「起業宣言」のようなもの

 二年前の夏、毎年「極楽ハイキング部」が主催している「中村壮でたらふく魚を食す」ため、男鹿島に向かうフェリーのなかで、僕の隣に座っていらした内田先生から突然こう言われた。
「あと何年で定年なの?」
「2年です。」
「定年後は何をするの?」。
「...。特に、何も考えていないです。」
 内田先生は、3秒ほど何かを考えている様子で、
「起業しない?」とおっしゃった。
 まったく自分のなかで思い及ばなかった「起業」という言葉に僕は困惑したが、なんとなくそれもありかなと、なぜか、その時にそう思った。
 それから、自分のなかで具体的な「起業」についてのイメージを膨らませていった。なにせ、40年近く同じ業種でサラリーマンだけをやってきた僕が起業なんて可能なのだろうか?そもそも何をしよう、そんな、葛藤を繰り返しながら、僕は「但馬」と関わりたいと思った。直感だけで、これまで生きてきたような人間なので、今回も自分の直感を信じることにした。
 僕の両親は、「湯村温泉」、ドラマ「夢千代日記」で知られている、兵庫県美方郡温泉町というところで生まれ育った。その後、結婚を機に親戚を頼って兵庫県川西市に居を構え、60年前の1965年8月に僕が生まれた。僕が小学生の頃、毎年お盆になると、お墓参りのために温泉町の双方の実家に帰省した。それは、国鉄宝塚駅から特急「まつかぜ」に乗り、浜坂駅で降りて、そこからバスに乗るという4時間弱の子供にとっては少々ハードな旅だった。お盆の間は、毎朝6時に起床したあと、親族総出でお墓参りに行き、昼間は諸寄海岸で海水浴をし、夕方にもう一度お墓参りをしたあと、夜は楽しそうな大人たちの宴会を眺めるというのが、僕の夏休みのルーティンだった。そんな子供のころの楽しい記憶からか、いつしか僕は自分のことを但馬の人間だというふうに自覚するようになった。
 子供のころ、「但馬」は冬になると雪深く、冬の日本海の暗いイメージと重なり「裏日本」などと揶揄されていた。確かに、当時母の実家には、玄関の脇に20㎡ほどの空間に牛がいて、お風呂は、所謂「五右衛門風呂」で、鉄製の釜の底に木製の底板を踏みながら入浴するもので、外からおばさんがかまどに薪をくべてお湯をわかしてくれた。僕は、そんな母の実家を「牛の家」と呼んでいた。そして、今でも高速道路が幾分整備されたとはいえ、
 大阪から車で約3時間半ほどかかる辺境なところであることに変わりはない。
 現在、「温泉町」は2005年に「浜坂町」と合併し「新温泉町」となり、人口約11,000人、
高齢(65才以上)化率約41%と典型的な日本の過疎化した町の典型と言えるだろう。
 そんな「但馬」に人を送り込もうというのが、僕の起業イメージである。現在、僕の働いている不動産業界では、長い間活況が続いている。そんな状況下、独立をしたり、さらにいい条件で転職する若い社員が後を絶たない。平成バブル、リーマンショックを経験した僕からすると、今回の活況は、単なるバブルと思えなくもないが、そう思いながらこの状況が長く続いているのも事実である。そんな若い社員を見ていると、話題の殆どが、「金」の話ばかりである。
 一方、シングルマザー(世帯数:約120万世帯、平均年収:約236万円)、引きこもり
約146万人(15才から64才)、増え続ける不登校児童約34万人など、彼らの存在を、いったいどう考えればいいのか。彼らの居場所はないのだろうか。そう思ったときに、この二つを結び付けることはできないだろうかと思い至った。
 なぜなら、所謂転職サイトでは、彼らは、最初から除外されているからである。
 一方、但馬も日本全体からみれば、切り捨てられようとしているといっても過言ではないだろう。二つとも、「金」の世界から見放された存在だと言えば言い過ぎだろうか。そうであるなら、「金」の世界とは別の世界で生きていくことはできないのか。
 僕の考えていることを具現化するために、これから約1年かけてリサーチを行おうと思っている。実際に但馬に足を運び、いろいろな現場の方の声を聴くことにした。この起業に関して「ひと山当ててやろう」などの野望はないが、だからといって、40年近くビジネスの世界に生きてきた人間の矜持として損は出したくない。
 リサーチの第一弾として、僕は、内田先生から紹介いただいた中貝前豊岡市長に会って話を伺うことにした。僕が言うまでもなく、中貝前豊岡市長は、豊岡市長時代に、コウノトリの野生復帰、「城崎国際アートセンター」オープン、「芸術文化観光専門職大学」開学と数々の功績を残された方である。あの豊岡でそんなことができたのかと、但馬を知っている僕としては、ただただ驚くしかない。そんな中貝前豊岡市長に、まずはお会いしたいと思ったのである。
 そのときのことは次回で詳しく話をしたいと思う。
 内田先生の一言から始まった今回の「起業」だが、僕は、なにより亡くなった両親への「親孝行」になればいいなと思っている。