ブタさんのとってもイタリアーノな日々・2003

 

2003年11月4日(火)

新しいコースを受ける学校の初日。

このコースはイタリアに暮らす外国人の社会サービスというか、異文化の習慣の差などで困っている人を助ける仲介役をこなすための学習をする場なのであるが、実ははっきりとしたことは、まだわかっていない。ただ、同じく異国に住む身として、困っている同国の人の役に立ちたいと思い、申し込んだのだが、日本人のニーズがあるかどうかもわからないし、具体的なことは授業を受けていくうちにわかってくるだろう。

教室には、モザンビーク人、コンゴ人、モロッコ人が3人、アルゼンチン人、インド人、中国人、ルーマニア人、アルバニア人が2人、そして日本人の私という面々がそろった。

シチリア出身の先生は、ずいぶん早口な上、選抜したメンバーだから安心しているのか、それこそイタリア人に話すかなのような「自然」な感じで話すので、こちらはついていくのも大変である。やはり、イタリア語および文化を学ぶ学校とはずいぶん雰囲気が違う。今までは手加減されていたわけだ。しかも、大学卒業か同レベルの人と限定しているため、なんとなく話す話題も高度である。初日なだけあって、まだどんなクラスメートなのかもよくわからないので、変な羞恥心を感じ、わからないときに手を挙げてとめることもできなかった。しばらくすると、この「緊急事態」に私の脳みそが応対できるようになるか、見極めた上で、正直になろうと思う。

今日は自己紹介もかねて、「相手と話し、その内容を理解する」レッスン。

二人一組となり、30分ほどお互いに質問しあって自己紹介をし、その後、その相手のことをクラスで発表というものだった。自分のことを言うのは慣れたものだが、人のことを紹介するのは私はまだまだ不得手。私の相手はアルバニア人のおしゃべりなお姉さんで、イタリアには7年。半時間ほど教室の外、廊下をぶらぶらしながら、なかなかいい感じで「おしゃべり」できたのだが、どちらかといえば彼女のペースで進んだ話の内容は理解できても、それを自分の言葉で置き換えるのはなかなか難しい。しかも、私が最後の発表者となり、今までみんなが話してきて、彼女も抱えていた共通の問題点などを簡略に話し、あまりプライベートなこと(たとえば女性だから年齢は言わないほうがいいかな、とか、まだ一人身だ、とかetc.)は公に言わないほうがいいかな、と勝手に気を遣ってしまったので、すぐに発表を切り上げると、彼女としては不満だったのか、自ら自己紹介をペラペラとはじめた。それを聞いていると確かに話し合ったことなのだが、自分の口から話すと、ぽろぽろと抜け落ちていた点がたくさん出てきた。自分が注意散漫だったわけではないが、この辺り、慣れていないのもあって、学習である。(逆に、このお姉さんは私が言っていないことまで「美しく」作り上げて、私のことを発表してくれちゃっていたが、これも私がアガッてしまった原因かもしれない。)

休み時間も、教室に残っていた人たちとおしゃべりしていてが、とても刺激的であった。

政治的、経済的な問題などでイタリアにやってきた人がほとんどだったが、いわゆる「先進国」出身の私がどうしてイタリアなんかに来たのか、と質問されたのも印象的だった。私としては、「よりよい暮らしのために」というみんなと共通の理由があるのだが、なんだかキョトンとした顔をして、「まあがんばってね」などと言われる始末。ダンナがイタリア人だというのは、おまけのおまけ(と言ったらさすがに主人は眉を吊り上げるだろうか・・・)で、私はイタリアという国が好きである。なんといっても、「自由」!これがポイントである。

モザンビーク人(名前をまだ覚えていないが)の彼女が、イタリア人は過去のローマ帝国時代からの栄光に誇りを持ちすぎで、自国の外のことには関心がなさすぎて、閉鎖的で発展せず停滞している、などといっていた。私は、イタリア人が「井の中の蛙」であることは賛成だけど、閉鎖的だとは思わない。逆に、とても大らかでオープンな国民だと思う。確かに、外国の文化とかそういうものに興味を示して、それを取り入れようという風潮は少ないかもしれないが、それが自分のそばに存在していても、別に恐れない。例えば、私が一時期過ごしたドイツなどでは大量のトルコ人がいるが、彼らに仕事をとられるとか、変な文化を持ってくるとか、彼らがドイツの生活圏に入ってくることを恐れ、トルコ人をまとめてある場所に隔離する。そんな風潮を感じられた。しかし、イタリアではみんな入り乱れて生活し、もののたとえだが、バスで隣に黒人が座ろうともいやな顔をするイタリア人というのはごくたまにしか見かけない。もし外国人が群がっているとすると、私から見ると、イタリア人が外国人を隔離するのではなく、外国人が自ら固まっているパターンが多いように思う。つまり、自分たちの生活パターンを脅かさない限り、いようがいまいがあまり関心がないのだ。逆に、外国人(特にムスリム系)の方が頑なに自分たちの文化を守り、イタリアに溶け込もうとしない、という形だ。それこそ、彼らの頑固さは相当なもので、最近ホットな話題に上がったものがる。

イタリア南部のある小さな村に住む、イタリアに帰化したエジプト人が、自分の子供が通う小学校の教室から十字架を外すように裁判を起こした結果、外すようにと判決が下されたことに対して、多くのイタリア人が反発しているというものだが、300年400年と続いた小学校の十字架は、ただ単に宗教のシンボルではなく、イタリアの文化そのものだ、とチャンピ大統領までが声明を発表し、イタリア全体で大議論を起こしている。このエジプト人は、学校のような公共の場で特定の宗教を押し付けるのはおかしい、という理由で訴えたのだが、彼以外の住民はみなこの判決に不服で、その十字架の意義と、イタリア人のアイデンティティにかかわる問題ということで、一大センセーションである。この騒ぎに、小学校はしばらく休校。子供たちもいやおうなく巻き込まれている。

日本人である私は、宗教ごときにもめるのがいまいちピンとこないのだが、こんなたとえ話をされて、ちょっと納得。

イスラム教徒の国では、女性は肌を露出することは厳禁で、外出する際は必ず頭にスカーフを巻かなくてはいけない。それは地元イスラム教徒に限らず、外国人駐在者も守らなければならず、それを破れば、牢屋に入れられる。いくらイタリア人とはいえ、イタリアの法律はムスリムの国では無効なのである。しかし、そんなムスリムがイタリアに来て、町を歩く女性が髪を振り乱しているのが気に入らぬと、いきなり訴え、イタリアにムスリムの常識を押し付け、イタリアに住むすべての女性にスカーフ着用を強制したのと同じようなことだ、と。確かに、私自身にふりかかってくることを想像すると、イタリア人がキャンキャン騒ぐのも理解できるような気もする。私にとったら単なる宗教のシンボルだが、彼らにとってはそれ以上の、そこにあって当然のものなんだなぁ。その当然の権利をいきなり剥奪され、しかも、民主主義的に言えば、数の上で圧倒的に大多数が反対にもかかわらず、そのような判決が下されたことに対して、騒がれているのである。

しかも、少しややこしくしているのは、感情論。イタリアに来た外国人が、イタリアのシステムが気に入らないのであれば、自分の気に入る国に立ち去りたまえ、というもの。ただし、彼はイタリアに帰化している、エジプト系イタリア人である。外国人というより、イタリア人として扱われるべき立場の人である。

自分の家に招いたゲストが、私が家に飾っている時計が気に入らないからどけてくれ、と頼み、それをどけるのがいやな私はどうする、といったレベルで考えると私はわかりやすいが、ゲストなら帰ってくれとは言えても、家族となると帰れとは言えない。なかなか複雑な問題である。

 

2003年11月2日(日)

パルマのほうに来ている。

昨日は聖者の日で、今日は死者の日ということで、私たちもお墓参り。

こちらのお墓を最初に見たときは、面白く感じたものだ。

日本でも墓地を確保するのは大変らしいが、こちらでもスペースを省略するためか、壁に4段5段の名前と写真付の石がずらりと並び、それこそ、お墓のコンドミニウム状態である。普段は造花組も多いが、多くの人がお参りするこの時期、まん丸で手のこぶし一つ分ぐらいの見事な菊の花が、彩りを添えている。ちなみに、イタリアでは菊は死者に対する花なので、普段の花束には使わないように気をつけたい。間違えて渡した日には、「あなたは私に死ねと言っているの?!」と友人を失うことになる。

友人セルジョの家によると、牛の胃の煮込み料理を作っていた。

定年退職者のセルジョが、ミラノの自宅から一人で気楽にここに帰ってくるたびに、同年代の結婚していない友人たちが集まってきて、いい年の男の集会所といった感じで、食事を作りあったり、トランプをしたりして時間をつぶしているのだが、男ばっかりで、それぞれのこだわり料理という感じで、なかなか面白い。(こんな会にのこのこと顔を出してもうっとうしがられないのも、私の特権かな。)

イタリアの食のメッカ、パルマ周辺より、選りすぐりの材料を使った料理。いくらか年をとっているだけあって、彼らにはそれぞれのこだわりがあり、セルジョ自身もミラノでは手に入らないものをここに来たときに買い込んでいくようだ。

木べらをかき回している、その鍋の中をのぞいてみると、みごとにひだひだの白っぽい筋肉みたいなのがぐつぐつと煮込まれていた。聞くと、朝9時からすでに3時間半ほど煮込んでいるらしい。取り出してくれた一片を味見してみると、日本の焼肉の時に食べていた「あれ」に似ている。うちの焼肉では欠かせない「ミノ」とか「チョウ」とか呼ばれていたものだ。人はこれを「こてっちゃん」とも呼んでいたかな。それがどの部位なのかは知らないが、見た目といい、かんでみた感触といい、「チョウ」と似た感じだが、「チョウ」が「腸」だとすると、「胃」とは違うわけだなぁ。「どうだ?」と聞いてくるセルジョに、

「日本では鉄板で焼いたものを、しょうゆがベースのソースにつけて食べるのよ。もっとも、日本では『高貴な』人が食べるものじゃない、と思われているけど」

「じゃあ、『貧しい』人の食べ物なのかい?」

「でも、うちではいつも食べていたし、それこそ韓国の人がやっている本格的な焼肉屋で食べる分は、とってもおいしくて、私は好きだけど」

「いつもこれだったら飽きるけど、たまだったらおいしいよな。でも、鉄板でやるのは・・・」

どうも、硬くなるのがいやなようだ。

イタリア流は、4〜5時間たまねぎ、セロリ、にんじん、にんにく、パセリなどと一緒にじっくり煮込み、出来上がったらバターを鍋の中に入れて溶かし、お皿に盛ってパルメザンチーズの粉チーズを振り掛けて、頂く。

