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2005年02月 アーカイブ

2005年02月05日

潜在読者88万人

2月5日(土)

「この本を書いた人って、ひょっとして先生が神戸の大学院へ行かれていたときにお世話になった先生ですか?」

先々週のある日、本校の音楽の先生が1冊の新書を手前に見せた。

「おおお、『先生はえらい』だあ!もう発売されたんだあ!」と思わず声をあげてしまった。「ど、どこで買ったの?アマゾンとか?」「いえ、ウチの近くの書店に平積みしてありましたよ。タイトルにひかれてつい買っちゃいました。」

うーむ。不肖内田ゼミ聴講生の一人として、先生の新刊を先んじて周囲に紹介することはあっても、逆に紹介されるとは何たる不覚!

さっそく、帰りに近くの書店で購入した。件の新書は、まだ創刊されたばかりなので、けっこうどこの書店でも置いてあるということが判明したのである。

先生も御自身の日記に書かれているとおり、書店でこの新書のタイトルを目にした「教員」の方々は、まずまちがいなく購入することが予想される。

現に、手前の学校でも、「あ、その本、ワタシも買ったよ」と、既に購入していた先生が他にもいた。

世の「先生」と呼び習わされる人たちには、まずまちがいなく購入意欲を喚起させるであろうことは想像に難くない。

それにしても、「ちくまプリマー新書」って、なかなかいい企画だと思う(ちなみに、手前は今回発売された5冊のうち4冊を購入しました)。

何より、筆者のラインナップがいい。そして、想定される読者が中高生とあって、いきおい筆者の語り口がやさしくなっているのもいい。

装丁もいい。カバーのパステルカラーが、何とも上品な印象を醸し出している。

また、どの本もページ数は200ページ前後なのに、字間や行間がつまってないので、すぐに読めてしまうところがいい(本を1冊読了したときの「達成感」というようなものは、とても大切だと思う。特に、ふだんなかなか新書などは読まない中高生は、あまり困難を伴わずに1冊読了することで、「オレってけっこう本好きじゃん」という気になるのではないか)。

さらに、今回発売されたどの本も、内田先生のおっしゃる「最初の最初はどうだったのかを考える」内容になっているのもいい。きっとこれらの本を読んだ中高生には、「知的好奇心」に点火される人たちが少なからずいるであろうと思われるのである。

中高生向きに書かれた新書は、もちろん他にもある(たとえば、「I波ジュニア新書」など)。内容も、今回のプリマー新書に負けず劣らずというところかもしれない。

しかし、残念ながら従来の中高生向き新書は、「この新書、ぜったいにおもしろいから買って読んでみ」って積極的に推奨できるものではなかったような気がする(なぜかは理由がわからない)。

だけど、この新書なら(別に内田先生の本が云々ではなく)「今日、家に帰ったら本屋さんに行って、どれでもいいから“これおもしろそう”って思ったものを買ってきなさい」って紹介したくなるのである(現に、授業中にそうやって紹介しました)。

中高生だけでなく、題名にひかれ、中身をパラパラと読んでみて、「あ、これならワタシでも読めそう」と購入していく大人だっているはずだ。

というわけで、このプリマー新書は、何となく大ブレイクするような予感がするのである。

<追伸>

内田先生、全国の小・中・高校の教員っていったいどれほどの数なのかご存じですか?

(たぶん私立も含め)小学校教員が約39万人、中学校教員が約24万人、高校教員が約26万人で、計88万人です。

その半数が『先生はえらい』を購入したとしても44万部。

先生、ぜひ「『先生はえらい』50万部突破記念パーティー」開催の暁には、ぜひとも手前にもその末席を汚させていただくようよろしくお願いいたします。

2005年02月16日

学校を責めるメディアと親たち

2月16日(水)

“「ありきたりの方策だ」「管理責任は」—。教職員殺傷事件を受けて15日夜、大阪府寝屋川市立中央小の体育館で開かれた緊急の保護者集会。市教委や学校からは事件を防げなかったことへの謝罪はなく、保護者らは終了後、怒りと不信感をぶつけた。保護者の1人によると、集会では殺害された同小教諭鴨崎満明さん(52)に出席者全員で黙とうをささげた後、市教委幹部らが事件の概要や今後の対策を説明し、18日からの授業再開方針を示した。
校門の施錠徹底、心のカウンセリング、家庭訪問…。1つ1つ挙げられた対策。約1時間の集会後、ある父親は「ありきたりなものばかり」と吐き捨てた。別の父親は「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話した。(2月15日 共同通信)”

