風雲三宅坂劇場・2004
ドクター佐藤政務次官様。
幽霊(らしきもの)というのは、実際に見ているときは「こわー」じゃなくて「なんじゃこりゃ」ですよね。
私はフィレンツェ滞在時の自宅の洗面所で見ました。
詳しくは申しませんが、旅の帰りに電車を乗り換えたボローニャの駅でちょっと説明しにくいような経験をしました。
その後フィレンツェの自宅に帰ってからもかなり不自然なことがいくつか発生しました。
翌日家人と電話のついでに「いや実はちょいと不思議な体験をしてねえ」と喋っていたら、ドアを開けっぱなしの目の前の洗面所に、白い霧か煙のようなものがモヤモヤモヤっと現れて、ちょうど視線ぐらいの高さでバスケットボールぐらいの大きさになり、普通に会話を続けながら凝視していると「ふー」とゆっくり消えてしまいました。
私はそれまでこのようなものを見たことがなかったのですが、そのモヤモヤを見ている最中にこういうことを考えました。
1.これは世にいう幽霊というものに違いない。
2.この間からの一連の不自然な出来事はこの人が原因だったに違いない。
3.私はこの人をボローニャ駅から連れて帰ってしまったに違いない。
4.全然人のかたちには見えないが、きっと霊感の強い人なら表情とかまではっきり見えるのだろう。霊感微弱で本当によかった。
5.しかしこういう人に近づいて来られるのはあまりよくないことである。電話で実況中継して電話の相手に何か影響を与えてはいけないから、いま話題にはしないでおこう。
6.気の毒だがお引取りを願った方がお互いのためであろう。この電話が終ったらきちんと筋を通してお話してみよう。
で、電話が終ってから
1.あなたと私は住む世界が違うこと
2.私に何か言われても何もしてあげられないこと
3.私は困惑するばかりなのでもううちには来ないでほしいこと
を、空中に向かって真剣に日本語で説明してみました。
拙いイタリア語よりは日本語の方が誠意が通じると判断したからです。
分かっていただけたのかどうだか、このテの話の再現ドラマのオチのようなエピソードを最後に残して(このときは私も『髪の毛が一本立ちになったような気がした』@内田百間センセイ)、それから妙なことは特に発生しなくなりました。
もう関わり合いにならないためにこの話題は今後扱わないようにしよう、と思ったが徐々にこわくなってきたので、たまたま泊まりがけで遊びに来たペルージャ在住の文化人類学徒松嶋さんに一部始終を話してビビらす。
私は「鉛の時代」のことなど詳しく教えてもらって少し賢くなる。
二人で色々話していると、やはりすべては「何者かの意志による必然」であったのだろう、というような結論に落ち着いた。
人の思いというのは恐ろしい。
必然を生み出す力をもっている。
ボローニャ駅の人については「誠に気の毒であるが私にはなんともできかねる。自分で納得したら行くとこに行ってね」と重ねて申し上げたい。
「業が尽きたら仏になれ」(@民谷伊右衛門 in 東海道四谷怪談)。
ということで、私は霊感担当審議官を僭称させていただきます。
わが社では4月1日と10月1日に定期人事異動があり、ことに4月の異動は大規模なので社内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。
私はこれを「人事異動祭り・春の大祭」と呼んでいる。
4月1日の正式な辞令発令に先立って「内示」という儀式がある。
上司に呼ばれて「今度こういう辞令が出るからそのつもりでいてね」と耳打ちされるのであるが、この時点で社内の異動の全貌が明らかになるわけである。
たいていの祭りは前夜祭が賑やかで、本チャンの祭儀は静粛なものだ。
わが社の廊下では内示の数日前から「呼ばれた?呼ばれた?」のささやき声が飛び交い、当日の午後には力作の一覧表が出回って奪い合いの狂騒状態となる。
私はこれを「人事異動祭り・春の大祭・前夜祭」と呼んでいる。
祭りは惰性化した日常生活をリセットし、衰えた生命力を再び活化させる働きをする。
しかしお祭り好きの私もこの祭りだけは苦手である。
だってほとんど根拠のないタダの業務命令じゃん。
ざわざわざわと騒がずに、われら組織の犬は黙って仕事こなしません?ばう?
