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2006年06月 アーカイブ

2006年06月05日

愛撫と他者

あるネットサイトのプロジェクト(とかいうと、何だかかっちょいいように聞こえる。でも、実際に結構かっちょいい)が進行していて、その下準備で、特集デスクをした『神戸の中国料理』(ミーツ・リージョナル誌2003.4月号)を読み返していたら、当時、内田樹先生が連載していた「街場の現代思想」の最終回に行き当たる。最終回のお題は“「他者」」とは何か? の不可能な問い、について”。ハードコアパンクなお題だ。

かねてから疑問に思っていたことがある。

なぜ、男は女の胸を揉むのだろう。

まあ、ぷにゅぷにゅした感触が気持ち良いのだろうとは想像がつくが、揉んでもそこから何かが出るわけでもない。乳房を揉む。乳房がくしゃっとつぶれる。乳房が戻る。戻った乳房をまた揉む。乳房が…という果てしない行為が繰り返される。どこにもいかない、その行為。飽くなき挑戦にすら思える「胸を揉む」というその行動。

もみもみもみもみもみもみ…。

一度、男に聞いてみた。

「ねえ、ねえ、何で胸揉むの? 何が楽しいの? 揉むといいことあるわけ? そこに何かがあるの?」

「わからん」

もみもみもみもみもみもみ…。質問など耳に入らぬようで、男は無心に胸を揉む。

そんな男が私には、わからない。


「他者」とは何か? の不可能な問いについてを読んでいると、こんな一文があった。

〜引用始め〜
ー前略ー
 「『他者』とはなんだか分からないことを語る人」、そして「『私』とはなんだか分からないことを聴いている人」、これが「他者」と「私」の定義なのだ。「他者」や「私」がまずあって、そのあいだにコミュニケーションが成り立ったり成り立たなかったりするのではない。そういうものはすべて事後的なことだ。最初にあるのは、「なんだか分からないことば」そのものなのだ。
 その「なんだか分からないことば」の発信者を「他者」と呼び、その「なんだか分からないことば」を受信しつつあるものを「私」と呼ぶのだ。
ー中略ー
 「私も育児をしたことがあるから分かるけれど、親というのは赤ちゃんに向かってほとんどが絶え間なく「ねえ、何考えてるの?」と問いかけているものなのだよ。それは、別に切羽詰まった「審問」や「査問」ではない。それは恋人同士が「ねえ、私のこと、愛してる?」と終わりなく問いかけ合うのと同じ種類の、「問うこと自体が愉悦であるような問いかけ」だ。
 だから、「わからない」と言える相手を前にしているというのは、そのこと自体がすでに快楽の経験なのだ。
 もう一度レヴィナス老師のことばを引こう。
 「愛撫の本質はなにものをも把持しないことにある。絶えずいまのかたちからある未来へ向けてーー決してたどりつかない未来へ向けてーー立ち去るもの、いまだ存在していないかのように逃れ去るものを引き止めようとすることにある。愛撫は探し求める。愛撫は手探りする。それは暴露の志向性ではなく、探求すなわち不可視のものをめざす歩みなのだ。」
 この文章の中の「愛撫」を「読むこと」あるいは「聴くこと」に読み替えると、それはそのまま私たちが今論じている「『わからない』に基礎づけられたコミュニケーション」についての説明になる。
ー後略ー
〜引用終わり〜

おぉ〜、そうだったのね。だから、胸を揉んでいたのね。「わからん」と答えたアナタにはわかっていた。ちゅうか、「わからない」ということがわかっていたのね。そうかそうか、さあ、お揉みなさい。心置きなく。やっぱりなぜ男が胸を揉むのかは分からないけれど、分からないものだということが分かった。

男は相変わらず無心に揉んでいる。

もみもみもみもみもみもみ…。

男が無心に自分の胸を揉むことで、女はこいつは何も分かっちゃいないと思い、分かられていないということに、何だか自由と喜びを感じるのである。ということを、ほとんどの男はわかっちゃいない。

