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2007年01月 アーカイブ

2007年01月05日

NAGAYA住まい四年目の年賀のご挨拶

1月4日(木)

新年、明けましておめでとうございます。

この日記も、おかげさまで4年目を迎えることになりました。過去3年の間に、少しずつ読者が増えてきたらしく、年賀状にも「うなとろ、愛読しています」とか、「いつも楽しく読ませてもらってます」などと書かれるようになりました。ありがたいことです。それもすべて大家様のおかげであります。今まで同様つまらぬことしか書けませんが、よろしければこれからもご愛読のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、「今年もいつもどおりのお正月」と思いきや、年末から扁桃腺炎を患っていた妻が、元日から高熱を発して寝込んでしまうというスタートとなった。「ちょっと寝てればそのうちよくなるわよ」などと言いつつ、医者にも行かなかったのが災いしたのだろう、元旦は初詣から帰って「うー喉が痛い」と言いつつ朝食もそこそこにダウン、親戚へのお年始にも行けず仕舞いで、午後から拙宅に参集することになっていた「支部」メンバーを迎える準備をして、そのまま布団にもぐり込んでしまった。

午後になって、「支部」のいつものメンバー(オノちゃん、ヨッシー、シンムラくん、怪獣、元消防団員)が集まってきた。内田先生宅での宴会に倣い、「一品持ち寄り新年会」である。こういうときに、その存在感を際だたせるのがヨッシー。わざわざクーラーボックスを持参し、飲み物からつまみ類一切、飲んだ後のカップ麺類、さらには紙コップまで用意して、準備万端いつでもこい状態なのである。後方支援とは、まさに彼のためにあるような言葉だといつも感心させられる。

飲み始めて2時間ほどたったところで、娘が顔を出した。「ちょっと、お母さん、熱40度近くに上がってるんだけど」とのこと。それは捨て置けぬ、すぐに当直医へ連れて行こうということになった。新聞で確認すると、「あ、ボクんちその近くです」と、飲まずにドライバーに専念することになっていたシンムラくんが宣わった。「え?ホント?じゃあお願いできる?」ということで、すぐさま当直医へ電話すると、「今10人ほどお待ちですので、たぶん1時間以上はお待ちいただくことになると思います」とのことであった。是も非もない。「では今から行きますのでよろしくお願いします」と電話を切り、すぐにシンムラくんに出発してもらった。新年会初参加のシンムラくんであったが、新年初頭から大活躍である。

その間に、こちらは宴会場を片付け、いつもの雀荘への移動の準備である。それまでは拙宅にて「新年初打ち会」をやっていたのであるが、「いつもの雀荘は近くなんだし、全自動卓は疲れないから、元旦から使わせてもらうように交渉してみましょう」というオノちゃん(だったかヨッシー)の提案で、昨年から宴会後はいつもの雀荘で「初打ち会」を開催するようになったのである。

程なくシンムラくんが帰ってきた。お礼を言い、残りの食料等を積み込んで、手前以外はシンムラ号で雀荘へと移動する。手前は宴会場の片付けやらをして、自転車で雀荘へ。到着すると、既に対戦は始まっていた。6人なので、「東回し、3・4位抜け」で対戦することにしたとのことである。1回戦が終了したところで、妻から電話が入った。再びシンムラ号の出番である。同乗させてもらい、当直医まで迎えに行く。

診断では、扁桃腺炎でリンパ腺が化膿して熱が出ているとのことであった。ともかく自宅まで送って、(何てひどい夫だ、妻が高熱を出して苦しんでいるというのに自分は麻雀か!という自責の念に嘖まれながらも)雀荘へと引き返す(まあ、そんなに心配することなかったってことです)。

その初打ち会であるが、仰けから怪獣が飛ばしている。「なにい?そんな待ちありかよお!」とヨッシーからも怒りの声が上がっている。そう、「怪獣」とはワルモノなのである。結婚するまでは常連のメンバーの一人であったのだが、結婚と同時にぴたりと麻雀をやらなくなった。それもそのはず、この男、結婚の条件に「タバコをやめること」を挙げられ、「ハイ、やめますやめます」と心にもない約束をし(だいたい同じことを二度繰り返して言うときってほとんどはウソなんですね)、家以外では平気で喫煙をしているという極悪非道の男なのである。