という冷ややかな気持ちで祭りをやり過ごす春秋なのであるが、こういう感覚はもしかしてサラリーマンとしては非常にマズいのであろうか。わんわん。
奈良出張。
上記祭りの影響もあって三月は出張ばかりしている。
某寺院の法要を見学するのが目的なのであるが、せっかくなので民俗学の吉野裕子先生ご夫妻をお食事にお誘いする。
2年前に宮内庁楽部と韓国国立国楽院との雅楽競演という公演があって、先生には「陰陽五行思想と雅楽」という観点からシンポジウムへのご参加とプログラムへのご寄稿をお願いした。
その機会に旦那様ともどもお近づきになって以来、私はお二人のファンである。
ご婦人への礼儀として内訳は秘すが、お二人の年齢は足して182歳。
まことに重畳と申すよりほかなく、それだけの時間を生きられたお二人のお話が詰まらなかろうはずがない。
先生は気を遣われてしきりに私に話をふろうとなさるのであるが、私はとにかく珍しいお話を聞きたいのでお二人に思い切りボールを投げ返す。
どんな本にも載っていない話が次々に繰り出され、特に旦那様の「昭和八年前後の商船南米航路乗務ばなし」はまさに映画を見るようである。
「南米のパリ」と呼ばれた全盛期のブエノスアイレスでアルゼンチン・タンゴを踊っていらしたそうである。
篠田鉱造の「百話」シリーズみたいな聞き書き本を作れたら間違いなく一巻中の目玉となるであろう。
たっぷりお話を伺って満足満腹だったが、出張本来の目的である肝心の法要は期待に反してスカだった。
いくらなんでももうちょっと真剣にやろう、お坊さんたち。仏罰が当たるよ。
2004年3月14日
沖永良部島出張。
「こないだは鳥取で今度はおきのえらぶですって。出張ばっかりで結構なご身分ですこと。きーっ」などと赤目を吊り上げてはならぬ。
物見遊山ではなく仕事である以上、決して楽チンなものではないのである。
ま、たまにはおいしい地酒が飲めたりしますけど。
沖永良部には奄美大島とも沖縄とも違う唄が残っていて、しかも伴奏に胡弓を使うことがある。
沖縄の宮廷音楽を別にすれば、他の島々で胡弓を使うことはまずない。
しかもしかも海岸に漂着した椰子の実を胴にして弦を張った「椰子の実胡弓」を手作りしてナニゲに弾いていたりするのである。
大変面白いので劇場にご出演願おうという魂胆である。
地元の民俗資料館のS田先生にお引き回しいただいて、Y下さんとN田さんにお目にかかる。
S田先生は島の民俗・伝承の収集記録に情熱を注いでおられる研究者である。こういう真摯な仕事に打ち込んでおられる方にお会いすると、半チク興行師としては本当に頭の下がる思いである。
さて小さいのはコブシ大から大きいのはソフトボール大まで、拾ってきた椰子の実をパカッと二つ割りにして、片面に蛇皮を張る。
ヘタの部分だろうか何だろうか、どの胡弓も裏面にはごく小さい穴が二つと大き目の穴が一つ開いていて、ちょうど人の顔のように見える。
「ウタの神様ですね」
「そう。正月から弾かずにほっといたから、今日はご機嫌が悪くて鳴らない」
椰子の実は大変に硬くて丈夫なので、胡弓に使わない方の片割れはかつて製塩の水汲み柄杓に使ったそうだ。平らな塩田ではなく石灰石の岩場に海水をかけて天日にさらした。
皮には美濃紙に芭蕉のシブを塗ったものを使うこともあった。そのシブは旧暦の決まった日、潮の満干差が一番少ない日に採ったのでないとダメだという。
「なんでだか分らないが、昔の人が言うことに間違いはない」。御意。
そうして作った胡弓は丈夫な上に響きも上々だそうだが、今は全く残っていない。先田先生のところで復元をお考えとのことである。
弓は木または竹に馬の尻尾を張る。島に馬がいなくなったので今はもっぱらナイロン糸である。他の胡弓と同じく松ヤニを塗りつけて用いる。
