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2005年11月 アーカイブ

2005年11月01日

アイロンかけ楽しいです

11月1日(火)

つい先月の中旬までは職場でも半袖シャツを着用していたのに、このところ朝夕はめっきり冷え込むようになり、さすがに半袖シャツというわけにもいかなくなったため、先日夏物の秋・冬物との一部入れ替えをした。

その際、よく職場に着ていく10枚ほどの長袖シャツがアイロンがけしてないことに気づいた。

突然、『健全な肉体に狂気は宿る』中の内田先生のコメントを思い出した。

「ぼくは自分一人で家事全般やってますけれど、つらいと思ったことはないですよ。アイロンかけなんて大好きだから。アイロンかけ、楽しいですよ。だって無秩序から秩序が立ち現れてくるんですよ。すごい達成感。村上春樹もアイロンかけ、好きですよね。(…)掃除とアイロンかけは、やっていてすごく楽しいですよ。」

まことにお恥ずかしい話なのだが、手前は生まれてこの方、「アイロンかけ」なる行為をいたしたこととてなかったのである。

「うーむ。ウチダ先生はアイロンかけが楽しいとおっしゃっていたが、ホントかどうか確認する意味でも、ここはいっちょうアイロンかけに挑戦してみっか!」と一念発起(するほどのことじゃないけど)して、アイロンに水を入れ、アイロン台を取り出して、「いざやかけん!」と「長袖シャツアイロンかけ」を始めたのである。

まずは襟から。これは簡単。すいすい。

次は背中。これは、肩から上の部分がかけにくい。袖との関係で、かける部分をうまく伸ばすことができないのだ。

とりあえず、かけやすい肩から下の部分をすーいすいとかける。「なーるほど、『無秩序から秩序へ』か」と独り言ちながら背中部分をかけ終わる。

次は前身ごろ。胸ポケットのあるこの部分をかけるのは気持ちがいい。「こんなにしわが寄っておるわい、ふふ待っておれよ、今伸ばしてやるからな」すすーいすすーい。

最後は袖。袖自体はそう難しくはないのだが、袖から肩口にかけての部分をかけようと思って、はたとアイロンがとまってしまった。どうかけたものやらよくわからないのである。

袖を中心にかけようとすると、肩口の部分をうまくかけることができない。逆に肩口を中心にかけようとすると、袖が邪魔になる。

うーむ。どうすればいいのだろう。とりあえず、袖中心にかけておいて、肩口部分は多少しわが残っていても目を瞑ることにする。

ハイ、1枚できあがり。

ハンガーに掛け、2枚目に取りかかる。そうして、3枚目、4枚目・・。

何枚かかけていくうちに、だんだんとコツがつかめてくる。かけるスピードも早くなってきた。

最後の10枚目のシャツに取りかかっているときに、妻が帰ってきた。

とんとんと2階へ上がってきて開口一番、「えー!何してんの?」
「え、アイロンかけ。これから長袖シャツ着るからと思ってさ」
「どうしちゃったの?いいわよ私がかけるから」
「いや、ウチダ先生がアイロンかけ楽しいって言ってたからやってみようと思ってさ」
「へえー、ウチダ先生さまさまだわね」

その後、妻に「肩口から袖の部分がうまくかけられないんだけど」と言ってみると、「アイロン台のちょっと先が細くなっている部分があるでしょ?そこをうまく使ってかけるのよ」というお答え。

実はアイロンをかけながら、どうしてアイロン台ってこんな舟みたいなカタチしてんだろ?」と疑問に思っていたのだ。

別に、全てのアイロン台が舟のようなカタチをしているのではないらしい。ウチで使用しているのは、袖の部分がかけやすいように舟形になっているということである。

そうか、舟の舳先部分をうまく利用すれば、袖から肩口部分をうまくかけることができるのだな、よしよし次回からはもっとうまくかけられるようにしようぞ、と心に固く決意したのである。

内田先生のおっしゃるように、アイロンかけは終わった後の確かな達成感がある。かけ終わったシャツをハンガーに掛けて並べてみるときの、えも言われぬ充実感は何ものにも代え難い。

手前と同様に、「今までアイロンかけなんてしたことない」という世の男性諸兄。ぜひアイロンかけに挑戦してみてはいかがでしょうか?なかなか楽しいですよ。

2005年11月11日

逝きし世の面影

11月11日(金)