「怪獣」という名の由来は、麻雀をやりながら「うおおーすんごい!」とか「げええー!」などという奇声を発することから名付けられたものである。中学の体育教師であるが、現在は異校種間交流で高校に勤務している。バレーボールをこよなく愛し、部活動の指導には熱心に取り組んでいる。しかし、そんな事情もあって結婚したので妻には頭が上がらず、「麻雀は月一回だけにしなさい」と厳命されたりして、知らず知らずのうちに縁遠くなってしまったのである。

そんな男であるから、麻雀もひたすら勝ちにこだわる麻雀である。もちろんドラは大好きだし、引っかけ、ヤミ聴、字牌の単騎待ち立直などお手のもの、加えて対戦中も「さすが、雀荘に住んでいるとまで言われたお方は強いねえ」などと、自分が上がれないときなど嫌味たっぷりの口撃もある。とにかく、人相も悪いが性格も悪い、しかしなぜか憎めないという男なのである。

そのうちに、オノちゃんがリタイアした。どうも体調が悪いらしい。三たびシンムラくんの出番である。オノちゃんを自宅まで送り届け、戻って今度は「最下位抜け」で対戦。最近ようやく「正式会員」に認定されたシンムラくんは、さすがにまだ打ち筋が定まっていない。自分の手牌を見るのが精一杯である。何度となく振り込んでは、「あーあ、そうかあ」と反省しきりである。

もちろん、その時点でトップは怪獣。さあ、ここから怪獣を引きずり下ろそうというところで、「妻に叱られますから」と帰り支度を始める。とことん、ワルモノなのである。「なにい?帰るだとお?勝ち逃げかよお!」という罵声を浴びながら、「じゃあ、あっしはこれで」と逐電してしまった。いかにも怪獣らしい。まあ、年に一回の麻雀であるから許してあげようではないかということになる。

四人になったということで、そこからは東南回しになった。手前はディフェンディング・チャンピオンである。昨年来の好調をキープして、終わってみれば怪獣にはやや及ばずの+71。最下位は、三桁以上負けたシンムラくんであった。それにしても、ひたすらドライバーとして八面六臂の大活躍をしながら、麻雀では最下位に沈むという、何ともかわいそうな結果であった。しかし、これも修行である。彼には、ヤイリくんのように何度も辛酸を嘗めながら、大きく成長してもらいたいのである。そんな思いもあって、諸先輩方も試練を与えているということなのだよ。シンムラくんには、昨年のヤイリくんのマイナスを超えることのないよう精進を重ねてもらいたいものだ。

それにしても、「いやはや」の元旦であった。今年はどんな年になるのだろう。

2007年01月12日

社会学的に教育を考えてみると

1月11日(木)

「『集中講義!日本の現代思想』(仲正昌樹/NHKブックス)を読んだよ。やや力ずくでまとめられたきらいはあるものの、戦後から現代までの日本思想史を、西欧の思想と関連させつつ、これだけわかりやすくまとめた本って今までなかったような気がするんだけど。」
「で、特にどこがおもしろかったんだよ?」
「ボードリヤールだね。『消費社会の神話と構造』を読んでみたくなったよ。大量消費社会における人とモノととの関わりをどうとらえるかという視点はなかなか新鮮だった。」

「それと学校となんか関係があんの?」
「うーん、いろいろ考えさせられたね。特にボードリヤールに特化してってわけじゃないんだけどさ、現在の社会をどうとらえるかということで言うと、学校ってやっぱ特殊な位置にあるんじゃないかなって思ってね。」
「どういうこと?」
「ポストモダンの思想って、リオタールによれば『大きな物語の終焉』がその知の条件だってことだよね。でも、学校という装置は、常に『大きな物語』への信憑を背景にその活動が推進されているんじゃないかなって。」
「学校における『大きな物語』って何なのさ?」
「まあ、『メリトクラシー』かな。これって、教師だけじゃなくて、もちろんほとんどの親も抱いている『物語』なんじゃないかな。」
「でも、今の社会では、もう『大きな物語』は終焉してるんだろ?」
「そうなんだよね。でも、依然として『メリトクラシー』の物語を信憑してる人って多いと思うんだけどなあ。でなきゃ、塾もこれだけ流行らないだろうし、100マス計算とかに血道を上げる教師たちもいないだろうと思うんだけど。」

