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2010年06月 アーカイブ

2010年06月01日

スーさん、結婚式に出る

5月31日(月)

いろんなことがあった土曜日だった。

午前中は、甲南麻雀連盟浜松支部会員の一人である、シンムラくんの結婚式並びに披露宴。
受付が午前10時からで、開宴は11時。会場は、式が仁徳天皇の御代に創祀されたと言い伝えられる浜松八幡宮。披露宴は、神社内にある結婚式場にて執り行われた。
開宴30分ほど前に会場に到着して受付を済ませると、既に控えの間にはオノちゃんら支部会員たちの姿が見える。コーヒーを飲みながら、あれこれとりとめのない話をしているうちに、披露宴会場へと促される。
普通だと、ここで新郎新婦を囲んで出席者全員によるお写真となるのだが、やたらと時間がかかるこの儀式はなかった。
席に着いて、開演前にサービスされたワインなどを飲んでいるうちに、新郎・新婦の入場となった。やんやの歓声のうちに二人が登場。仰けから新郎はニヤニヤしていた。よほどうれしいのであろう。
二人は、そのままゆっくりと正面席に着座、開宴となる。

それにしても、最近の結婚披露宴では「仲人」なるものをほとんど見かけなくなった。そういう時代なのだろうか。
ご両人の紹介は、それぞれの職場の上司。それ以外のスピーチは一切ない。いきなりケーキ入刀となる。所謂「余興」の類は、そのほとんどがビデオで紹介される。
お色直しの前は、新郎友人のM中学校ソフトテニス部顧問、アキタ先生による「乾杯」の熱唱。新婦側の席から「ひょっとして音楽の先生?」との声が漏れるほどに見事な歌いっぷりであった(もちろん彼は音楽の先生ではなく教科は社会科)。
二人がお色直しをしている間は、会場のカーテンとドアが開けられて、すぐ隣に設えられたベランダにて「ガーデン・バーベキュー」。これがなかなかいい感じの「中入り」となる。サービスされたのは肉料理とスイーツ。よく考えられている。外の空気に触れた開放感も手伝って、ついまたビールが一杯また一杯。

洋装へのお色直しが終わって両人が再登場、宴は後半へ。よくあるキャンドルサービスの代わりに、二人がそれぞれのテーブルを回りながら写真を撮る時間となった。かように、宴のプログラムもずいぶん様変わりしていると思った。
トリは、ヤイリくんによる小田和正「woh woh」のピアノ弾き歌い。いやはや、ヤイリくんがピアノを弾けるとは。うへえ〜と仰け反る支部会員たち。
エンドロールは再びビデオ。二人の感謝の言葉紹介される。BGMは、わが不肖の娘が従姉妹の結婚式のために作詞作曲したオリジナル曲。スタジオで歌を録音してCDに焼いてきたものを、「そのまま使わせてほしい」とのことだった。もちろん娘は快諾。これが、幸いなことにけっこう好評だった。もっとも、「あれなら売れますよ!」と太鼓判を押してくれたのはオーツボくんだったが。

披露宴終了後、ソッコーで着替え、浜松駅近くの妻の職場までタクシーを飛ばす。礼服や引き出物その他を妻に預け、そのまま再びタクシーで浜松駅へ。この日、静岡市の県営草薙庭球場にて開催されていた県高校総体ソフトテニス競技(団体戦)の応援・観戦のためである。
時刻はもうすぐ2時になろうとしていた。とても在来線で静岡まで向かう余裕はない。時刻表を確認すると、ちょうど次の「ひかり」は静岡に停車することになっていた。「ひかり」ならば静岡駅まで30分もかからない。乗車して着席すると、同様に自宅まで荷物を置きに帰って、「たぶん同じ新幹線では行けないと思います」と言っていたオノちゃんから、「間に合うかも」とメールが入った。程なく、オノちゃんが現れた。車で来ていたので自宅まで送ってくれたオーツボくんが、ついでに急いで駅まで送ってくれたとのことだった。持つべきは支部会員である。

静岡駅からは、私鉄乗り換えのために歩くのも時間が惜しいというとこで、草薙テニスコートまでタクシーに乗ることに。会場に到着すると、ちょうど準々決勝が終わろうとしているところだった。
すぐに沼津K学園高のスガイ先生を探した。準々決勝が終わって、選手たちに話をしているところだった。「どうよ?」と尋ねると、「いやあ、ダメっすね」という答えが返ってきた(まあ、彼の場合はいつもそんな答えであるが)。どうやら2回戦でだいぶん苦戦したらしく、試合内容がとても悪いとのことだった。