弓型に削った駒をのせて弦を三本張り、ヴァイオリン式に弦の上から弓を当てて弾く。
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』に森田が馬頭琴(モンゴルの胡弓)をかっちょよく弾く場面があるが、人が胡弓を弾く姿には箏や三味線や尺八とはまた違う色っぽさがある。
「三線(さんしる)は男で胡弓(こーちょ)は女だな」
「はあはあ、女を鳴かしておるわけですな」
「若い男女が集まって、三叉路や十字路で唄遊び(ウタアシビ)をする。唄うたいは両手が空いておるから色んなことができるな。ところが胡弓弾きは両手がふさがっておる」
「はあはあ」
「だから足を使って色々するわけだな」
「楽器を弾けない者は『女のかわりに蘇鉄でも抱いとけ』と言われたもんだ」
「三線を弾ける者はヨソの集落にも自由に出入りできた。女を取られるのがイヤでそこの男どもには嫌がられるが」
うむうむ。モテたい→ギターという発想はまさに歌垣の民俗的記憶をひきずっておるわけですな。
ちなみにヨソの集落に自由に出入りできるのは、境界にいる魔物を三線が払ってくれるからともいう。
「彼女の家の前に行って弾くと、ちゃんと他の人と音を聞き分けてくれる」
「楽器がよく鳴ってる日はもったいないから家に帰ってからも何時間も弾き続ける。そりゃ気持ちいい」
音楽が男女の情や魔物や自然の運行や身体の周波数とみっちりからみ合っていた。
そんな時間がついこの間(といっても50年以上前ですが)まで生きられていたことに愕然とする。
こういう時間をせっせと書き留め記録するのはわれわれの重要な仕事ではないのか。過ぎ去った時間との対話を可能にするもの。記録するということは、過ぎ去った時間とそれを生きた人たちとを「供養」することになるのだろう。
奄美大島の技巧的・装飾的な唄と違い、沖永良部の唄はスッキリとシンプルで、シンプルな表層から二、三枚下に潜んでいる力強さを感じさせる。
唄遊びに培われた複数掛け合いのイキとリズム感が素晴らしい。
これに「人の声に最も近い」といわれる胡弓(*しかも椰子の実)がからむのだから見もの聞きものである。
公演本番の日を垂涎だらだらでお待ちあれ。
垂涎といえば黒糖焼酎「はなとり」がうまい。
焼酎ブームというが、奄美諸島でしか醸造されていない黒糖焼酎にはもっともっとがんばっていただきたいものである。
2004年3月6日
鳥取出張。
鳥取市の円通寺というところに三人遣いの人形芝居が残っていて、大変面白いので劇場にご出演願おうという魂胆である。
わが劇場では「民俗芸能公演」というのをやっている。
地域のお祭り・年中行事などで伝承されている芸能を、舞台での公演として興行するのである。
こういう興行は近世の見世物にもあるが、近代的劇場での舞台公演ということになると、実は柳田国男・小寺融吉らによる日本青年館での郷土芸能大会にルーツがある。
「神社・路上など特定の意味のある空間の、まさに土の上でやっている芸能を、劇場の舞台に上げて観客に見せる」ことにはちょっと考えても無理があり、公演の現場では現実に様々な問題が発生する。
「現地で見るのが一番」というのはまことにごもっともだと思う。
「では一体民俗芸能公演にはどういう意味があったのか/あるのか」というのは大変に面白いテーマなのであるが、それはまた改めて。
民俗芸能公演のプロデューサーは、口先三寸と法外に安いギャラでおじさん・おばさんたちを連れきたり、東京の舞台でお客様に見せて切符代を頂戴する。
全く「人買い」の沙汰である。
違うのは「晴れの舞台」ということでご出演の皆様に少しは喜んでいただける(らしい)こと、そして興行としては哀しいほどに儲からない=大赤字だということである。
民俗芸能公演には金がかかる。