「じゃあ、結局学校における『大きな物語』は終わっていないってことじゃないか。」
「そうとも言えるんだけど、そうは言えないこともあると思うんだよ。例えば、学校に来る子どもたちや親は、確実に『大きな物語』が終焉した社会、つまりポスト産業資本主義社会に生きているってことだろ?ってことは、実際の社会を生きていく際の振る舞いは、消費への欲望によって駆動されているわけだ。著者によれば、日本では70年代後半から大量生産・消費システムではなく、より『差異』が際立ちやすい多品種少量生産・消費へと構造転換が図られた。そして、その消費文化が『近代の人間観』(大きな物語)を終焉させたとのことだ。詳しいことは社会学者の分析に任せるとして、そんな消費文化にどっぷり浸かった子どもたちや親の感性は、少なくとも『近代の人間観』とはだいぶん隔たったところにあると思うんだよね。」
「よくわからんなあ。」
「『学校』という場所そのものが、『近代の人間観』と『消費文化』とに引き裂かれているところに位置しているってことだと思うんだけど。」
「引き裂かれているって?」
「基本的に、学校というところは『文化』を教えるところだよね。人類が今まで蓄積してきた文化を伝達させることがその主たる使命だと思うんだよ。その文化にアクセスすることで、現代に生きる知識や知恵が得られるってことがある。特に、現在のように科学技術の発達した社会は、『近代知』 によって実現したとも言える。そうすると、学校という空間においては、その『近代知』を疑うというようなことは起こり得ない。それは同時に、『近代知』に接着している価値観をも疑わないということになるよね。でも、子どもたちや親が普段生活している場は、その『近代知』をアイロニカルに、時にはシニカルにとらえている社会だよね。家庭においては『終焉した物語』の世界に、学校においては『近代知』の支配する世界に、という状況が『引き裂かれている』ってことだと思うんだよ。」

「それが今の教育が抱える問題に繋がっているってこと?」
「80年代から、教育界では『個性の重視』(自分らしく)ってことが盛んにアナウンスされたよね。それが子どもや親の混乱に拍車をかけたことは間違いないね。だって、『個性重視』って、まっすぐ多品種少量生産・消費に繋がってるだろ?でも、学校というところには依然としてメリトクラシーが根強く生き残っていた。だから、子どもは『自分らしく』生きたいんだけど、親は『しっかり勉強していい学校には入れるようにしなさい』って言うし、先生も『最低限、この社会を生きていけるだけの知識は身につけとかないと』って言うから、『じゃあ、どうすればいいんだよ!』というところが、今の子どもたちの抱えている問題なんじゃないかなあって思うんだよ。」

「で、何か解決策はあんの?」
「難しいよね。教師の立場で言うなら、やっぱり現在の社会についての認識と、自らの立ち位置を再確認することかな。少なくとも、今の子どもたちにベタな『近代知に接着した価値観』に基づく言説をいくら展開しても、「うっせえ」という答えしか返ってこないということくらいは自覚しておきたいよね。だいたい、教師自身も現在のような『消費社会』の中で生きているんだからさあ。」
「他には?」
「必修教科を教える際には、どうしても不自由さがあるから、必修教科以外、例えば総合学習の時間を有効活用するのもいいかもしれない。」
「どうすんの?」
「今までの総合学習は、職場体験とかボランティア活動に使われることが多かったよね。そうではなくて、現代のような『消費社会』をどうとらえるのかとか、『消費社会』を生きていく上での大切なことは何かといったような、『現代社会』を学習する場にするんだよ。」
「それで、何か変わるのか?」
「わからない。教師の間では、よく『不易流行』 ってことが言われるよね。でも、僕ら教師が強調していたのは『不易』の部分ばかりだったような気がするんだよ。そうじゃなくて、『流行』のことも視野に入れながら、日々の教育活動にあたるってことが大切だと思うんだけど。」

「よくわからんけど、とりあえず教師の研修会とかで、社会学者でも呼んできて現代社会についての認識講座でもやった方がいいってことかな?」
「必要なことかもしれないね。」
「誰かいい先生知ってんの?」
「ナガミツくんなんかどうかな。」
「誰それ?」

ということで、ナガミツくん、いつか浜松にお越しくださいませ。ただし、交通費は自前です。謝礼は「うなとろ茶漬け」ということで。お待ちしております。

2007年01月17日

牛タンを食べに仙台に行ったわけではありません

1月17日(水)

