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2008年02月 アーカイブ

2008年02月05日

けいぞうさんとかんちきくんの浜松訪問記

如月立春(月)

土曜日は、午前中が1年生大会の準々決勝から。既に、先週ベスト8入りして大会に臨む目標は達成していたことに加えて、先週の試合終了後から大将前衛がインフルエンザのために出席停止となり、大会までに回復は望めそうにないということから急遽ペアを組み替えたりして、「ええい、もうどうでもいいわい」というやや捨鉢気分での大会参加となった。

その準々決勝、相手はいきなり前衛のサイドに打ってきたりして喧嘩腰である。1年生のうちからこういうゲームのやり方を指導することに違和感を覚えるが、それぞれの監督の指導法というものも尊重しなくてはならない。そういうテニスを展開してくれるチームがあるから、こちらもレベルアップできるとも言えるからだ。しかし、如何せん、まだウチの1年生たちでは対応ができない。結局、3組とも負けて順位決定戦に回ることになった。

その順位戦1回戦も、ポイントは行きつ戻りつするのだが、肝心なところでこちらにミスが出て敗戦、ついに7位決定戦に回ることになってしまった。どうも、試合前に組み替えたペアがうまく機能していないようだった。この日最後の試合ということもあり、1組は元通りのペアに戻し、他の2組を組み替えて試合に臨ませた。トップが勝ち、2番もタイブレークまでもつれたものの勝って、7位が決定した。げにカップリングというのは難しい。

その日の午後は、シンムラくんが試合会場のコートを取っておいてくれたので、応援に来ていた2年生に加え、シンムラくんの学校の選手、さらには近隣校の選手も交えて合同練習。大会も終わってほっとしたのか、1年生もいきいきと練習している。初めて本校の選手たちと一緒に練習するIN中の選手たちも楽しそうにやっている。こうやって、ソフトテニスをとおして選手たちの交流が深まることも大切なことだ。

昼食後コートに戻ると、カンキくんから連絡が入った。「予定より早めに浜松に着いたんで、今からどこかで昼食を食べようと思うんですけど、どこかいいとこありますう?」とのことだ。現在地を尋ねると、どうやらオノちゃんの自宅近くを走行しているらしい。すぐにオノちゃんに連絡を入れて、カンキくんに昼食場所を教えてあげるよう依頼する。

そのまま練習を続けて晡時。昏黒からは、けいぞうさん一行をお迎えしての宴会。場所は、いつもの旗亭「まこと」。カンキくんが「浜冦の巣窟を見てみたい」(失礼な!)との要望に添ってのことである。シンムラくんが、一行をホテルまでお迎えに行く手筈になっていた。ほどなく到着し、参加者が全員揃って乾杯!

地元で出迎えたメンバーは、ほとんどが甲南麻雀連盟浜松支部の面々である。もちろん、沼津で会員になっているスガイくんもわざわざ新幹線で駆けつけてくれた。こういうメンバーで飲む酒が、どれだけ美し酒であるかということが想像いただけようか。酒のつまみこそあればあれ、互いのいろんなお話が何よりの肴となって、一献また一献と杯が重ねられていく。

そのうちに、部屋の隅では「プチ講習会」が始まった。口ではなく、何より自分の身体で実感したいとばかりに、支部会員たちがけいぞうさんに次々と技をかけてもらいながら説明をお聞きする。こういう時間は過ぎるのが速い。知らぬ間に3時間ほどが経過していた。宴後に予定されていた、カンキくんを囲んでの「囲む会」、別名「甚振る会」へと移行する。

実は、手前はこの時点で既に記憶喪失泥水酩酊状態を呈していた。だいたい、どうやって雀荘まで移動したのかわからない。気が付いたら、席に座って麻雀を打っていた。同卓にカンキくんがいた。確か、シンムラくんもいた。あと一人は?オーツボくん?記憶にない。そのまま半荘を3回と、東回しを1回やったらしい(覚えてない)。そんな状態で麻雀をしたにもかかわらず、結果は+16だったらしい(覚えてない)。いやはや、これこそ「酔雀」と言うべきか。たとえ意識はなくとも、カンキくんからは「面断平三色」を即で和了ることができたみたいだからだ(覚えてない)。おお、恐ろしい!その後、自宅に辿り着くまでにも一騒動あったのだが、とてもここでは書けない。