ちょうど昼食時。

私のために一皿、分けてくれた。

お昼を準備してくれているイーリスに悪いから、ほんのちょっと味見するだけのつもりだったのに、やわらかい筋肉が野菜ソースを十分に吸ってとってもおいしい。結局一皿全部平らげた私は、これからまた改めて昼食である。

 

2003年10月31日(金)

もう10月最終日。

日々、時間が経つのが早い。

もう結婚してから1ヶ月である。

まだ主だった友人たちに結婚報告をしていなかったので、挨拶メールを送る。

よく結婚したカップルが写真付のはがきを送っているが、ここトリノの写真屋ではそのようなサービスはないらしい。メールを持っていない友人には、写真をはがき大に印刷して、裏側にメッセージを書いて送ることにしよう。

改めて、写真を見てみると、二人でちゃんとした写真がない。

これではメッセージも様にならないと思い、ヴィデオテープからめぼしい画像が取れないかどうか見てみるのだが、式自体はあっという間に終わったし、パーティのほうでは私がカメラマンだったので、二人のツーショットというのはほんとに少ない。その一瞬を探し、目を皿にして凝視し、そこからいくつかの静止画を取り出し、停電の暗さを多少カバーし、その上からお絵かきなどして遊んでいると、気がつくと夕方になっていた。

だめだなぁ、この手のことをやりだすと、止まらない・・・

 

2003年10月30日(木)

学校から帰ってきて、家の扉を開けた瞬間、呼び鈴が鳴った。

インターフォンに出ると、私への小包だという。

はて、誰かと思うと、結婚式にも招待したドイツの先生からだった。

箱を開けてみると、中から出てきたのは圧力鍋!私が探していた、まさにそのものだった。

日本から持ってきた料理本で使われていたタイプの圧力鍋で、中にもうひとつかごがあり、その底に穴がたくさん開いていて、鍋の中で蒸し料理も同時に出来るという優れものである。

それがドイツのフィスラー製だったので、ちょうど結婚式に持参するプレゼントに何が欲しいかと先生が聞いてきたのをいいことに、探してもらえるように頼んでおいたものだった。

しかし、当日別のプレゼントを持参した先生曰く、ドイツではそのタイプはもう売っていない、とのことだったので、ドイツでの購入をあきらめ、日本のいとこに私が以前そのタイプを見かけた店に行って情報収集して欲しい、と依頼し、その結果、日本でもない、とのことだったので、がっかりしていた矢先であった。

願えばかなうものだなぁ。うれしいぞぉぉ。

ずうずうしくも、頼んでみて、よかった〜!

 

2003年10月29日(水)

昨日の夜から、温度差が激しすぎて体がついていけなかったのか、頭がガンガンしていたが、今朝は耳が痛くて目が覚めた。頭を傾けるだけで、ズキズキする。

ちょうど飛行機に乗って、空圧差のせいで耳の奥がズキズキする感じにも似ていたので、鼻をつまんで耳抜きを試みると、イタイ!!まるで鼓膜が破れたかのようなぐらい、鋭い痛みが走った。

夕方、医者に行ってみると、先生は私の耳の穴にライトをあててのぞきながら、

「ずいぶん赤くなっていますねぇ。」

と言って、どうしたのか聞いてくる。

私としてはトルコ風呂に行ったから、こうなったのかどうか確信がもてなかったので、話したものか迷っていたのだが、これといって他に思い当たることもない。

「実は昨日トルコ風呂に行ってきたんですが、それで寒さにやられたのかもしれません」

「トルコ風呂は普通暖まるものですが・・・」

「いや、だから、その内と外の温度差に体がショックを受けたのかと・・・」

「そうですか。それでは、しばらくトルコ風呂は諦めてくださいね」

まるで、私たちアジア人はトルコ風呂が大好きで、そこに行けないのは辛いだろうけど・・・というかのように、同情の響きがあったので、あわてて付け加える。

「いえ、トルコ風呂には昨日が初めてで、好奇心があったからだけなのですが・・・」

先生は、私を見て、にやりと笑った。

そういや、そんなこと説明するまでもなく、どうでもいいことだわな。

処方箋を持って薬局に行くと、出てきた薬は飲み薬だった。耳に直接さす耳薬みたいなのを想像していただけに、意外だった。

 

2003年10月28日(火)

トルコ風呂へ。

前回行ってきた友人の話を聞いていたので、ひそかに楽しみにしていたのだが、言いだしっぺのその友人は風邪でダウン。その他にも当日キャンセル組が続いて、結局私を含め3人。そのうち、1人は今回が初対面。正面玄関で「はじめまして」の挨拶をしながら、即裸のお付き合いをするなんて、ちょっと日本人ならではかしら。

受付にイタリア人っぽくないお兄ちゃんが二人。それぞれIDと引き換えに、ロッカーの鍵を受け取り、お兄ちゃんはエスプレッソ用プラスチックのコップに、オリーブからできた、どろっとした茶色いトルコの石鹸を入れて渡してくれる。

「お風呂の部屋に入って5分ぐらいしたら皮膚が柔らかくなってくるから、この石鹸を全身に塗ってください。古い皮膚細胞が取れますよ。目は避けてください、痛いですから」

ワクワクしながら、脱衣室に行くと、平日の昼間なだけあって、バスローブを羽織って寝そべっているお姉さんが一人。

水着の下のほうは必ず、ということだったのだけど、前回の友人のアドヴァイスに従い、私はパンツ一丁。初対面の彼女はビキニ。もう一人の友人はビキニを持っていないからワンピースの水着という姿で、扉を開けると、黒人と白人の女の子がそれぞれ中年のおばさんのマッサージをしていた。

早速シャワーを浴びて、さらに奥の扉を開けると、薄暗い中、蒸気でもうもう。これが、うわさのトルコ風呂。日本で入ったことがあるミストサウナと同じような感じである。中央に大きな黒い石の台があり、その上で白人の女の子が大の字になってうつぶせに寝転がっている。蒸気の中、お姉ちゃんの白い肌がちょっとピンクがかっていて、それと黒い台とのコントラストがぼわっと浮かび上がって、ちょっとセクシーである。いかにもアラビアちっくなタイル張りの部屋の四方の壁の前に石のベンチがあり、ライトがうっすらと当たっている辺りに3人とも腰を下ろす。お兄ちゃんが言っていた通り、石鹸を塗りながら、おしゃべりしていると、汗がたっぷりと出てくる。途中で入ってきたおばさんは、冷たい水を汲んだバケツを足元に置き、時折その水で顔をぬぐっている。私は顔につけた石鹸が汗で目に入り、あわてて隅の洗面台のほうに行き、顔を洗ったのだが、またその水道の栓が羽のような形で、おしゃれであった。

のぼせてくると外に出て、冷たいシャワーを浴び、しばらく休んでから、もう一度中に入り、それを2度くりかえすと、私は満足し、脱衣室で横になって熱を冷ましながら友人たちを待った。彼女たちはさらにもう1セット。ほくほくになって、3人で横になっていると、黒人の女の子がハーブティーを持ってきてくれた。甘みが効いていて、体にじわっとしみこんでいく感じだった。

体がぽかぽかなので、セーターなどを着込むのがためらわれるほどで、行きに着けてきたマフラーなどは手に持って外に出ると、ひんやりした冷気がちょうど気持ちいい。でも、湯冷めしてはだめだと、ブラウスのボタンをちゃんと上まで閉めなおす。時計を見ると、2時間ほどたっていた。ほど近くに住んでいるらしい彼女たちは歩いて帰り、私はトラムを待った。周りの人が寒そうにコートの襟まで立てている中、私一人鼻の上の汗をぬぐい続けた。

 

2003年10月26日(日)

今日から冬時間。

家中の時計を1時間戻す。

友人夫婦に誘われて、オペレッタ「Al Cavallino Bianco」(訳せば、「ホテル『白い子馬』にて」といったところだろうか)を観にいった。アルファ劇場というこじんまりしたこの劇場は、以前友人のオペラを見にいったときの別の小劇場のボロちい座席に腰が痛くなったのを思いおこさせたが、一人20ユーロの入場料を払っただけあって、アットホームな雰囲気のまともな劇場だった。

このオペレッタは、ベルリンで1930年に初演され、ドイツのザルツカンメルグットという町に実在するホテルが舞台の、ホテルの第一給仕と女主人を中心に繰り広げられるドタバタコメディだったが、照明の使い方などが単純で、学校の文化祭のような雰囲気で、オーケストラが演奏する音楽も、地元のお祭り風で、なんとなく懐かしい気分になった。ただし、前日、面白いテレビ番組がなくて、つい手元のDVDで本格オペラの「カルメン」を見てしまったため、出演者の歌唱力、小道具などの差が目に付いてしまったのが、私の失敗だった。そりゃ、世界の3大テノールの一人、ホセ・カレラスと比較されるほうはたまったもんじゃないよな・・・。

ただし、観客の反応が非常によく、周りの多くの人たちは、時折出演者と一緒に歌いだし、出演者が求める合いの手にも快く対応し、手拍子などもリズムよく、盛り上がり方がすばらしかった。オペレッタに限ったことではないが、イタリア人はコンサートなどでも反応がよく、場を盛り上げるのが上手なので、アーティストはイタリアで演奏するのを好むなどと聞いたことがあったが、これがそうなのか。なるほど。

友人の説明によると、主演だった男性がこの劇場の持ち主で、家族ぐるみで経営しているようだ。友人もそうだが、期間中チケットを定期予約購入している人も多いらしい。道理でリピータ同士、アットホームなわけだ。日本で言えば、宝塚とか、劇団四季などのファンといったところだろうか。いやいや、雰囲気的には吉本新喜劇に近かったりして・・・。

 

2003年10月25日(土)

離婚に伴い、元妻と連名で所有していたガレージを売り払ったジュゼッペは、私のことが話題に上ったついでに、買主と和食レストランでのランチを提案したらしく、待ち合わせ場所に行くと、ジュゼッペと同世代のイタリア人ご夫婦がにこやかに手を差し出してきた。

コンドミニウムの地下にある駐車場なので、同じコンドミニウム群に住む人が興味を示すのが当然なところで、このご夫妻もここに住んで何年といったところだが、私のことは知らなかったらしく、それどころか、時折話を交わしているコンドミニウム住人でさえ顔は知っていても名前は知らない、という状態。都市部のマンション住まいというのは、日本もイタリアも大して変わりはない(南イタリアでは違うかもしれないが・・・)。まだ、知らんぷりせず、挨拶はちゃんと交わすだけ、イタリアはマシか。

和食は初めてというご夫婦、料理が出てくるたびに私が説明するんだが、いわゆる和食的なものは苦手のようだ。生魚が使われたにぎり寿司はもちろんだめ、味噌も豆腐もあまり、ご夫人にいたっては、大抵、醤油と砂糖で味付けされた料理が基本の和食は甘ったるくて・・・と、手が止まり、味見するだけでも、と勧めるのだが、見たことがない知らないものについては、食べたことがなくても、だめだと判定されるらしい。パンがどうして出てこないのか、との質問に、白いご飯を指差しながら、それがパンの代わりだと説明すると、何も味付けされていないただの白いご飯を食べるという発想が消化できないのか、手をつけなかった。