まだしばらくは準決勝が始まりそうもなかったので、男子の準決勝を見ることにした。優勝候補の一角であるM高校は、K学園高(男子)と対戦していた。監督はハラ先生である。顧問になってちょうど10年目の2年前、個人戦で初めてインターハイに出場を果たした。近年、めきめきと指導の実力を発揮してきた若手?のホープである。
そのK学園高男子、優勝候補のM高校に一歩も引けを取らず、堂々と打ち合ってすばらしい試合を繰り広げた。勝敗の行方は三番勝負に。途中までは互角の展開だったが、じりじりとM高校のペースとなり、最後は力でねじ伏せられたという格好で試合終了。それでも、ベスト4は立派である。
このところ、県高校男子はM高とFK高の二強時代が続いてきたが、何とかその一角に食い込んでいってほしいと思う。そんな可能性を存分に見せてくれた好ゲームだった。

そのうちに、今度は女子の試合(準決勝)が始まった。相手は、準々決勝を三番勝負タイブレーク5−5から2ポイントをもぎ取ってベスト4入りしてきたFK高。2面同時進行で始まった試合は、風の影響か両者ともミスの多い立ち上がりだった。しかし、要所でポイントを締めたのはK学園高だった。ほとんど危ない場面もなく2−0で勝ち、いよいよ決勝へ。

男子の決勝が先に始まった。M高校の相手は、ほぼ予想通りのFK高。両校は、決勝戦に相応しい、レベルの高い試合を見せてくれた。軍配はM高校に挙がった。集中力の差が勝敗を分けたのかもしれなかった。
続く女子の決勝戦。相手は、3年連続インターハイ出場を狙うF高校。3ペア中2ペアが後衛並行陣だった。トップはK学園、2番はF高校が取って三番勝負。ミスなくボールを打ち込む後衛と、要所でポイントを取りにいく前衛とのコンビネーションプレーを展開するK学園ペアに対して、じりじりとポイントを失っていくF高校ペア。ゲームカウントを3−0とリードして、ほぼ勝利を手中に収めた。1ゲームは落としたが、そのまま優勝を決めてくれた。K学園高、4年ぶりの団体戦出場である。
今年のインターハイは、なんと沖縄で開催である。なんともうらやましい限りだ。でも、そこへ到るまでには休日も返上して猛練習に励んだことであろう。その分、沖縄の美しい自然とおいしい料理を堪能することくらいは、インターハイ出場を決めた者だけに許されるご褒美なのだ。

興奮覚めやらぬままに浜松へ戻り、いつもの中華料理店にてプチ宴会。その日、どうしても麻雀をしたいという「怪獣」ヒロノくんの申し出もあって、東回しを5回ほど。終わってみれば支部長がプラ80超のトップ。
朝から深夜まで、なんともめでたい一日であった。

2010年06月08日

スーさん、歯が痛い

6月7日(月)

土曜日は、県中学生ソフトテニス選手権大会(個人戦)参加のため、早朝から富士宮へ。
県下郡市各協会単位で選抜された中学生たちが、男女別に集って県内中学生ナンバーワンのペアを決めるのである。

この日は、なぜか朝食時から奥歯周辺の痛みが気になった。そういうことが今までもないわけではなかったので、あまり気にせずに放っておいたのだが、まさかそれが3日目の今日になっても消えない痛みになるとは思いもよらなかった。

浜松から富士宮までは車で2時間弱。試合開始50分ほど前には会場入りして、テントを設置するなど試合の準備をさせる。
と、見知った顔の選手がやってきた。県選抜チームに所属していたFT中のT・Sペアだ。近況やこの日の組み合わせのことなど、あれこれと話を聞かせてくれる。組み合わせは、8本取りで同じ県選抜チームのFN中S・Aペアと対戦するとのことだった。「高みの見物をさせてもらうわ」と笑って話しているうちに開会式。
本校ペアの試合は第7試合だった。2時間ほど待ち時間がある。その間、県選抜チームで見知ったペアが次々と試合に入った。夏の対戦も頭の片隅に入れつつ、どのペアがどんな試合を展開しているのかということもチェックしながら観戦していた。

そうこうしているうちに、自校の選手の出番となった。相手は第4シードのペア。ま、今の本校選手の実力では鎧袖一触で退けられてしまうであろうという予想だった。はたして、結果はそのとおりのストレート負けだった。
どうも、今年の選手たちは、相手がどうこうというよりも、自分たちで勝手に自滅していってしまう試合ぶりが目につく。もちろん、自信がないからなのであろうが、ならば普段の練習で何を重点的に意識して練習すればよいかということも自覚されるはずだし、そのことは今まで彼らには何度となく話をしてきたつもりだ。
しかし、未だに最後の大会に向けて何らかの光明が見出せるまでには至っていない。例えば、試合前日の金曜日、本校は「スポーツデイ」と名称される運動会だったのだが、前日の練習終了の折「明日は運動会の後だけど練習はするから」と連絡しておいたにもかかわらず、その金曜日にラケットを忘れて慌てて自宅まで取りに帰っていたレギュラーの3年生がいたりする。どうも、レベルアップを図れない原因はそんなところに一端があるようにも思ってしまうのだ。
ヤメよう。愚痴っても事態は改善しない。
大切なことは、現状を踏まえて何をどう指導していくかということだ。

