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パニカとトニのこと

  5月10日。タイ人のパニカが結婚した。語学学校のすぐ近くにある州議事堂の中で、パニカはとてもカジュアルな結婚式を挙げた。新郎はずっと一緒に暮らしていたアメリカ人のトニである。同席者は語学学校のフロントデスクで働くタイ人のプンとその夫のケビン、それから語学学校の友人である私と韓国人のユン、そして結婚式の進行役の女性の五人だけである。私とユンはたまたま式の前日にパニカとメールをしていたことで知らされただけだったので、もともとは契約書に立会人としてのサインが必要だったプンとケビンだけの予定だったのだろう。結婚式というよりは、結婚の手続きに立ち会うという感じで、10分ほどで終わった。だけどそんなあっさりした式にも関わらず、私は一年以上友人だったパニカの晴れ姿を見て、込み上げてくるものをおさえることが出来なかった。

 私がパニカに出会ったのは去年の三月だった。パニカはタイでアメリカ人のトニと恋に落ち、彼を追いかけるようにして去年の春にマディソンにやってきたのである。34歳だった。なかなかいい年齢である。だけどパニカはタイでの仕事を辞め、いつタイに帰国するのか、帰国してから何をするのかも何も考えずに、ただ時間とお金の許す限り、トニのアパートから語学学校に通っている無鉄砲な子だった。その上、勉強熱心なタイの生徒が多い中、パニカはびっくりするほど勉強嫌いだった。熱心に英語の勉強をしないので、喋っていても何を言っているのか分からないのがパニカの特徴で、「何を言ってるのか分からないから、付き合いたくない」と陰でパニカの事を悪く言っている女の子も居たし、恋人であるトニでさえもパニカが喋るのを黙って聞いた後に、「何を言ってるのかぜんぜん分からなかったよ。」と優しく囁いていることがあった。誰もパニカが英語で何を話しているのか理解できなかった。だけどパニカは英語が上達したいわけではなくて、ただトニと一緒に居たくてマディソンに居るだけの愛に生きる女性だったので、パニカの純粋な愛の前には、「語学習得」というものは何の意味も持たなかったのかもしれない。

 が、語学学校に通っている限り、そんな綿菓子のような甘いことは言ってはいられなかった。私たちの通う学校はアカデミックなコースを取ると、山ほど宿題が出る。パニカは毎日厭々ながら宿題をこなし、時にクラスをリピートしながらも少しずつ英語を上達させざるを得なかった。だけど勉強嫌いのパニカである。だいぶ英語が上達したところで、もうアカデミックなコースを取るのを辞め、宿題が出ない簡単なクラスばかり取るようになった。600のレベルまで進むと、次は大学進学レベルの700の最終クラスとネイティブが通う「ティーチャー・トレーニングプログラム」が残されているのみだったからだ。パニカはそんな上級のクラスに行って毎日宿題漬けになる気なんてサラサラなかったのである。

だけどそのうち、パニカは簡単なクラスをすべて取ってしまい、セッションの始まりにいつも、フロントデスクでうつむきながら、次のセッションで取る授業を悩むようになった。アカデミックではないクラスはどれも二度ずつ取ってパスしたのだとパニカは暗い顔で言った。でもビザの関係上、パニカはフルタイムで授業を受けなくてはいけなかったのである。私はそんなパニカに、近くのコミュニティカレッジに進学したらどうか?と勧めたこともあった。コミュニティカレッジなら語学学校よりも授業料は安く厳しくないのが特徴で、多くの生徒が語学学校で600をクリアした後に進学している。けれど私がその話をしているのを、毎回パニカにアカデミックなコースに進むように指導しているフロントデスクのプンに聞かれてしまい、「パニカはまず英語を勉強すべきなのだ。一年近く居てパニカは全然喋れるようになっていない。勝手なアドバイスはするな。」と、なぜか私一人だけあとでプンに怒られたことがあった。