読書週間に因んで本の紹介を。

既読の方も多かろうと思われるが、9月に平凡社ライブラリーの1冊として再刊された『逝きし世の面影』(渡辺京二)である。

今年もまだあと1ヶ月あまりあるが、(内田先生の著作を除き)この本を手前が読んだ今年のベストワンに挙げたい。

仄聞するところによれば、この著作は1999年に葦書房から刊行され、その年の和辻哲郎文化賞を受賞したが、その後長らく絶版となっていたところを、このたび平凡社ライブラリーの1冊として再刊されたとのことである。

ペーパーバックとは言え、600頁超の大冊である。しかし、読み始めるとその長さがまったく気にならない。どころか、読み進めるにしたがって頁を繰るのが惜しくなってくるような著作なのである。

内容は、江戸末期から明治にかけて日本を訪れた外国人が、当時の日本および日本人をどのように見ていたのかということを、それらの外国人が残した膨大な証言録の中から掇拾し、今は失われてしまった一つの「文明」としての日本(人)の姿を浮かび上がらせようとしたものである。

証言項目は多岐にわたり、礼節・労働・身分・性・子ども・風景・信仰・祭など、それぞれの場面から如何様な言動が見られ、その体験からどのような印象を持ったのかということが紹介されている。

何より、それらの証言を渉猟する際の著者のアプローチがいい。

ともすれば、“他文化から容易に理解されぬようなある文化の独自性や特殊性を強調するのは、盲目的愛国主義に至りかねぬ危険な人種主義的態度であり、ある文化と他文化との共通性と相互理解の可能性を強調するのが好ましい国際主義的態度だ”と前提されがちなのに対して、著者は以下のように述べる。

“文化人類学の今日の到達が示すところによれば、ある異文化に対して正しく接近する前提は、それが観察者の属する文化のコードとはまったく異質なコードによって成り立っていることへのおどろきである。ある異文化が観察者にとっていかにユーニークで異質であるかということの自覚なしには、そしてその理解のためには観察者自身のコードを徹底的に脱ぎ棄てることが必要なのだという自覚なしには、異文化に対する理解の端緒はひらけない。”(48頁)

だから、この著作では外国人が感じた「まったく異質なコードによって成り立っていることへのおどろき」が、次から次へと披瀝される。

例えば、以下のごとくである。
“日本には礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけられることができないのである。(…)この国以外世界のどこに、気持ちよく過ごすためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心-この国以外どこにこのようなものが存在するというのか。”(182頁、明治22年に来日した英人アーノルドの記したもの)

これらの証言の数々によって、約しくも屈託のない笑顔で楽しく毎日を送っている日本人の(特に庶民の)姿が浮かび上がってくる。

内田先生は、9月30日の日記に以下のように書かれていた。“会社を大きくして収益を上げて社員をふやして自社ビルを建ててIPO…というふうに考えていたのはバブル期までの「好天型」経営モデルである。横町の天ぷらやとか下丸子の鉄工所くらいの「おじさんひとり」の自営業がこれからいちばん先端的な経営スタイルなのである(ほんとかね)。”そうして、これからの大学経営戦略のキーワードとして、「ダウンサイジング」を挙げられていた。

この著作の中には、それらにつながっていくヒントがいくつも書かれているような気がする。

けっして懐古趣味というのではない。今のような時代だからこそ、現在の日本が失ってしまった「かつての日本の文明」が保全していたものの中から、今後の指標となるべきものが見つけられるのではないか。

著者はこう書く。
“私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持ちのよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったのである。”(183頁)

未読の方は、ぜひとも熟読玩味されたし。

2005年11月21日

昇級審査

11月20日(日)

19日(土)は、合気道浜名湖道場の昇級審査。

審査は午後からで、審査の前に北総合気会の山田師範による特別稽古が予定されていた。

昼前に自宅近くまで迎えに来てくれたシンムラさんの車(タカバさんも同乗)で、審査会場である湖西市のアミニティプラザへ。

山田師範のお姿を拝するのは1年ぶりである。特別稽古は、片手両手持ちからの投げ技を中心に行われた。手前の場合、捌いたあと相手のどちらの手をどのように持って技をかけるのかということがどうもよくわからない。師範の技を見ているときは「ふむふむなるほど」と思っているのだが、いざ自分がやる段となると「あれ?どうだっけ?」とすぐに「居着いて」しまうのである。