2006年06月23日

カンチッソのひみつ

甲南麻雀連盟会長が、ブログにて今期の成績を発表されていた。その中で、こんなことを書かれていた。

『「ちなみに鉄火場姐御の平均点は−32.9。あの・・・これって毎回「ハコ下」ってことじゃないですか、アオヤマさん。』

だから、数字は怖い。

誤解されると心外なんだけど、私は時にハコ下でもマイナス2万点なんて時がある(どう心外なんだか)。ということはつまり、半荘が終わったとき点棒ハコに、時にごま塩弁当みたいな百点棒。あるいは、梅干し弁当のような愛くるしい千点棒が混じってる時もあるってことだ。まあ、本当は梅干しもゴマもふられた万点棒に惚れてはいるが、多くは望みますまい。こういう、貧しいけれども楽しい我が家といった私の点棒ハコの日常は、「平均点」なるものからは伝わらない。これじゃまるで、私が暗闇に覆われたハコ下アンダーワールドにて床をはい回るような生活をしているみたいじゃないか。いや、みんなから見るとそんな感じなのかな。いやーねー、そんな風に物事を悲観的に捉えちゃダメよ。 いろんな幸せがあるんだから。

とはいえ、小さな幸せはあっても日々の生活は困窮を極め、内田アコム、アイフル江、ノーローン越後屋と点棒キャッシングを重ねた挙げ句、業者間で借金のやり取りまでされ風呂に沈みかけるアオヤマ。もう髪の毛は乱れるどころじゃなく振り乱されているわけだが…。その惨状を見かねてか、ある半荘では連盟会長自らが背後霊指導をしてくれた。 極悪雀士である(えー、そうだったの? えー、そうじゃなかったの?)連盟会長とはいえ、「雀士の目にも涙」とこちらも感涙を流し、きっと私は成長を見守られている期待の星なんだ。…と思いきや、翌日のブログの『これって毎回「ハコ下」ってことじゃないですか、アオヤマさん。』なる文面。その言葉に続けて高笑いすら聞こえてきそうである。いや、絶対に笑ってるね。知ってるもん。アオヤマよ、勝負の世界は厳しい、ということを心を鬼にして教えてくれているのだろうか。 むー、違うな。だいぶ違う気がする。

…とかいう話を、たまたま140Bに遊びに来てくれた哲学するソムリエの橘さんに話すと、「いや、ほんまに数字は怖いなあ」とこんな話をしてくれた。

パリで開催されるあるワインの試飲会で、8割が美味しいと投票したワインがある。それはナンチャラ賞を受賞したワインとしてラベルがついて全世界に出荷されるんだけど、実はその試飲会で投票をしたのは全員がアメリカ人。つまり、パリのナンチャラ賞と言いつつ、実はアメリカ人の選んだワインだったのだ。別にアメリカ人がどうとかじゃなくて(いや、どうとかか?)、そういうの内訳はナンチャラ(フランス語)賞からは伝わらないし、伝わるのは、80パーセントが一番美味しいと感じたワイン。って数字だけってこと。

だから、数字は怖い。

はたまた…人口密度みたいに、ブドウ畑内のブドウの木の比率というのがあるそうな。もちろん畑内木密度が少なければ一粒一粒のブドウの実も少ないということになる。必然的に畑の栄養が一粒一粒によく行き渡り、いいブドウができる。で、そういう畑内木密度もワインの状態をはかる目安にされるそうだ。言うまでもなく低ければ低いほどいいんだけど、「おぉ、これは数値が低いし素晴らしい」と思いきや、単にトラクターが通るから道幅を広く取っていたとか、なんとかかんとかそういうこともあるんだそうだ。

うーん、数字は怖い。

数字だけでいくと毎回「ハコ下」で、「数字だけでいくと」なんて言いながらじつはその数字通りじゃんという私なら、アメリカ人が美味しいと選んだワインを「パリのナンチャラ賞受賞作」と迷わず選び、枯れた地面をどかどかトラクターが走るプランテーション(いや、単に想像ですが)でドカスカと摘まれたブドウ酒を、おぉこれは大事に育てられたワインに違いないと、レジに運ぶに違いない。とか言う前に、そんな数値をどこで見るのかもしらないんだけど。まあつまり、数字は判断する側に委ねられているってこと。以上のことをふまえて『これって毎回「ハコ下」ってことじゃないですか、アオヤマさん。』をアナタは判断して欲しいのである。…しつこい? あー、しつこいさ。それがなにか問題でも?