結局パニカはぐずぐずと遊びのような授業を何度もリピートして、先の見えない恋の終焉を先延ばしにしていた。私はそんなパニカに何度も「トニと結婚したら勉強しないでずっとマディソンに居られるよ」と言ったことがある。トニ本人にも言ったことがある。そう言うと、パニカはもちろん結婚したそうに微笑んだが、トニの方はすこし様子が違っていた。トニはずるい男だったのである。トニはいつもパニカに「先のことは分からない。」とか「来年、君はタイに帰ってるのかな?分からないけど。」などと言って、自分たちの関係を曖昧にしていた。トニはとてもハンサムで頭の切れる男だったが、私はそんなことをパニカに言うトニを、密かに残酷な男かもしれないと思っていた。だらだらと月日だけが過ぎ、パニカは35歳になってしまったからである。私は、毎度暗い顔をして授業の予定を作るパニカを見ながら、彼女はいずれタイに一人で帰るのだろうと思っていた。アメリカでしたいことがあるわけではない。お金も時間もそろそろ限界だろう。誰もがそう思っていた。そしていよいよ、トニと別れてタイに戻るだろうと思われたころ、パニカは妊娠したのである。

今日、少し膨らんだお腹を抱えて、白いワンピース姿で州議事堂にトニと手をつないで現れたパニカは、とても美しかった。予期せぬ出来事のため、親戚や友人などのほとんど居ない寂しい結婚式だった。進行役の女性も、ぼさぼさの髪の毛に普段着というカジュアルな恰好で、州議事堂の渡り廊下に着くと「この辺でするのはどう?」と言った。それでもパニカはすごく幸せそうにトニにぴったりと寄り添い、州議事堂の渡り廊下でトニと向かい合わせになって立った。私たちが見守る中、進行役の女性がトニに「パニカを妻とし愛し続けますか?」と問いかけた。パニカは震えながら恐る恐るトニを見つめた。トニは「イエス、アイドゥ」と静かに、だけど優しくパニカに言った。パニカの目から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。「宿題が好きじゃない」と言ってフロントデスクでうなだれていたパニカの姿が私の脳裏をよぎり、私の目からも涙があふれてきた。だけど今日、どんな形であれパニカの愛は成就したのである。九回裏、パニカは黙って愛の逆転ホームランを見事に打ち放ったのである。

(余談だけどパニカはやっぱりもう少し英語を勉強するべきだった。肝心なところで進行役の英語が聞き取れず、誓いの言葉をうまく言えてなかったからだ。でもとても素晴らしい結婚式だった。)

カプレイ教授の退官

4月27日。「今日だよ!」教室に来るなりカプレイ教授が私に言った。もう三回ほど言われているので忘れるはずがないのだけれど、私は「四時からですよね?」と確認する。カプレイ教授は大きく頷いて「ルーム4070だからね。」と念を押した。忘れるはずがない。今日はカプレイ教授の退官の記念講演会の日なのだ。最初にそのことを言われたのは3月の上旬のとある授業の日だった。授業の始まる直前に教壇から私を手招きして呼び寄せ、カプレイ教授は今日の講演会の日程を個人的に教えてくれたのである。そして「デーヴィッド・ボードウェルも来るよ。」といたずらっぽく言った。それはマディソンで映画好きを気取っている人なら誰もが知っている名前である。もちろんマディソンでなくても、映画好きを気取っていなくても、知っている人は知っている有名人である。日本でも何冊か彼の本が翻訳されて出版されているし、ウィスコンシン大学の映画講義のいくつかは彼の本を中心に展開されている。デーヴィッド・ボードウェルはウィスコンシン大学が世界に誇る映画批評の生きた権威であり、ウィスコンシン大学の映画を学ぶ豊かな環境に大きく貢献した人なのである。

だけどデーヴィッド・ボードウェルが来るということよりも、私はとにかくお世話になったカプレイ教授の退官の記念講演会なのだから、今日は雨が降ろうが槍が降ろうが這ってでも講演会にはいかないといけないと思っていた。ただ、カプレイ教授が毎回私にしかアナウンスしないので、一瞬同じクラスのベリチアンナに今日の講演会の連絡メールのようなものが生徒たちには送られていたりするのかどうか確認しようと思ったが、前回のチチカット・フォーリーズのようなことがあってはいけないと思い辞めておいた。いったいどんな講演会なのかもよく知らないけれど、カプレイ教授が熱心に誘ってくれるのだから行かないわけにはいかない。わくわくしながら、私は3時半頃に大学に到着し、会場に向かった。そこはよく知っている会場で、ウィスコンシン大学の内部に併設されている歴史ある映画館である。

