好奇心旺盛なダラル

 12月23日。「サウジアラビアでは、結婚するまえにSEXはしないの。」すっかり降り積もった州議事堂の雪景色をバックに、スターバックスで席に着くなりサウジアラビア人のダラルは唐突にそう言った。「アメリカも厳しいキリスト教信仰者の間では結婚するまえにSEXはしないそうよ。ベスがこないだそう言ったの。」ベスというのは、旦那さんが教会の牧師か司祭か何かをしている語学学校のベテランの女の先生のことだ。彼女はとても厳しい先生でも有名だが、いかにも教会に携わる彼女が言いそうなことだなと私は思ったりもする。「日本はどう?」とダラルが聞くので、私は少し考えてから「日本はそんなことないよ。結婚前も結婚後も…例えば不倫なんかもよくあるよ。」と答えてみた。するとダラルは「本当に?!」と叫んで両手で口をおさえた。ダラルにとってはカルチャーショックだったようだ。「まあ、基本的には許されてないけどね。」と私は付け加える。

 この美しい昼下がりの女子トークに、ダラルがなぜこんな話題を選んだのか分からなかったけれど、「ベス先生」と聞いて私はふいに前のセッション、ベスが「ネットのポルノ閲覧」について凄まじいほど個人的な嫌悪感を露呈したことを思い出していた。授業中、彼女の娘のネット閲覧履歴に「ポルノ画像」が含まれていて驚嘆したというエピソードを披露したベス先生は、少し異常と思われるほど、「ポルノが」「ポルノが」と「ポルノ否定」をしていたので、私はつい「ポルノを閲覧することってそんなに悪いことですか?」と反旗を翻し、火に油を注いでしまったことがあったのだ。ベス先生は予想以上に怒りの矛先を私に向け、「あなたのそのお腹の子供がポルノを見るようになったらどうするの?」と私に尋ねた。私は「別にいいんじゃないの。」と答えたけれど、保守的で敬虔なキリスト教徒のベス先生には理解できなかったようで、このときは、ベス先生との間に分かり合えない大きな溝がぽっかりと空くのが見えた瞬間だった。

 当たり前のことだけど改めて、信仰する宗教のレベル、国やカルチャーごとによって『性のあり方』もとても違うのだなと私は考える。もちろんサウジアラビアでは同性愛は許されていないので、ダラルはアメリカに永住しているサウジアラビア人の男がほとんどゲイなのだということを、声を潜めて教えてくれた。祖国で認められることのない彼らは、アメリカに渡り、アメリカで同性婚をし、祖国を捨ててアメリカに移住している人ばかりなのだそうだ。(だから、マディソンに永住しているサウジアラビア人はゲイが多いのよ。とダラルは私に耳打ちする。)そう言われると確かにアメリカではゲイをよく見かけることがある。そのせいか分からないが、こちらに来てから何人かのティーン達があっさりと私にカミングアウトすることもあったし、語学学校の先生やスタッフの一人がゲイであるということも生徒やスタッフの間では暗黙の了解である。

 だけどそういう同性愛への寛容さの一方で、アメリカ人というのは不倫やセックスレスなどによって、驚くほど簡単に離婚する一面があるのも事実である。知り合いのアメリカ人の両親があまりにも多く離婚しているせいで、長年連れ添った熟年夫婦を見るとつい感動を覚えてしまうくらい、こちらの離婚率は高い。日本とは違い、こちらでは「夫婦」であるということが「性的な結びつき」によって強く結ばれていることが絶対的な条件なので、日本のようにセックスレスでも不倫されても離婚に至らない、などということは考えられないのだそうだ。それに、日本のように「ちょっと角を曲がればいかがわしい通り」というものもマディソンでは全く見かけることがない。もちろん噂ではそういう場所もあるとは聞くけれど、町中でけばけばしい無料ティッシュも配ってもないし、そもそもラブホテルや風俗店なども見たことがない。徹底的に町や人々の思想から表向き「いかがわしさ」というものが排除されているクリーンな印象を受けるのである。

 昼間からダラルがSEX、SEXと連呼するので、私はだいぶ恥ずかしかったが、ダラルはアメリカや日本の「性」のあり方に興味津々だった。もしかするとダラルはサウジアラビア人の女性の中ではとても特異なタイプなのかもしれない。だけど、彼女のそういう何事にも好奇心旺盛な姿勢は、保守的で厳格なキリスト教徒のベス先生よりも何倍も柔軟で寛容さに富んでいるように私には思えたし、ダラルの話や興味の対象はいつもとても面白かった。スターバックスを後にし、力強いハグをしてダラルと別れた私は、白銀に染まったマディソンの町を滑らないように慎重に歩いてバス停へと急いだ。まだまだ妊婦だとばれることがないほど私のお腹は小さい。だけどしばらくはこんな楽しくて刺激的なランチもお預けである。真っ白な州議事堂の雪景色を見てバスを待ちながら私はふと、次にダラルに会う時は私もダラルと同じく母親なのだなぁと思ったのである。