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2010年10月 アーカイブ

2010年10月18日

スーさん、読書する

10月4日(月)

このところ、読書の仕方が変わってきた。
以前から本は読んでいたのだけれど、今までは何冊かの本を同時に少しずつ読んでいた。ところが、夏休みの終わりくらいから、とにかくいったん読み始めると途中で止めることができず、そのまま最後まで読み切ってしまうようになったのである。
「え?それが普通じゃん」と思われる方もおられよう。
でも、今までの自分は、余程おもしろい本じゃないとそういう読み方ができなかったのである。というのも、自分の場合は未読の「積ん読本」が多いため、つい「あれも読みたい、これも読みたい」と目移りしてしまい、その結果自然と数冊の本を同時に読むような方法が身に付いてしまったのである。
それが、集中して一気読みするようになってきたのだ。

何がきっかけかはよくわからない。
今月、何かあったっけ?と思い出してみると、影響があるとしたならこれしかない、と思えることが一つだけあった。
またか、とうんざりされる方もおられよう。でも、それしか思いつかないのだ。
それは、POWER BALANCEの「首輪」を手に入れたことだ。
9月6日の日記にも書いたが、手首に装着したPOWER BALANCEは、絶大なる効果を発揮した。入手先は、沼津のH先生である。そのH先生から「PBのネックレス装着中。つけてる感覚がなく、鬱陶しさは皆無です。効果はあるのがないのかいまいち分かりません。」なるツイートのあったのがちょうど9月15日。
「あら。首輪も出たんだ。ぜひ次回お会いした時に実費で。」とリプライすると、すぐにケータイに「自宅に直接送りますよ」とのメールが入った。
待つこと3日。「首輪」が郵送されてきた。さっそく、その日から装着してみた。が、肩こりにはさほどの効果はないように思われた。
べつだん、特別な効果を期待して装着したわけではない。体のバランスが取れた生活ができればよい程度の軽い気持ちだった。

しかし、それは装着している本人がまったく気づかないままに静かに、しかし着実にその効果を発揮し始めていたのだった。
9月は本を15冊読んだのだが、そのうちの半数以上(8冊)が「首輪」装着以降の読了だったのである。しかも、その8冊は、前月から引き続いて読んでいた本ではなかった。
自分でも、先月末(29日)には、“このところ自分でも驚くくらいに集中して本を読んでいる。帰宅してから妻が帰ってくるまでの時間は、とにかく「読書ハイ」状態。従来の「活字中毒症状」は、かなりその重篤度を増していると思われる。大丈夫かなあ。”とツイートしているくらいである。

そんなことを先日の支部定例会の折に話していると、話題はヨッシーも手に入れたPOWER BALANCEのことに及び、そのうち誰彼ともなく、「本をたくさん読めるようになったのって、首輪のせいなんじゃないの?」ということになった。そのときは、「そんな効果はないらあ」と受け流していたのだけれど、こうしてここ2週間ほどの読書傾向を探っていくと、どうしても「首輪」に行き着いてしまうことに気がついたのである。

さて、その「首輪」効果?も霊験灼かなうちに、これぞ「今年読んだ本のベストワン!」をご報告。くどいようであるが、「今年出た本のベストワン」ではなく、「今年読んだ本」である。
それは、石光真清の『城下の人』(中公文庫)である。
著名な本なので、既読の方も多かろう(ちなみに、全4巻で『城下の人』はそのうちの第1巻)。
石光真清は、“日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)、諜報活動家、大陸浪人。幼名は正三。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した”(@Wikipedia)人である。そうしてこの著作は、真清没後、長男真人氏により遺稿を手記としてまとめられたものである。
その手記が読ませるのだ。
まるで、一編のドラマを見ているように、小説でも読むかのように読めてしまう。
最初に、「文体、会話、地名などは出来るかぎり現代風に改めた」とあるから、随分と読み易くなっていることを差し引いても、つい頁を繰るスピードが速くなってしまうほどにおもしろく読める。これは、その手記自体が保持しているおもしろさであることの、何よりの証拠である。