この日は、試合が終わったら、そこから沼津のK学園高へ移動して、つい1週間前に団体・個人ともにインターハイ出場を決めた女子ソフトテニス部の選手たちと、一緒に練習をさせてもらう手筈になっていた。もちろん、スガイ先生に本校選手たちを見てもらい、その技術的な課題や、選手選考の視点を確保するというねらいもあった。
すぐに、スガイ先生のところに「ぼちぼち行きます」とメールを入れたのだが、県選抜チームのペアの試合を見たり、シンムラくんとことオータくんとこのペアの試合が終わるのを待って、彼らと昼食を共にしようと待ったりしてうちに、つい昼食も食べ損ね、シンムラくんとオータくんはそれぞれに試合が立て込んでまだ昼食に行けそうにないという状況も手伝って、彼らには「お昼食べずに沼津行くわ」と連絡をして試合会場を後にした。
スガイくんに連絡すると、「何してんの?遅いじゃん。もうオノちゃんもヨッシーも来てお昼食べてるとこだよ?」という返事が返ってきた。なんでヨッシーがいるんだろうと訝しく思いつつ(ヨッシーは、シンムラくんと次週沼津へ行くと聞いていた)、沼津への道を急いだ。

K学園高到着後、すぐにテニスコートへ行ってみると、副顧問のサノ先生がいた。「あれ?スガイ先生は?」と尋ねると、「お昼食べに行って、まだ戻ってません」」とのことだった。すぐに学校近くの食堂へ行ってみると、スガイくん・オノちゃん・オノちゃんとこの副顧問とヨッシーがいた。どうやら、ヨッシーは次週に来る予定だったのが、急遽高校生は試合が入ってしまったために1週早めて来たとのことだった。
当然、その日はヨッシーも泊まるものと思いきや、日帰りだということで、練習後は同行してきた生徒二人とオノちゃんとこの副顧問を乗せ、浜松へと戻っていった。

夜は、以前から沼津に来たときにはよく連れて行ってもらった居酒屋にて小宴。途中から出された吟醸酒が口当たりよく、つい飲み過ぎてしまった。
途中から合流した男子顧問のハラ先生も入れてちょうど4人ということで、以前行ったことのある雀荘にて東回しを5回ほど。この日はオノちゃんが絶好調だった。

明けて日曜日、本校の副顧問に引率されて浜松から電車でやって来た選手5名を加えて、午前中は基本練習。団体戦のメンバー選考のことも踏まえ、スガイ先生には一人一人の選手を見てもらった。
午後は、コートがたくさんある方が試合をたくさんやれるからというご配慮で、男子が借りていたN東高へと移動して練習マッチ。
昨日からの宿泊組は、心なしかサーブやストロークのボールのスピードや、動き全体がよくなっているように感じる。高校生との合同練習で自然と身についたものなのであろう。それは、オノちゃんとこの選手たちも同様であったようだ。いやはや、K学園高の練習たるや恐るべし!
そのまま、夕方までたっぷりと練習マッチをやらせてもらい、電車組はK学園高の保護者に沼津駅まで送っていただいて、お世話になったスガイ先生とサノ先生とにお礼を言いつつ、沼津を後にする。
おかげで、何となく夏の大会に向かうイメージが朧気ながら見えてきたように思った。このお礼は、夏の大会の結果でお返しするつもりだ。

沼津から帰っても歯痛は相変わらずだった。虫歯ではないと思うのだが、とにかくしっかり噛めない。
うう、明日も痛かったら歯医者さんへ行こうと思う。痛いよ〜。でも、歯医者さんに行くのもコワイよ〜。

2010年06月15日

スーさん、結婚式に出る

6月14日(月)

土曜日は、大学時代に所属していたクラブの先輩であるタニさんの結婚披露宴に参加するため、お隣の磐田市に住んでおられる同じくクラブ先輩のフジタさんと連れ立って西宮へ。