ご主人のほうは、折角だからと、恐る恐るながらすべてを味見していたが、おあげをつまんでみて気に入らなかったのか、味噌汁は残した。

このご夫婦に限らず、イタリア料理からかけ離れたものに手を出したがらない人は意外に多い。

確かにイタリアは歴史もあり、世界遺産など美術的価値が高いものも身の回りにごろごろあり、食べ物もおいしい。よって、自国のもので満足だから、わざわざよそのものを冒険して知る必要はない、という内向きの発想の人が多いのも理解できるし、実際、井の中の蛙である。その井が極上の居心地だからそれでいいんだろうけど。

一方、日本は世界一の飽食美食の国である。世界中のグルメ料理にあふれ、それらをごくごく身近に楽しむことができる珍しい国である。しかも、それらの情報の充実度は異常なぐらいである。(私から見れば、あふれすぎだが。)

そんな国からやってきた私に、「あなたパスタ料理するの?」「いつもお箸しか使わないの?」などという質問は少し間抜けに聞こえる。しかし、井の中しか知らないんだから、仕方がない。

逆に、私はその土地その土地の珍しい食べ物には大抵トライする。地元の人がおいしいとしているんだから、それには理由もあるだろうし、実際おいしいものも多い。

どちらが、「幸せ」なのかは、意見が分かれるところだろうけど。

 

2003年10月24日(金)

今月頭に、ジュゼッペの古い友人から突然手紙が来た。

70年代、アメリカ、シアトルで働いていたときに知り合った日本人、ということは聞いていたが、長年音信が途絶えていたので、その生死さえわからなかったぐらいで、そこに書かれてあったメールアドレス宛に、久々の近況報告や写真のやりとりが続いていた。

そろそろ落ち着いたところで、同じ日本人として、私のほうからも質問をしてみた。

どうやら彼はシアトルで生まれ育った日系二世のようで、日本の学校には1年しか行ったことがない、とのことで、日本語でメールするのであれば、ローマ字で簡単な単語でお願い、とあった。岡山からアメリカに渡った両親とは日本語でしゃべっていたらしいが、その日本語は明治時代のもので、現在の日本語とはずいぶん違う、とも書かれてあり、とても興味深い展開になってきた。

日本にも明治・大正の時代を生きてきたお年寄りの方はいるが、海外に移住した人というのは、そのまま時代を冷凍保存した形になり、それを現代っ子の私とコンタクトするために解凍する、ってな感じだろうか。思わず、ティーンのころに盗み見た父の夏目漱石の蔵書の、堅苦しい文体を思い起こし、どんな会話になるか、想像力をかきたてた。もっとも、日本語はどうやら苦手なようなので、英語で会話がメインになるだろうが、是非お住まいのアラスカまで会いに行ってみたいものである。

 

2003年10月23日(木)

先日の着物展会場に紙漉きの作品を取りにチェントロ(町の中心部)まで来たついでに、近場の中華食料品店で、お買い物。仕入れ前なのか、生物の種類が少ない。これまでは土曜日に来ていたので気がつかなかったが、曜日によってこれほど差があるようだ。買うつもりだった豆腐は手に入らなかったが、日本酒の大瓶などをかごにつっこみ、レジに持っていく。さらに、もうすぐなくなる片栗粉を買おうと、おばさんに聞いてみる。

「おばさん、紙切れとペンを貸してください。あるものを買いたいんだけど、イタリア語と中国語の表記ではどれなのかよくわからないの」

おばさんが差し出した紙切れに、漢字で「片栗粉」と書き、日本語ではこう言うのだが、と説明すると、中国語で店の男の子に何かを指示して、持ってきてもらった袋にはイタリア語で「米粉」と書かれている。袋の上から触った感触はたしかに片栗粉に似て、ギシギシした感じがするが、米を挽いたものならば、違うものじゃないか、と疑い、

「これは水溶きして火にかけると、ドロドロになるかしら?」

「ドロドロ?」

おばさんはいつもいい加減なイタリア語をしゃべっているだけあって、質問の意味がよく理解できないようだ。手振り身振りで説明すると、「あ〜!それそれ」と声高に調子を合わせて、店子に指示を出すが、要領をえないので、自ら別の袋を取りに行った。その袋には「タピオカ粉」と書かれてあった。再び手振りでドロドロになるかと再度確認すると、

「シーシー(はいはい)!なるなる!ドロドロ!!」

などと、首を振りながら大げさに肯定する。

私はタピオカという食料を知らないので、なんとも言えないが、片栗粉の原料も知らないので、何とも返答の仕様がない。ここはおばさんを信じて、試しに買うことにした。

夕食で、早速そのタピオカ粉を試してみると、たしかにドロドロした感じが出てきた。別に変な味になるわけでもなく、見た目も片栗粉を使用したときと何も変わらないようだ。

辞書で調べると、タピオカもカタクリも、その地下茎からでんぷんをとって商品にしたもののようだ。おそらく、でんぷんの質の違い、ということだけだろう。

ひとつ、お勉強!

 

2003年10月21日(火)

前回の帰国時に知り合った人がローマに語学留学に来て、1ヶ月ほどたったところだが、イタリア人と友達になりたいと言っていたので、一昨日の日曜日に私のローマの友人に頼み込んで、ローマ人によるローマ観光を仕込んだのだが、それがどうなったのか知りたくて、彼女に電話した。

 

朝の10時の待ち合わせから、なんと夜中近くまで一緒だったという彼女。途中から彼の友人宅に行って、さらに別のイタリア人も加わって、それこそイタリア語三昧の日だったようで、楽しかったそうだ。

 

ただ、最後の別れ際に、彼がキスをしてきたので、焦って一生懸命説明してそこで収まったらしいが、彼女にとってはびっくりだったらしい。

 

「もおー!あの男は!!大丈夫よ。私がちゃんと釘刺しとくから・・・。気にしないで、キスなんて挨拶みたいなもんだから。ローマでは私も知らない人からバールで、いきなりプロポーズされたこともあるし」

 

「そうみたいですねぇ。私はまだ慣れないけど」

 

一応彼女を落ち着かせるために言った台詞だが、挨拶の頬のキスと口へのキスとはやはり意味合いが違う。そうこう話しているうちに、私の携帯電話が鳴った。

 

彼女との会話を終えて、携帯電話に出ると、ちょうど話していた当人だった。

 

「ちょうど、あなたのこと話していたのよ」

 

「彼女はぼくのこと、どう言っていた?」

 

「一日中付き合ってもらって、イタリア語もゆっくりしゃべっていたから理解できたし、楽しかったそうよ」

 

「うん、途中からロベルトの家に行ってねぇ。覚えているだろう?それで、「ぼく」のことはどう言っていたんだよぉ?」

 

「そうね、優しくて、感じがよくて、いい人みたいだってさ。ただし、あなた最後に彼女に何をしたの?」

 

「何のこと?」

 

「彼女、驚いていたわよ。キスなんかしちゃって!駄目じゃない・・・」

 

「だって、彼女もかわいかったし、楽しかったし」

 

「一応、これはローマ式だから気にするな、とは言っといたけど。日本では初対面の人にキスなんてしないの!」

 

「おい、ちょっと待った!ローマ式だって?ぼくだって誰彼にもキスはしないよ。キスするのはもっと近しい感じの・・・」

 

「ハハハ、よく言うよ。これだからローマ人は・・・(笑)」

 

「ぼくも日本のことは大好きだし、新しい日本人と知り合いになれて、感謝しているよ」

 

「それだったら、彼女にイタリア語のレッスンしてあげなさいよ。そのうち彼女もお礼の電話をするって言っていたけど」

 

「ああ、ぼくも近々電話するつもりでいたんだ」

 

彼女のほうでは、純粋にイタリア人の友達が欲しかったようだけど、どうなることやら。

 

 

 

 

 

 

 

10月20日(月)

 

2週前と同じ時間割のフィデンツァ行きのバスに乗る。

 

また、あのナポリの運転手のようだ。

 

今度は前列に座った若い女の子と会話を試みている。

 

ようするに、おしゃべりなのだなぁ。

 

スパゲッティの話などで女の子が呼応してくれたのがうれしいのか、ちょうどお気に入りの曲だったのか、ラジオよりクイーンの曲が流れ始めるとそのヴォリュームを少し上げた。

 

バックミラーには、にこやかな顔が映っていた。

 

フィデンツァのほど近くまできたところで、その女の子の携帯電話が鳴った。

 

運転手のアンチャンはすぐにラジオのヴォリュームを落とした。

 

「ええ、もうすぐそこまで来ているから・・・」

 

女の子は言葉数少なく答え、すぐに携帯を切った。

 

ジュゼッペもその様子を見るとはなく見ていたようで、

 

「彼はヴォリュームをすぐに下げたねぇ。」

 

なんて私に耳打ちする。

 

そして、バスは駅に到着した。

 

「さようなら」

 

一列目に座っていた彼女は、真っ先に降りていった。

 

「さようなら」と答えるアンチャンは無表情だった。

 

2度目に見るこんなアンチャンになんとなく親しみを持って、私も「さようなら」と挨拶をした。

 

2003年10月17日(金)

 

先日試験を受けた学校の方の結果発表。

 

秘書の部屋の前では、何人かが入室を待っていた。どうやら一人ずつ招き入れて結果を伝えているようである。

 

私の前にいた女の子が部屋から出てきた。どうだったか結果を聞くと、だめだったらしい。そこに黒人の女の子たちが割り込んできた。なんだかわからないけど、彼女たちのほうが先に来ていたらしい。

 

私のほうでは特に急いでいるわけではないので、場を譲ると、部屋の中から黒人特有の太い笑い声が聞こえてきた。彼女たちは合格したということだろうか。私が受講したいコース以外の発表も今日らしいが、もし同じだとしたら、2人も18人の枠からとられちゃったのかな・・・。

 

次に私が入室すると、秘書の人たちはまだ笑っている。

 

どうやら、イタリア人とは違う反応を示す外国人とのやりとりを、おちょくり半分に楽しんでいる模様。私が入室すると、秘書の男の人のほうが、女の人のほうに、「この『かわいい』中国人の相手は、今度はぼくがする!」などとはしゃいで言っていた。

 

結局その男の人はこの作業に慣れていないらしく、私の名前がどこにあるのかさえ見つけられなかったので、あらゆるコースのリストを私に渡し、私はすぐに自分の名前を見つけた。

 

合格だ!