具体的に、どういうところがおもしろいのか?
大きな事件に関することを書いていても、それが自分に関わる人たちのあいだではどのような出来事と結びついていったのかということが、いかにも細かいところまで記述されているので、ついその場面を見ているかのような気持ちにさせられてしまう、というようなところだ。

例えば、西南の役で熊本城攻城戦を友人と見に行った際の、薩摩軍の兵士たちとのやり取り。
「こんなところで何をしている」「戦争を見に来たのです」「ふむ、何処の者じゃ」「本山村です」「いく歳になるか」「二人とも十歳です」「何ちゅう乱暴者じゃ、お父さま、お母さまに申し上げないで、こんなところへ勝手に来てはいかん。危いから早くお帰り、お家では心配されていよう」
どうだろう。薩摩軍兵士が、子どもに話しかける様子が眼に浮かんでは来ないだろうか。

また、日清戦争が終わって、まだ抵抗を続けている台湾の掃討戦でのお話、「周花蓮」の章。
ある城を攻撃し終わった際、死屍累々の中から聞こえた泣き声に気づき、銃を片手に死亡していた母親の背に負われた幼児を助けるお話であるが、戦争の推移をいかに具体的に記述しようとも、戦いの最中に助けた幼児に「周花蓮」と名付けるお話の方が、いかに戦争の悲惨さを物語っていることか。

他にも、戦場で罹患したコレラをどのようにして治したかという話など、当時の人々の考えていたことや行動がいかにも生き生きと記述されていて、どの頁を開いても、つい読み耽ってしまうのである。
何より、人が生きるということはどういうことか、ということに思いを至らされる。

こういう著作が残っているということ、そうしてそれを現代でも読めるということの幸せ。これぞ、読書の醍醐味と言えよう。
未読の方はぜひ。

スーさん、「蝉しぐれ」を見る

10月12日(火)

先月に引き続いての3連休。
はじめの2日間は、部活動がらみの2日間だった。
初日は、市民スポーツ祭のソフトテニス競技(個人戦)が予定されていた。しかし、雨のため大会は女子のみが実施するということで、男子は翌日に順延との連絡が入った。幸い、この日は体育館を使用する部は新人大会だったので、本校の体育館は空いていた。ラインは引いていないが、ポールを立ててネットを張り渡すことはできる。その旨、主将のところに連絡を入れ、午前中だけ練習を行った。
午後は、高校の卒業生たちによるコンサートのために帰省していた娘のために、リハーサル会場への送り迎えのアッシーくん。
夕刻からは支部定例会だった。前週、「開店2周年記念」ということで、店名(「波=なみ」)に因んで生ビール73円、サワー173円のお店へ。その後は、これまた支部定例会の場所に指定された雀荘へ。

明けて日曜日。朝には雨は止んでいた。男子の部は、16面のコートを使用して行われた。結果は惨敗。近年稀に見る悪い結果であった。選手は、それなりの技術は身に付けていると思う。だが、どうもそれが試合で発揮できない。これは、今後の大きな課題となるところである。

そうして体育の日。
部活動は休みにした。選手も頭を冷やす時間が必要だろうと思ったからだ。こちらも、何かリフレッシュをと考え、朝から映画を見に行くことにした。「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」である。
セナのファンは世界中に多い。
いったい、セナのどこに惹かれるのか。
それは、たぶんセナが「子ども」だったからだ。
セナがひたすら追い求めたこと、それは誰よりも速く走ることだった。でも、莫大なマネーが動くF1は、政治が大きく絡む世界だった。そのことを熟知していたのはアラン・プロスト。プロストは「大人」だった。

政治は大人の世界である。そんな世界に、一人だけ「子ども」がいた。周囲はその稚気に振り回された。なぜなら、その「子ども」はどの大人よりも速く走ることができたからだ。あまりに勝てないことに業を煮やした大人たちは、言い掛かりとも言うべき干渉を行い、その「子ども」からタイトルを剥奪した。どころか、規定違反として罰則まで科したこともあった。それは、周囲が彼に「もっと大人になれよ」と諭したことでもあった。
しかし、そうやって周囲の大人が彼を何とか大人にしようとすればするほど、彼は大人になるために必要なことを、それが自分の追い求めることに必要だと思われたことは利用しつつ、「ただひたすらに速く走ること」への集中力を増していった。