わたしが大学のクラブに入部したのは、タニさんによって決定づけられた。当時、浜松の田舎からやってきて、右も左もわからず構内をキョロキョロしながらうろついていたところに、「キミ、高校時代は何部に入ってた?」と声をかけてくれたのは、当時四回生のカメイ先輩だった。「テニスしてました」と答えたところ、「じゃ、中学時代は?」とさらに聞かれて、「ブラバンですけど」と答えたのが運の尽き、とたんに顔色が変わったカメイ先輩、「キ、キミ、すぐこっちへおいでよ」と連れていかれたのが応援団の団室。中に入って何を聞かされたのかはほとんど覚えていない。「よかったら、また来てね」と言われてその日は帰った。
これで、翌日以降に再び団室へと行かなければ、以後「虎の穴」のようなクラブに四年間も所属することはなかったのである。
が、下宿生で同じ高校からの友人もなく、何もすることのなかった身は、何かしら大学に繋がれるものを求めていたのだろう、そのままふらふらと再び団室を訪れてしまったのであった。中にいたのが三回生のタニさんだった。まず、その髪型に居着いてしまった。男性なのに、おかっぱ頭だったのだ。そうして、初対面なのに、すごく気さくにいろんな話をしてくれた。極めつけは、「じゃ、メシ食いに行こや」と促され、団室のすぐ階下にあった生協の食堂で、カレーライスを奢ってくださったのだ。感激した。「よし、このクラブに入ろう」と決意した。つまり、タニさんのカレーライスによって、自分はそのクラブに所属することを決定めたのだった。

クラブの練習は厳しかった。ほとんど休みがなかった。ま、下宿生で特にすることもなかったし、大学のクラブなのだからこのくらいは練習するのだろうと思っていたこともあって、最初のうちはそんなにきついとは思っていなかった。
ところが、だんだんとクラブ以外にもいろんな付き合いが出来てくると、あまりにクラブに時間をとられることが苦痛になってきた。それに、同じパートの先輩にもちょっと気の合わない人がいて、何となくクラブへ行くのも気が重くなってきた。
そんなある日、ついにクラブを無断欠席した。友人の下宿でうだうだしていたところへ、同じパートの先輩たちがやってきた。「とにかく戻って来い」という厳しい指導を受け、しぶしぶクラブに復帰させられた。そんな状況で、いちばん話を聞いてくださったのがタニさんだった。

タニさんは、とにかくこのクラブに非常な愛着を持っておられた。もちろん、誰にも負けない誇りも。そうして、昔のクラブの伝説的なOBのことをよく知っておられた。そんな話をよく聞かされた。そうやってお話を伺っているうちに、いつしか自分もそんな伝説のプレーヤーになりたいと思うようになってきた。
お酒もよく飲んだ。タニさんは、いろんな飲み屋さんをよく知っていた。連れられてタニさん行きつけのお店へもよく通った。もちろん、学生であったから、下宿の部屋で安ウィスキーを飲んだりすることの方が多かったが。

タニさんは、大学を卒業したあともよくクラブに顔を出してくださった。そうして、就職した先の仕事の厳しさなどもいろいろと話してくれた。
忘れられないのは、タニさんの代が中心になって、冬の竹野町(兵庫県)の民宿へカニすきを食べに行った小旅行。ちょうど十人で行ったのだが、その夜はみんなでお銚子をちょうど100本空けた。終わって海岸端へ出て、みんなで雪合戦をした。お腹が痛くなるほどよく笑った。ほんとうに楽しかった。

わたしが大学を卒業して浜松へ戻ってからも、お付き合いが途絶えることはなかった。わたしの結婚式にはもちろん来ていただいたし、夏休みにはこちらから香住(兵庫)へ海水浴に行ったりした。愛車のBMWスーパーバイクで何度か浜松にも来られて、わたしの家に泊まったりしたこともあった。
その後、就職先を辞めて大学へと戻り、社会福祉を勉強し直されていた時期もあった。さらには、兵庫県の但馬に知的障害者のための施設を作るということで、しばらく村岡町にお住まいされていた(諸事情で施設を作ることはままならなかったが)こともあった。
村岡町から戻られてからは、同じくクラブの先輩の紹介で、広島の専門学校で社会福祉を教えられる時期を経て、今の社会福祉施設に職を奉じられたのである。
この間、タニさんにどんな出会いがあったのかは寡聞にして知らない。お会いする度に、「結婚しようという気はあるんやけどなあ」といつも話されていたが、良縁には恵まれずに今日に至っていた。

そのタニさんが結婚されるという通知をいただいた。
びっくりしたが、よかったなあという気持ちでいっぱいになった。昨今、「熟年離婚」はよく聞くけれど、「熟年結婚」はあまり聞いたことがない。でも、いいではないか。結婚に年齢などいっさい関係はないのだ。

