アディル

 4月10日。ここのところ、カザフスタン人のアディルと毎日のように会う。アディルは二つ前のセッションで語学学校を辞め、従兄弟のディアと共にマディソンコミュニティカレッジに進学した19歳の男の子だ。語学学校でもいくつか同じクラスだったのだけど、特別に仲がいいという関係ではないにも関わらず、思えば語学学校に居たころから何かと縁のある人だった。
語学学校にはいろんな国の人がいるが、カザフスタン人というのは日本人以上に希少価値の高い人種だ。もともと私もカザフスタンという国そのものについて明るくないので、二人がロシア語を話すにもかかわらず、肌の色や髪の色、そしてその容貌が日本人にすごく似ていることに初めて会った時はとても驚いた。(中国人のジャクソンも二人のことを日本人か中国人だと思っていたそうだ。)それにカザフスタンという国がとても若い国で、さらにイスラム教徒であるということ、首都のアスタナは日本人の建築家の黒川紀章が一部設計をしていることなど、ディアとアディルと出会うまで私はまったく知らなかった。だから、ディアもアディルも従兄弟同士だが同い年であり、さらには誕生日が一日違いだということを知った時には、軽い驚きと共に「それは、カザフスタン人だからなのだろうか?」などと馬鹿なことを考えてしまうほどに、私にはこの日本人にしか見えないロシア語を話すイスラム教徒の二人の国が未知な存在に思えた。

 そのアディルと、私はここのところ毎日会うのである。アディルに会わない時は、その代わりのように従兄弟のディアに会う。いつも乗るバスに乗り遅れたので違うバスに乗ってもアディルはそのバスに乗り込んでくるし、一日に二度会う日もある。よく会うので必然的に世間話をする。するとなんとなく話題が広がって、語学学校のアクティビティのイベントのカレンダーが欲しいと頼み事をされる。私は「メールするよ」と言いつつ「どうせ明日も会うだろう。」と、あえてメールをしない。すると、やっぱり次の日アディルはバスに乗り込んでくる。そしてカレンダーを手渡しで渡して、「まあまたすぐ会うだろうけど。」と言って別れるのである。お互いに特別仲良くなれそうな要素を持っているわけでもないのだが、これだけよく会うと神様の思し召しか何かだろうか、と考えてしまう。(そしてその神様はきっとアッラーだ。)
 
 そんなアディルは、ずんぐりしてジャイアンみたいな見た目でいつも眠そうだが、どこか男らしい雰囲気のある「雰囲気イケメン」だ。女の子には割と人気がある。授業では積極的に発言をするけれど愛想笑いというものをしないので、先生からは可愛がられないタイプである。そして興味のないことにはとことん不愛想という奴である。だから私と何度会っても、最初のうち彼は特に何の興味も示さなかった。
だけどこの間、私がソヴィエトフィルムの授業の映画を見に行こうとしていたとき、いつものごとくバスで乗り合わせたときのことだ。アディルの家の近くのキャンパスでの上映だったので、これからソヴィエト映画を観るのだと答えると、急にアディルの目がいつもの何倍かの大きさに開かれたのである。「なんでソヴィエト映画なんか観るの?」とアディルが聞く。「興味あるから。」と私が答えると、「僕の国だよ。僕の両親は二人ともソヴィエト映画をよく見るよ。」とアディルが珍しく話を続けたのである。「何を観るの?きっと僕の両親は知ってるよ。」とアディルが言うので、後日授業で扱った映画のリストをメールで送ることになった。(アディルがこんなに積極的に嬉しそうな顔をしたのは、世界のサンタクロースを調べた時に「日本のサンタクロース」が、熊手を持った不細工なおじいさんのイラストだったのを報告してきた時以来だ。)

「Are you sleeping?」アディルからメールが届いていたことに気付いたのは今朝のことである。彼からの送信時間は昨夜、夜中の2時42分。もちろん私はそんなメールに気付かずに寝ていたのだが、アディルからのこのメールの意図は起きてすぐにわかった。実は、アディルに私が大学で観ている映画のリストを送ったすぐ後、彼から「両親はほとんど映画を知っていたよ」という素っ気ないメールが来ていたのである。そのことで、私が冗談で「あなたの両親とお話してみたいよ。」と言ったら、アディルから「両親が起きたら連絡する。」と大真面目な返事をもらっていたのだ。「僕が翻訳するから、両親に聞きたいことを聞いたらいい。」なんとも思いがけない提案だった。私も、それはそれで面白いかもしれないと思い、質問することをいろいろ考えた。その質問の中には「スターリン時代のことをどう思いますか?」という映画と全く関係ない質問も盛り込んであり、その考え出した質問リストをアディルにメールで送っていたのである。が、まさかこんな夜中に、アディルが彼の両親との接触の機会を設けてくれたとは夢にも思わなかった。

考えてみたら時差があったなぁ、などと起きしなの頭でぼんやり考えながら、私は語学学校時代にアディルが朝の授業に何度か来なかったことをふと思い出した。そういえば、アディルはよく午後の授業に姿を現しては「朝まで電話してたから起きれなかった。」と言っていた。そしていつも眠そうだった。そうか、アディルはいつもこんな風に夜中にカザフスタンにいる家族と連絡を取っていたのか。だからいつも眠そうだったのか…。それは思いがけないアディルの一面だった。いつもひょうひょうとして不愛想なアディルも、実は親元を離れて暮らす家族思いの優しい19歳の若者なのだ。彼の両親との接触のチャンスを逃した代償と言っては何だか面白いけれど、今朝、私はこの不思議なカザフスタン人の意外な一面を垣間見たような気がしたのである。