明けて、日曜日の講習会当日。外は雨。とりあえず、宿舎のホテルまでけいぞうさんたちを迎えに行く。カンキくんに会うなり、「昨夜のこと、覚えてないでしょ?」とばかりに、酔態の一部始終を聞かされる。あのねえ、そういう無粋なことはしないのだよ。それより、「ホントにおいしそうに飲んでましたよね」とか、「いい雰囲気だったから、つい過ごしてしまったんですね」とさらりと言ってのけるのが大人なの。よほど、酔漢にハネ満を振り込んだのが悔しかったのだろう(べっかんこう!)。

程なく会場に到着すると、参加者の中高生たちが続々と会場に来ている。顧問の先生も含め、参加者は総勢130名を超えている。けいぞうさんを更衣室まで案内して着替えてもらってから、さっそく講習会を始める。

最初は、体の持つ潜在能力を実感してもらう稽古。初めは半信半疑で遠巻きにけいぞうさんの技を見ていた中高生たちも、実際に自分たちがやってみると、「え?なんで?」とか、「すごいすごい!」などと歓声を挙げながら、けいぞうさんの技を間近から食い入るように見つめるようになった。何より、目の輝きが明らかに変わってきた。あっという間に1時間ほどが過ぎて休憩。

後半は、走り方を中心に動きのある技や、股関節の畳みを応用した打法等を稽古する。先生方だけではなく、中高生からも質問が出たりして、講習会も佳境を迎えていた。手前はひどい頭痛のため、ほとんど体を動かさずに、参加者たちの様子をずっと見ていた。誰の顔にも笑顔があった。どの技も楽しそうにやっていた。みんな、自分の体が持つ不思議な力を実感していたのだ。

けいぞうさんは、「自分の中には、こんな力が眠っていたんだということを実感してください」ということを繰り返しおっしゃっていた。もちろん、それがすぐに実際のスポーツの場面で応用できていくというわけではないだろうが、そうした自らの身体が持つ潜在力、筋力を鍛えることではなくて発揮できる力というようなものを実感させられたことは、参加者全員にとって得難い経験となったことと思う。

スポーツの指導者もとしては、もちろん、今回の経験を実際にどう練習プログラムとして実践していくかということが課題となるであろう。そのためには、指導者自らがさらに古武術の稽古法を研究していくことも必要であろう。しかし、けいぞうさんのレベルほどに古武術の技を自家薬籠中のものとするには時間がかかる。技はできなくとも、その技が持つ体感を保存しつつ、それをどうやって実践させていくかというアイディアを案出していくことも、指導者として大切なことではなかろうか。そのためには、体感のニュアンスを伝えるための言葉やメタファーの使い方を工夫していくことも必須のこととなるであろう。いずれにしても、いろんなことを感じさせられたすばらしい講習会であった。

会後は、けいぞうさん一行へのお礼も兼ねて、うなぎの老舗「中川屋」にて、この日記の題名にもなっている「うなとろ茶漬け」をご賞味していただく。かつて、内田先生とウッキーを唸らしめた一品である。けいぞうさんには、「ひょっとして、今まで食べたうなぎの中でいちばん美味しいかもしれない」と言っていただいた。何よりである。

けいぞうさん、ありがとうございました。おかげで、いい会を催すことができました。ぜひまた、来年か隔年で「第2回」を開催したいと思っておりますので、その節はどうぞよろしくお願いいたします。カンキくんも、楽しい時間をありがとう。また振り込みに来てください。支部会員一同、いつでもてぐすね引いてお待ちしております。

2008年02月11日

スーさん、雪の峠で人間性の深淵を見る

2月11日(月)

週末の金曜日は、「第4回TAJIMI Challenge Cupソフトテニスインドア大会」(団体戦)に参加するため、昏黄より岐阜県多治見市へと移動する。手前と同時期に、岐阜県中体連のソフトテニス専門部長をされていた渡辺先生のお招きで参加させていただくことになった大会である。

事前の天気予報では、太平洋岸も雪になると報じていた。となると、チェーンの準備等もしておかなきゃいけないかなあなどと考えていたのだが、直前の天気予報を確認すると、どうやら多治見市の天気は土曜日が雨になるとの予報に変わっていた。ならば、わざわざタイヤもスタッドレスに交換しなくともよかろうとの結論に達し、それでも万が一の用心にとチェーンだけは携行するようにした。車は弟のオデッセイである。出発間際、車庫でチェーンを探していると、父が「これだろ?」と黄色の箱を渡してくれた。中身を確認すると、硬質ゴム製のチェーン一式が入っていた。「おお、これだこれだ」とよく確認もせずにトランクへと積み込んで出発した(これが後でとんでもないことになった)。