その集中力は、奇跡とも思えるドライビング(例えば、母国ブラジルGPで初めて優勝した時の6速だけのドライビング)を現出させた。セナ自身は、それを「神」と表現した。
世界中の人々は、まずその「速さ」に魅せられた。
しかし、プロストとの確執を通して、人々はセナがまるで子どものようなことを熱心に主張していることに驚いた。そうして、モータースポーツ世界最高峰のレースの世界に身を置きながら、こんなにも子どもっぽいことを主張していいのかと訝った。
同時に、人々は周囲に妥協しながら日々生きている自分に引き換え、セナのひたすら「勝つこと」にこだわり続ける姿勢に、自分が大人になる過程で失ってしまったピュアな世界を見た。
こうして、その「子ども」は世界中のモータースポーツファンに愛される子どもになった。

しかし、気まぐれな「神」は、いつまでも大人になろうとしない子どもをそのままに放置してはおかなかった。予選から度重なる事故に見舞われていた94年サンマリノGP。ポールポジションからスタートした6周目、高速のタンブレロ・コーナーへ時速300キロ超で飛び込んだセナのマシンはコンクリート壁に激突、帰らぬ人となった。
神は、彼が「子ども」のままでいるうちに、自分の傍へと彼を召した。

映画を見終わった帰り、自宅近くのコンビニで昼食を買い、ついでにすぐ隣にあるTUTAYAでDVDを2本借りた。「蝉しぐれ」と「雨あがる」である。
夕方から、「蝉しぐれ」を見た。
文四郎は、セナと違って「大人」だった。
父が非業の死を遂げようと、ために生活が困窮しようと、反逆人の子どもと罵られようと、ひたすらそれらの逆風に耐え、ひたすら父の汚名を晴らす日が来るのを待っていた。
抗命辞しがたい指示を受けようとも、それを逆手に取って、父の仇を晴らす計略を巡らした。そうして、見事に自らの思いを果たす機会を得た。
セナとは対照的だった。

どちらがいいとは言うまい。
これは個人の「生き方」に関わる問題だ。その選択に関しては、他者の容喙する余地はない。でも、それぞれ精一杯生きたことだけは確かである。
自分も、そんな生き方をしたいと思う。
2本の映画を見て、そんなことを考えた。

2010年10月19日

スーさん、関西に来る

10月18日(月)

土曜日は、午後から大阪へ。
日曜日の朝から行われる、韓氏意拳講習会に参加するためである。もちろん、前泊するのであるから、時間が合えば講習会を指導される守さんともお会いできればと思っていた。
さらには、日曜日の午後からは本部連盟にて例会が予定されていた。内田総長をはじめ、本部のみなさんにもお会いしたく、同行のオノちゃん、スガイくんの了解も得て、そんなに遅くはならないように内田先生宅へのお邪魔しようとの目論見であった。

土曜日、スガイくんは午前中授業とのことだった。終わってすぐに車で浜松まで来ることになっていた。今回は3人だけだから、わが家に集合して、燃費のいいプリウスで行こうということになっていたのだ。
午後2時、スガイくんからメールが入った。もう掛川インターを過ぎたとのことだった。程なく到着。ほぼ同時に、オノちゃんもやって来た。
スガイくんの車は、今年の4月に納車されたばかりのヴェルファイア。まだほとんど新車と言ってよい。よく走りそうだった。それに、ワンボックスなら長時間ドライブでも、ゆったりのんびり乗っていられる。「ねえ、ヴェルファイアで行かない?」とスガイくんに提案したところ、「いいすよ」と快諾してくれたので、ソッコーで荷物を積み込んで出発。

東名、伊勢湾岸道、東名阪、新名神、名神と通って行ったのだが、途中まったく渋滞には遭遇しなかった。慢性的に渋滞している箇所も、スムーズに通過できた。おかげで、午後6時前には大阪に到着した。
すぐにホテルにチェックインして、夕食場所に考えていた心斎橋の「まつりや」へ。久しぶりに、どうしても「ちりとり鍋」が食べたかったのだ。スガイくんは、何度か来ているらしく、「あそこの肝焼きは絶品ですよね!」と、これまた行く前から楽しみにしている様子だった。地下鉄に乗るのももどかしく、なにわ筋からタクシーで心斎橋へ。