 

ついでに、一緒に試験を受けた友達の名前も見つけた。

 

よかった!これで、二人一緒にわだかまりなくコースに通える!

 

 

 

 

 

 

 

10月16日(木)

 

ここ数年通っているイタリア語の学校の方の初日。

 

明日合格発表がある別の学校の方の結果次第で、ずっと通っていた午前中のクラスに通えなくなる。

 

先生のガブリエッラが素晴しい先生で、未だにこの最上級クラスでは落ちこぼれだけど、入った当初と比べればずいぶんと上達し、先生も満足していたぐらい、目に見える変化に達成感は高かった。

 

今期のクラス別リストを見てみると、午後のクラスを第一希望、今までの午前のクラスを第二希望にした私は、やはりいつものクラスから外れ、担当も別の先生だった。しかも、同じレベルの人が少なかったせいか、ひとつ下のレベルのクラスと統合されているようだ。

 

なんだか、ちょっとがっくり。

 

実際に行ってみないとわからないけど、ここ数年来慣れてきた各国代表のハイレベルな主張に再びめぐり会えるだろうか。時間割も夕食前の微妙な時間だし、なんだか行く気なくなりそう・・・。

 

10月15日(水)

 

日本人の女同士でランチにいこうと誘いを受けて、日本人がシェフをしているあるフランス料理のレストランに行く。私たちと同じような年代の、かわいらしい女性がシェフで、お客ががやがやとやってくる前だったので、ゆっくりとお話。こんなところで日本人と知り合いになるのも、なかなか乙である。

 

ラザニアと煮野菜、いわしのテリーヌといったボリュームたっぷりなお皿で、味はさすが日本人がやっただけあって、デリケートであった。(きっと日本人受けする味なんだろう。)

 

程なくぞろぞろとお客がやってきて、満員になった。これは、イタリア人にとってもおいしい、ということだろう。

 

結局最初に来て、最後の客が出て行くまで、店でねばっていた。

 

この辺り、いかにも日本人的だろうか。

 

これだけの人数分をひとりで裁いた彼女に賞賛の言葉をかけて、挨拶をすると、なんと値段までおまけしてくれた。ここまでされちゃぁ、また来なきゃね。

 

2003年10月14日(火)

 

トリノの着物展に行く。

 

四季ごとになかなかがんばって展示してあった。

 

最後の部屋では、草履やかばん、帯止めなどの小物、あらゆる種類の反物などが展示されていて、その横であの有名な女性、う〜ん、名前が出てこないが、私が日本にいた当時はお茶の宣伝に出ていた人だが、その人が京都弁で着物の手入れの仕方を説明しているヴィデオを流していて、なんだか懐かしい音の響きに思わず聞き入ってしまった。

 

そこから棟を変わって、さらに奥まったところに入っていくと、日本文化の紹介ってな感じの部屋に出て、都電の様子、女子高生の姿、レストランの本物そっくりのメニュー皿のプラスチックオブジェクト、漫画などが展示してあり、その奥の一部屋で一人の男性が紙漉きを実演していた。

 

私の姿を見て、日本語で話しかけてきて、日本人だということが判明。

 

トリノで紙漉きなど教えているアーティスト、とのことだった。

 

折角の機会なので、ジュゼッペが紙漉きに挑戦。枯葉や枯れ枝などを使って、なかなか楽しそうにやっていた。

 

3日後に仕上がっったものを展示会の受付に置いておいてくれるそうだ。

 

2003年10月13日(月)

 

みんなでFILAのアウトレットショップに行くためにトリノとマッジョーレ湖のちょうど中間辺りのビエッラまでドライヴ。

 

ショップにたどり着くと、月曜日は3時からしか開いていないということで、時間つぶしに隣町オロパの僧院を見学に行った。ずいぶん山道を上がっていくと、すっと視界が広がり、壮大な僧院が姿を現した。見るからに、カトリックの権力パワーがムンムンである。百以上はあるだろうか、僧侶たちの部屋の廊下が左右に伸び、右側には教会があり、中には真っ黒なマリアとイエスの像が飾られていた。(特徴的だし、きっと有名なんだろうけど、面倒になって説明は読まなかったが。)

 

正面の階段を登りきると、それこそ大きな僧院がデーンとそびえている。山の森林が紅葉し、霧がかっている中、なんだか雰囲気抜群である。日曜日には大型バスが何台も到着するであろうこの場所も平日に参拝する人はまばらで、ここもまたゆっくりと見学ができた。

 

 

 

ビエッラの街中では、年代ものの建物も手入れよく保存され、町全体がとてもかわいい感じ。最近見た町の中で、久々のヒットであった。

 

時間になり、肝心のFILAの店に戻り、品を物色したが、どうやら私の趣味ではないようだ。ジュゼッペは同僚にうわさを聞いてこの店に期待していたが、気に入ったもののサイズが合わず、結局シャツが2枚。唯一セルジョがスポーツウェアのセットを喜んで買い込んでいた。

 

店員曰く、ちょうど先週末に誰かさんがたんまり買い込んでいった模様。

 

アウトレットでの買い物はツキとタイミングが大事である。

 

 

 

 

 

 

 

10月12日(日)

 

昨日からウチに来ているミラノの友人と共に、トリノ散策。

 

中心部で、サラミやらワインやら健康食品やら見本市が行われていて、私たちも出来立てあつあつのポレンタを頂く。ポレンタとはとうもろこしの粉を熱湯の中で1時間以上かき回してどろどろになったものをそのまま食べてもよし、冷やして固めたものでもよし、貧しい時代のパンの替わりのようなものである。

 

自宅では、ずっとかき回しているのが面倒で、なかなかやらないんだけど、そういう人たちのために3分でできる粉も販売されている。しかし、それはやはり味がずいぶん違うらしい。私は試したことないけど。

 

ここで試食させてもらったものは、この1時間ものの粉で、大鍋で男の人が交代でかき混ぜ棒をまわしていた。

 

そのパフォーマンスにお祭り気分は盛り上がるけど、肝心のお味のほうは粉引きがずいぶん荒いものなのか、ごわごわとした感触だった。

 

ちょっとがっかりしたけど、ピエモンテ地方のワイン、バルベーラを飲んで、気を直す。カップ半杯ほどだったけど、キューッと頭にくる。舌の上を転がる濃厚な感じとコク。普段飲んでいる軽い炭酸ワインとは違って、すぐにクラクラと気持ちよくなってきた。

 

ほかほかしたいい気分で、場所をリヴォリのお城に移すと、ちょうどクラッシックカーの持ち主が一堂に会していて、ジュゼッペも友人のセルジョも幼年時代を思い出し、懐かしそうに見て回っている。中でも私は姿も名前そのままのトッポリーノ(ねずみ)という黒い小さな車を気に入り、車と一緒に記念撮影。丸いランプがミッキーマウスの耳のようでとてもかわいい。

 

程なく、いかにも「それ」らしい持ち主たちがそれぞれのマイカーに乗り込んで、街中のパレードに消えていくのを見送った。

 

2003年10月10日(金)

 

今日こそはジュゼッペと一緒に遠出をするぞ、と早起きすると、真っ青な空。

 

ドライヴ日和である。

 

雑誌にもいろいろ写真が出ていた、クーネオ地方のサルッツォに向けて出発。

 

トリノから南に向けて、まずはピネローロ。

 

トリノを小さくしたような感じの町。

 

町の真ん中に大きな広場があり、周りの店の1つよりかわいい包装紙を見つけて、購入。

 

美術館は、なんと金曜日が休館。

 

特に他に見所はなさそうな感じだったので、次はカヴールに向かう。

 

カヴールはとても古い町。

 

中心部から丘の上を見上げると、上のほうに寺院のようなものが見える。

 

車がやっと1台通るような道を登り、駐車場には車一台さえない!

 

丘の頂上まで登ると、マリア様が飾られていて、カヴールとその周辺のパノラマが楽しめた。誰にも邪魔されることなく、新鮮な空気を吸い、一服。平日の旅行はこういうところがよい。

 

さらに南に、サルッツォに向かっている途中、有名な寺院を通過するが、12時を回り、ちょうど拝観時間から外れてしまったので、帰りによることにする。

 

サルッツォはなかなか味のある町だった。

 

ここはいい家具がいい値段であることで有名らしい。

 

こちらはまず腹ごしらえ、と人が一杯いるところがおいしいに違いないとみつけたところで、ちょうど終わったらしい人のテーブルに座ると、どういうわけか、ここは予約済、と道路側のテーブルに追い払われ、感じが悪いので、別のレストランを探す。

 

結局、地元のビジネスマンが軽くランチをとっている感じのところで、日替わりランチメニューをよく冷えたビールと飲んで、一息。人間、お腹がすくと、元気もなくなり、歩き回る気力もなくなるが、バールマンが支払いのときに、マロッキーノ・コーヒーをおまけでくれて、さらにご機嫌に元気回復。

 

サルッツォの有力者の元館をひとつ見学して(もちろん、見学者は私たちだけ!ガイドに説明もとめ放題)、中心部の石畳をうろうろ。鐘楼に登ろうかと思ったけど、入場料もとられる上、歩き回った疲れからかジュゼッペは登らないというので、外から眺め、お城のふもとまでたどり着くと、私自身疲れを感じたので、また次回に、ということにした。日本からイタリアにやってきたのであれば、できない業だが、近場に住んでいる利点である。

 

見学した館で修復した作品が返品されたというマンタのお城を最後に見学。ここでも見学者は私ひとり。ここではガイドもなく、説明が書かれた紙切れが渡され、誰も見ていないのをいいことに、見事なフレスコ画をヴィデオカメラにおさめる。一応撮影禁止だったんだけど、入場料をケチって庭で待っていたジュゼッペにもこれで見てもらおう、と。

 

2003年10月9日(木)

 

トリノ市内うろうろ。

 

新婚旅行らしきものはしないけど、新婚ということで折角15日間も休みをもらったジュゼッペも家にいることだし、トリノ周辺の日帰りドライヴぐらいはしたいと思っていたところである。そんなところに、古本でピエモンテ州特集の雑誌を見つけた。ちょっと、読んでみて、めぼしいところをピックアップしてみよう。

 

 

 

外は暑いのやら、寒いのやら、わからない。

 

どうやら、風邪をひいたらしく、微熱もあるのだろうか。

 

くしゃみ、鼻水に悩まされる。

 

こんなときは、外をうろうろせずに、おとなしく家でじっとしているのが賢明なのかもしれないな、と思いながらも、人だらけの週末ではなく、平日に街をふたりでぶらぶらするのが珍しく、トリノの隅から隅まで歩いていると、探していたタイプの圧力鍋も見つかった。ちょっと気に入らない点もあるので、値段などを聞いて、とりあえず参考にする。

 

2003年10月7日(火)

 

地域の保険所より来ていた無料の婦人科検診の案内で、私の割り当ては今日。

 

イタリアでは年頃の女性は毎年検査をするもの、ということで、私もイタリアに来てから毎年検査を受けてきたが、いい先生を探して、やっとみつけたプライヴェートの女医さんのところでは、結構な値段になる。

 

それが、無料ということで、よろこんで受けることにした。

 

今まで受けてきた検査でも、変体っぽい先生だったり、丁寧な説明に感心したり、機械的でいやな感じだったり、毎回いろいろ感じるものもあったので、どんな感じか、ドキドキして順番を待っていると、今回は早口の女性の先生だった。

 

 

 

最初の問診が聞き取りにくく、何度も聞き返し、なんとなく焦ってきた。

 

別室で下着をとって、診断室に戻ると、今回の先生は、なんと溶接工がかぶるような透明なヘルメットをつけていた!膣よりサンプルを採るときに、跳ね返りなんかがあるんだろうか???

