初めて銃を撃った日

 10月9日。「アメリカに居るのなら、鹿狩りをするのもいいよ。この時期、僕もよく行くんだ。」と、タイ人のパニカのボーイフレンドのトニが言った。トニはアメリカ人だ。それを横で聞いていた同じくタイ人のプンの旦那さんでアメリカ人のケビンも、ビールを飲みながら「そうだ、アメリカと言えば銃だからね。なんなら一つ自分の銃を買ったらいいよ。」と冗談めかして私に言った。私が驚いていると、トニも笑いながら、「そうだ、買うといいよ。アメリカに居る間にしか出来ないんだから。簡単だよ。」と言って、ガールフレンドのパニカにウィンクしながら、「君もやりたかったらいつでも教えてあげるよ。本当に。」と甘く囁いた。なるほど。と、私は思う。日本で銃を撃つ機会なんてそうそう無いだろう。

 今まで深く考えたことはなかったけど、ここは銃社会だ。その日のそんなちょっとした会話で「銃」というものになんとなく心惹かれた私は、さっそく次の日、毎年秋に家族で鹿狩りを楽しんでいるトム先生に「どこで鹿狩りが出来ますか?」と質問をしてみた。トム先生は一瞬きょとんとしてみせ、おもむろに「まず最初に、」と言った。「君は銃を持ってるの?」私が首を横に振ると、「次に、」とトムが続ける。「鹿狩り用の特別なスーツを持ってる?」「ノー」と、私。「それから鹿狩りのライセンスが必要。あと、鹿狩りの出来る公園を所有している知り合いを持つか、そういう公園を探さないといけない。幸い僕にはその知り合いがいるから毎年行くんだ。これらの条件をクリアしたら行けるよ。」と言った。そんなに条件があるなんてトニは言ってなかったぞ、と私は思いながら、少しがっかりしていると、そんな私を見ながら「真面目な話。」とトムは言った。「鹿狩りほどつまんないものはないぜ。」というのも、鹿狩りというのは、明け方の寒い時間から出かけて何時間もただ鹿を待つだけだからだそうだ。その果てに、たった5分、獲物をしとめるたった5分のエキサイトする時間があるのだという。時に、獲物を追い込むこともあるけれど、鹿狩りというのは基本的に長時間、無言でじっとしているという男のゲームなのだ。「だから、銃を撃ちたいだけなら、シューティングセンターに行けばいいよ。」

 というわけで私は週末、秋の気配を感じる行楽日和に、マディソンの家から車で一時間少し、マディソンとミルウォーキーの間に位置する“マックミラースポーツセンター”へ朝から訪れる運びになったのである。気持ちの良い秋晴れの日である。シューティングセンターを目指す車の車窓からは、アライグマのラスカルの舞台であるウィスコンシンらしく、美しい川や湿地帯、牧場やトウモロコシ畑というのどかな風景が次から次へと流れては消えていった。併せて、道の悪いガタガタの高速道路には、数メートルおきに車につぶされたリスの死骸も転がっており、ときどき狸や鹿といった大物の死骸が倒れているのも目にした。それらの流れていく死骸を横目で見ながら私は、鹿狩りなんて簡単にやりたいとトムに言ってはみたけれど、よく考えるとトムは仕留めた鹿を家に持って帰って食べるなりなんなりするのだろうなと思い至り、私には到底できる業ではなかったのだなと、鹿狩りそのものへの諦観を強くした。

 ともあれ、野外のシューティングセンターは大盛況だった。私たちのような初心者はほとんどおらず、集う人々はおのおのの自慢の銃を持参しており、ちょっとしたゴルフの打ちっぱなしのような感覚で撃ちまくっているのである。すでにそこら中で銃声が鳴り響いている。本物の銃声を聞くのも初めての私は最初、すっかり縮み上がってしまった。だけどここまで来たのだからと受付に行くと、銃を持参していないということで、センターから銃を借りて使い方をスタッフに簡単に教わることが出来た。銃を借りるにしても簡単なサインとドライバーズライセンスを預けるだけで事足りるのだから、改めて銃を持つことに対するハードルの低さに私たちは驚いた。一番簡単な銃の使い方を10分ほどで解説してもらうと、そのまますぐに実践である。「一番大切なポイントは何か分かる?」とスタッフの人が私たちに質問をする。「的をよく見ること?」と白井君が言うと、「違う」と彼は即座に言った。「一番大切なのは、銃口を人に向けないことだ。」

 結論から言うと、シューティングは怖かったけれど、楽しかった。50発分の弾丸を買ったものの、私も白井君も二人で30発撃てばもう満足で残りの銃弾を持ってそそくさと引き上げたのだが、弾さえ購入し続ければ、何度でも撃ちっぱなしで遊ぶことが出来た。耳栓をして透明の眼鏡をして、的に向かって撃つだけのことである。すべてのブースがいかつい大人の男たちで占領されていて、それぞれがそれぞれ撃ちたい銃を撃ちたいスタイルで撃っていた。私はブースに入って初めて撃った時、頬を殴られるような衝撃が走るのを感じた。どーんという銃声とその重い衝撃、そして危険なものを持っているということへの恐怖がいっぺんに体の中に沸き起こり、アドレナリンが出るのを感じた。だけど一方で背徳感や危険なものへの密かな憧れ、あるいは闘争心のようなものも解放されたのも事実である。だから私は初めて、銃というものの魔物性を知ったような気がしたし、また撃ちに来てもいいなと言う感想さえ持ったのである。不思議な体験だった。