「死者に鞭打つ」とはこのことか。

非命に倒れた鴨崎先生は、幽界からこの保護者集会をどんな思いで見守っていたのだろう。

この「別の父親」は、何を謝罪してほしいのだろう。「学校の管理責任」か?「今回は、不幸中の幸いというべきか、児童には傷害が及びませんでしたが、かような不審者が校内に侵入したことが、そもそも学校の管理不行き届きと言わざるを得ません。保護者の皆様にはたいへんなご心配をおかけしたことを、まずもって心からお詫び申し上げます。」とでも釈明すれば溜飲が下がったのだろうか。

メディアの報道から事の顛末を子細に辿ってみれば、中央小児童にいっさい危害が及ばなかったのは、犯人の殺意が子どもには向けられていなかったということもあるが、明らかに先生方の咄嗟の対応(緊急を報じる非常ベルのスイッチを押したのは、職員室で刺傷を受けた2人の先生だったと聞く)が、子どもたちを無事に避難させたということの最大の契機となったのではなかったか。

中央小の先生方は、まさに身を挺して子どもを守ろうとしたではないか。称賛されこそすれ、非難を受ける所以などないではないか。

大阪池田小の事件以来、全国の小中学校では不審者の校内侵入に備えて、文科省や所管教育委員会からの指導を受けつつ、「防犯訓練」などを実施してその対応策を実施してきたはずだ(手前の学校で実施した様子については、昨年1/27付けの「うなとろ日記」に書いたので参照してください)。

だけど、どんなマニュアルを作成しようとも、「100%のセキュリティ」を保証することなど夢物語に等しい。

これは、こと学校現場に限らず、あらゆる現場においても同様ではなかろうか(これはちょっと想像力をはたらかせれば気づくと思うのだが。そうすれば、対策が「ありきたりなものばかり」と「吐き捨て」ることもなかったであろう)。

今回の事件でも、来訪者が高校生くらいの年代でましてやその学校の卒業生とあらば、日本全国どこの小中学校の先生だって、まずは用件を聞こうとする(これは対応マニュアルの一つとして文科省からも指示されている)だろう。そのとき、「刃物を忍ばせているかもしれない」などと考える教員などまずいない。ましてや「背後から刺殺されるかもしれない」などとは想像することすら困難だ(そんなふうに考える教員こそ、その資質を疑われるであろう)。

このこと一つをとってみても、いくらマニュアルを作成しようが、それは事件の未然防止にはつながらず、事件の後追いにしかならないことが明らかであろう。

さらに、学校現場では地域や保護者に「開かれた学校」となるよう求められている。「学校を開きつつ、不審者の侵入を防ぐ」のは、いかにも「学校のセキュリティというアポリア」なのである。

あらためて言う。

「別の父親」さん、あなたが言っていることは、今回の犯人が供述していることと通底しているということに気づいてほしい。伏流しているのは、常に他罰的に思考する「被害者意識」である。

そうではなくて、「私たち保護者にもできることがあるとすれば、具体的にどんな協力をしていけばよいのでしょうか」と、学校と手を携えながらこれからのことを考えていく姿勢を示してほしい。

そうしなければ、無念の横死を遂げられた先生も瞑目されまい。

それにしても、今回の事件は、殺意の対象が子どもではなく教員であったということで、従来の学校侵入事件とはややその性格を異にしている。

教員も、自分で自分の身を守ることができなければならないということである。

しかし、「護身術」の心得のある先生など、いったい学校に何人いよう。たとえ心得があるにしても、実際に刃物を前にしたときにその術が発揮できるかどうかは覚束ないであろう。

これからは、現場の教員には、実技を主とした「護身術講座」を「研修」の一環として取り入れ、不測の事態に備えるようにするしかないのであろうか。

また、これから教員になろうとする大学生には、教員免許状取得の際に「護身術」を必修単位として位置づけ、採用試験の際にも護身術の「実技」を課すほかないのであろうか。

まことに、教員には受難の時代となったものである。

もう一つ、別件でアタマにくることもあったのだが、それはまた後日。

2005年02月25日

先生はつらいよ

2月24日(木)

新聞各紙が、「総合的な学習の時間の削減」(1/18)、「生活科の見直し」(2/4)と、このところ立て続けに報じていたので、次は学習指導要領の改訂だあとは思っていたが、案の定2/15付け朝刊各紙には、「ゆとり教育、全面見直しへ 指導要領は06年度にも改訂」(朝日新聞)などの見出しで、中山文科相が中教審総会で「現行の学習指導要領について、今年秋までに全面的に見直すよう要請した」ことが報じられていた。