大勢の人が長距離を移動し東京のホテルに泊まるのだから当然である。
金がかかる割にはお客様の入りがよくない。
その昔は「民俗芸能公演はそういうもんだよははは」「赤字でも意義のある公演をすればよいのだよふふふ」ということだったらしいが、この世知辛いご時世にまさかにそんなことは許されない。
予算のやりくりがプロデューサーの胃痛のタネとなる。
ご出演者のための経費もさることながら、スタッフの出張旅費がまたバカにならない。
わざわざ出張しなくとも手紙や電話やFAXやメールで連絡をとりあえば用は済むのではないか。合理化推進。
はい、駆け出しの頃は私もそう思いました。
しかし「顔をつきあわせて話さなければうまくいかないこと」というのが世間には山ほどあるのだ。
かくして民俗芸能プロデューサーは、どんな僻地にも動じない旅行の達人となるのである。
当然のことながらすべての企画は現地調査から始まる。
資料調査で目星をつけておいて、厳選したもののみを現地まで見に出かける。
まず芸能史的に意義のあるものかどうか、次に舞台で上演できるかどうか、が問題となる。
所要時間は。最低限必要な人数は。登退場の方法は。飾り物はどうする。カットの必要があるか。あるならどこをどう切るか。
公演全体のプランが描けたところで現地の皆様に接触する。
当方の企画意図にご賛同いただけたら、改めて演出プラン(民俗芸能を舞台バージョンに変換するには緻密な演出が必要なんです)、上京から帰郷までの移動方法やスケジュール、金銭関係等々をご説明申し上げる。
旅行というものは何かと出費がかさむから、いくら出演料・旅費・宿泊費をお支払いするといっても、結局はご出演者の持ち出しになってしまうのが現実であろう。
またたいていは保存会等がチーム一丸となって活動しているから、当方の言う「最低限必要な人数」だけが上京・出演して、他の人は居残ってくりゃれ、という訳にはいかないことが多い。
そうなると超過人数分の方々には手弁当で参加していただくことになる。
なんともはや申し訳ない話なのであるが、あとはひたすら誠意と頓智をもって縋りつきお願い申し上げるしかない。
かくして民俗芸能プロデューサーは、人とムニャムニャお話をしながらなんとなあく折り合いをつけていく達人となるのである。
で、鳥取。
山と川とに挟まれた典型的な城下町で、近世の古地図どおりの区画と町名が残っているという。
またJRの駅前に温泉が湧いているという稀有な所である。
公演の相談もうまくまとまったので、早速銭湯「日ノ丸浴場」でホコリを流し、テラテラの顔で濡れタオルをぶらさげて赤ちょうちんへ。
ノドグロ(赤ムツ)を軽く炙った刺身でいただき、頭の部分を塩焼にしてもらう。
刺身は脂がたっぷりとしていて餅を食べているよう。塩焼はパリパリパリとあくまで軽く、そのあとを地酒「鷹勇」が爽やかな辛口で洗い流していく。
こりゃあ東京では味わえない口福ですな。うっしっし。
2004年2月24日
A日カルチャーセンターで「雅楽入門」の一席。
こういうお座敷はフィレンツェでイタリア人相手に「文楽」と「和太鼓」を講じて以来久方ぶりである。
「教壇はステージ、講師は女優よ」が私のモットー。
わざわざ足を運んでくださったお客様には、2時間なら2時間を十分に楽しんでいただきたい。
あわよくば「ああ今日はこんな話を聞いたわあ」と少しでもお土産をもって帰っていただきたい。
さらにそれをきっかけにして劇場の新しいお客様になっていただければ申しようもない喜びである。
古典と名のつくものを享受するには最低限の知識と経験とが必要である。
こういうお座敷は「興味はあるけどなんとなく敷居が高くて」「切符の買い方もよく分からないし」といわれがちな伝統芸能にとっついていただく絶好の機会である。