2時間の特別稽古が終わって、いよいよ審査。

今回は、5級が1人で他は3級以上の審査ばかりだったので、いきなり手前たちから審査が始まることになった。

最初は、転換や回転などの体捌き。「ハイ、1歩前に出て転換」とか「その場で回転」などと次々と山田師範から指示が出されるのだが、どうも「指示された言葉」と「具体的な動き」とを結びつけるのに時間がかかってすぐに体が動かない。ふだんから、「言葉」と「動き」がすぐに結びついていくよう意識して稽古することの大切さを実感する。

次は組手で、まずは横面打ちからの一教から四教。今回は審査を受ける方がひたすら「取り」を行うということで、「まずは相手のやり方を見てから」などと高を括っていた手前は、はたと「居着いて」しまった。幸い、組んでくれたシンムラさんが小声で「こっちです」などと言ってくれたので、何とかごまかしながらやったものの、四教はまだ先生から一度しか教わったことがなかったため、周りを見ながら形だけ真似るということしかできなかった。

続く横面打ちからの小手返しと、正面打ち入り身投げの座り技は何とかクリアしたものの、次の横面打ちからの回転投げでまたもや「居着いて」しまった。内回転は何とかできたものの、「外回転もやるように」と言われて「え?外回転って?」と思った瞬間に頭が真っ白になってしまったのである。何とも情けないことである。

後味の悪さだけを残して審査が終わった。続いて行われた1,2級の審査で、いつもいっしょに稽古しているシンムラさんやヤマダさんの溌剌とした動きを羨ましく見つつ、「まあ3級だから何とかなるでしょう」などと暢気に構えていた我が身の迂愚を呪っていた。

今回の審査では、浜名湖道場初の「昇段審査」が行われた。道場1期生のナカムラさんである。ありとあらゆる捌きをこなしつつ、次々と技を繰り出す姿を見て心から感銘を受けた。同時に、はたして手前もこのまま稽古を続けていれば、ああやってできるようになるのだろうかと疑問に思ってしまった。それほどにナカムラさんの技は見事であった。何より、道場初の段位獲得者となったことを、他の道場生たちとともに讃えたい。

情けない思いを抱きつつ、審査終了後の直会へ。

今まで山田師範と親しく言葉を交わすことはなかったのだが、今回は寺田先生が「山田先生とぜひお話をしていただきなさい」と先生のところまで連れて行ってくださったので、前回の直会の際にお聞きしようと思っていて聞きそびれたことをお伺いした。

「合気道のお稽古では、どうしてイチ・ニ・サンというような教え方をしないのですか?」という疑問である。師範はすぐにお答えになった。「それは、動きが円にならず角ができてしまって、その角ごとに居着いてしまうからです」と。

今回の審査では、「居着く」ことの怖さを身を以て実感させられた。手前はふだん学校の部活動でソフトテニスの指導をしているのだが、練習できちんと打てているのに、試合になるととんでもないミスをする生徒たちをどう指導しようかと頭を悩ませてきた。何のことはない、そうやって指導している自分自身が、いざとなればすぐに「居着いて」しまっていたのである。これでは、生徒たちの「試合時における居着き」を克服できようはずはない。

ただ、今回の審査をとおして、これから自分なりにどうやって稽古していこうかということについて、一つのヒントも得ることができた。

情けない思いをした昇級審査も、今後の糧となることが得られたのなら、以て自得とすべきであろう。さらに精進を重ねるばかりである。

内田より:鈴木先生、三級昇級おめでとうございます。初段まであと一息ですね。
ますますのご精進を期待しております。

山田師範を囲んで

2005年11月22日

スーさん、消えゆく教員文化に涙する

11月22日(火)

日曜日、近くの学校で女子テニス部の顧問をしている先生と、その学校の生徒さん数名が来校し、本校の部員たちと一緒に練習を行った。

手前のように、女子テニス部の顧問を20年以上もしていると、「一度先生の学校の練習を見学に行っていいですか?」というようなお問い合わせを受けることも一再ならずある。