その結婚式と披露宴。式は大学会館のチャペル、披露宴はレセプションホール。100名を軽く超える人たちが集まった。懐かしい顔ぶればかりだった。「オマエ、誰や?」と言いつつも、すぐに昔の顔が思い浮かんできて、30年以上を経た時間は瞬時に雲散霧消していった。みんな昔のままだった。と言うか、こういう場だからこそ、昔の自分に戻ったのであろうと思う。
終了後、大学に勤務する後輩のホソミくんに案内されて構内を散策した。チャペルから中央芝生を通って時計台を見上げた。学生時代に戻ったかのような気持ちになった。そのまま、かつては書籍部や業者食堂があったところ、通称「銀座通り」を歩く。
野球部やアメリカンフットボール部の練習会場だったグラウンドには講義棟が建てられていた。体育館前の体育会のモットーが書かれた石碑は昔のままだった。無性に懐かしかった。
こんな機会を与えてくださったタニさんには、ほんとうに感謝の言葉もない。

タニさん、ほんとうにおめでとうございました。
いつまでもお幸せに!

2010年06月22日

スーさん、マーラーを聴く

6月21日(月)

週末の金曜日は、午後から休暇をもらって川崎へ。
エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラー交響曲第2番「復活」を聴くため、会場であるミューザ川崎シンフォニーホールへと出向いたのである。
翌日の土曜日には同じ公演がサントリーホールにて予定されていたのだが、既にこちらのチケットは4月の時点で完売だった。藁にもすがる思いでミューザ川崎公演分のチケットを都響事務局に問い合わせてみたところ、こちらの公演はまだ残席があり、思いのほかいい席を取ることができた。望外の喜びだった。ついでに、娘にも行けるかどうか確認をしたところ「ぜひ行きたい」とのことだったので、その分のチケットも購入することにした(何と、学生割引でS席でも半額だった!)。そうして、首を長くしながらこの日のくるのを指折り数えて待っていたのである。
チケットを購入する段階で、この3月にマーラーの3番を一緒に聞きに行ったおのちゃん、ヨッシー、ハットリくんにもお知らせしたところ、彼らも「ぜひ行きたいっす!」ということになった。特に、オノちゃんとヨッシーはその日静岡市にて県中体連の出張が入っていたのだが、「何とかして川崎まで行きます」とのことだったので、「んじゃ現地集合ね」ということになっていたのである。

金曜日は、午前中が期末試験だった。自分の教科は前日に試験が終わっていたので、すぐに採点を終えて金曜日に備えることにした。午後、急いで自宅へと戻り、宿泊の準備をして、その日と翌日休みを取っていた妻を同乗して自宅を出たのが午後2時半。
外は、バケツの底をひっくり返したかのような大雨だった。東名高速道はまるで川のようだった。前をトラックに塞がれると、ほとんど視界は無きに等しかった。水たまりにハンドルを取られることも屡々。もちろん、速度は終始50キロ規制である。集中力を切らさないように運転して足柄SAにて小憩。
神奈川県に入ると、渋滞の表示が出ていた。どうやら厚木を越えたあたりで渋滞しているらしかった。それでも、ナビの到着予定時刻は午後5時半。さほど心配することはなかろうと思っていた(開演は午後7時)。
確かに、厚木〜海老名間は渋滞していたが、さほど時間はかかることなく、ちょうど5時近くに横浜町田ICから東名高速を降りて保土ヶ谷バイパスへ。この道も、途中で事故が2箇所も発生していたためか渋滞気味だった。

途中、オノちゃんと娘からメールが入った。オノちゃんらは、5時半くらいには川崎駅に着けそうだという連絡、娘からは川崎到着が6時半くらいになりそうとのことだった。だんだん焦ってきた。途中、保土ヶ谷バイパスから首都高神奈川1号線へ。浅田ICで降りてようやく川崎駅へと通じる県道101号に入ったのが午後6時。しかし、そこから渋滞にハマった。路線バスが何台も道を塞いでいて前へ進まないでのある。しかも、途中でホテルに電話を入れて駐車場の場所を確認したのだが、どうもこれが要領を得ない。「口で説明した方がわかりやすいと思いますので、とにかくホテルフロントまでお越しください」と言うばかりだ。
時間は刻々と過ぎる。ようやくホテル前に辿り着いたのが6時20分。どうやら駐車場はホテルをぐるりと回って、一般道から地下へ入っていくらしかった。焦った。ともかくも車を駐車してホテルへと急ぐ。途中、車に傘を忘れたことに気づいたため、チェックインは妻に頼んて慌ててプリウスまで戻る。息急き切って、ようやくホテルの部屋に荷物を置いたのが6時35分。
オノちゃんは、地元川崎にて音楽を学んでいるご子息と待ち合わせているとのことで「先に行ってます」とメールが入った。ヨッシーは部屋にいるらしかった。すぐにヨッシーと待ち合わせ、会場へと急ぐ。娘からは「会場に着いたから」とメールが入った。
時間は6時40分。ミューザ川崎がホテルのすぐ隣の施設だったことが幸いだった。ホテルの2階通路から、そのまま雨に濡れずにミューザ川崎まで行くことができた。すぐに娘に「当日券売り場で、名前言って学生証出せばチケットもらえるから」と電話を入れた。程なく、当日券売り場で並んでいる娘の姿が目に入った。その娘に合図をして入場。