「まつりや」は、まだ誰も客がいなかった。入ってすぐの席に着き、件の「肝焼き」から。自分はふだんは肝焼きなど食べないのであるが、ここの肝焼きは別次元のうまさである。あっという間になくなって、もう一皿が追加される。ビールとのマッチングも最高である。以後の注文は、お店の人にお任せ。和食に日本酒が合うように、「ちりとり鍋」にはマッコリがよく合う。これも次々と追加注文された。
最後はうどんを2玉。肉汁とタレが絡んで絶妙のうまさである。さらには、スガイくんがどうしてもご飯にタレを絡ませて食べたいとのことで、さすがにそんなには食べられないだろうと思いつつも、持ってこられたご飯の量を見るとちょっと足りなさそうだったので、これも2杯注文。確かに、うどんとはまた違ったうまさだった。
十分に満足して「まつりや」を後にする。

これだけお腹がいっぱいだと、少し歩かないとどうしようもない。ということで、心斎橋をなんば方面に歩く。土曜日の夜ということもあり、人、人、人。道頓堀橋だが、川べりまで降りられるようになっていた。知らなかった。なんばのタワレコにも行ったのだが、まさか午後11時まで営業しているとは。知らなかった。さすがは大阪である。
そうやってなんば周辺をぶらぶらしていると、守さんからメールが入った。「ホテルにチェックインしました。如何がいたしましょう?」とのとこだったので、「すぐ行きます」と返事してタクシーに飛び乗った。
もちろん、宿泊しているホテルは「リーガロイヤル」だとばかり思っていた。広いロビーに到着して守さんを待った。
またメールが入った。「ロビーに降りてきました。どちらでしょうか?」とあったので、すぐに電話をかけた。何と、「リーガ違い」だった。守さんの宿泊ホテルは、「リーガイン」だったのだ。ドアボーイの方に確認すると、「歩くと10分くらいかかります」とのこと。タクシーで行くことにした。

ようやくのことで守さんと対面。いきなり、本場讃岐うどんのお土産をいただく。守さんはお酒を飲まないとお聞きしていたので、近くのスタバに行ったのだが、「もうラストオーダーになります」とのこと。仕方がないので、これまた近くの居酒屋へ。
ここからが、「守さんの臨時身体操法講習会」の始まりだった。わたしたち3人は、まず守さんの語り口に居着いてしまった。でも、そのお話は一つ一つが至極納得できるものばかりだった。あっという間に閉店の時間となってしまった。店から出ても「講習会」は続いた。通りがかりの人たちの不審な視線も物ともせず、手や足のいろいろな動きを実際に試していたのであった。いやはや。
「ではまた明日、よろしくお願いします」と、守さんと別れたが、わたしたちがどれほど深く感動したかは、とても言葉では表現できないほどであった。

翌日、ホテルをチェックアウトして、講習会の会場である大正区のスポーツセンター「アゼリア大正」へ。守さんはもういらっしゃっていた。昨晩のお礼を言いつつ暫し雑談。
講習が始まった。参加者はわたしたちを入れてちょうど10人。まずは「站樁」から。「立ち方」についての詳しい説明をお聞きする。動作は極めて単純なのだが、そこでの力の入れ方がたいへんに難しい。
以下、覚えているものを挙げると、「横向」、「抱式」、「試力」など。一つ一つ、守さんがマンツーマンで指導してくださる。自分では「こんな感じかな」と思ってやっているのだが、いざ守さんに手を持たれたりすると、ついそれに抵抗しようとして力が入ってしまう。「そう、それでいいんです!」と守さんに言われると、何となく力の入り方が実感できるときもあるのだが、何となく印象はぼんやりしていて、掴みどころがない(と言うか、たった1回の講習でそんなことが掴めるはずがない)。でも、例えば腕の力だけに頼らなくても、大きな力を出すことができるんだということは実感できた。これは、合気道の「呼吸」とも通じ合うところである。
驚きやいろいろな発見があった、あっという間の3時間だった。お世話になった守さんにお礼を言い、「浜松講習会」の日にちを約して、講習会場を後にする。
それにしても、前夜の「臨時講習会」も含めて、たいへんに充実した「韓氏意拳体験」だった。何となく、身体のバージョンが一段繰り上がったような気がした。