会場に入るといきなり私はデーヴィッド・ボードウェルに出くわした。というよりも、デーヴィッド・ボードウェルと一人の助手しかいない。そして何やら大きな声でスクリーンをチェックしている。恐ろしすぎて私は引き返し、何度も女子トイレと会場の入り口のあたりをウロウロと往復し、やはりもう一度出直そうと決意したところでカプレイ教授が現れた。「すいません、早く来過ぎて…」ごにょごにょと言い訳をしている私に構わずカプレイ教授は「こっちこっち!」と言って私を会場に招き入れた。そして逃げ出さんばかりの私の手を取って中に連れて行くと、私をボードウェルに紹介してくれたのである。「ボードウェル!こちらは日本から来たセイコだよ。素晴らしいシネフィルなんだ。」デーヴィッド・ボードウェルは作業の手を止めて、面白そうに私の所に駆け寄って来ると、「日本には四度行ったことがあるよ。」と言った。が、私はもう他にどんな会話をしたのか覚えていない。

始まって気付いたが、集まっていたのは完全に関係者だけだった。生徒など一人も来ていない。ほとんどがウィスコンシン大学のフィルム学に関わるカプレイ教授の素晴らしい同僚やTA、少数の親族と一人のカメラ小僧だけだった。退官の記念講演会と言えば、私は内田先生の講演会のようなもの(沢山の取材陣や卒業生が集まり、講演そのものがまるっと一冊の本になったりするもの。)を想像していたので、きっと講演会というよりは内輪のイベントのようなものだったのだろう。とてもアットホームでカジュアルなものだった。だけど、私はとにかく自分が場違いではないかと思い終始、恐縮しきりだった。カプレイ教授はデーヴィッド・ボードウェルと私を引き合わせた後、今度は奥さんのベティ・カプレイの所へ私を連れて行き、紹介してくれたからである。また、講演が始まると冒頭の挨拶で沢山の関係者にお礼を述べたのち、最後の方で「それから」と言って「皆は知らないと思うけれど、あそこに座っているセイコにもお礼を。日本から来た素晴らしいシネフィルです。」と私をまた大々的に紹介してくれたのである。いくつもの目が私に注がれ、知らない人がこちらを向いて「ハーイ」と手を振ってくれた。デーヴィッド・ボードウェルも見ている。私は恥ずかしくて恐縮して、ぎこちなく笑うしか出来なかった。

まったくもって不思議なことだった。なぜカプレイ教授は、何の関係もない部外者の私に、こんなにも良くしてくれるのか。白井君がウィスコンシン大学に二年間留学することになり、目的もなくウィスコンシン州マディソンにやって来たただの映画好きの主婦である。大好きな映画学を盗聴することに生きがいを見つけ、三セメスター、カプレイ教授の恩恵にあずかり、その合間に子供を産み、産んでもなお授業に通ってきたよくわからない日本人がもの珍しかったのかもしれない。あと一週間でカプレイ教授の40年の教員生活は終わる。そしてまた、あと二か月で私たちのマディソンでの生活も終わる。だけどカプレイ教授は講演会の後、「日本に帰っても連絡を取り合おう」と言ってくれた。人生というのは本当に不思議で何が起こるか分からないものだ。私はマディソンに来て今日と言う日ほど、それを噛みしめた日はなかった。

