が好きな人は地車を大切にし、祭に責任を持つだろう。若くても、年がいっていても、祭に責任を持たなければならない。無責任な祭になってはいけない」

カバンに入れてずしりと重いこの一冊を岸和田の実家から持ち帰ったその日一日、わたしは確かに「浜のだんじり」の中にいた。

さて「かしみん」の話だった。
岸和田だんじりの話になると、ナンボでも話があるのだが、時間がナンボあっても足らんので今回はこれくらいにしておく。

「江クン。ミーツでお好みの特集するんやったら、大和のかしみん、オレらが案内するで。おばちゃんにゆうといちゃる」と両氏言われたのだが、わたしはすでに中学校の時に初めて同級生になった浜小学校の友人に連れて行ってもらったことがある。
本格的にかしみんを食べるようになったのは、高三のころ。サーフィンを始めたころだ。
サーフィンはものすごい運動量である。だから、かしみんの脂とかしわが身体に染みる。
この店は酒やビールを置かない(牛乳はある)夜7時までしかやっていないお好み焼き屋で、身体を使う仕事である漁師や沖仲仕などの港湾関係者、建築関係者や運動クラブ帰りの高校生で賑わっていたのだが、波があればいつも海に行くカネがないサーファーたちにも人気絶大だった。

わたしは当時、『ミーツ』でバリバリの編集長で、そういうことをお好み焼き特集に書いてもらいたくて、ライター曽束に彼ら二人を紹介したが、山本くんのケンチク事務所に行って待ち合わせたところ、彼らは「にいちゃん、江クンの編集長の本やから上手に書いたってや。恥かかしたらアカン」と言った。
彼らの体躯と顔を見、そしてその言葉を聞いて曽束はビビった。
そしてわたしは実はかしみんに詳しいことを彼らには言わなかったし、曽束に書いてもらおうと決めた。

曽束は取材して帰って「岸和田かしみん浜七軒」というタイトルで書いた。

岸和田市街の紀州街道より海側は、大北町、中北町、大手町、紙屋町、中之浜町、中町、大工町の7つを総称し「浜七町」=「浜」と呼ばれ、70年代まではさらに海側に砂浜があったという漁師町だ。
そこに「かしみん」と呼ばれる浜ならではの洋食焼きがあると聞き、だんじり同様にかしみんを愛する中之浜町若頭の方達に案内してもらった。

その昔、一銭洋食の店があり、安くて栄養ある「“ひね”のかしわ」が使われていた。
最初に案内してもらった店「大和」のご主人も、その店から洋食焼きを教わったという。「大和」では一枚テーブルの鉄板で焼いている。
熱したそれに生地を丸く薄く延ばし、キャベツ、かしわ、そしてミンチの牛脂をかける。
だから「かしみん」。
返して焼くと脂は溶けて、揚げたようにカリッとなる。ソースを塗った上にも、さらに脂のミンチをパラパラ。これがソースに溶け込む。
食べると薄い生地なのにぐっと歯ごたえが。かしわはグリッとスジに似た食感、脂の旨みも「濃いなあ」だ。とどめはふちのかりかり感。
まるでピッツア、いやこれより旨い。
こりゃ、やられた。

浜界隈でかしみんをやている店は、堺町にある鶏肉店「鳥美」よりかしわを仕入れている。
店主の和泉屋さんは「80歳になったとき店をたたもうと思ってお好みの店に電話したら、みなに『やめんといて』と言われて…」と、娘さんたちに鶏の身、皮、脂の調合を伝授、店は継がれることとなった。
そして一昨年には店の奥をお好み焼き店に改装。
お好み焼きのレシピについては今度は逆に「大和」のご主人が教えてくえたそうだ。国道沿いにある「吞喜」の店主もまた、「大和」から伝授された。
「かしみん」は、だんじりと同じく浜の町の宝。
それはまるで、泉州の魚が、多くの漁師達が世代を超えて共有する大切な財産であるかのように。
そんな意味や気質さえもが、この洋食焼き一枚に含まれているのだ。

さすがに良い取材をしているので良い記事である。
この「かしみん」は、同じ岸和田でも浜地区以外ではあまり知られていなかった。
しかし昨年末、岸和田を飛び出したこのミナミ店の登場でテレビを賑わすようになり、一気にその存在が知られるようになった。

『紙の屋』の店主・塩崎さんは昨年の夏頃、地元の人に連れられ食し、そのうまさに「やられてしまった」。
「こんなうまいものが、今までどうして地域外に出なかったのだろう」とのことで大和さん一家に教えを請う。
紙屋町内では「他所の人が住み込みで習いに来てる」と話題になったそうだ。
毎朝通い続けること3カ月、コツを聞いては試行錯誤の末、大阪ミナミに出店する。
「やっぱり梅田とはちがうでしょ」と、なんばグランド花月、ワッハ上方など、お笑いや演芸の施設が集中するエリアで、たこ焼き、お好み焼き、ラーメン、食堂…と浪花ファーストフードのメッカに出店する。
わたしは「粉もん」とかいう言い方をされるようなテーマパーク的な食い物がいやで、あんな場所で「ホンマに旨いんかいな」と思ったが、これは正真正銘の「かしみん」だった。
380円也。値段も岸和田価格であり、紙屋町の40代連中も食べに来るという。
店主に「うるさいこと言うでしょ」と訊くと「話、早いから楽ですわ」と笑う。

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