「ゆとり教育路線」へのシフトは1980年代半ばの臨教審に端を発している。企業の週休2日制にリンクしつつ、ゆるやかに「学校週5日制」へと移行していく過程で、学習内容の削減が行われていったのである。

殊に、平成に入ってからは「教育改革」の御旗の下、「ゆとり」・「生きる力」・「新しい学力観」などをキーワードに、「生活科」や「総合的な学習の時間」が相次いで創設され、授業をはじめとしてあらゆる「見直し」が求められた。

この間、学校現場はかなり混乱した。

「新しい学力観」に基づく教授法の見直しや、「生活科」・「総合的な学習の時間」などおよそ今まで教師自身の経験がない授業を実施していくこと、学校行事を次々と削減していくことなどが求められたからである。

もちろん、その頃から「学力低下」を懸念する声はあった。しかし、いったん軌道に乗り出した「ゆとり教育」の路線を変更するまでにはいかなかった。

そして、「学校週5日制」の完全実施(平成14年度)によって、「ゆとり教育」はそのピークを迎えたのである。

ところが、ようやく制度的な成立をみた「ゆとり教育」を、わずか3年で「全面見直し」をするというのである。何が、どう問題で、「全面見直し」をするのか、その具体的な根拠や調査結果なりをいったい誰が示してくれるのだろう。

今回、予想されたこととは言え、「ゆとり教育 全面見直しへ」という新聞の見出しを目にした時の、手前のえもいわれぬ心情を理解していただけるであろうか。

手前が奉職したのは、昭和55年(1980年)である。つまりは、手前の教職生活のほとんどは、「ゆとり教育路線」とほぼ同列に経過してきたことになるのである。

大した教育実践をやってきたわけではないが、そんな手前でもこの20年以上にわたる歳月のことを思う。

『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』(中公文庫)には、以下のような記述がある。

「日本軍の現地軍は、責任多く権限無しともいわれた。責任権限のあいまいな組織にあっては、中央が軍事的合理性を欠いた場合のツケはすべて現地軍が負わなければならなかった。『決死任務を遂行し、聖旨に添うべし』、『天佑神助』、『能否を超越し国運を賭して断行すべし』などの空文虚字の命令が出れば出るほど、現地軍の責任と義務は際限なく拡大して追求され、結果的にはその自律性を喪失していったのである。」

先日、「教育課程研修会」なる会合が催され、中教審委員でもある高木横浜国大教授の講演を拝聴する機会があった。

講演の冒頭、高木教授は1月28日付朝日新聞の記事を紹介しながら、メディアの報道のあり方に疑念を呈された。

1月28日朝日新聞の記事とは、「漢字の読み書き 子供1万5000人調査」の結果を報じたものである(以下、その記事の一部)。

「調査は03年の5~6月に実施。全国の53校の約1万5000人の子どもを対象に、小学校で学ぶ1006の漢字すべてについて各学年ごとに身につけたかどうかを調べた。同研究所は80年にも同様の調査を行っている。80年調査と正答率を比較すると、読みは1ポイント増、書きは5ポイント増だった。学ぶ漢字数に大きな変化はなく、全体としては漢字の読み書きの力は落ちていない。」

高木教授の指摘は、「読みは1ポイント増、書きは5ポイント増だった」のに、なぜ「全体としては漢字の読み書きの力は上がっている」と書かずに、「落ちていない」と書くのだろうかというものであった。

「学習指導要領」が現行のように改訂されるまでは、さかんに受験競争等による子どもたちの「ゆとりのなさ」を追及していたメディアが、巷間の「学力低下を憂う」声を聞けば、すぐさま「ゆとり教育」糾弾を主唱するというメディアの節操のなさについては、今さら何をか言わんである。

注目してほしいのは「漢字の読み書きの力は落ちていない」という調査の結果である。

高木教授はそれを、「現場の先生方の指導が優れているから」と結論づけられていた。

もちろん、高木教授の言葉は、現場の先生方を前にした講演での甘言とも言えるかもしれないが、素直に実際の指導があったればこその調査結果だと受け取りたい。

そういうことなのだ。

お上がどんな教育方針を採用しようとも、現場の教員は、子どもたちに「確実にこれだけは身につけさせねばならない」という学習内容については、指導方法を工夫しながら着実に身につけさせようと努力してきたのだ。

こうやって、現場に「自律性」が残っているかぎり、日本の教育は何とか命脈を保つことができるはずである。

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