先週末から、家を留守にすることが続いた。まず、金曜日は夕方から富士宮へ。土曜日に予定されている「県選抜1年生ソフトテニス大会」に参加するためである。

よく知らないのだが、この大会は昨年から開催されるようになったとのことで、県内の1年生を対象に、旧市町村単位やスポーツ少年団ごとにチームを編成して、団体戦で争われる大会である。本校からは、旧浜松市のチームに2組参加(他の1組はH部中、監督も)することになり、保護者や監督に任せっきりというわけにもいかないので同行することにしたのである。

試合は3チームの予選リーグと、1位通過チームによる決勝トーナメント。予選リーグは無事1位通過して、決勝トーナメントも初戦を突破、ベスト4に食い込んだものの、準決勝では県東部地区選抜チームに敗れて3位(東部選抜はそのまま優勝)という結果であった。上出来と言えよう。まだ1年生なのだから、そんなに勝たなくてもいいのである。

表彰式もそこそこに、今度は沼津へと移動。スガイ監督のK学園高にて練習させてもらう手筈になっていたのである。スガイ先生は、先月の「朝カル宴会」の折に高橋さんといろいろ話をして以来、今まで自分が考えていた身体運用の方法をソフトテニスで実際に試してみようと、いろいろ工夫した練習をしていると聞いていた。どんな練習をしているのか、この目で確かめてみなくてはならない。

沼津行きの話を聞きつけたオノちゃんも、「ならばぜひ!」と既に選手たちとK学園高に到着して練習している。具体的なことは書けないが、その日の夜にスガイ先生を囲んでいろいろと興味深いお話を伺うことができた。身体運用も一つの「文化」であることや、学校体育やスポーツの指導で「常識」とされてきたようなことも、一度括弧に入れて考えてみる必要もあるのではないかというようなことである。

スガイくんはカゼがようやく治りかけということであったが、「じゃあちょっとだけ」ということで、以前一度だけ行ったことがある「ニュー竹」へと移動して半荘を4回ほど。この日は、ドラ爆弾を炸裂させたオノちゃんがトップ。薄いところで当たりを避けようとしたスガイくんは罠にはまって下位に沈む。手堅く打った手前は2着。ビリは、もちろん最近デビューしたてのシンムラくん。

さて、明けて月曜日からは、文科省主催の「コミュニティ・スクール推進フォーラム」に参加するため、教務主任と二人で仙台へ。

フォーラムは火曜日だったので、月曜日は移動日。夕方前に仙台に到着して、そのまま繁華街へと出向いて夕食。それにしても、仙台はみちのく随一の都である。市内中心部の賑わいは、とても地方都市浜松などの比ではない。ブランドショップも軒を連ね、まるでここは東京か大阪かと訝ってしまうほどである。

仙台と言えば、「何と言っても牛タン!」らしい。よく部活動の遠征で仙台へ行くスガイくんからは、「利久」というお店を紹介してもらった。さっそく、チェックインしたホテルにあった「仙台牛たんマップ」で「利久」を探してみると、何と!仙台駅周辺に14店舗もあるのだ。「ひょっとして、あのお店そうじゃない?」とホテル2Fのフロントから見下ろすと、はたしてその14店舗中の1店であった。そこで食べてもよかったのだが、「繁華街にもあるでしょう」との教務の提案で、日暮れと同時に一番町通りにあった「利久」へ。

「一日限定30食という特上の牛タンがありますが」という店員さんのお薦めで、さっそくその「極(きわみ)」という牛タンを注文してみる。待つこと数分、程なくお出ましになった。正直言って、手前はそれまで牛タンというものを積極的に食したことはなかった。だから、そのイメージは「薄っぺらくて、固くて、あまりおいしくはないもの」という感じであった。しかし、この「極」は一見してそれらのイメージとは全く異なった形状を呈していた。薄っぺらいどころか、「これステーキなの?」と見紛うほどのボリュームなのである。「では」と、一味と岩塩を少々振りかけてお口へ。「ううう、うまい!」さすがに「極」と名付けられるだけのことはある。柔らかい、クセがない、歯応えがいい。付け合わせの漬け物とのマッチングも絶妙である。