 

診察台にのぼると、普通ひざを置くような台に、靴のまま足を乗せろ、という。

 

「ええ?靴のまま?」

 

ちょっと動揺して、焦っていると、

 

「さあ、膝を開けてください」

 

「膝を開く?」

 

「そう、『開く』っていう動詞ぐらいわかるわよね、イタリアに何年?」

 

「ええ、もちろんわかりますが・・・」

 

落ち着いていれば、なんともない動作。つまりは「股を開く」ということなのだが、その時は思いもしない展開に頭が真っ白。「(開くはずのない膝の部分をどうやって開くんだ??)」などと半分パニック状態だった。

 

約5秒後、はっとその意味に気がついて、妙に恥ずかしくなった。

 

そういや、日本語でも「膝を開く」とも言うか・・・。

 

無事に検査も終わり、先生は私のちぐはぐな動作にケラケラ笑いながら、結果は郵送しますとか説明していた。

 

いやいや、毎度のことながら、慣れない検査である。

 

2003年10月6日(月)

 

トリノへ帰るため乗ったフィデンツァへのバスの中、運転手がべらべらと声高にしゃべっていた。

 

車内では誰もしゃべっていないので、その内容がまる聞こえである。

 

運転席の真後ろに座った若い男の人を相手に、自分の仕事遍歴の話をしているようだが、ナポリ地方のアクセントながら一応イタリア標準語でしゃべっているものだから、私にもわかるし、なんとなく面白くて思わず聞き耳を立ててしまった。

 

 

 

その中から、面白かった台詞をひとつ。

 

「俺さあ、ナポリ出身だけどさ。南イタリア人とは一緒に働きたくないんだ。だって、「働かされる」もんねぇ。だから、北に来たのさ。今の仕事なんかいいよぉ。朝もゆっくり10時ぐらいから3時過ぎまで。病気だっていえば、ちゃんと休めるしさ。ははは。」

 

 

 

ちょっと説明しよう。

 

つまり、南イタリア人である彼が、同じ南イタリア人と一緒には働きたくない理由は、お互いの「事情」をよく知り尽くしているがために、さぼろうと思ってついたうそが通じないからである。そんな状態でさぼると、それこそマフィアっぽい人に痛い目にあうだけ。その点、北イタリアでは仕事の種類もいろいろあるし、北の人は「病気だ」という南の人の理由を素直に信じて、休むことも許可するし、替わりの人をあててちゃんと穴埋めをする。それでいて、お給料もなかなかよしとくる。

 

同郷のよしみ、というか、地域愛というのがイタリア人は強いが、ナポリではナポリ人を信じていないという皮肉さ。

 

こういう台詞を北イタリアで堂々としゃべっている神経。

 

まったく、南の人には、「参っちゃう」ね。

 

個人的に、北だ、南だ、って区別はしないけど、北イタリアに住んでいると感じる「だから、南は・・・(ため息)」という雰囲気になんとなく理解を示してしまう私も、すっかり北イタリア人化?

 

2003年10月3日(金)

 

結婚式に来れなかった元同僚が、南イタリアからトリノまで荷物を取りにやってきたついでにウチに遊びに来た。

 

パーティのときの写真やらヴィデオやらを見せながら、おしゃべり。

 

お昼時になったので、簡単に和食風ランチを用意する。

 

そこに、週末の里帰りのために会社を早退してきたジュゼッペも一緒になって、ゆっくりしたいところだが、昼過ぎに私は面接に行かないといけない。一気に味噌汁をぐいっと飲み干して、

 

「私は行くけど、ジュゼッペが家を出るまでゆっくりしていってね。」

 

というと、彼女も私について帰るというので、一緒に家を出た。

 

車を走らせながら、特にこれからの予定もないというので、学校まで一緒に来てもらった。

 

 

 

面接の前、控え室で彼女相手に「イタリア語会話」の練習。

 

友達としゃべるのはあまり問題がないが、Leiの形式で知らない人とイタリア語でしゃべるのは、未だに緊張するような状態である。なんだかどきどきしてきた。

 

そこに、面接を終えた知り合いが控え室に入ってきたので、どんなことを聞かれたのか聞き出し、面接のシュミレーション。

 

 

 

いざ、面接。

 

質問項目に頭の中で用意したことをべらべらとしゃべり、試験官はすらすらとメモをとっていた。

 

試験問題はどうやらよく回答していたようである。

 

ひとつだけ、文法問題の間違いを指摘された。

 

 

 

なかなか感触はよし。

 

もしかして、期待していい??かしら????

 

2003年10月2日(木)

 

昨日の試験の次の面接の日の発表を見に行った。

 

学校がウチに近いこともあり、ついでに郊外に住んでいる友達の面接予定日も見てきたので、彼女に電話する。

 

「私の面接は明日で、あなたのは来週の火曜日みたいよ。」

 

「どうして?!受付番号も連番、試験を提出したのも一緒、なのにどうして面接日が違うの?」

 

私は彼女のその真剣な驚きように驚きながら、

 

「どうしてって・・・例えば名前のアルファベット順とか。」

 

「SとTで続きじゃない。きっと見込みのある人を先に面接するのよ。」

 

「(にやりと笑いがもれながらも)そんなんじゃないわよ。そうね・・・出身国の地域別とか。」

 

「同じアジアじゃない・・・」

 

「う〜ん、だったら・・・そうそう、きっと外国人局の受付窓口みたいに、いわゆる先進国カテゴリーのEUとアメリカと日本っていうのと、それ以外の国っていうやつよ。このコースで学んだ仕事っていうのは、そういう国出身の方が必要とされてるしさ。」

 

「だったら、どうして日本のほうを先に面接するの?」

 

彼女の執拗な追及に、思わず笑ってしまった。

 

「ねぇ、やめよう。どちらにしたって、私たちにはその理由なんてわかんないんだから。」

 

「はは、そうね。」

 

それにしても、彼女「も」真剣にこのコースに期待しているのね。

 

うわさによれば、18人しか枠がないらしいし。

 

どうなることやら。

 

2003年10月1日(水)

 

今度新しく通いたい学校の試験日。

 

久々に大学の授業みたいな階段教室に足を踏み入れると、いろいろな人種の老若男女がざっと70〜80人集まっていた。

 

それにしても、ほとんどのいすのクッションが切られていて、鉄の板がむき出しになっている、なんとも荒んだ感じ。我が日本の母校の美しさとは月とすっぽんである。

 

 

 

試験監督が簡単に説明の後、試験用紙が配らられる。

 

どうやらこのコースを受講するのに必要なイタリア語の理解度を計るための試験らしく、筆記問題である。

 

今まで受けてきた試験では、tuのカジュアルな形式で問題が書かれていたのに対して、Leiの尊敬形で書かれてあるので、一段とフォーマルで、大人扱いされている感じ。

 

いきなり、最初の問題のテーマの選択の段階で、片方のテーマの意味がよくわからなくて焦ったが、なんとか片方がわかったので、そちらのほうに沿って書く。しかし、書きながらもほんとに正しくテーマを理解しているのか、不安が広がっていった。

 

 

 

書き終えた人がどんどん退出していく中、私もなんとか書き上げたときに残っていたのは20人ぐらい。

 

試験監督に用紙を提出して、次回の面接の日程などを聞く。

 

教室の外に出て、一緒に受けていた友達にその出来を聞くと、彼女にとっても少しむずかしめだったらしい。私だけじゃなかったんだ、となんだかちょっとほっとした。

 

2003年9月30日(火)

 

そういや、私結婚したんだっけな。

 

まさに、そういう感じだ。

 

何にも変わらない、以前と同じの生活。

 

 

 

今日は日本人友人のひとりとトリノでランチ。

 

お祝いということで、おごってもらった。

 

なんだか、パーティに招待もしていないのに、祝ってもらってなんだか悪い気もしたが、一生にそう何回もない晴れの舞台なんだから、と説得されて、なんとなくその気になってしまう私もお気軽か。

 

2003年9月29日(月)

 

昨日はまた夜中までドイツ組とおしゃべりしていたので、頭が重い。

 

こんな日は朝寝坊したいところだが、ジュゼッペは今日も出勤。

 

お見送りしたあと、イギリス人友人とまったりとしゃべる。やっとイギリス英語にも耳が慣れてきた感じだ。

 

しばらくして、他のドイツ組もやってきて、朝のおしゃべり。

 

私の着物姿がきれいだった、とかやたらとほめるので、調子に乗って、私の赤ん坊のときからの写真アルバムなどを見せながら、別の着物姿も披露する。

 

10時ごろ、彼らもドイツへ向けて出発。

 

やっと、バタバタが終わった。

 

 

 

今日はもう何もしない、と決め込んでソファーに座り込み、テレビをつけると、みんなが停電、停電と大ニュースになっていた。なんと、イタリア全土が停電だったんだ!知らなかった!!(なんて暢気な?!)

 

しかも、問題のフランスからの送電のことでは、トリノが要らしいじゃないか。

 

全国ニュースでも、地方ニュースでも、停電、停電である。

 

イタリアの別の都市に住んでいる友人たちにもパーティには招待したんだが、結局それぞれの都合で来れなくなって、予定していた人数より少なったことは土曜日の時点でわかっていたのだが、もし、その中から来れる人がいたとしても、結局停電のせいで電車もストップしていたし、どちらにしても来れなかったんだなぁ、などとぼんやりと思う。

 

2003年9月28日(日)

 

成人式の前日の頭状態だったので、ピンが痛くてまともに寝れなかった。

 

しかも、「空洞」の日本髪風である。うっかり横向きに寝てしまって、ぺっちゃんこになってしまったら元も子もない。

 

記憶のあるうちは枕にあごを立ててうつぶせに寝る、という姿勢を保っていたのもあるし、一晩中近くからセキュリティサイレンが鳴り響いていて、寝不足プラス今日これから起こることを考えると自然にハイな状態。

 

朝の5時ぐらいに寝るのをあきらめて、とりあえずトイレに立つ。

 

すると、電気がつかない!