もちろん、手前はこれからの中学ソフトテニス界を担っていくであろう若い指導者たちに、少しでもお役に立てることがあれば協力をしようという気持ちは吝かではないから、ゆめお断りをするようなことはしない。いつも「あ、いいっすよ」と答えることにしている。

今回も、以前から見学したいとの旨は伺っていたので、日程を調整しての来校とは相成ったのである。

練習は午後からだったので、1時過ぎにコートへとのこのこ出ていった。件の先生はもう来校されていた。「こんにちは、今日はお世話になります」とあいさつされたので、「練習を見ていて何か質問があればしてくださいね」とお答えした。

さて、練習が始まった。メニューが変わるたびに、その先生は用意されてきたノートに熱心にメモをされている。

1時間が経って休憩。最初に行ったのは基本的なストロークの練習である。最も基本的で大切な練習であるから、何か質問が来るものと思っていたのだが、その先生は手前のところへは来なかった。

練習メニューが変わり、さらに1時間。休憩。質問はない。

その頃から、手前は奇妙な符合を思い出していた。そう言えば、今まで本校の練習を見学に来た先生たちって、熱心にメモは取るのであるが、手前にあんまり質問とかしなかったなあということである。

どうして質問をしないのだろうか。どちらかと言えば、手前はあんまり愛想がいい方ではないと思われるので、質問しようにもしにくい雰囲気があるということであるのなら、それは偏に手前の不徳の致すところであるから言葉もない。しかし、わざわざ練習を見学に来るということは、それなりに自分から求めるものがあるからだと思われる。だったら、質問せずにはおられないというようにはならないのであろうか。

手前はまだ顧問になって駆け出しのころ、愛知県のある先生のところに、それこそ何度も何度も電話をかけたり実際に出かけたりしながら、テニスの指導について教えを乞うた覚えがある。そんなことを思い出しながら、その先生の様子を見守っていた。相変わらず、その先生は熱心にメモを取っていた。

さらに1時間。休憩。質問なし。

そう言えば、若い先生たちって先輩教員に質問をしなくなったなあということにも気がついた。手前たちの若い頃は、学級経営にしても生徒指導にしても部活動の指導にしても、いろいろとうまくいかないことがあると、その度ごとに先輩教員に「どうすればいいんですかねえ」と質問していたことを思い出した。そうすると先輩教員は、時には居酒屋へと誘いながら、ありとあらゆることを懇切丁寧に教えてくださった。

そうやって、先輩から後輩へと一種の「教員文化」とでも言えるようなものが受け継がれていったのではないか。「体育大会で学級対抗の綱引きに勝つには?」とか、「班ノートをうまく学級づくりに役立てていくためには?」というような、具体的な指導方法が伝授されていったのである。

そういうことが、いつのまにか職員室では見られなくなった(これは、こと教育現場だけではなくて、一般企業等でも同様のことが見られるとのお話を聞いたことがある)。

若い教員たちは、教科の指導にしても生徒の指導にしても、等し並みにスマートにできる。そうして、特に困ったような顔はしない。もちろん、質問などしてこようはずはない。しかし、ある日突然休んでしまうのである。医者に受診して「うつ」と診断され、私傷病の特休に入ってしまう(もちろん、みんながみんなというわけではない)。つい昨日まで明るく振る舞い、悩み事など何もないような顔をしていたのに。

日が傾きかけてきて、最後の1時間。練習終了。質問なし。

その学校の生徒さんたちがあいさつに来た。「お疲れさま」と応える。

先生が来た。「どうも今日はありがとうございました」とおっしゃったので、つい手前は「先生は、今日何のために来たの?」と、こちらから質問をしてしまった。

そうして、練習終了までのほぼ4時間(ある意味で、この時間は手前がその先生のために供した時間である)手前の胸の中に蟠っていた以下のようなことを諄々と話した。

練習方法についてのマニュアルを求めるのならば、それはそれでよい。しかし、本校の練習方法は、あくまで本校の選手たちのために考えられたものであって、それをすぐさま自校に持ち帰って活用できると考えるのは早計である。そんなことより、「そもそも練習とは如何なるものなりしか」とか、「生徒たちをやる気にさせるには如何なる方策がありしか」などという、コンピュータに例えればOSに相当する部分についての情報を得るようにすることの方が大切なのではなかろうか。OSがあるからこそ、ソフトウェアは駆動する。マニュアルは特定のソフトウェアを駆動させるためにあるものであって、OSについての理解があればソフトウェアを自作することだって可能(知らないけど)なのではないか、など。