チチカット、フォーリーズの夜

 4月1日。「もちろん無料だよ。ウィスコンシン大学が映画を愛するすべての人のために配っているチケットだよ。」そう言って授業の後、カプレイ教授は毎年この時期に開かれているウィスコンシン大学のフィルムフェスティバルの上映映画のチケットを私に手渡してくれた。私の他にも何人かの学生がチケットをもらいにカプレイ教授の周りに集まっている。私は嬉しくて手渡されたばかりのピカピカのチケットをしばらく眺めていた。チケットには「10ドル」と書かれていた。それから「土曜 18時15分 チチカット・フォーリーズ」の文字が踊っている。『チチカット・フォーリーズ』!私は嬉しくて何度もそのタイトルを眺めた。『チチカット・フォーリーズ』!それはドキュメンタリー映画の第一人者、フレデリック・ワイズマンによる伝説のデビュー作品のタイトルなのである。「弁護士かつ映画監督」という異色のキャリアを持つワイズマンは、60年代にナレーション、サウンドトラック、テロップなどの説明手段を一切使わないという極めて実験的で挑戦的な“ダイレクトシネマ”という手法を用い、数々の素晴らしいドキュメンタリー映画を作った(今なお作り続けている)ドキュメンタリー映画界のドンである。授業で彼の『法と秩序』という素晴らしい作品を観て以来、私はすっかりこのワイズマンの世界の虜になっていたのだが、この『チチカット・フォーリーズ』は、そんなワイズマンがマサチューセッツ州の精神異常犯罪者の矯正院の日常を撮影し、その衝撃の内容から一般上映が長らく禁止されていたという作品なのである。

 「セイコ、一緒に行かない?」私が恍惚としてチケットを眺めていると、同じクラスのベリチアンナという中国人の学生が声をかけてきた。ベリチアンナはドキュメンタリー映画と日本語に興味のあるウィスコンシン大学の女学生だ。高校からアメリカに住んでいるので英語は第二の母語なのだが、今は日本語を習得したいらしく、ドキュメンタリー映画の授業に潜り込んでいる私によく興味を持って声をかけてきてくれるのである。「それで映画の前に一緒にディナーでもどう?」とベリチアンナは誘う。私は一人で行くつもりだったが断る理由もないので、「もちろん」と快諾した。「16時に会って、私のアパートで一緒に料理を作って食べない?」とベリチアンナはなんだか楽しそうな提案をしたが、私は赤ちゃんの世話のことを考えて「17時からしか会えない」と断った。すると彼女は「じゃあ、私が17時までに夕食を作る。セイコは何もしなくていいから17時に私のアパートに来て、一緒に私が作った餃子を食べよう。」と提案してくれた。私はもちろん快諾した。17時から中国人の女の子が作る本場の餃子を食べて歓談し、18時からずっと観たかったワイズマンの映画を観るなんて、なんて素敵な週末の予定だろう。私はウキウキしながら土曜日、マディソンにある日本食材のお店でベリチアンナの家に持っていくお土産のどら焼きを購入し、家のことを片付けて、一人でバスに乗ってベリチアンナのアパートへ向かった。

 17時8分。約束の時間より少し到着が遅れた私がアパートのドアをノックすると、顔中が汗だくのベリチアンナがアパートから出てきた。眉毛と眉毛の間も鼻の頭も、びっしりと大粒の汗が光っている。「ごめんなさい。ジムでトレーニングしててシャワーを浴びていたの」とベリチアンナは言うが、どう見ても未だ汗だくである。「とにかく座って」とベリチアンナは部屋に招き入れた。大きな可愛いベッドが部屋の中心にあり、横にキッチンの付いたワンルームの学生らしい部屋だ。部屋の端に長い机があり、その机には餃子の代わりにリンゴが三切れ皿に盛られていた。「今日は本当に忙しくて、クレイジーな一日だったの!」ベリチアンナはそう言って何やらバタバタしている。どうやら餃子の種を今から作るようだ。私は嫌な予感を感じながら「何か手伝おうか?」と聞いた。「じゃあ、セロリを切ってくれる?」そう言ってベリチアンナは鶏肉のミンチを冷蔵庫から出した。私は時計を見た。17時15分。ワイズマンの映画の上映は18時15分である。映画上映まであと一時間しかない。だけど私には、今からセロリを切る以外選択の余地もなかった。