 

水の出も悪い。

 

「ああ、またか。」

 

と寝ぼけ頭でうっすら考えた程度で、またベッドにとりあえず戻る。

 

 

 

ゲストが別の部屋にいるので、音をたてるのを遠慮しなければいけない。

 

6時半ごろ、どうせ寝れないのだからと起き出し、音を出さない作業、植物の水遣りを始める。

 

そのまま、床に座り込んで、ぼんやりと空が明るくなるのを窓から眺めていた。

 

外では相変わらずサイレンが鳴り続いている。

 

まさか、彼のアウディの防犯サイレンじゃないよなぁ、などと気になるが、もしそうだったら彼も気がついて起きてくるだろう、と思い直し、勝手にほっとしてみる。

 

 

 

7時過ぎ、ジュゼッペも起きだした。

 

やっぱり電気がつかない。

 

外をのぞいてみると、どこも電気がついていない。

 

この一帯全部が停電のようだ。

 

 

 

8時前。

 

イギリス人友人も起きてきた。

 

彼の車のサイレンではないようだ。

 

まだ、電気がつかない。

 

冷蔵庫の扉もなるべく開けないようにし、とりあえず朝食の準備。

 

まだ朝も明けきっていないので、ろうそくをつける。

 

なんだか、夕食みたいな雰囲気だ。

 

 

 

8時15分ごろ。

 

冷蔵庫のモーターがぶぅぅんとうなりだし、電気が回復したのがわかる。

 

ラジオをつけると、どうやら大型の停電だったようだ。

 

フランスからの送電線に問題があったやらどうやら・・・、しかし、私の頭は着物のことで一杯で耳にニュースも入ってこない。

 

 

 

9時過ぎ。

 

男性陣を台所に閉じ込めて、全身鏡のある玄関で着物と格闘しているところに、すぐ近所のホテルに泊まってもらったドイツ人友人がやってくる。

 

「いったい、イタリアでは何が起こったんだ!」

 

と、幾分興奮気味である。

 

そりゃそうだろう、夜中サイレンは鳴るし、電気は止まるし、イタリア語はわからないし・・・。

 

その彼も台所に追いやって、再び鏡の前で本とにらめっこしながら着物を着付け。

 

やっと出来上がったころには、じっとりと汗をかいていた。

 

おお、せっかくの化粧がくずれてしまっては台無し。あわてて化粧直しをする。

 

 

 

10時半ごろ。

 

とりあえず、ドイツ人友人退散。

 

こちらはみんなに配るお土産やら、カメラやら、バタバタと準備。

 

 

 

12時ごろ。

 

雨がしとしとと降り出した中、ドイツグループと一緒にトリノ市内の和食レストランへ出発。

 

 

 

レストランに着くと、なんと停電中。

 

つい先ほどより、電気をとられちゃったようである。

 

ジュゼッペの説明によると、この停電の復旧作業を優先させるために、トリノ市内をブロックに分けて、各ブロックごとに1時間半から2時間ほど再び送電を中止されているようである。

 

そのブロックの時間割で、見事にお昼のお食事時にどんぴしゃり!

 

これまたすごい、できすぎの話。

 

とりあえず、非常灯とろうそくの火の中で、パーティのはじまりはじまり。

 

 

 

まず、みんなにお箸の使い方の説明。

 

割り箸は割って使うもの、というところから、おおっとどよめき。

 

やっぱり、結婚パーティにありがちなお城のレストランとかじゃなくて、和食レストランにした趣向が正解だったかな、とちょっとうれしくなる。

 

まあ、はじめっから上手に使える人なんて珍しいんだから、みんなにはフォークとナイフも用意してもらい、みんなの食べている様子をカメラで撮影。さすがに普通にとると、画像が真っ暗になるので、ナイトショット機能を使うと、ちょっと青ずみながらも明るく撮影ができること発見。

 

 

 

食事も半ばあたりに電気がもどってきた!

 

まだ英語にスイッチできていない頭でしどろもどろ英語テーブルで食べてしゃべり、イタリア語テーブルを回ってヴィデオカメラをまわし、各料理の説明を簡単にする。

 

それにしても、普段イタリア語で会話しているインド人の友人とも英語で会話する羽目になり、なんだか頭が余計に混乱する。まさに、日本の友人と英会話の練習をしているような変な感じ。バイリンガルでもない限り、この違和感はとれないだろう。各友人と話すときに使う言語はひとつに決めておいたほうが身のためだ。

 

 

 

そろそろお腹も落ち着いてきたあたりで、3人の友人に頼んでいたスピーチをお願いする。

 

一人目はジュゼッペの同僚で、ごくごく簡単にイタリア語でスピーチ。

 

二人目はドイツ語の先生に英語で。

 

これがまたなかなか考えたスピーチで、プレゼントにまつわる伝説を私たちに再現させようとしたもの。

 

詳しい話は割愛するが、その杯より二人が同時に一滴もこぼさずにシャンパンを飲まないといけない、という趣向だったのだが、私はヴィデオカメラのファインダーを通じて伝説を聞いていて、注意が幾分散漫になっていたので、その意図がよくわからず、ぼーっとしていたんだが、ジュゼッペもどうやら頭は別のところにあったらしく、二人して間抜けなパフォーマンスを見せてしまったが、最後にはトリックもわかり、めでたし、めでたし。

 

三人目は私のイタリア語の先生がイタリア語で、先生らしく卒のないスピーチでしめくくってくれた。

 

 

 

デザートを食べたころに、お土産を配り、そして、お約束のブーケ投げ。

 

未婚者は二人しかいなかったんだが、そのうちの一人が欲しがったので、彼女のほうへ一直線に投げて、ナイスキャッチ。彼女も満面の笑みであるが、かわいそうなのはその彼氏。みんなから結婚の日付を決めてしまえ、と迫られ参ったトホホ顔をしていた。(その彼氏は、実はジュゼッペより年上のはず。確か60代?)

 

2003年9月27日(土)

 

結婚式、当日!

 

ゆっくりと朝食をとっていると、なんだかいつもと変わらないような感じだ。

 

ジュゼッペに花嫁のブーケを花屋まで取りにいってもらっている間、久々に化粧道具を取り出し、念入りに化粧を施しながら、鏡の自分を眺めてみる。

 

よかった、久々だったけど、化粧の腕は落ちていなかったみたい。

 

イタリア人に化粧をしてもらった友人がアイメイクを頑張ると写真写りがいいというので、いつもより少し濃い目に色のグラデーションをつけてみたり。やっているうちに、少しずつ気分がウキウキしてきた。やはり、私も女・・・。

 

 

 

カメラマンの友人もやってきて、出発前の様子を撮ってもらう。

 

出来立てフレッシュなブーケを持って、お気に入りのドレスを着て、カメラを向けられていると、いい気分がしてくる。

 

朝の新鮮な空気の中、そろそろ時間だということで家の外にでると、ちょうど彼側の証人を引き受けてくれた友人もやってきた。カメラマンのワイン色のアルファロメオに乗って、いざ市役所に出発!

 

 

 

市役所前の広場で、私側の証人ともう一人の友人の到着を待っていると、すぐ近くのマーケットに買い物にやってきた人たちが口々に、「花嫁さんだね。おめでとう!」「とってもきれいだよ!幸せにね」などと次々に声をかけてくれる。「ありがとう」と返事をしながら、私の頬は緩みっぱなしだ。

 

みんながそろい、市役所の女性アシスタントが、「どなたと入場しますか?」と質問してくる。

 

いまいち質問の意味がわからなくて、「私の証人はあそこにいますが・・・」なんてとんちんかんなことを答えると、「いえ、普通はどなたか男性と一緒に入場するものですが」と言われ、ハット気がつく。ああ、花嫁の父のことか。

 

「ああ、誰にもその役目を頼んでいないので、彼と一緒に入場します」

 

「わかりました。では、どうぞ」

 

 

 

ターンタータターン、ターンタータターン、ターンタタターター、タータタター・・・・

 

とおなじみの結婚式の曲がながれ、二人で行進。

 

先の女性アシスタントと、しわだらけ顔の白髪の男性が正面にいて、握手を交わす。

 

まずは、指輪を交換するのか聞かれ、目の前の銀のお盆の上に指輪を置く。

 

それから、しわくちゃ顔の市長代理が法律何番の何々によって、グダラグダラ・・・と話はじめ、例の

 

「ooはxxを妻と認めますか」

 

「はい」

 

「xxはooを夫と認めますか」

 

「はい」

 

「証人は今の発言を認めますか」

 

「はい」(双方の証人から)

 

「それでは2人を夫婦として認めます」

 

「おめでとう!」

 

で終わり。

 

それから、指輪を交換して、市役所発行の書類に私たち二人と証人二人それぞれが署名して、速やかに退場。式場の音楽係の人が入場のときと、指輪の交換のときと、退場のときに音楽を鳴らしてくれたが、あまりにもすぐにそれぞれが終わったので、メインパートにたどり着くことなく、音楽をフェードアウトしていたのが印象に残った。

 

 

 

場所を自宅に移し、みんなにとりあえずおぜんざいを振舞う。

 

私の証人はインド人の友人に頼んだだめ、ヴェジタリアンである彼女と夫と息子さんが食べられるものを何か作らなければ、と数日前からいろいろ考えていたが、これが案外簡単でない。

 

一番簡単なのは、みんな好き嫌いがないパスタ料理が手軽でいいんだが、日本人である私の家に招いておきながらそれはないかな、と思い、何か和のものを・・・と思案するんだが、出汁をつかわない和食というのはなかなかないものである。肉魚はもちろん、卵もにんにくもだめ、カフェインもだめ、直接肉や魚が入っていなくても、それらでとった出汁もだめ。当日はバタバタしたくなかったので、それこそ、カレーでも前日に煮込んでおいて、当日はご飯だけ炊けばいい、という風にしたかったが、カレーのルーの箱を見るとどうやら肉のエキスが入っているようなので、これもだめ。ケーキやクッキーも卵が入ってるのはだめ。ヴェジタリアンをもてなすのは、慣れないと難しいものである。

 

 

 

しかも、彼女の夫はとても真剣にヴェジタリアンしているので、たとえヴェジタリアンメニューを出しているレストランでも信用ならない、と言って外食もしない、という徹底のしよう。

 

私が出したおぜんざいもどのように調理したのか、詳しく聞いてくる。

 

それでも、私を信用して食べてくれた、というのは、言い換えればとても名誉なことである。なあんて、ちょっとおどけてみたり・・・。

 

実際には市販の切り餅を使用したんだが、餅の説明で、米をまず蒸して・・・と説明し始めたときに、「蒸す」という単語がとっさに思いつかなくて、英語のsteam(スティーム)から想像して、イタリア語風にスティマートという単語をひねりだして一か八かで言ってみると、一瞬みんな沈黙。それから、大爆笑。

