神田川淫乱事件

 外国で二年間暮らすことになり、しかも一度も帰国できない(かもしれない)と言われていたので、出発直前、ついこの間まで私は気が狂ったように本やDVDを買い集めていた。今後読むかもしれない本、もう一度見たいと思うかもしれない映画、大学時代でも読んだことない聖書まで購入して、二年間の海外生活への備えをしていたのだ。
 出発前に家財はたくさん捨てたけど、本やDVDは実家に送り、服とほんとうに大切に手元に置いておきたいものを厳選して段ボールに詰めた。その段ボールが8箱。そのうち7箱が生活用品で、1箱が本とDVDだった。それでも出発のいよいよ一週間前という時まで、本屋通いをやめられなくて、読んだこともないような昔の作家の本を買い集めては、トランクに入れた服の間に滑り込ませた。
 最後の執念のようなそういった買い集めのせいで、伊丹空港から羽田空港へ飛ぶときのトランクは32キロだった。タクシーの運転手も、グランドホステスも、みんなにこやかにトランクを運ぼうとして、持った瞬間に「うっ」と顔をしかめていた。さらには、空港で「23キロにしないと国際線ではお金を取られるから減らしたほうがいいですよ」とのアドバイスまで受けた。
 なるほど32キロもあったら1万以上も取られるということで、トランクから本を数冊と服を抜き、なんとかお金を取られないでウィスコンシン州まで持ち込むことができた。当面の暮らしは読書を含めこのトランクでなんとかなるというわけである。

 前置きが長くなったけれど、実は日本から発送を頼んだ8箱の段ボールが、旦那の実家からなかなか届かず、昨日発送したというメールとともに義理の妹から旦那あてに「数本のDVDを抜かせてもらった」という謎のメールが来た。
 DVDを向うの判断で抜いたとは何事だろうと思った私は、とりあえずどのDVDを何本抜いたのかと質問のメールを返してもらうことにした。荷物を送ってもらうのだから中身を見られるのはもちろん仕方ないことだけど、単純にどのDVDを持っていくかどうかについて判断されたことに少なからず腹が立ってしまった。

そして今日。旦那あてに戻ってきたメールには、数本抜いたDVDというのは3本で、タイトルは以下の通りと書かれていた。

「キカ」「グロリアの憂鬱」「神田川淫乱戦争」。

 メールをみた瞬間、神田川をバックにした卑猥なDVDのジャケットが脳裏をよぎった。「キカ」や「グロリアの憂鬱」はジャケットもタイトルもふつうのスペイン映画だが、DVDの表に小さく、はっきりと「無修正」と書いていたことも同時に思い出した。
ポルノ映画が税関にひっかかる可能性があるという判断だったのだ。つい最近、某海運会社の職員が税関での持ち込みでトラブルがあったという事実があり、それが義理の家族が荷物を送る際の不安材料になったのである。

こういう類のDVDが税関でひっかかる可能性があるかもしれないということを全く考えてなかったとはいえ、とても恥ずかしい大失敗だった。いくら来るアメリカ生活にナーバスになっていたとはいえ、中身を家族に見られることは想定外だったし、さらにこれらのDVDがわざわざ二年間の生活に必要なものだったのかと聞かれたら、今なら「そこまで必要なものでもないだろう」と容易に判断できるような気もする。特に「神田川淫乱戦争」は、渡米を目前に熱心に本やDVDを買い集めていたころのものだったが、そのころの自分自身の精神状態が今更ながら心配になってくる。
もちろんこれは黒沢清監督の処女作で、「キカ」や「グロリアの憂鬱」は言わずと知れたスペインの巨匠アルモドバル監督の素晴らしい作品なのだから、手元に置いておきたかったのには違いない。しかし、今となっては後の祭りである。
なんという恥ずかしい嫁!加えて、旦那は「すべて青子さんの私物です」とまた義妹にメールをしたという。二年間帰国できない(かもしれない)ことを今回初めて、喜ばしいことに感じることになった事件になった。