かくして私は、ベリチアンナと一緒にセロリを切り、餃子の種を作り、それを皮に詰め、ボイルし、食べる、ということを凄いスピードで行うことになった。ベリチアンナは時々手を止めて喋ったり、彼氏の写真を見せてきたりして、餃子の種を皮に詰める際は「わーお、セイコってすごく速いのね!」と悠長に、私のスピード重視の醜い餃子がすごい速度で作られてくのを見て感嘆していたが、こっちは必死である。この日の映画を楽しみに生きてきたのだから、私はこのワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』に一分、一秒だって遅れたくはなかったのである。もっと言うと、余裕をもって15分前には席に着きたかった。何が悲しくて、大好きな映画上映の40分前に餃子をせっせと作らないといけないのか…。だけど種を詰めながら、私はベリチアンナがカプレイ教授の授業や、授業で扱う映画上映の時、よく遅刻して部屋に入ってきていた姿を思い出し、自分が今日、人生の大きな選択ミスをしたのではないかと感じていた。そんな私の心境を知ってか知らずか、ベリチアンナはまた私の餃子の食べる速さに感心した。そして自分はフランス映画が好きで、好きな監督はアニエス・ヴァルダだ、と語った。

私はそんな会話もそこそこに、5分で餃子を胃に収めると、18時には玄関で靴を履いてドアを開けてみせたが、ベリチアンナはアパートの鍵を探し出してなかなか玄関に現れなかった。18時5分に二人で小走りでアパートを出発し、しばらく歩いていると上映開場が見えてきた。(幸い彼女のアパートは大学のすぐ近くだった。)開場が見えてくると私は少しだけ安心し、歩く速度は緩めすぎないよう注意し、少し遅れて後ろを歩くベリチアンナを振り返りながら、「『5時から7時までのクレオ』は観た?」と聞いてみた。ベリチアンナはきょとんとして「何?」と聞き返すので、私が「『5時から7時までのクレオ』…アニエス・ヴェルダの作品の…」と言うと、ベリチアンナは私に追いつこうと頑張りながら「フランス映画に詳しくないの。」と、にべもなく言った。それから「そんなに急がなくても大丈夫よ。」と私に笑いかけた。

 結局、私の努力は報われ、私たちは映画開始2分前に会場に滑り込むことに成功し、私はワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』を一秒も見逃すことなく楽しむことが出来た。期待した通り、映画はとても興味深いドキュメンタリーだった。ナレーションも、サウンドトラックも、テロップも無い映像の連続。見続けるのは少し疲れる作品である。目をそむけたくなるような衝撃的なシーンも沢山あった。そんな映画に夢中になっている私の隣で、ベリチアンナは眠りこけていた。こっくり、こっくり、横で単調にリズムを刻むベリチアンナの頭は、静かに、そして永遠に、映画が始まってから終わるまで、気持ちよさそうに揺れ動いていた。そして『チチカット・フォーリーズ』が終わる数分前に目を覚ますと、彼女はどこやらのパーティに顔を出すとかなんとか言い、あわただしく闇の中へと消えて行った。

子供を持つということ

 3月3日。2月から3月にかけて、マディソンの気候は思わせぶりである。昨日唐突に芝生の雪をすべて溶かしたかと思うと、次の日の朝にはまたそこら一面に白い雪を降らせることがあるからである。春を待ちわびる人々の気持ちをもてあそびながら、マディソンはゆっくりと凍てつくような冬から遠ざかろうとする。けれどそれはまだ長い冬のトンネルの出口ではなく、あくまでも気まぐれに私たちの心をかき乱す一進一退の春への攻防なのである。

 私はというと、そんなマディソンの気候に呼応するかのように、産後の体力は回復したりしなかったりを繰り返していた。手伝いに来てくれた母が一月末に帰国したあと、二月から私の本当の育児はスタートしたのだが、火曜日と木曜日の朝に相変わらずカプレイ教授の授業を聴講に行っていると、それだけですぐに動けなくなり、熱が出て寝込んでしまっていたのである。三時間おきの授乳と家事だけで精一杯だったのだが、それでも調子のいい日は頑張って外に出るようにし、友人に二時間ほど会ったりもした。が、その次の日に決まって熱が出て動けなくなった。出産前からずっと自分に課している読書や映画鑑賞のノルマも思うようにこなせない。産前にランナーとして鍛え上げていた足腰の筋肉がすべて失われ、一キロ走るのもやっとの体になっていたこともショックだった。すべての体力が出産でゼロになり、それを一にするための入り口がなかなか見つからない。可愛いわが子との愛おしい日々と引き換えに、私は何か大きな、自分自身の生命力の一部分をどこかに置いてきてしまったのだと考えずにはいられなかった。