 

「あなた、英語のスティームから想像したのね」

 

「イタリア語では『蒸気で調理』って言うのよ」

 

「それにしても、スティマートとはかわいいな。いかにも英語チックでさ」

 

「僕の別の英語圏の友人にもそんな風にしゃべるヤツがいてさ、想像力をたくましくて聞いてるのがなかなか面白かったのを思い出したよ」

 

どうやら、私の造語はヒットだったようである。

 

ちなみに、後で辞書で調べてみると、スティマートstimatoという単語が立派に別にあり、「尊敬された」とか「重んじられた」とかいう意味であった。道理でどこかで聞いたような響きのはずだ・・・とほほ。

 

 

 

それから、二人ほど仕事やその他の都合で帰っていき、ジュゼッペが家の中をゲストに案内しているうちに、私はドレスの上からエプロンをつけて、昼食の準備。

 

メニューは結局、焼き飯をメインに菜っ葉のおひたしとセロリときくらげの和え物。

 

同じ野菜でも、おしょうゆで味付けしたヴァージョンを楽しんでもらえたようである。

 

 

 

ランチが終わって、友人の子供に家中のおもちゃをひっくりかえされた状態になったころ、ドイツのミュンヘンからも友人が到着。さらに人数が加わって、イタリア語と英語がちゃんぽんで会話が進むのだが、久々の英語に頭の中のスイッチがなかなかうまく変わらない。初めてのトリノにはしゃいでいる私のドイツ語の元先生にトリノの観光スポットを説明するんだが、相手はじっと私の顔を見て、にやりと笑う。

 

「あなた、今のをもう一度『英語』で説明してね。ふふふ。」

 

なんと、参った!英語でしゃべっていたつもりだったのに、勝手にイタリア語に途中から変わってしまったようだ。

 

気恥ずかしさごまかしに、今度はへらへらとドイツ語で唯一覚えている相槌などを使い、とりあえずは笑いに紛れ込ませてしまう。

 

 

 

みなさんに程よく楽しんでいただいて、やっと家に静けさが戻った夕方、今度は明日の着物に合うような髪のセットをしてもらうため、近所の美容院へ。

 

ここの美容院は初めてなんだけど、日本で着物を着たときの写真などを持参してイメージを必死で説明すると、わかったのかわからないのか、ただ単に着物姿が珍しいのか、みんなで私の写真を見回して、「きれいね!」などと口々に褒めてくれるのはいいんだが、ミストでばりばりに固めながらセットしていく様子に不安が高まる。

 

ここで負けてはいけないと、ああでもない、こうでもない、と口うるさく注文を出して、細かく修正させたいところなのだが、ラストにミストで固める日本のパターンと違い、ひとくし、すくうごとに固めていっているので、修正させるのもそう容易なものではない。しかも、脇をふんわり膨らませるための「かもじ」も手元にない、と言うではないか!逆毛をたてて、毛先をくるくる巻き込んで、苦労して膨らませた「空洞」の日本髪風になるまで、私も晴れ舞台のために口で頑張った。ああ、せめて私の髪の毛が多くて、助かった・・・。

 

 

 

家に戻ると、ドイツ組の一人が町から戻ってきていた。

 

彼は、ミュンヘンで働いているイギリス人。

 

イギリスのなまりがとってもきつい英語をしゃべる。

 

夕食は簡単にパスタで済ませて、彼とジュゼッペがビールを片手に話し込んでいるのを横で聞いていると、なんだかパブにいる気分になってくる。

 

ぼーっとしていると、もう夜中。

 

ああ、とうとう着物の試着をしなかったなぁ。

 

まあ、いいや。明日ぶっつけ本番でやっちゃえ!!

 

 

 

 

 

 

 

9月26日(金)

 

いよいよ、明日!

 

ゲストがいつどれだけ来てもいいように、どっさりと食材を買い込み、足りない食器を探しにデパートまで走り、念入りに家をもう一度掃除して、それからそれから・・・と次々とこなしていたつもりで、すっかり忘れていた車の掃除。

 

夕方になって焦ってガソリンスタンドの洗車場までもって行き、ざっと洗車してから、家の前でバケツと雑巾で細かいところのお掃除。普段路上に放り出しているだけあって、雑巾が真っ黒になるほど汚れていた。

 

せっせと拭き掃除をしているところに、友人が到着。

 

彼に当日のカメラマンを頼み、その私のカメラの使い方の予行練習に来てもらったのだが、予定外の掃除が入ってしまって、時間割がくるってしまった。

 

そこに、グッドタイミングで帰ってきたジュゼッペに掃除をバトンタッチして、ジーパンの汚れを払いながら、とりあえずご挨拶。そんな私たちの様子を見て、

 

「大丈夫。明日は僕の車で送っていってあげるから・・・」

 

とやさしく声をかけてくれた。

 

確かに我々のおんぼろフィアット・チンクエチェントより、彼のエレガントなワイン色のアルファロメオの方が絵にはなるだろうが、結局誰も呼んでいないし、美しい車であろうが、愛着のあるおんぼろ車であろうが、私たちには大差はないのである。まあ、市役所まで1台で行った方が便利だし、その場合、ウチの2ドアより彼の4ドアの方が便利だワナ、なんて考えるあたり、私も超現実的だろうか。

 

 

 

自分でもヴィデオカメラを持っていて、子供たちの成長の様子を撮ってきた経験のある彼は、すぐに使い方をマスターし、私のヴィデオカメラそのものに興味を持ち出した。

 

「おお、ここはいつも面白いメカがあっていいね。日本で買ってきたの?」

 

「そうよ。今度はちゃんとこっち用にしてきたから、テレビでも見れるわ」

 

「そうそう、この型番は最新モデルの内で、ヴィデオと写真が1台でとれるものについているもんだよ」

 

と、一緒についてきた奥さんにうれしそうに説明している。

 

どうやらずいぶん「お勉強」しているようだ。

 

私も日本で聞いてきた販売員の宣伝文句を思い出しながら、いろいろ説明すると、ウンウンとうなずきながら奥さんとクリスマスプレゼントにしよう、などと話している。

 

「ねぇ、他にも何か『新しいもの』ないのかい?」

 

「なに?プレゼント候補をいろいろ探しているわけ?そうねぇ、やっと最近DVD鑑賞ができるようになったことかなぁ。このマルチリージョンのプレイヤーなんてどう?」

 

「う〜ん、別にウチはマルチリージョンじゃなくてもな・・・」

 

彼も私もメカ好きなので、いつも機械関係では盛り上がる。

 

明日の撮影も、きっと大丈夫だろう。

 

 

 

簡単にざっとパスタの夕食をとって、ワインを飲んでいると、今日のバタバタの疲れがどっと出てきた。しばらく1時間ぐらいテレビでも見ながらゆっくりしたいところだが、そういうわけにもいかない。

 

明日のホームパーティのために洗っておいた食器を丁寧に拭き、食事の下ごしらえをし、ゲストの部屋のベッドを整えて、乾いた洗濯物のアイロンがけをし、最後に明日のドレスにアイロンをあておえたのは実に夜中をまわっていた。

 

いやいや、世の奥様方はにっこりとご主人の連れてきたゲストをおもてなしするために、これだけのことを準備していたんだなぁ。えらいもんだ。

 

改めて、奥様業の大変さを思い知りつつ、何でもかんでもギリギリにならないと腰の上がらない自分を恨んでみたり・・・。直らないのよね、この性質って。

 

2003年9月25日(木)

 

今年度のイタリア語学校の申し込みに行った。

 

ここに通うのも今度で4年目。

 

先生とも顔見知りだし、夏休みはどうだったかなどと話がもりあがってしまい、オーラルの試験はする必要なし。簡単に筆記試験の分を書き終えると、今度新しく連れてきた日本人の友人の様子を見に行った。

 

在伊1年の彼女は、文法問題は余裕のものだが、作文でずいぶん四苦八苦していたようだ。今回の作文のテーマは「母国の代表的な飲み物あるいは食べ物の紹介」で、「寿司」はむずかしいから「すき焼き」にしたところで、やはり細々としたことが言えずに手間取っていたらしい。

 

「私なんか、『緑茶』を選んだから、調理法も何もないし、簡単だったわよ。」

 

と言うと、「ああ、お茶か!思いつかなかったわ。」などと悔しがっていた。

 

テスト慣れの差である。

 

 

 

その後、まだイタリアで運転していない彼女(やはり、イタリアでの運転はコワイらしい・・・さらにオートマ限定免許??)を家まで送りがてら、お茶をご馳走になった。そこで彼女の1年前の結婚式の写真などを見せてもらいながら、その体験談を拝聴。

 

イタリアに着いたばかりで、全然言葉がわからないなか、ドレスを選び、言われるがままにバタバタと事が進んで行ったらしいが、プロに頼んだ写真アルバムはさすがの出来で、その他DVDもセットにして作ってくれたらしい。

 

思いっきりモデルになりきって、変なポーズをとらされるのも、時間が経ってくると段々快感に変わってくるとか。そういえば、前半は緊張した面持ちが、後半はすっかりはまっている感じだ。しかしながら、さすがにポーズのリクエストが日本のとはずいぶん違う。(とかいいながら、私自身日本でポーズを注文されたのは高校卒業アルバム用に学院内の庭で撮影されたときだけだが・・・)

 

花嫁が寝室のベッドに寝そべっているのはいいとして、普通に大理石の床に座っているときは、アシスタントに思いっきりスカートをめくられたらしい。どうやら、足を見せないといけないらしい。

 

彼女はなかなかのおみ足だったからよかったものの、大根足の人も同じようなことをさせられるのだろうか。(きっと、そうだろう。おでぶちゃんも気にする風でもなく見事にへそ出しルックのピチピチパンツしているし。)

 

その他、普通にキスすりゃいいものを、後ろに立っているダンナのネクタイを花嫁が引っ張って、振り向きキスなど、大和撫子風の花嫁では考えられないような、やはり「イタリアの女性は強し」を象徴するようなポーズである。

 

着物にも着替えた彼らに、フォトグラファーはさらにポーズを求めたらしいけど、そこは彼女ががんばって、「着物でポーズは変だから」とおとなしめの姿で写真に納まっていた。

 

参列者の面々に、日本からの人たちもたくさん写っていたが、親戚はもちろん、元同僚だけでなく、その同僚の叔母さんなどという、直接は全然関係ない人まで「イタリアでの挙式?!そりゃもう是非是非!!」という状態でワイワイやってきたらしい。その後、「ご一行様」を連れてミラノ観光に出かけたり、着いた翌日から「和食が恋しい」と叔母さんから泣きつかれた上に、やっとみつけた寿司屋のシャリがすっぱすぎるなどと文句をつけられたりと、なかなか大変だったようだ。そんな話を聞いて、私の結婚式に日本からの参加者がいないのを、半ばほっとしてみたり・・・。