ミューザ川崎シンフォニーホールは、サントリーホールと同様に、ベルリンのフィルハーモニーホールに倣ったワインヤード型のホールだった。座席は波打って傾いているのだけれど、実際に座ってみるとそんな感じはしない。舞台が思ったよりも低いことと、1階席の座席が少ないことが目についた。
汗を拭いつつ待つこと暫し。インバルが登場、徐に両手が挙げられ、弦のトレモロ強奏で曲が始まった。ソナタ形式で書かれた長大な第1楽章、スコアには第2楽章に入る前に「少なくとも5分間以上の休みを置くこと」と指定があるが、それは入場の際に「本日は楽章間の休憩はございません」とアナウンスされていたので、そのまま第2楽章へ。
そうして、第2楽章が終わったところで、インバルが一度舞台袖へと戻り、その間に合唱団と二人の独唱者、オルガニストが入場してきた。全員が揃ったところで再びインバルが登場、第3楽章が始まった。曲はそのままアタッカで第4楽章へ。このアルトの独唱(「原光」)がすばらしかった。その美しさの余韻を残しつつ、さらにアタッカで曲は終楽章へ。途中、舞台裏のバンダとの掛け合いを挟みながら、いよいよ「復活」の合唱が神秘的に入ってくる。思わず瞑目。この合唱を歌った二期会の合唱もすばらしかった。最後は舞台正面のパイプオルガンも加わって、大団円のうちに終曲。深い感動。

日本で、日本の交響楽団の演奏で、こんなにすばらしいマーラーが聴ける時代になった。紛うことなく、インバル・都響のマーラーは、一つの最高水準の演奏に達している。もう今年はこのコンビによるマーラーを聴くことはできない。また来年までのお楽しみということである。それほどに、次回の演奏が待たれるインバル・都響のすばらしい演奏であった。

その興奮も覚めやらぬままに、とりあえず食事をしようということで、オノちゃんジュニアの案内で、川崎駅前のLAZONA川崎プラザ4階中華料理店へ。さらには、駅近くの居酒屋に河岸を替えて、飲みかつ食らい談論風発。「んじゃ、そろそろ帰ろうか」と時計を見ると11時45分。そのまま駅まで娘を送っていったのだが、そんな時間というのに、まだ駅は人、人、人。都会なんだなあと実感させられた。

明けて土曜日は8時に朝食。何と、朝食のレストランは10階だった。泊まったのは「川崎日航ホテル」の19階。ここの朝食はすばらしかった。何より品数が豊富。和食も洋食も、サラダもフルーツもジュース類も言うことなし。思わず、何度もおかわりをしてしまった。たっぷりといただき、ゆっくりとコーヒーを飲んで、チェックアウト。いいホテルだった。でも、このホテルも某ホテルチェーンに買収されるらしい。たとえそうなっても、ぜひこのすばらしい朝食だけはこのままに残してほしいものだ。

さて、せっかく川崎まで来たのだからと、まずは川崎大師に参詣しようということになった。ホテルからはさほど遠くはない。さっそくナビを設定して出発。川崎大師近くのコインパーキングにプリウスを停めて大山門へ。さすがは、初詣客が関東で一、二を争うと言われる寺院である。立派な門前町が形成されているし、それらしい雰囲気が醸し出されている。新築成った薬師堂へもお参りして参道の土産物店を冷やかしに。ここでヨッシーが買った葛餅は、昔から有名な葛餅だったらしい。さすが、食べ物の目利きに関してはヨッシーの右に出る者はいない。