 それでもようやく最近、雪解けの日が増えてくるのと同様に、ジムでトレーニングしたり、語学学校に顔を出したりすることが出来るようになってきた。家事も読書も映画鑑賞も、授乳の合間にやるコツを掴んできた。少しずつ日常が戻ってくると、今度は出産するまで気付かなかったことが見えてくるようになった。広いトイレや段差のないバリアフリーの道のありがたさを感じるようになったし、乳飲み子を抱えているということに対する周りの暖かさも冷たさも、自分が知らなかった世界が急速に見えてきたのである。それと同時に、私を取り巻く交友関係の在り方も様相を変えることがあった。子供を持つという人生の選択に対して、すべての友人が祝福してくれているとは限らなかったからである。「母親にならない」ということと「母親になれない」ということの大きな隔たりについて私は少しも考えたことがなかったので、子供の話題をすることで同世代の友人を知らず知らずのうちに傷つけているということも、これまで考えたこともなかった。だから、たかだか産後二か月でこれまで築いてきた友情があっけなく幕を閉じたり、心無い言葉を浴びせられたりすることがあるほど、『出産』というイベントが女性の生き方において、これほど繊細な問題だったのだということも、私は恥ずかしながら自分が出産するまで知らなかった。
 
 そんなことがあったせいで、私は最近ベス先生の『養子縁組』の話をよく思い出していた。日本では「養子を持つ」ことはほとんど人生の選択にはあがらないが、アメリカでは人生の選択の一つである。実際、ベス先生は二人の中国人と一人のルーマニア人の養女を育てていて、授業でもよくその話をする。そしていつも決まって「子供が出来ないことをずっと嘆いていたが、今は子供ができなかったことを良かったと思っている。そのおかげで今の子供たちに出会えたからだ。」と幸せそうに話を締めくくるのである。私は養子という文化になじみがなかったので、「子供たちは差別を受けたりしないのか?」とぶしつけな質問をベスにしたことがあったが、ベスは少し気を悪くしつつも「ない」と答え、アメリカは養子を持つ人が沢山いるのだと教えてくれた。

 また、夏に取ったネイサンの授業でもこんなことがあった。その日ネイサンは家の絵を描くように生徒に指示を出した。私たちは不思議に思いつつ、ノートにおのおの似たようなサザエさんのエンディングに出てくるような家の絵を描いた。ネイサンは生徒たちが描いた家の絵を満足そうに眺めながら、次にその家に住む家族の絵を描くように言った。またしても私たちは不思議に思いながら、父親、母親、そして子供の簡単な絵を各自ノートに描いた。ネイサンも白い紙に家と家族の絵を描いた。ネイサンが描いた家族は四人家族だった。大人が二人に子供が二人…だけど、ネイサンの描いた家族は私たち生徒が当たり前のように描いた四人家族とは少し違っていた。親である大人は二人ともスカートを履いていたのである。ネイサンは、家族の形は一つだけではない。物の見方は一つではないと私たちに教えながら、女同士、男同士の夫婦もあるし、今は彼らも子供を持つことだってできるだろ?と言うのである。

 あの夏の授業を思い出しながら私はいま、だけどそれはアメリカだから成立するのだと、思わずにはいられなかった。日本にはそんな多種多様な文化はなかなか成立しないし、だからこそ『出産』にまつわる様々な犯罪、閉塞感が日本には蔓延しているように思われるのだ。「赤ちゃんポストに捨てるくらいなら俺にくれよって思う。」と、あるゲイの男の子は私に言った。彼は結婚したいし子供が欲しいのだそうだ。だけど日本人である彼にはそのすべてが難しいことなのである。だから、日本では『出産』という言葉はある人々にとっては喜びだけではなく、苦しみの感情をもたらす言葉ですらあるのである。もしアメリカのように「養子」という選択が当たり前のように、自由にそこにあったなら、救われる人も沢山いるのではないだろうかと、そんなことを考えた春の日である。