その先生は、「お願いがあります」とおっしゃった。「もう一度、練習を見学に来させていただいてよろしいですか?実は、私は具体的な練習方法を何も知らなかったので、とりあえずは練習のやり方を覚えようとするだけで精一杯だったのです。今日教わった練習方法については、これから自分なりにどういうコンセプトでこのような練習をしているのかということを考えたいと思っています。その上で、先生にはいろいろと質問させていただこうと思っていました」とのことであった。

「なーんだ、そうだったんすか、これはこれは早とちりをして失礼なことを申してしまいましたね、ごめんなさいエヘヘヘ」などとは申すまい。

人との出会いは、「一期一会」である。「一度しかない」と思うからこそ、その出会いの時間をどうすれば充実したものにできるかということを考えるのである。「二度はない出会い」だってあるということについて思いを致せるような想像力がないような教員では困るのである。とりあえず、「うーん、まあ都合がつけばまた来てくれてもいいけど…」などと曖昧に答えておくことにする。

きっと、先輩の教員から脈々と受け継がれてきた様々な「教員文化」とも言うべきものも、いずれは消え去っていくのであろう。しかし、教員の仕事というのは子どもに「文化を伝承させていくこと」である。そのためには、まず何より当の教員が文化を伝承していこうとする姿勢を持たなければならないのではなかろうか。

「今日びの若い先生は」などと言うと、自分がそういうトシまわりになってしまったのかと思って悄然としてしまうが、どうも一方ならぬ問題を含んでいるような感じがするのは、あながち杞憂ではないような気がするのだけれど。

寒い4時間であった。

2005年11月28日

スーさんのアメフト観戦記

11月28日(月)

日曜日は、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦のKGファイターズ対パンサーズの試合を観戦するために、京都の西京極競技場まで。

久しぶりに新幹線に乗るのも悪くない。

日曜日であったが、「こだま」号も特に喫煙車両はがら空きで、缶コーヒーを片手に、ヘッドホンステレオでブルックナーを聴きつつ、内田先生の『街場のアメリカ論』を読むという車中は、なかなか贅沢な気分に浸れて乙なものなのである。

京都駅からは地下鉄に乗り換えて、阪急の四条烏丸まで。地上に上がって昼食。お腹が充ちたところで、阪急四条烏丸から各停に乗って西京極駅まで。

アメリカンフットボールの試合となれば、もちろん事前に「越後屋」さんとは連絡をとってある。当日は西京極駅にて待ち合わせということになっていた。

今回は、昨年と同様にイワモトさんもお見えになるということで、西京極駅で待っていると、そのイワモトさんから「どこにいるんですか?」との電話が入る。「え?改札口出たとこにある阪急そばのあたりだけど」と答えると、「阪急そば?それって競技場とは逆の改札口じゃないですかあ?ちょっとその場で待っててくださいね」と言われてしまう。ほどなく、イワモトさんがあらわれ、「もー、ちゃんと地図とか見てくださいよね」とお叱りを受ける。なかなか厳しい人なのである。

「越後屋」さんとも合流して競技場へ。そのころには、西京極駅から続々と人が繰り出し、ぞろぞろと競技場の方へと向かっていく。京都は今が紅葉の盛りである。競技場周辺の楓も見事な色に染まっていた。「もし今日負けたら、明日休みを取って紅葉見物としゃれ込もうか」などと思ってしまう。

競技場に着いた。KG側のスタンドに入ろうとすると、「すみません、もうこちらのスタンドは満員です」とのことで、バックスタンド側の入口から入場できないことがわかった。仕方がないので、スコアボード側の入口から入ることにする。位置的には、スコアボードの真下、ちょうどゴールポストの真後ろになる場所である。

この場所だと、フォーメーションはよく見えていいのだが、左右の遠近感がないので、ボールがどれくらい進んだのかがよくわからない。でも、とにかく試合が見られれば文句はない。
フォーメーションがよく見える場所のせいか、スタンドのすぐ後ろには某大学のマネージャーと思しき女性が、ビデオカメラを操作しながら逐一「レシーバー、左から1、2、ファーストテン」などと大きな声で言っていた。おかげで?ボールの位置の確認に困ることはなかったのである。