えっと、誤解のないように申し添えておきますが、手前はあくまで文科省主催のフォーラムに参加するのが目的でして、決して牛タンを食べに行ったわけではありません。でも、ホントに美味しかったなあ。ガイドブックによれば、牛タンだけ食べるのではなく、麦飯・とろろ・テールスープ・旬の漬け物がセットになった「定食」でいただくのが普通だそうだ(後で知った)。まあ、それは次回のお楽しみ(って、次回なんてあるんだろうか?)。

さて、「コミュニティ・スクール推進フォーラム」である。最初に、文科省初等中等局審議官による説明。昨年からの教育界の動向と、目下の懸案、コミュニティ・スクールの概要等について、縷々説明がある。教育基本法の改正についても、「メディアでアナウンスされてるみたいに、何も国を敬う心を強制しようなどということではありません。豊かな学力と規範意識の育成を、家庭・地域と連携して取り組みたいという願いが込められているとお考えいただきたいということです」とのことであった。ふーん、そうなんだ。

さらに、「日の出と日没を見たことがないという子どもが半数いる、というような実態は何とかしていきたい。子どものテレビの視聴時間についても、年間1,400時間を超えるという調査結果もある。年間の授業時数が980時間であるということを考えれば、これは看過できないことである。」なるほど。それはよくないなあ。かと言って、「家でテレビを見る時間を減らしましょう運動」みたいのやっても、捗捗しい効果は得られないだろうけど。

で、肝心のコミュニティ・スクール(以下CSと略す)のことである。これは、「地域運営学校」のことである。地域の公立学校に、保護者や地域住民の声を積極的に反映させることを目的としている。校内に「学校運営協議会」が組織され、その学校の教育全般や人事について、校長や教育委員会に意見具申できるようになるとのことだ。ただし、その協議会のメンバーは教育委員会が任命することになっている。昨年までに、全国で124校が設置されたとのことである(詳しくは、インターネット等で検索していただきたい)。

結論から言わせてもらうと、以下のような感想を持った。
・CSは、小学校でなら積極的に設置していった方がいいかもしれない。中学校は難しいと思う。まず教科指導の問題がある。指導内容が難しいということや、学力差が顕在化している教科においては、その指導方法から保護者や地域住民が介入しにくいところがあるのではないかと思われるのである(実際に、全国のCS設置校のうち中学校は2割程度。高校は2校だけである)。
・教員の人事に関して意見具申ができるということであるが、はたしてどれほど優遇してもらえるのかがはっきりしていない。現場においては、やはり教員の影響力は大きい。保護者や地域住民が求める教員を確保できるのかどうかということは、そのCSの存立に関わる問題となることも考えられる。
・何より、そのCSを存続させていくファンドはどうするのか。基金を全面的に行政に依存しているのでは、特色ある教育を展開していくのにも限度があるのではないか。
・そもそも、「地域」とは具体的に「誰」にフォーカスすればいいのか。それがはっきりしていないと、CSを立ち上げても、それが「地域」に開かれていかないということがあるのではないか。
・今ではどの学校も「開かれた学校」を目指して、様々な取り組みがなされている。「別段、CS校として認定してもらう必要はないのではないか」という意見が出てくることも考えられる。

「開かれた学校を目指す」ということであるのなら、CSはとてもよいシステムだと思う。でも、「ぜひこうなってほしい」というような「現場からの要求」があって、CSなどの新しいシステムの導入を考えるのならいいと思うが、「こうしてみなさい!」と言われて半ば強制的に導入していくのはいかがなものかと思う。それは、別にCSに限らず、全てのことについても言えることではないだろうか。仙台からの帰りの車中、そんなことをとりとめもなく考えていた。

2007年01月26日

スーさん、啖呵を切る(人を求める)

1月25日(木)

校内研修で「読解力」のことが話題になった。

OECDが03年に実施した第2回PISA(国際学習到達度調査)で、日本の子どもたちには「読解力」が十分身についていないとの結果を受け、「今後早急に取り組まなければならない教育課題」(@文科省)として、その具体的方策が模索されているとのことである。

PISAとは、「OECD加盟国の生徒の学習到達度調査のこと。Programme for International Student Assessmentの頭文字を採ったもの。OECD加盟国の多くで義務教育の修了段階にある15歳の生徒を対象に、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーを調査するもの」(@Wikipedia)のことで、先進工業国の教育政策の効果を測り、政策立案に役立つ国際指標として周知されているものらしい。