だから職場の同僚に「またアルバイトかよ」「ヒマなのかね」と言われようがどうしようが、伝統芸能のためには大変重要な仕事であると信じていて、わたくし的にはかなりリキを入れている。
しかーし。
久しぶりというのは恐ろしいものである。
お客様との無言のコミュニケーションがいまいちうまくいかない。
口ではもっともらしいことを喋り続けながら「ああ今ちょっとダレてるな」とか「おっ、いい感じに温度が上がっているな」とか、場の空気をビシビシ感じながら即妙に対応していくのが講師の仕事である。
しかるにそのビシビシ感の受信度がいまいち弱い。
お客様がいま何を考えているのか、よく分からなくて息苦しい。
で、そういうビミョ〜な焦り感というのはお客様にも確実に伝わる。
思い切って途中で発声のトーンをカチャッと変えてみたらあら不思議、空気がまことにスムーズに流れるようになった。
こういうときに例えばお客様に質問をふってみるとか全然関係ない話題に脱線するとか、話の構成進行上のワザというのもある。
しかしそういうワザも話の中身というよりは、煎じ詰めれば声とか仕草とか体勢とか、身体的・演劇的な変化が実は効果を発揮しているのではあるまいか。
顔と顔をつき合わせて行われる生のコミュニケーションというのはまことに動物的でオソロシイものである。
特に大勢を相手にするときは、うっかりすると集団の気が塊となってこちらが呑み込まれてしまう。
スピーカーとしてまだまだ修行が足りぬ、と反省いたしました。
またの機会には一層腕によりをかけて喋りますので、これに懲りずにまた来てくださいね。
2004年2月13日
お茶の先生から沢庵漬をいただいた。
帰宅して袋を開けてみると、これがもんのすごくくさい。
といってもゆめゆめ不快な臭いではない。
いわゆる糠味噌のにおいとはまた違っていて、まろやかな中にほのかな酸味があって、大変に食欲をそそる匂いである。
その匂いを嗅いだ途端に、内田百間先生の確か「伊勢こうこ」といった随筆を思い出した。
西日本では沢庵漬のことを「こうこ」「おこうこ」という(私の郷里では「こんこ」「おこんこ」だった)。
百間先生が小さい時分に岡山で食べていたおこうこは、東京風のむっちりした大根漬とは違い、くちゃくちゃと細くひねこびて皺だらけの皺の中が茶色に詰まっているような漬物だった。
いつも女乞食が勝手口に来てはおこうこのヘタをズダ袋にもらって帰った、いかにもそんな思い出に似つかわしい漬物だったようだ。
しかしそのしょっぱさの中に、噛みしめるとえもいわれぬ滋味があったという。
上京以来久しくお目にかかっていなかったそのおこうこが、友達におよばれした食卓にのぼる。
そういうおこうこに「長年あくがれていた」先生は、ボール箱におこうこを詰めてもらっておみやげにする。
寝台列車で帰京する先生はうっかり包みを足元に置きっ放しにしたために、おこうこが暖房で蒸されて車両中がむせかえるようになってしまう。
充満したおこうこの臭いは寝台に眠る他の客にどんな夢を送ったろう、というような話である。
いま握っている沢庵漬はぶっとくて百間先生のおこうことはルックスが幾分違うけれど、多分その時のにおいはこういう種のものだったのだろうと、台所で突っ立ったまま一人合点した。
百間先生の随筆にはおいしそうなものが山ほど出てくるけれど、その味や匂いははかりしれない。
さくら鍋やカツレツやおからやシュークリームや、瓶ビールにしたって今のビールよりはなんだかおいしそうである。
おいしいものの話を聞いてああどんなにおいしいだろうと想像するのは、卑しき所業かもしれぬが実に楽しい。
沢庵漬は炊きたてのご飯に添えて食べたら想像以上にうまかった。
こういうまろやかな発酵臭は動物性の食材では得られない。