ホテル到着は8時過ぎ。すぐに選手たちに夕食を取らせようと思ったが、ホテルのフロントに聞いても、「さあ、近くのレストランとかはもう閉まってると思うんですけど」と、何ともつれない返事であった。ホテル付近の地図をもらい、近くの何とか食事ができそうな店まで行ってみることにした。やはり、どの店も閉まっていた。仕方がないので、もう一度ホテルに戻って、車で郊外のファミレスまで走ろうかとも考えていた矢先、ホテル付帯施設の飲食店の看板が目に入った。メニューをよく見てみると、どうやら食事もできそうな感じがする。すぐに店に入って確認すると、「食事できますよ、どうぞ」とのお返事である。ったく、たぶん経営しているのはホテルとは違う業者だからそうなると想像されるが、もう少しホテルのフロントには気を利かせてほしいものだ。

そうやってひと段落したところへ電話が入った。「チーム・ワタナベ」の一員であるゴトウ先生からだ。そのままホテル近くの居酒屋へと移動し、同じく一員のリョウセツ先生とも合流して、一杯酌み交わしながらソフトテニス談義に花が咲く。岐阜県は、近年ジュニア選手の台頭が著しい。そんな選手や保護者、コーチらと折り合いを付けていく中学校の顧問も大変である。そんな話をしながら、気がつけば2時間の余。先生方とは、互いに「マイミク」になることをお約束して解散する。

明けて、土曜日。試合会場は市の総合体育館。ホテルからは車で10分もかからないところにある。天気予報を確認すると、どうやら昼前から雪になるようだった。やな予感がした。試合は、3ブロック3チームによる予選リーグと、順位別決勝リーグ。最初は岐阜市のM中との対戦であった。ベンチの監督さんは、と見ると、何とオクムラ先生であった。今から10年以上前の、岐阜中津川東海大会でお世話になった先生である。互いに旧闊を叙し、近況を報告し合う。

予選リーグも終わる頃、雪が降り出した。初めは積もりそうもない粉雪であったが、そのうちに風がなくなってしんしんと降り積む雪に変わってきた。「ねえ、これってヤバくない?帰れなくなっちゃうってことない?」と、渡辺先生やゴトウ先生に尋ねるのだが、「ま、どってことないでしょ」とのんびりした返事である。半信半疑だったが、地元の人たちが言うのだから、そんなに心配することもなかろうと思っていた。それでも、試合順序だけは早めてもらうようお願いをした。

結局、本校は予選リーグを1位で通過し、1位リーグも全勝して優勝することができた。最後の対戦は、何と地元の小学生チームだった。多治見のジュニアは強いとの噂だ。確かに、手強い相手だった。小学生独特の「飛んでこないボール」とロブ、前衛の堅いディフェンス、それに思い切りのいい後衛のトップ打ちに翻弄され、3組ともタイブレークの末にようよう勝つことができた。多治見ジュニア、恐るべし。先日行われた浜松市の1年生大会決勝よりは、数段高いレベルのテニスを展開していた。

その対戦が終わって外を見ると、一面の雪景色に変わっていた。これはすぐに帰らないとまずいと直感した。車の屋根には、既に10センチ以上の雪が積もっていた。すぐに選手たちに挨拶をさせ、荷物を積み込んで出発した。

出発前、ゴトウ先生がインターネットで調べた道路情報を教えてくれた。中央道から東名への合流地点が大渋滞、環状道は豊田松平インターから先が閉鎖されているとのことであった。困ったことになったと思った。それでも、大渋滞の中へ突っ込んでいくわけにはいかない。とりあえず、環状道を走れるところまで行って、そこから先は一般道を走ろうと思った。

体育館から環状道の瀬戸品野インターへと向かう。雪はどんどんひどくなる。はたして、瀬戸品野インター手前の峠道で前走車が止まってしまった。その数台先に止まっている車が道を塞いでいる模様だ。反対車線は峠道を降りてくる車がひっきりなしだ。しばらくは動きそうにないので、車を道端に寄せ、念のためにチェーンを装着することにした。

