愛撫と他者
あるネットサイトのプロジェクト(とかいうと、何だかかっちょいいように聞こえる。でも、実際に結構かっちょいい)が進行していて、その下準備で、特集デスクをした『神戸の中国料理』(ミーツ・リージョナル誌2003.4月号)を読み返していたら、当時、内田樹先生が連載していた「街場の現代思想」の最終回に行き当たる。最終回のお題は“「他者」」とは何か? の不可能な問い、について”。ハードコアパンクなお題だ。
かねてから疑問に思っていたことがある。
なぜ、男は女の胸を揉むのだろう。
まあ、ぷにゅぷにゅした感触が気持ち良いのだろうとは想像がつくが、揉んでもそこから何かが出るわけでもない。乳房を揉む。乳房がくしゃっとつぶれる。乳房が戻る。戻った乳房をまた揉む。乳房が…という果てしない行為が繰り返される。どこにもいかない、その行為。飽くなき挑戦にすら思える「胸を揉む」というその行動。
もみもみもみもみもみもみ…。
一度、男に聞いてみた。
「ねえ、ねえ、何で胸揉むの? 何が楽しいの? 揉むといいことあるわけ? そこに何かがあるの?」
「わからん」
もみもみもみもみもみもみ…。質問など耳に入らぬようで、男は無心に胸を揉む。
そんな男が私には、わからない。
「他者」とは何か? の不可能な問いについてを読んでいると、こんな一文があった。
〜引用始め〜
ー前略ー
「『他者』とはなんだか分からないことを語る人」、そして「『私』とはなんだか分からないことを聴いている人」、これが「他者」と「私」の定義なのだ。「他者」や「私」がまずあって、そのあいだにコミュニケーションが成り立ったり成り立たなかったりするのではない。そういうものはすべて事後的なことだ。最初にあるのは、「なんだか分からないことば」そのものなのだ。
その「なんだか分からないことば」の発信者を「他者」と呼び、その「なんだか分からないことば」を受信しつつあるものを「私」と呼ぶのだ。
ー中略ー
「私も育児をしたことがあるから分かるけれど、親というのは赤ちゃんに向かってほとんどが絶え間なく「ねえ、何考えてるの?」と問いかけているものなのだよ。それは、別に切羽詰まった「審問」や「査問」ではない。それは恋人同士が「ねえ、私のこと、愛してる?」と終わりなく問いかけ合うのと同じ種類の、「問うこと自体が愉悦であるような問いかけ」だ。
だから、「わからない」と言える相手を前にしているというのは、そのこと自体がすでに快楽の経験なのだ。
もう一度レヴィナス老師のことばを引こう。
「愛撫の本質はなにものをも把持しないことにある。絶えずいまのかたちからある未来へ向けてーー決してたどりつかない未来へ向けてーー立ち去るもの、いまだ存在していないかのように逃れ去るものを引き止めようとすることにある。愛撫は探し求める。愛撫は手探りする。それは暴露の志向性ではなく、探求すなわち不可視のものをめざす歩みなのだ。」
この文章の中の「愛撫」を「読むこと」あるいは「聴くこと」に読み替えると、それはそのまま私たちが今論じている「『わからない』に基礎づけられたコミュニケーション」についての説明になる。
ー後略ー
〜引用終わり〜
おぉ〜、そうだったのね。だから、胸を揉んでいたのね。「わからん」と答えたアナタにはわかっていた。ちゅうか、「わからない」ということがわかっていたのね。そうかそうか、さあ、お揉みなさい。心置きなく。やっぱりなぜ男が胸を揉むのかは分からないけれど、分からないものだということが分かった。
男は相変わらず無心に揉んでいる。
もみもみもみもみもみもみ…。
男が無心に自分の胸を揉むことで、女はこいつは何も分かっちゃいないと思い、分かられていないということに、何だか自由と喜びを感じるのである。ということを、ほとんどの男はわかっちゃいない。