続いて、この日の第2目的地である横須賀へ。日露戦争の日本海海戦で主力艦だった戦艦「三笠」の見学である。自分は以前に二度ほど見たことはあったが、オノちゃんやヨッシーは見たことがないということで行くことになったのである。
川崎から横須賀までは、東京湾の海岸沿いを走る。途中、羽田空港に飛行機の発着するところが見えた。自分は運転をしているので、じっくり見られないのが悔しい。「おお〜」とか、「へえ〜」とか言うのを横目で恨めしそうに見ていた。
湾岸の道は、やがてヨコハマベイブリッジに差し掛かった。通るのは初めて。伊勢湾岸道の名古屋港に掛かる橋とよく似ていた印象だった。やがて、高速道を降り国道16号をひたすら南下。八景島を通り過ごし、横須賀市内へ。
記念艦「三笠」は、米軍基地のすぐ南に隣接した公園内にあった。近くの駐車場から、その艦尾が見えた。「おお〜」と言いつつ、入場券を購入して艦内へ。順路の案内にしたがって、艦尾から船首へ、そうして艦橋へ。そこには、東郷平八郎や秋山真之が立っていた場所にプレートがはめ込まれていた。「おお〜」と言いつつ、艦内へ。有名な「本日天気晴朗ナレドモ…」の電文や、秋山真之自筆の書、連合艦隊解散の辞などを見る。
最後に、「三笠」のすぐ前に建立されていた東郷平八郎の像の下で記念撮影。これでNHK大河ドラマ「坂の上の雲」を見る楽しみがまた増えた。

ちょうどお昼を過ぎていたので、「海軍カレーでも食べようか」という話も出たのだが、手頃なレストラン等も見つからなかったので、そのまま鎌倉まで行って何か食べようということになった。行き先は鶴岡八幡宮。横須賀からは15キロ弱。30分ほどの距離だ。鎌倉に近づくほどに、周囲の風景が変わってきた。骨董品店や仏壇・仏具店が目につくようになったのである。
ちょうど2時近く、鶴岡八幡宮に到着。すぐにコインパーキングに駐車して、参道近くにあったお蕎麦屋さんにて遅めの昼食。
食事をしつつゆっくり休憩してから参道へ。正面やや高いところに本宮が見えた。近づくと、中の「舞殿」で結婚式が行われていた。こういうところで式をするというのはかなり費用がかかるんのであろうか。衆人注目の中での結婚式である。笙の音が辺りに響いて神聖な雰囲気を漂わせていた。
それから、春の強風で根こそぎになった大銀杏の木。「がんばれ大銀杏」の立看板とともに再び植え替えられていた。新しい葉も出ていたので、うまく根付いてくれればと思う。本宮への階段を登って参詣し、お札を購入して鶴岡八幡宮を後にする。

帰りは、お蕎麦屋さんでビールを飲んだ運転手に変わってヨッシーがハンドルを握ってくれた。ヨッシーの運転は極めて安全運転。そのまますぐに助手席で熟睡。気がつくと、東名高速道に入っていた。
行きと違って雨も降らず、順調に浜松へと帰り着く。

前回のサントリーホール行きと同様に、「濃い」コンサートツアーだった。前日の夜はコンサートを堪能し、終演後に一杯、泊まって翌朝はゆっくり起床、昼までに名所を巡り、昼食に地元の美味しいものをいただいて帰るという、新たな「コンサート小旅行」の型ができつつあるように感じる。
よいことである。
みなさん、また行こうね。

2010年06月29日

スーさん、梅雨どきにテニスと読書する

6月28日(月)

土曜日は、県選抜チームのコーチを務めてくれたヤマガタ先生が、自チームを率いて来浜するとのことで、シンムラくんが中心になって練習マッチが計画されていた。
熱海在住のヤマガタ先生は、今春の異動で伊東市内の中学校から、かの城ヶ崎海岸近くにある中学校へと転勤された。以前から浜松へ練習マッチに来たいということで、シンムラくんとも連絡を取り合っていたらしいのだが、ようやくそれが実現の運びとなったのである。
が、この日は朝からあいにくの雨模様。これじゃあ中止だよなあと思っていたところ、7時過ぎにシンムラくんから、「決行したいと思います」とのメールが入った。「え?やんの?」と思いつつも、とりあえず支度をして練習マッチの会場であるS中へと向かう。

S中に着くと、雨中にもかかわらず、本校の選手たちも含めてコートでボールを打っている。コートの傍らにシンムラくんと会場校顧問のヤマモト先生がいた。車から降りて、「だからさあ、これじゃあ無理だってば。ヤマガタくん、こっちへ向かってんの?」と聞くと、「先ほど牧之原を通過したって連絡ありました」とシンムラくん。どうやら、小型バスを貸切って向かっているらしい。それじゃあ、そう簡単に帰ってもらうわけにはいかない。最悪の場合、本校体育館で練習することも頭の片隅に入れつつ、コート状態を確認してみた。4面のうち、何とか2面は使用に耐えそうだった。シンムラ、ヤマモト両先生と具体的な試合方法について確認しつつ、ヤマガタくんの到着を待った。