そのうちに、無理に反対車線に出て追い越しをかけようとした車と、上から降りてくる車のドライバーとが、「てめえ、どきやがれ!」「てめえこそ道あけろや!」と、互いに罵り合いを始めた。そのため、下りも止まってしまった。仕方がないので、罵り合っているところまで行って交通整理をすることにした。互いにいいトシをしたオジさんたちである。見苦しいものだ。ようやく下りが動き出したので、再び車のところまで戻ってチェーンを装着作業にかかる。

説明書を見ながらやってみるのだが、どうもうまくいかない。悪戦苦闘していると、反対車線の車を避けながら上ってきてすぐ前に止まった車からドライバーが降りてきたので、「すみません、チェーンの付け方教えていただけますか?」と尋ねると、「おお、いいよ」と手を貸してくれることになった。と、「ねえ、このチェーンだけどさあ、タイヤの大きさに合ってないんとちがう?」と言われる。「え?そんなことはないと思うんですが…」と箱を持ってきて確かめると、はたしてタイヤのサイズとは全然違っている。目の前が真っ暗になった。

まさか、この峠道の車の中で一晩過ごすわけにはいかない。「JAFに頼んで、チェーンを持ってきてもらったら?」とその人がおっしゃったので、すぐに電話を入れたのだが、何度かけても話し中でつながらない。こうなれば、頼める人は渡辺先生だけだ。電話をしてみた。事情を話すと、「いいですよ、何とかしますね」とのお返事であった。地獄に仏を見た思いがした。しかし、この渋滞の中を、ここまでどうやって持って来れるのだろう。

そんなことを考えていると、また下りが止まってしまった。業を煮やしたのだろうか、上から徒歩で降りてきた若者が、下り車線に出て上ってこようとする車の前に立ちはだかって、「道をあけろボケ!脇へ寄らんかい!このクソ!」とやり始めた。なんでこうなのだろう。人間の思い切り醜いところを見た思いがした。

でも、そのおかげか下りが流れるようになり、上りも少しずつ動くようになった。あんまり渡辺先生にも迷惑をかけられない。幸い、まだ道は圧雪も凍結もしていなくて、路面はチェーンなしでも十分に走れる状態だ。前の車のドライバーが、「俺ら先に行って道の状態とかケータイで教えるから、電話してや」と名刺をくださった。豊田市で製土業を営んでいる社長さんだった。緊急事態のときに、人間がどんな行動をとるのか、その類型が何となくわかった気がした。

しばらくして、件の社長さんに電話を入れてみた。「下りも信号のとこで止まってるけど、峠は越えられそうだよ」とのことであった。このまま渡辺先生を待とうか迷っていると、後ろのトラックのドライバーが、「おめえが動かねえから詰まってんだよ、このヤロー!とっとと動きやがれ!」と怒鳴りだした。仕方がないので、上ってみることにした。

2台前のトラックが轍を作ってくれていたので、それを外さないように慎重に運転し、峠道を越えることができた。渡辺先生から電話が入った。「準備して向かってますが、渋滞で動けません」とのことだったので、「とりあえず、峠を越えることができたんで、このまま行けることまで行ってみます」と連絡を入れると、「じゃあ、もうしばらく走られて、どうしてもチェーンが必要な状況になったら、また電話してください。抜け道とか通って行きますから」とおっしゃってくれた。ありがたさに言葉がなかった。

そのまま、瀬戸品野インターに辿り着いた。しかし、無情にも「土岐〜四日市間通行止め」との案内が出ていた。こうなったら、一般道を走るしかない。すぐにナビの設定を変えると、何と音羽蒲郡まで走る設定になっている。「到着まで、3時間50分ほどかかります」などと言う。「アホかこのナビ、どう考えても東名三好か豊田インターの方が近いじゃんかよう」と思い、とりあえず豊田インターを目的地に設定した。もうこの頃には、雪は雨に変わっていた。渡辺先生に、「もう大丈夫です。高速道は走れないけど、のんびり一般道を走って帰ります。雪も雨に変わってきてるんで、チェーンも必要ないと思います」と電話を入れた。

そのまま1時間ほど走って、豊田インターに近づいた。しかし、インターに入る車の流れがない。ナビのVICS情報を確認してみると、何と東名上りは岡崎までインター閉鎖になっていた。愕然とした。これでは何時に帰り着くのか見当もつかない。その旨を保護者に連絡し、とりあえず音羽蒲郡まで走ることにした。ここまでで、既に3時間ほど経過していた。音羽蒲郡を選択したナビは正しかったのだ。