さておき、再び麻雀の話だが、勝負のあとにこんな会話がよく取り交わされる。

「で、なにを?」
「カンチッソ」
「あー、僕はペンチーワン」

麻雀をする人にはもちろん分かるだろうけど、これは当たり牌が何でどんな待ちをしていたかという会話だ。「カンチッソ」の「カン」は「カンチャン」。ひとつ飛んで繋がっている数字の牌を待っている状態が「カンチャン待ち」。「チッソ」は「チーソー」で「七の索子(ソーズ)」。なので、「カンチッソ」は「七索でカンチャン待ち」という意味だ。「ペンチーワン」は数牌の「1・2」か「8・9」という端っこの牌で待つ「ペンチャン待ち」で、当たり牌は「七の萬子(マンズ)」。なので「七萬をペンチャン待ち」という意味になる。…ということを、連盟会員に呆れられるので内緒にしていたが、最近ようやく知った乱れ髪アオヤマ。


さて、[インデアンカレー]というカレー専門店が、大阪を中心に数店舗ある。そういえば、芦屋駅前にもあるから大阪〜神戸方面に在住の方はよくご存じかもしれない。ミーツ・リージョナル誌でも幾度と無く紹介してきたし、編集部内にもファンが多い名店だ。専門店らしく、メニューはシンプルなカレーライスとカレースパゲティとハヤシライスぐ
らい。この[インデアンカレー]のカレーライスには、常連客はそれぞれが独自のアレンジを持っていて、オーダー時には、それぞれが暗号のような言葉をつぶやくこととなる。

「ご飯大盛り全卵でスタイニー1本」

「カレーライスのご飯を大盛りにして、卵トッピングを全卵にして、ビールのスタイニーボトルをつけて1本ちょーだい」

「ゼンランメダマデ(全卵目玉で)」

「通常は黄身だけの卵トッピングを、全卵の状態で、さらに一つじゃなくて目玉に見えるように二つのせたカレーライスおくれ」

あるとき、こんなオーダーを耳にした。
「オオタマヨコワケ」

横目で見ていると、これは、
「カレーライス大盛りで、卵黄のせて下さい。あっ、カレーはご飯の上にかけずに片方にご飯、片方にカレーという風に分けて盛りつけてください」という意味だった。

つい先日、140B出社時に堂島地下街を歩いていてインデアンカレーと通り過ぎたときこの「オオタマヨコワケ」を思い出し、その瞬間に、「カンチッソ」の謎が劇的に解けたのである。偉大なる雀士への道を一歩踏み出したことを確信したのであった…まる


末筆にもほどがあるのですが、佐藤友亮さんと我が戦友の飯田祐子さんのご結婚を心よりお祝い申し上げます。来年からの結婚記念日は、やっぱ記念杯ですよね? 

そして、今なによりも夢中になってかかわっているプロジェクトも現段階の大詰めを迎え、そこでもまた新しいアイデアが生まれたりしている。誰かと一緒に何を作り、それが現在進行形で変化し続けるのは、素晴らしく楽しい。

でもって、明日と明後日は東京出張。そういや、企画を通したものの退社して、編集も途中で抜けたミーツ・リージョナル「東京出張本」は、粗削りだけど便利な本に仕上がり、売れ行きも好評のようです。平均睡眠時間3時間で粘った森本嬢に改めてお疲れさまと言いたいです。またいつか、一緒に雑誌を作れるといいね。

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