産後ハイ。映画を愛する人

1月18日。12月28日に出産して、12月30日に退院したせいか、私は産後すぐ、いわゆる「産褥期」というものがピンと来なかった。出産時に少し手術をしたので、その際に処方された痛み止めがとても強い薬だったというのも一因してか、どこか「産後ハイ」のような状態だったようで、しかもアメリカは退院した翌朝に再び病院に検診を受けに行かなくてはいけなかったためじっくり休んでいる暇がなく、日本でよく聞く「産後は絶対安静にしなくてはいけない」と言われている「産褥期」というものそのものを意識できぬまま、私は日本から「産褥期のケア」のために渡米してきてくれた母親の言うことも聞かずに産後一週間で、何度も外出を繰り返した。が、その後、ぱったりと携帯のメールも開けることが出来ないほどの疲労を感じて床に伏し、一日中泥のように眠り、「これがいわゆる産褥期か。」とぼんやりと思ったりしたのが産後二週間目のことだった。

そもそもアメリカは出産して2日で退院する。しかもその2日間の入院期間はずっと生まれてすぐの新生児と一緒に過ごし、休む暇もなく母乳のトレーニングや新生児の検診など、入れ代わり立ち代わりナースが来てとても目まぐるしい。もともと入院期間が短いというのは知っていたので、私はアメリカには日本でよく聞く「産褥期」という概念そのものがないのだと勝手に思っていたが、漏れ聞くところによると単純にアメリカは「医療費が恐ろしく高い」という事情があって、日本のようにゆっくりと入院することが出来ないのだそうだ。だからアメリカでも「産後は安静にすべき」という考え方はあるそうだが、私はその話を聞くまで、「アメリカ人は単純にタフな民族なのだろう」と思っていた。入院食だってピザやチーズバーガーで、日本人だと乳腺が詰まりそうだと心配しそうなものだが、アメリカではそれが当たり前なのだ。日本人は繊細だから、育児書にはやれ根野菜を食べないといけないだの、とにかく起き上がってはいけないだの書いてあるけれど、アメリカ人が出来ているのなら、本当は「産褥期」なんて都市伝説のようなものなのではないだろうか。私は「産後ハイ」の頭の中で、そんなことすら考えていた。が、もちろんそれは間違いだと、産後二週目にして、寤寐の境に私は思い知った。

ということで、産後二週間から三週目にかけて、私の「産褥期」はピークだったが、三週目を過ぎた頃、少し回復してきた私はまたムクムクと「動きたい」気持ちに突き動かされ、今月中旬から始まったカプレイ教授の「ドキュメンタリー映画学」の初回授業に出るべく、二時間ほど可愛いわが子を白井君と母親に託して大学へ赴いたのである。

カプレイ教授に会うのは年末の12月22日、前のセメスターの最終日以来、一か月ぶりである。前回「フィルム学」を聴講し、最後に挨拶に行くと、カプレイ教授は「いつでもまた来ていいよ。」と私に言ってくれた。「次のセメスターも来たいのですが、出産があるのでどうなるか分からないのです。」と私が言うと、カプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、私のお腹をまじまじと見た。(臨月ですら、私はほとんど妊婦だと気づかれないほどお腹が小さかったのである。)「でも必ずまた会いに来ます」と言ってカプレイ教授と固く握手をして別れ、その一週間後に出産し、その三週間後の今日、再び私はカプレイ教授の授業に現れた、というわけである。(わざわざこんなにすぐに授業に復帰するとは、自分でもすさまじい執念のように感じる。)きっと私はまだ少し産後ハイなのだろう。だけど、やはり少し無理をしてこの初回に聴講に行けたのは私にとって嬉しい時間だった。

「やあ、戻ってきたね。」カプレイ教授は学生でもない私ににこやかに微笑んでくれた。出産したと報告すると、やはりカプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、面白そうに私のお腹をちらっと見た。カプレイ教授の著書を持っていたので、サインをしてもらうと、カプレイ教授も嬉しそうに「For Seiko!」と書いてくれた。「For Seiko! a wonderful cinefile! Vince K.」そう書いて本を手渡しながら、カプレイ教授は「cinefileって言葉知ってる?フランス語なんだけど。」と私に尋ねた。「映画が好きな…」私は言い淀んだ。すると、カプレイ教授は笑いながらこう言ったのである。「映画を愛する人!つまり、君の事だよ!セイコ!」