途中、見知らぬ番号から電話があったので出てみると、はたして渡辺先生であった。チェーンを持ってく途中に、どうやらケータイを落としてしまったらしい。何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。さらには、浜松のオーツボくんからも電話が入る。この日は、7時から例会の予定だったのだ。とても行けそうにない旨、他のメンバーにも伝えてもらうように頼む。

岡崎市内に入ったのは8時過ぎ。何とか帰り道の目処が立ったので、夕食を取ることにした。食事をしてやや緊張感がほぐれると、腰の辺りが痛みだした。しかし、そうも言ってられない。まだ帰り着いたわけではないのだ。音羽蒲郡インターに入るには、国道1号線を走行しなくてはならない。その国1が大渋滞であった。それはそうだろう、東名を走れない東行きの車はすべて音羽蒲郡インターを目指しているのだから。

ようやくにして音羽蒲郡インターに到着、東名に入ることができた。これが東名?と思えるほどに車はほとんど走っていない。まるで映画を見ているようだった。と言うか、ここに至るまでの経過そのものが、映画そのもののようであった。

浜松着は10時。通常であれば2時間弱で帰って来られるところを、3倍の6時間以上かかってしまった。学校近くのコンビニまで保護者に迎えに来てもらい、明日は休みだから十分に体を休めるよう指示して解散する。渡辺先生にも、無事到着の電話を入れ、感謝とお詫びの意を伝えた。相当疲れていたのだろうが、家に帰ってもしばらく興奮状態が続いていて、この日はなかなか寝付くことができなかった。

翌日(昨日)、その渡辺先生からメールが入った。落としたケータイが、融けた雪の中から出てきたとのこと、また、わざわざ購入したチェーンもお店で返品できたとのことであった。よかったよかった!

でも、もう多治見には二度と行きたくない。どうも方角が悪いのだと思う。もちろん、渡辺先生をはじめとする「チーム・ワタナベ」の先生方にも含むところはない。あの雪の中でのいろいろなことが、どうやらトラウマになってしまったようなのだ。加えて、今月に入ってからムズムズしていた鼻の奥が、今回の遠征から帰ってひどい花粉症の症状を呈するようになってきてしまったのだ。それがあの峠道の杉木立の所為というわけではないのだけれど。渡辺先生には申し訳ないが、「やっぱり多治見には行きません」宣言をさせていただく。あしからず。

2008年02月19日

スーさん、柴五郎の伝記を読む

2月18日(月)

先週の、悪夢のような雪中行とはうって変わって、平穏な週末であった。土日とも午前中は部活動、土曜の午後からは、今週後半に控えている学年末試験の問題作成、晡時より小宴と支部例会。日曜の午後は、VTRに録画してあったいくつかの番組をDVDにダビングする作業。黄昏よりちょっとした買い物に出、帰宅後はCDの整理。昔はそんなことは思ったこともなかったが、ここ数年、こうした時間が何物にも代え難い貴重な時間と思えるようになってきた。

その土曜日の小宴は、カンキくんが「支部のみなさんでどうぞ」と送ってくれたワインを、いつもの「まこと」へ持参して賞味させてもらう会。ひとしきりビールを飲んだあとに、「では」とヤイリくんが開栓。相伴したのは、他にオーツボくん、ワダくん、そして飛び入り参加のイケヤくん。どれどれ、ふんふん、ごく…。「うーん、まろやかですなあ」などと言いつつ、「ではもう一杯」と重ねられて、寸秒の間に瓶は空となってしまった。

さらには、前回の浜松訪問時にカンキくんが持参したソースで、焼きそばを作ってもらった。これも、「最初は甘いのに、だんだん辛くなって、こりゃあ酒が進みますなあ」ということで、「じゃ、これで焼きうどんも頼んじゃおう!」と盛り上がる。もちろん、そのソースは「まこと」でキープしてもらえることになった。一同、「カンキくん、いろいろおいしいものをありがとうございました」と、神戸方面に向かって合掌する。

その後の例会では、先週ヨッシーから四暗刻タンキを和了って意気軒昂のオーツボくんを尻目に、支部長が着々と和了を繰り返し、終わってみれば一人勝ち。相変わらず、「酔雀」は健在である。今年は、シンムラくんも調子がいい。今のところ、何とトータルで暫定3位である。さすがに、記録的な敗北を続けた昨年の教訓が生かされているというところであろうか。