具体的には、「現代社会では、経済や社会の情勢の変化に対応できる能力を身につけた人材が望まれる。変化に対応するには、持っている知識の量ばかりでなく、活用能力が重要」との観点に立ち、「学校で得た知識を、実生活でどのくらい活用できるか、人生の様々な場面で遭遇する課題を解決する能力を調べる」らしい。

では、日本の子どもたちにはあまり身に付いていないと判定された「読解力」とは、いかなる能力のことか。本校の研修資料(研修主任がインターネット等から蒐集したもの)には、以下のように書かれていた。
「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力のこと。文字だけでなくグラフ、図表まで含めた資料の意味を読み取り、解釈し、評価する力。国語の読解力とは違う。」

どうやら、従来の学習指導要領で求められてきた「生きる力」とよく似たものらしい。となると、話はややこしくなってくる。この「読解力」なるものを、従来の「ゆとり教育」的文脈でとらえるのか、「学力向上」的文脈でとらえるのかということで、その具体的方策が微妙に違ってくるのではないかと思われるからである。と言うのは、今般の教育再生会議では「学力向上」のために、「ゆとり教育見直し」が提言されているからだ。

「変化に対応する能力」だとか「知識の量ばかりでなく活用能力が重要」などという文言を見れば、「なーんだ、これって総合的な学習の時間で求められてることじゃん」と思われよう。そういう理解でいいと思うのだが、これに「学力向上」が絡んでくると、その要請とどう折り合いをつけていくのかということが難しくなってくる気がするのだ。「ゆとり教育」を見直すのであれば、当然「ゆとり」によって創設された「総合的な学習の時間」についても、その存続の是非が問われるようになるであろうと思われるからである。

そもそも、「総合的な学習の時間」については、創設当初からその運用についての理解が区々であったと思う。某地方教育行政の長などの中には、「総合の時間には補充学習をやったっていいんだ」などと言っている方もいるそうだ。現場の運用が混乱しているのは言を俟つべくもない。「総合的な学習の時間」が特設されたのは、02年の学習指導要領からである。そんな経緯で始められたのであるから、当然、翌年実施されたPISAにその成果を期待するということ自体に無理があろう。

現今の教育再生会議では、何より「ゆとり教育の見直し」が掲げられている。そうすると、その「ゆとり教育推進」の文脈で語られてきた「読解力の育成」についても、「いや、そんなことより基礎学力の充実が先だ」という議論の中で、「ホントに文科省は読解力を育成する気あんの?」というムードが支配的になり、その狭間でまたぞろ現場が右往左往することが危惧されるのである。

前にも書いたが、学校で教えるのは「文化」である。もちろん、学校で学んだことがすぐに社会に出て役に立つものもあるが、そういう知識ばかりを教えているわけではない。現代のように、それぞれの仕事がかなり専門的に特化している社会では、たとえ大学を出たからと言って「即戦力」とはいかないというのが一般的な理解である。だから、その「即戦力」養成のために専門分化した学科を用意している大学等もあるようだが、はたしてどれほど「即戦力」となっているのかは、具体的な調査結果等に接したことがない。

学校は、例えて言うなら、子どもたちが将来芽を出し茎を伸ばして花を咲かせ実らせるために、まずはその根を十分に発達させるようなところではなかろうか。そうして、「学校」というところから「植え替えられ」ても、その土地土地の状況に応じて成長させていくことができるような「体力」を身につける場所ではなかろうか。その「体力」とは、リベラル・アーツであると思うのだが。

もう一度「読解力」に話を戻す。どうするか。特に、何か特別な取り組みをしようとしなくてもいいんじゃないの?と思う。どうやら教科の授業時数は増加するようである。教科の指導において、今まで「ゆとり教育」実践のために削られてきたそれぞれの教科の「発展学習」を充実させていくことで、「読解力」は十分に身につけていくことができると思う。「知識の量ばかりでなく活用能力が重要」などと言っても、その元になる「知識」がない状態では、「活用」しようとしても限界があろう。

やれやれ。文科省のお役人の中には、破れ傘刀州(←古いねえ)よろしく、「あのなあ、ちょっとテストの結果が悪かったからって、そんなことに目くじら立てんじゃねえよ。だいたい、中学卒業時の子どもが『経済や社会の情勢の変化に対応できる能力を身につけ』てるわけなかろうが。そんなのは、テストが悪いんだよ!」と啖呵切れる人っていないのかなあ。

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