さて、キックオフ。パンサーズのレシーブである。両チームとも、ディフェンスのがんばりでオフェンスが進まず、このまま前半終了かと思われた第2Q、パンサーズがランで先制する。

後半に入っても前半と同様なオフェンスの手詰まり感があったが、ようやくファイターズも反撃を開始して相手ゴール前に攻め込み、何とかフィールドゴールを決める。

ドラマは第4Qに用意されていた。

まずパンサーズがじりじりと陣地を詰め、ゴール前に迫ってフィールドゴールを決める。「ここらでキックオフリターンタッチダウンとか出ないとねえ」と勝手なことを言っていた直後、ファイターズにビッグプレーが飛び出す。ファイターズ#81が、あわやキックオフリターンタッチダウンと思えるような、パンサーズ陣25ヤードまで詰めるリターンを見せてくれたのである。

これで流れはファイターズに。そのままタッチダウンを奪って同点、と思いきや、何とファイターズはPATをキックではなく、2ポイントコンバージョンを選択した。まだ時間は9分近く残っている。隣で観戦していたファイターズOB「越後屋」さんも、「えー!キックじゃないの?」と驚いている。結局、2ポイントを狙ったパスは通らず、1点差が残ってしまう。

続くパンサーズのオフェンスで、またまたタッチダウンを奪われて8点差。残り時間は刻々と減ってゆく。それでも何とかオフェンスを進めたファイターズは、試合終了まで残り20秒でタッチダウンを決めて2点差。こうなれば同点引き分けねらいの2ポイントコンバージョンしかない。しかし、残り17秒からエンドゾーンに向かって飛び込んだファイターズQBが抱えたボールは、ゴール前1ヤードを残して止まってしまった。試合終了。ファイターズは、またしてもパンサーズに敗れてしまった。

ファイターズにも勝てるチャンスは十分にあったと思う。特に、残り9分を残しての2ポイントねらいは、いろいろと論議を醸すことであろう。しかし、勝敗の決した後での評はあくまで結果論でしかない。もしも成功したならば「すばらしいベンチワーク!執念の2ポイント!」などと評されていただろう。勝ち負けというのは、紙一重のところで天国と地獄とを分けてしまう。それを全て引き受けるのが監督である。監督の仕事というのは、そういうものなのである。

それにしても、昨年に引き続き、すばらしい試合であった。両校の選手たち、監督、コーチ一同を讃えたい。

終了後は、「越後屋」さんの知人でA新聞にお勤めのアダチさんもご一緒されて、京都駅ビル内の焼鳥屋さんにて「プチ反省会」。アダチさんは、12月1日に予定されている内田先生の「朝カル大阪」にもご出席されるとのことで、「わあー内田先生のお話、楽しみい!」と盛り上がる。

最近、たぶん「痛風」ではないかと推測される痛みを手足に感じている手前は、ビールは1,2杯で止め、焼酎に切り替えることにしている。今回も、ビールの後は焼酎を飲んだのだが、「何で割りますか?」とお尋ねになった店員さんに「お茶割りで」とお願いしたところ、「え?緑茶割りですか?」とお聞きになるので「そうですけど」と答えると、「申しわけありません、緑茶割りはないんですけど」と言われてしまった。「では、芋焼酎を水割りで」とお願いする。

そのことに、同席されていた「越後屋」さんたちはひどく驚かれたらしい。「緑茶で割るんですかあ?さすがはお茶どころ静岡!」などと、その話題でまたひとしきり盛り上がる。

帰りの新幹線の時間もあったので、7時前には「プチ反省会」もお開き。たぶん紅葉見物客だろうと思われる人、人、人でごった返す京都駅にて、「越後屋」さんたちにお別れをする。

わざわざ京都まで来てお付き合いくださったタニグチさん、イワモトさん、アダチさん、ありがとうございました。おかげで、楽しい「小旅行」ができました。来年も、ぜひご一緒しましょう。そして、(イワモトさんには悪いけど)来年こそファイターズの勝利で、美酒を痛飲しましょう!

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