そのシンムラくんとこのチームであるが、日曜日、6名の選手が本校を訪れて一緒に練習を行った。シンムラくんは、1年生大会の予選リーグ敗退がよほどこたえたのか、3連休のときなども終日練習を敢行しているそうだ。「そんなに練習しても、男の子らは集中力が持たないし、モチベーションも上がらないんじゃないの?」と、多少揶揄しつつ助言したこともあったが、「いや、弱いチームは練習しないと」と真剣であった。しかし、どうも自校だけの練習ではレベルアップしてこないことに焦燥の感もあり、何かしらの光明をとの思いもあって、今回の練習参加となったのかもしれない。

終了後、昼食を共にしながら、あれこれ話をする。シンムラくんは、「いやあ、やっぱ練習のレベルが高いっす」と感心しきりである。シンムラくんとこの選手を見ていくつか気がついたことがあったので、そのことを指摘する。いつも練習を見ていると、つい見逃してしまうこともある。シンムラくんのような若い指導者には、そんな「目の付け所」を知ってほしい。そのことで、選手がずいぶん技術的にレベルアップすることだってあるのだ。

さて、まだ2月であるが、「これぞ今年のベストワン!」という本に出会ったので、そのご紹介を。

その本とは、『ある明治人の記録』(石光真人編著/中公新書)である。この本のことは、『本読みの虫干し』(関川夏央/岩波新書)で知った。内容から、どうしても読みたいと思い、すぐに近くの書店に行って買い求めてきた。すぐに読了した。と言うか、まるで小説を読んでいるかのように、読み始めたら止まらなくなってしまった。本文は文語調で書かれているが、そんなことは微塵も気にならない。それほどに、ぐいぐいと読ませる。

この本は、江戸末期に会津の上級武士の五男として生まれた柴五郎が、死の3年前に、石光真人に自身の少年期の記録を貸与したことをきっかけにして編まれた本である。会津戦争で、母親を始め一族に多くの犠牲者を出す悲惨さを経験、さらに会津落城後の江戸への俘虜収監、そして移封地である下北半島での悲惨な飢餓生活を経て再び江戸に出、下僕などの流浪の生活もしながら軍界に入るまでの一部始終が、「遺書」として綴られている。

どの頁を繙いても、その鬼気迫るような内容と独特の語り口に、思わず引き込まれて読み耽ってしまう。例えば、会津落城に際し、叔父より屋敷に残った母親らのことを聞かされる場面。
“「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず。祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし。」
これを聞きて茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ち伏したり。”(30頁)

さらには、下北半島での飢餓生活の一節。
“建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。板敷には蓆を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹りたるも、褥なければ米俵にもぐりて苦しめらる。”(62頁)

食べ物がなく、ついに死んだ犬の肉を食べる一節。
“無理して喰らえども、ついに咽喉につかえて通らず。口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。この様を見て父上余を叱る。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」
と、つねと変わりて語気荒く叱る。”(64頁)

その苛酷さに、つい恨みごとも言いたくなってしまう。
“父上、兄、余は朝より夜まで、垂れたる蓆をあおりて無情にも吹き入る寒風に身をふるわせつつ縄をなえり。ともすれば感覚を失う指先に念力をこめて、ただひたすらに縄をないですごせり。
この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変わらざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからずに申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。”(74頁)

もう十分だろう。この過酷な環境を、それでも生き延びさせたのは、他ならぬ薩長へのルサンチマンであったろう。だからこそ、この「遺書」は西南戦争で西郷隆盛が、継いで大久保利通が世を去ったの見届けて終わる。
“この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる現実主義政治家たる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。”(121頁)

歴史は、その照明の当て方によっていろんなフェーズを呈する。そんなことを実感させられる著作である。未読の方は、是非購入して読まれんことを。

2008年02月27日

スーさん、アメリカについて考える

2月25日(月)

先週に引き続き、本の紹介を。

『貧困大国アメリカ』(堤未果/岩波新書)のことである。

ふだん何気なく生活していると、「ふーん、今ではそうなっちゃったんだ」とか思うことがあるものだが、時にそれがどういうところから由来しているのかということを垣間見させてくれるものがある。この本は、そういう本だ。「垣間見える」のは、「市場原理」であり、「グローバリズム」であり、広く「資本主義」であり、さらにはそれらを担保しているであろうところの「一人歩きしている欲望」である。