9時ちょっと過ぎ、件のバスが到着した。ヤマガタくんと会うのは、3月末の都道府県対抗戦以来。交通費の負担軽減のため、1年生まで連れてきたとのことだった。「ま、雨がひどくなったら、舘山寺温泉の遊園地にでも行けば」などと話していると、雨が小止みになってきた。「10時過ぎからは雨が止むって、ヤフーの天気で確認しました」とヤマガタくん。すぐに試合を始めることにした。
本校の最初の対戦相手は、そのヤマガタくんとこのチームである伊東T中。どうやら、硬式あがりの選手が多いような印象だった。2年生後衛で今後が楽しみな選手もいて、じっくり育てればいいチームになると思われた。
続いての対戦は、会場校であるS中。こことは、学校が隣同士ということもあり、今までも何度か練習マッチを行っている。今回は、次週が市内大会の団体戦予選リーグということもあって、実戦で大切になる心構えや具体的な戦術など、細かいところを意識してマッチに取り組むよう選手たちには指示しておいた。3年生はそれなりに意識していることが窺われたが、2年生の意識が低かった。下級生というのはそんなものなのかもしれない。「自分たちにはまだ来年があるから」というのが、どうしても無意識下で行動となってあらわれてしまうのであろう。そんな緩慢プレーに活を入れつつ、午前中が終了した。

昼食は、S中近くの中華料理店。このお店は餃子が美味しい。その餃子に舌鼓を打ちつつ、ヤマガタくんからは近況などを聞く。しかし、ちょうど昼食を食べ終わる頃になって雨脚が強くなってきた。コートに戻ったが、はたしてコートコンディションはとても使用できる状態ではなかった。最早これまでということで、練習マッチは中止となる。伊東へ帰るヤマガタくんからは、伊豆の干物と塩辛をいただいた。
こちらに来るときには、東名浜松ICで降りてきたということだったが、S中からなら圧倒的に浜松西ICの方が近いということで、バスを東名浜松西ICまで先導することになった。「では、次は8月に浜松で」ということで、ヤマガタくんは車上の人となった。今年から、例年浜松にて開催している新人研修大会に来てもらうことにしたのだ。

自宅に帰って雨に濡れたシャツを着替え、まもなく昼寝。夕方からは、久しぶりに支部定例会が予定されていた。
哺時、雨ということもあって、シンムラくんが自宅まで迎えに来てくれた。最近よく行くようになった全品280円居酒屋にての小宴である。シンムラくんの新婚生活ぶりなどをアテにしながら、あれやこれやと飲みかつ食べても一人2500円程度。安上がりな宴会である。
すぐに河岸をいつもの雀荘へと変えて、東回しを5回ほど。今回もトップはオノちゃん。沈んだのはヤイリくんと「怪獣」ヒロノくん、シンムラくんが可愛く凹み、支部長が可愛くプラった。

明けて日曜日は小雨の朝。前夜来の雨で、とてもコートは使えそうにあるまいと思っていたところ、コートの状況を見に行ってくれた副顧問のワタナベ先生から連絡があって、「やっぱコートは使えそうにありません」ということだったので、部長のところに電話を入れて練習はお休み。
こうやって、雨の日にのんびり過ごす休日も貴重な時間である。昼前、買い物に出たついでにいつもの書店に立ち寄ってみると、先週の木曜日からレンタルを開始した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が2本もあった。どのレンタルビデオ店でも「レンタル中」だったから、喜び勇んですかさずレジへ。コンビニで昼食を購入して家に帰り、午後はその『ヱヴァ』をじっくり見る。この巻からアスカが登場するのだ(苗字が変わってたけど)。でも、そのアスカがどうなったのか判明しないままに映画は終了してしまった。おい、アスカはどうなったんだようと思っていたら、「次回予告」で眼帯をして登場していたので少し安心。でも、映画自体は前評判ほどでもなかったという印象だった。

『ヱヴァ』を見終わってしばらく午睡。昼寝の後は読書がはかどる。今回は永井荷風の『墨東綺譚』(岩波文庫)。『断腸亭日乗』を読んでいたので、何やらその裏話を読んでいるような感じがした。小説の中身よりも、あとがきの「作後贅言」がよかった。
“現代人がいかなる処、いかなる場合にもいかに甚しく優越を争おうとしているかは、路地裏の鮓屋においても直にこれを見ることができる。彼らは店の内が込んでいると見るや、忽ち鋭い眼付になって、空席を見出すと共に人込みを押分けて驀進する。物をあつらえるにも人に先んじようとして大声を揚げ、卓子を叩き、杖で床を突いて、給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ち切れず立って料理場を窺き、直接料理人に命令するものもある。(…)何事をなすにも訓練が必要である。彼らはわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校に通う時から雑沓する電車に飛乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。この努力が彼らの一生で、その外には何物もない。”(176〜177頁)

昔も今も、人のすることに変わりはない。
このところ、洋の東西を問わず、昔の人が書いた本を読むたびにそんな思いを強くしている。

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