なおかつばりばりばりと奥歯より大脳に響く大根の歯ごたえが誠に爽やかで、噛むごとに淡い酸味と奥のふかーいエキスのような味が鼻腔・口腔にじんわり広がる。
日本酒のアテには申すにおよばず、辛い白ワインでも泡盛でもぐいぐいいけそうである。
ぜひそのおいしさをご想像くださいませ。ごくり。
(大家注:「内田百間」先生の「間」の字は、ほんとは「もんがまえ」のあいだが「日」ではなくて「月」なのであるが、このワープロでは出ないので、「百間」をもってかえさせていただきました。先生の筆名は岡山にある川幅百間の「百間川」から取られたのであります。)
問題は「『文化』って何?食べたことなーい」という人たちである。
文化資本をもっている人たちはよい。
文化資本を獲得しようとがんばる人たちもよい。
問題は文化資本などという言葉からは何万光年も離れたところで生きている人たちである。
例えば「そういう人たちはいつの時代にも一定の割合ですべからく存在するものだよ」とか「階層社会化の進行またはその忌避にほとんど影響力をもたない人たちなので勘定に入れなくてよい」というような構えをとるならば、すでにそこでは階層が自明の前提になっている。
松・竹・梅の大きな階層分化をいったん認めた上で、「松の並」「松の上」、さらに「板長おすすめ松の上スペシャル」といった二次的・三次的な階層分化を問題にするのか。
文化資本・階層社会化をめぐる議論は、こういう人たちをどう扱うことになるのだろう。
文化資本=教養と呼んでも大きくは外れまい。
教養とは品性のことである。
教養のない学者もいるし、教養のあるおサルさんもいる、と書いたのは池内紀先生だったか。
教養の欠如はしばしば他者への暴力的な言辞や振る舞いとして現れる。
私は暴力的な言辞や振る舞いを見聞するのがイヤだし、その行使の対象となるのはもっとイヤなので、著しく教養の欠如した人たちとはなるべく接触したくないと思う。
しかしあいにくそういうヤバい人たちは確実に増えつつあるような気がするし、暴力に宿る邪悪な攻撃性も増しているような気がする。
気がするだけで全然そんなことはないのかもしれないが、できればそういう邪気には触れずにすませたいと思う。
こういう考え方は、自分がある程度上の階層にいられることを確信しつつ、階層社会も悪くないんじゃないのという発想をもつことに容易につながる。
「自分を守りたい」という動機は日本の階層社会化を推進する大きな力になるかもしれぬ。
少なくとも東京をはじめとする大都市においては。
人々が文化資本の獲得に雪崩を打って殺到すれば、「一億総プチ文化資本家」は果たして成し遂げられるであろうか。
そんな雪崩が起こっていることなどラーメン煮えたもご存知ない人たちが実はものすごくたくさんいたとしたら。
私が心配なのは「『文化』って食べたことなーい」という人たちの動向である。
2004年1月20日
私はウチダ先生のおっしゃる「日本社会は文化資本の偏在によって階層化するであろう」に両手を挙げて賛成である。
後から言うのはずるいけれど、この命題はかねてよりヒシヒシと身につまされつつ考えていたことであって、わが子にはそんな社会でも楽しーく生きていける人になってほしいと、切に願っていたところである。
イタリアもれっきとした階層社会である。
階層によって職業や住所や言葉や服装や仕草が全く違う。
とびこみの日本人にも一目瞭然なぐらい違う。
当然どの階層に属するとみなされるかによって応対も違ってくる。
イタリア人は無駄におしゃれをしているわけではなくて、ぱりっとした装いはお互いに誤解と混乱を招かないために必要な看板(の一つ)なのである。
でそういう様子を見ていて、「ん。もしかしてこういう方が実は『文化的』なのかも」と思うことがしばしばあった。
ミソもクソも一緒くたという、「なんでもあり」的な、メリハリのない状況は、他者に対する不安を生み出す。