本書は、アメリカの貧困層の生活ぶりにスポットを当てることで、それらの人々を喰い尽くそうとしている巨大で恐ろしい影を浮かび上がらせている。まさに、“「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく”(9頁)人々がルポルタージュされている。

例えば、医療現場。全米医学生協会のジェイ・バット会長は、次のように述べる。
「自由を信奉するこの国では、一見、自由な医療システムが存在しているように見えるかも知れません。ですが実は政府の介入がないことによって医療費は増大し続け、不安定な医療供給が行われているのです。民主主義の国において、市場原理を絶対に入れてはいけない場所、国が国民を守らなければならない場所は確かに存在するのです」(94頁)
さらに続けて、
「民主主義であるはずの国で、持たぬ者が医者にかかれず、普通に働いている中流の国民が高すぎる医療保険料や治療費が払えずに破産し、善良な医師たちが競争に負けて次々に廃業する。そんな状態は何かが大きく間違っているのです」(95頁)

教育現場はどうなっているのだろうか。貧しくて大学に進学するための学資がない高校生に、「新兵リクルーター」たちが群がる。サインした新兵は、もちろんすぐにイラクへと送られる。「帰還兵センター」のスタッフであるティム・バートンの言葉は重い。
「若者たちが誇りをもって、社会の役に立っているという充実感を感じながら自己承認を得て堂々と生きられる、それが働くことの意味であり、「教育」とはそのために国が与えられる最高の宝ではないでしょうか?将来に希望をもてる若者を育ててゆくことで、国は初めて豊かになっていくのです。学びたいという純粋な欲求が、戦争に行くことと引きかえにされるのは、間違いなのです」(141頁)

これはアメリカの話なのだから、わたしたち日本人は「対岸の火事」として看過していればよいのか?日本でも、「規制緩和」・「自己責任」・「ワーキングプア」・「ネットカフェ難民」・「医療制度崩壊」・「派遣社員」・「教育格差」などという言葉が、メディアにはあふれている。筆者は、「役所がひどいから民営化」という安易な考えのもつ危険性を、アメリカ人から警告されたという。
“アメリカン・ドリームという言葉に弱いアメリカ人は、自由や競争=誰にも与えられる機会の平等だと思いこむふしがある。安易に民営化を支持したために、決して手をつけてはいけない医療や暮らし、子どもたちの未来にかかわる教育が市場に引きずり込まれてゆくことにブレーキをかけられなかったのだ(…)国が国民に対して持つべきこれらの責任を民間にスライドさせてしまうことが、いかに民主主義を破壊するかに気がつかなかったのだ”(198頁)と。

「相対性貧困率」とは、その国の格差レベルをあらわす指標だそうだが、「OECDにおける相対性貧困率ランキング」において、日本は栄えある第2位だったそうだ。もちろん、トップはアメリカ。これについて報じたメディアがあったのかどうかは知らないが、こうして日本においても急激に格差が拡大しているのは事実である。どうやら、わたしたちは範とすべき国を間違えてしまったようだ。アメリカの貧困の実態は、明日の日本の姿である。

では、どうすればよいのか。さしあたって、わたしたちにできることは何なのだろう?筆者は、「ガーディアン」紙コラムニストの言葉を引く。
“ジョージ・モンビオット・アレンは自著の中で、環境問題を救うのは技術ではなく、むしろ私たち一人ひとりが倫理観を変えることなのだと指摘する。賢い消費者ではなく、地球市民として、日々の自らの行動が世界全体にもたらす結果に責任を持つという倫理観が、一人の小さな行動を大きな力に変え、健全な地球環境を取り戻す一番の近道なのだと。”(195頁)
これは、環境問題のみならず、個がシステムに対峙していく際の基本的なストラテジーであろう。

「あとがき」の以下の言葉は、筆者の願いであり祈りでもある。
“無知や無関心は「変えられないのでは」という恐怖を生み、いつしか無力感となって私たちから力を奪う。だが目を伏せて口をつぐんだ時、私たちは初めて負けるのだ。そして大人が自ら舞台をおりた時が、子どもたちにとっての絶望の始まりになる。”(206頁)

少しでも多くの人に読んでほしい著作だ。

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