途中で昼食を取りつつ、午後は神戸へ。内田総長宅にて行われている、本部連盟例会に伺候するためである。玄関で部屋番号をプッシュすると、インターホンから「浜寇や!」という声が聞こえた。「あんまりでしょ」とはオノちゃんの弁。
既に、釈先生、ジロー先生、カンキくん、ミツヤスさんが卓を囲んでおられた。育成組のオーサコくんとクロダさんは、台所にて「ひと皿フレンチ」を作成中だった。総長にご挨拶をして、つい最近発売されたばかりのご著書にサインしていただく。
帰りの時間のこともあったので、麻雀はやらなくてもと思っていたのだが、そのうちにカワカミ牧師やヒラオさんもお見えになって卓も追加されたので、「では1回だけ」ということになった。釈先生が絶好調だった。やはり早めに香川へと帰るカンキくんは親倍を、自分は親ハネをそれぞれ最後に釈先生に振り込んで、マイナスの海に沈んだ。
「ではこれで」と総長宅を辞去する。総長からは、「忘れ物ない?あ、でも忘れ物あっても今度の土曜日にボクが持ってけばいいか!」と仰られた。決してそのお言葉に甘えたわけではないのだが、デジカメを忘れてきたことに気づいた。最後にオチが着いた気がした。

こうして、「韓氏意拳の週末」が終わった。「濃〜い」2日間だった。

2010年10月26日

スーさん、師弟関係について考える

10月25日(月)

“ラカン老師は、ほとんどパリの全知識人およびウッドビー知識人がエコール・ノルマルの階段教室にひしめいたあの伝説的なセミネールの開講に当たって、こう言われた。
自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。(「セミネールの開講」、『フロイトの技法論(上)』)”(@内田樹の研究室2006.10.18)

先週は、韓氏意拳の講習会に参加するため、大阪まで行っていた。その一部始終は前回の日記に書いた。すばらしい講習会だった。自分の身体の持つポテンシャルやそれを発揮する可能性に目を見張らされた。何より、指導してくださった守さんがたいへんに魅力的な方だった。
ぜひ浜松にも来ていただこうということで、具体的に日程を打ち合わせた。

浜松に帰って、浜松の支部の面々にそのお知らせをした。すばらしい会だから、ぜひとも多くの会員に参加してもらおうと思っていたのだ。もちろん、講習会の前夜は守さんを囲んでの小宴を予定していた。どころか、守さんと一緒に、講習会の当日は成田から機上の人となるカンキくんも、前日は浜松に途中下車して支部会員との交流を深める手筈になっていた。

ところが、その前夜祭の日の夜は、あいにく市中体連の反省会が入っていた。全市のほとんどの運動部活動顧問が一堂に会して、今年の納会を行うのである。希望参加であるが、熱心に指導している顧問は顔を出すのが慣例になっていた。自分も今まではほとんど毎年参加してきた。でも、合併を機に参加は取りやめるようになった。
この会、従来から会場の前半分の席を行政職と管理職が占め、顧問たちは後ろ半分の席に座らされて、会が始まるとまもなく、ほとんどの顧問が席を立って前半分の席に酌をして回る姿が常態となっていた。それに嫌気が差している顧問ももちろん多かったはずだ。合併で参加者の数が多くなれば、そのような状況がさらに大規模に展開されるのだ。とてもそんな会には出たくはなかった。それが参加を見合わせるようになった大きな理由だった。

しかし、年若い顧問は、なかなか参加を取りやめると言い出しにくいところもあるのであろう。そんな事情があったのかどうかは知らないが、いつもは何をするにもレスのいい支部の面々の、今回はややレスの悪さが気になった。
「なんだよ、一生懸命になるのって、麻雀するときだけかよ」と腹立たしかった。
支部連絡用に使っているfacebookのグループにもそんな旨いろいろとカキコしてみたのだが、あまり反応はなかった。「なーにが中体連反省会じゃ!」と一人で悪態をつきつつ、いつまでたってもレスのない会員へは「どーなってんの?」と思っていたのだった。