目の前のこやつが一体何者なのか、自分に損害を与える存在なのかどうか。
階層が一目瞭然に表現されていれば、第一次遭遇でのそういう不安は大幅にクリアされる。
日本にもたぶん昭和初期ぐらいまではそういう表象をともなう階層分化があったのではないかと思う。
階層は、アカの他人が限られた環境で円滑に暮らしていくための文化的な知恵と考えればいいのではないか。
それで社会がうまく回っていくのならそれはそれで結構なのではないか。
そんな風に思うことがしばしばあった。
しかし一方では「そういうのは真っ先に自分を安全圏におくゴーマンな考え方ではないの。それで立ち行かなくなったから今の日本になっているのではないの」といううしろめたさを感じる。
しかし一方では「こりゃ間違いなく階層社会が出来上がるぞお」という確信がある。
日本が階層社会化するとすれば、それはかつてそうであった状態への回帰なのだろうか。
ヨーロッパ・モデルを忠実になぞることになるのだろうか。
それとも予想もつかない階層社会の形態をこれから経験することになるのだろうか。
ワカメ酢と都こんぶと寒天を食べながらウジウジと考えてみよう。
2004年1月6日
そういえば伝統芸能の新作の話をほったらかしにしていました。
伝統芸能業界ではこういう主張をしばしば耳にする。
古典も最初は新作だった。
「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も、もとはといえばみんな新作である。
芸能の歴史は、常に新作を作り続けてきた歴史である。
古典作品=決まったレパートリーだけを繰り返し繰り返しやっていると、必ずや縮小再生産に陥り、そのジャンルは退廃してしまう。
ゆえに伝統芸能においては新作を作り続けることがぜひとも必要なのである。
ふむなるほど。
しかし「ほんとにぃ?」という一抹の思いを払拭しえないのはなぜか。
古典以上におもしろい新作をほとんど見たことがないから、ということもあるが、それはまあ本質的な問題ではない。
どうも上の主張には暑苦しさというか押し付けがましさを感じてしまうのである。
伝統芸能業界での「新作」という言い方は「主に伝統的な技法を用いて上演されるか、あるいは伝統芸能の慣習にのっとって上演される新しい創作作品」ぐらいのユルい意味合いで使われている。
技法・慣習とは、発声・所作・修辞文体・音楽・装置・衣裳・上演場所(例:能楽堂でやるから能なのだ)・興行形態(例:「初春大歌舞伎」と銘打っているから歌舞伎なのだ)などなどなどをさしている。
しかしかような様式性の多寡を基準にとった言葉遣いは、はなはだこころもとない。
新作に対して「果たしてこれが歌舞伎か?」「これを落語と呼んでいいのか?」という声が挙がるものの、議論が全く建設的な展開をみせないのも、そもそもベースになる芸能自体を明確に定義する妙手がないからである。
どっからどこまでが歌舞伎で、どっからどこまでが落語なのか。
きちんと境界線を引くことができない限り、新作歌舞伎も新作落語も厳密には規定できない。
ありゃりゃ。これではデッド・エンドになってしまうぞ。
仕切り直して。
「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も、確かに初演の時は新作だった。
しかしそれを見る同時代の人たちにとって、能や箏曲や人形浄瑠璃はコンテンポラリーな(あるいはドラスティックな)芸能であって、決して「伝統芸能」ではなかったはずだ。
ならば「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も「伝統芸能の新作」とはいえまい。