その間、支部長の険悪な雰囲気を感じた他の会員たちは、レスなし会員への働きかけをしてくれていた。そうして、少しずつその状況を知らせてくれた。
「どうやら、facebookの詳しい使用法がよくわかってないみたいです」とか、「使用しているPCが古くてうまくアクセスできないみたいです」とか。どうやら、支部会員たちの中には、ネットへのアクセスに問題を抱えている(使用法も含め)者がいるという情けない状況が明らかになった。もちろん、「やっぱり中体連に出ようかどうか迷っているみたいです」というのもあった。
それでも、「中体連の反省に出るよっか、守さんのお話を伺う方が断然いいのになあ」と残念に思っていた。

土曜日、神戸女学院めぐみ会静岡支部主催の公開講演会に内田先生が来浜され、講演をされた。演題は、「生き延びる力~成熟した社会を目指して」である。
会場であるグランドホテル浜松へ到着して駐車場に車を入れ、ちょっとした買い物をしようとホテル近くのコンビニへ向かった。と、正面のホテル内から出てきた人物がいた。ん?とよく見ると、何と内田先生だった。昨年の浜松講演会の時も、私と妻が会場へ到着すると同時に、内田先生を乗せたタクシーがちょうど到着されたことを思い出した。妻は、「やっぱり先生とはご縁があるわよねえ」と感心しきりだった。
受付を済ますと、何と自分たちの席は「関係者席」という特別席が用意されていることがわかった。めぐみ会静岡支部長さんのお話では、内田先生からその旨依頼があったそうだ。ありがたかった。

講演が始まった。AO入試のお話からだった。
途中、先生は夏目漱石の『虞美人草」を取り上げてこう言われた。
「漱石は、自分が大学の教員を辞め、文筆業に専念し始めて最初に書いた小説で、教育によって身に付けたものを自己利益に使ってはならない、ということを訴えました。自分が受けた高等教育は、社会に還元しなければならないということです。」
そうして、「公共性」について、「自分の手持ちのリソースがどんなに少なくても、そのリソースを自分よりも手持ちの少ない人に分けるべきだ」ということをお話になった。
はっと胸を突かれた。
追い打ちをかけるように、先生は、「自分のリソースは、先人たちからパスされたものだから、それはパスしなければならない」とおっしゃった。
そうして、「社会に、自分のリソースは若い人に分け与えたい、と思ってくれる大人が、7%~12%くらいはいてほしい。そうすれば日本社会は生き延びられるであろう」、とも。
極めつけは、以前もお聞きしたことがある、「台風の日に、稽古場である中学校の体育館に一人で畳を敷いて、誰も稽古に来ないであろう稽古場に座っていた」というお話であった。このお話は、以前にもお聞きしたことがあった。でも、同じ話でも、今回は全く別の話として自分の胸に迫ってきた。
ああ、オレは何をくだらんことを考えていたんだろう、と忸怩たる思いでいっぱいになった。
誰も稽古に来なくても、自分は稽古場に座っていればいいのだ。そうして、出し惜しみせずに、自分の手持ちのリソースを若い人たちに提供すればいいではないか、と。レスなし会員に腹など立てている場合ではなかったのだ。
師匠は、弟子の未熟さを見事に指摘してくださった。まさに、「弟子が答えを見出す正にその時に答えを与え」てくださったのだ。

講演会後の小宴は、「酔っぱらう回路が遮断されるみたい(麻酔がかかっているような感じ)」(@オノちゃん)に、ひたすら飲みかつ食べ、笑い、しゃべり、拝聴し、紹介し合う時間となった。2時間半は瞬く間に過ぎた。
午後8時過ぎ、神戸へと戻られる内田先生を改札口にてお送りし、まだ余韻を楽しみたい何人かと妻とで、次のお店へと向かったのだった。忘れ難い夜になった。

持つべきは、まさに師である。

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