観阿弥は「伝承を重んじる能楽界の活性化と振興」を目指して卒都婆小町を書いたのではない。多分。
いま演劇やCDや映画でごく普通に新作が作り続けられているように、作者はただただ普通に「新しくて面白そうなもの」を作ったのである。
しかるに初めの主張は「伝統芸能というジャンルにおいては伝統を守ることが大変大事なのだけれども、それだけではヘナチョコになってしまうから、常に新しい演目を作ってゆかなくてはならぬのだ」という意味である。
伝統芸能の伝統とは繰り返しのことである。
古いものをやっているから伝統芸能なのである。
言葉に即して理屈をいえば、「伝統芸能」の「新作」というのは矛盾している。
しかし現実には野田秀樹や瀬戸内寂聴やいとうせいこうによって作られた新しい作品が上演されている。
なぜか。
それは歌舞伎や能や狂言が、伝統芸能であると同時に同時代芸能としてのパワーを失っていないからである。
新作が作られるのは、体力を保持している芸能の特権である。
逆にいえば、体力のある芸能なら放っておいても新作ができる。
特に伝統芸能は修辞や身体技法の無限の宝庫であるから、有能なクリエイターは放置しておかない、と私は楽観している。
芸能の延命のために精出して新作を作れ、というのは本末転倒というものである。
私が上記の主張に息苦しさをおぼえる原因はここらにある。
そんなにムリムリ捻り出した作品が果たして面白いだろうか。
それに芸能の歴史は新作の歴史であると同時に、滅びていった芸能たちの死屍累々の歴史でもあることを忘れてはいけない。
歴史学的には惜しいことであるが、寿命の尽きた芸能はあっさりと消えていくしかないのである。
そして初めの主張には「芸能を博物館のガラスケースに入れるな」という言い回しがオプションで付くことがある。
美術品を死蔵するようにただ古い芸能を保存したってしょうがないじゃないか、という意味であるが、まずこれは博物館に対して失礼である。
博物館というのは基本的に「結構な物がたんとある」(@幸田露伴)所であって、大変にエキサイティングな空間である。ショボい博物館にもそれなりの味わいがあるというものだ。
そして芸能は観客との交感の上に成り立つものであるから、「ただ保存してもねえ」というのは一応ごもっともなのだが、「だから伝統を墨守するのは困りものなのよ」と出てこられると「ちょっと待っておくんなさいな」と言いたくなる。
伝統芸能にとっては「伝統を固守しようと努めること」が体力保持の秘訣なのである。
「奥が深い」という言い方は手ズレがしているが、実際伝統芸能で繰り返し上演される古典的演目というのは実によくできていて、奥が深い底なし沼である。
その辺は名作と呼ばれるあらゆる芸術作品と同じである。
目の前の演者がスーッと視線を移しただけで、その登場人物を取り巻く世界の網の目がするすると出現してしまう驚き。
なんべんも見た同じ演目の同じ場面が、まるで違う種類の人間関係の緊張をはらんでいたことに突然気付く。
それは実は作品自体に仕込まれた爆弾のようなもので、演じ手の身体がそれを掘り出して炸裂させてくれるわけである。
私はこういう掘り出しの興奮が大好きであるが、これは古典・伝統の世界でしか味わえない興奮である。
しかし古典・名作と名の付くすべてのものと同じように、伝統芸能を理解するには最低限の知識と経験が必要である。
「伝統伝統っていわれてもよー」というのはそれをすっとばして「とにかく私に分かるようにしてよね」という発想であって、結構な物の並ぶ博物館を「なんだか暗くて静かでやーねー」と早足で通り過ぎるのと同じである。
そういう人の肩をポンポンと叩いて「モシ旦那、面白いのがありやすぜ」と耳元でささやくのがわれわれ興行師の仕事なのである。
世智辛くてキナ臭い世の中で、今年も私は仕事をするぞう。ウッキー。