 

2003年9月15日(月)

 

結婚パーティの会場はトリノ市内の和食レストランとした。

 

普段、日曜日は定休日なんだけど、特別に開けてもらうことに。

 

今日赴いて、メニューの相談。

 

中にはヴェジタリアンもいるので、かつおなどからとった出汁も使わないように、細かく指示しながら、彼らには特別メニュー。

 

大食いのイタリア人にも満足してもらえるように、前菜2皿、メイン3種類、サラダとご飯と味噌汁、そして生魚がいける人には寿司も。デザートは羊羹とアイスクリームより選択とした。

 

だいたい、こんなもんだろう。

 

2003年9月12日(金)

 

近くの宝石屋さんへ。

 

結婚指輪、結局買うことにした。やはり、記念だし。

 

そう話したときに、彼は私が好きなものでいい、と言っていたので、あらかじめ下見をして、シンプルながらちょっと変わった感じの指輪を選んでいたのだが、サイズを測りに来た今日、実際に指にはめてみて、ぶつぶつと文句を言い出した。

 

「う〜ん、あんまり好きじゃないなぁ。」

 

「じゃあ、どんなのがいいの?」

 

「そうだねぇ、こんなのどう?」

 

と言って、彼が差し出したのは、分厚い金の指輪。模様が掘り込んである。

 

私の指にはめてみると、なんだか成金のいやらしい雰囲気。

 

「私はいやだなぁ。それに飽きがくるわよ、こういうの。」

 

 

 

確かに、私が最初に選んでいたものは、彼の指には貧弱な感じがしたが、普段指輪をしないから(どんなのでも)いいよ、と言っていたんじゃないの??

 

それから、ああだ、こうだ、とボックスにある指輪をいじくりまわして、やっと二人が同意できるものがみつかった。

 

実際の場になって、やっぱり自分の好みを主張してくる辺り、よくありがちな話。

 

なまじ、彼も根は宝飾品好きだし、まあこれも思い出。

 

2003年9月8日(月)

 

新しい借家人と契約書を結ぶ。

 

ここ数ヶ月間毎週末パルマの方に来て右往左往していた問題がやっと解決して、やれやれ一安心。

 

ほっとしていると、昨日テレビでやっていたミス・イタリア全世界版のコンテストの話が話題に出てきた。

 

片親以上がイタリア人である世界中に住んでいる女の子たちのコンテストなんだが、今年は日本よりも一人参加していた。通常、アジア系の人は早い段階で脱落するんだが、なんと、彼女はベスト4まで残って大活躍。

 

「彼女はとっても感じがよかったわよ。逆に他の3人よりもね。エレガントだったし。」

 

なんて、日本人である私によいしょ、もあるんだろうが、なんとなく誇らしくなったりして。

 

2003年9月7日(日)

 

ここ数ヶ月、いろいろと問題があった借家の話がやっと片付きそうだ。

 

ほっとした心持で、契約書を持って、車に乗り込むと、何かがおかしい。

 

すぐに近くのバールの前に駐車して、見てみると、タイヤがひとつパンクしていた。

 

昨日からカーブを回るときなどに変な感じで、私の運転のせいというより、タイヤの空気圧がおかしいと同乗していたジュゼッペは言っていたが、パンクだったとは。

 

彼はテキパキとジャッキを取り出して、ポンポンとジャッキのレバーを押すと、車も簡単に上がっていった。

 

しかし、肝心のタイヤを固定しているねじの鍵が甘くなっていて、力を込めて回そうとするとすぐに外れてしまい、タイヤが取れない。

 

時間的に修理屋さんは開いていないし、どうしようもない、ということで、月曜日まで問題解決はお預け。

 

「今まででタイヤ交換ができなかったのは今回がはじめて」と彼は少し悔しそうな顔をしている。

 

ああ、だからあんなに落ち着いて処理していたのね。

 

2003年9月6日(土)

 

昨日からパルマの方に来ている。

 

今日は朝から屋根に登って鳩の糞の掃除。

 

まあ、なんてすばらしい一日の始まりなんでしょう・・・。

 

2003年9月4日(木)

 

市役所に行って、結婚に関する書類がすべて整ったか確認。

 

私側の書類はすでに5月に提出していたのだが、市役所が取り寄せる彼側の分が諸々の事情で遅くなり、6ヶ月はかかると言われていたところを、電話攻撃プラス弁護士のコネを使って、その6ヶ月分たまっている書類の束の1番下ではなく、上の方に入れてもらって処理してもらった結果、やっと地元の市役所まで書類が回ってきたという訳だ。それでもしっかり5ヶ月(まあ、夏休みを除けばもう少し短いか・・・)かかっているんだから、これから同じ道、離婚成立後再婚、をたどる人は離婚登録の手続きだけに1年ぐらいは覚悟ってなところだろうか。いやいや、イタリアの離婚男と結婚するのは、離婚成立までの年月を含めて、それはそれは気が長くないとやっていられない。ミラノなんぞでは、離婚者の数も多いのか、書類処理が6ヶ月どころか1年分以上たまっているらしい。

 

 

 

窓口で、お姉さんはにっこり微笑んで、

 

「やっと届きましたねぇ。では、早速公示の手配をしましょう。月曜日はちょっと忙しいですので、火曜日でいかがでしょうか。」

 

そう、市役所での結婚は「誰々と誰々が結婚するといっています」という公示が12日間張り出されて、誰かがそれに異議を唱えると結婚が執り行えなくなっており、その公示期間終了後、問題なければ6ヶ月以内に結婚という形をとる。

 

「ええ、どうぞよろしく。」

 

と言って、立ち去りながら、顔がにんわりとしてきた。

 

やっと現実的になり、正直なところほっとしたのと、なによりやはり、うれしいものだ。

 

ああ、結婚するんだなぁ、私。

 

2003年9月3日(水)

 

ヴィデオカメラのDVテープでとった画像をやっとコンピュータにとりこめた。

 

機械の相性が悪いのか、コードの接触が悪いのか、設定が悪いのか、何が悪いのかがさっぱりわからなくて、日本語のPCを持っていっても相談できる相手はいないし、ひたすら電源をつけたり消したり、コードをつけかえたり、いろいろ試しはじめて何週間たっただろう。そういうときの問題っていうのは、わかったときはとても単純なものなのだ。

 

私の場合は、PALとNTSCの問題だった。

 

PCは普通の日本国内使用、新しく日本から買って帰ったヴィデオカメラは国外用、つまりPAL。

 

そのことをすっかり忘れていたので、手間取ったというわけだ。

 

数年前、日本を出る前にあわてて購入したデジカメは国内用、海外用などと考えずに手っ取りばやく売れ筋を買っていき、こちらでテレビに接続して映すことができなくて不便をしたものだから、今回はそれを考慮して自分が普段住んでいる地での便利さを優先させた結果、自分の「おもちゃ」の間の互換性を考えなければならなくなった。

 

幸い、ソフトがPALとNTSC切り替え可能だったので、それこそワンクリックで問題は解決したんだが、そこに行き着くまでにずいぶんひとりで悩んだ。日本だと、近くの電気屋さんにひとっ走りで解決、でも、こちらではそうもいかない。

 

ついでに、PALとNTSC問題の別の好奇心が生まれてきて、手持ちのDVDで実験をしてみた。

 

日本で買ったDVDは当然手元PCのDVDドライブで読めるとして、こっちで買ったPAL用のDVDが読めるかどうか試したところ、なんと問題なく読めた。

 

PCのモニターにおける画像処理にはNTSCとPALの違いは関係ないということだろうか。

 

テレビに接続しているDVDプレイヤーは頑張ってマルチリージョンでNTSCとPAL両用のものを買ったので、テレビでの様子とはウチでは比較できないんだが、たしか、DVDのリージョンは日本も欧州もリージョン2で一緒の番号が使われている。

 

ということは、欧州に住んでいる日本人というのは、PCにおけるDVD観賞という点でラッキーということだろうか。

 

今度は是非、アメリカからDVDを取り寄せて、実験してみよう。

 

2003年8月31日(日)

 

ピエモンテ州北部、スイスに程近いところにあるオルタ湖に行ってきた。

 

緑の丘に囲まれた湖には、白い帆を立てたヨットが走り、真ん中に堂々と浮かぶ島には中世の世界がそのまま残され、そこまでにはヴェニスの水上タクシーのようなものが観光客の往来に利用されている。

 

かもめが空を飛び、白鳥は観光客にえさをねだる。

 

そんな湖畔でキュット冷えた白ワインを飲みながら昼食をとっていると、気分はモンテカルロ。

 

(って、モンテカルロに実際行ったことはないんだが・・・)

 

こんないいところに日本人がひっとりもいないなんて、不思議なもんだ。

 

近場で静かで落ち着いていて、観光要素も抜群、食べ物もおいしい、そしてモンテカルロより安い!

 

(だから!モンテカルロには実際には行ったことはないんだが・・・ちょっとしつこい?)

 

だいぶ得をした気分。

 

案内をしてくれた友人に感謝!

 

 

 

夜、ベランダから今話題の火星を見てみた。

 

トリノのちょっと郊外に大きな望遠鏡がある展望台があるんだが、電話をしてみると予約一杯で受け付けてもらえなかった。肉眼でも見えるとのことだったので、試しにみてみると、あるある。(おそらく、それらしきものが。)

 

ちょっと大き目の赤い星である。

 

南東の空にくっきりと目立っている。

 

一応家にある双眼鏡を出してみたが、そんなものでは何にも肉眼と代わり映えはしない。

 

まあ、ほんとに真っ赤なお星さま。

 

空想上の火星人というのは、本当に存在しているんだろうか。

 

なんて、ロマンチックなことを考えるより、裸足で歩みだしてしまったバルコニーの床の砂汚れの感触のほうが気になってしまったあたり、私もすっかり主婦?

 

明日、しっかり掃除をしよう。

 

2003年5月27日(火)

 

大ボスたちがやってきた。

 

話す内容は昨日の話と一緒である。

 

「あなたたちの就職活動にはできるだけ協力するから。」

 

という言葉。

 

 

 

私は、1時に病院にいかなくてはいけない。

 

観光業界のことや、私たちのビジネスケースの洗い出しなどで話が声が段々高くなってきている中、私は一人しらけて、時計ばかり見ていた。

 

会話の途切れに、「すみません。」と言葉をかけ、会議室を退出した。

 

 

 

今回の病院行きは、例の胃の検査をしたときに発見されたピロリ菌が退治されたかどうかを調べる検査のためである。

 

時間に遅刻すると検査は受けられない、とはっきりと予約用紙に書いてあったので、焦って病院近くまで来ると駐車場所がない!かろうじて空いているところはモロッコ人らしき人たちが場所をキープしていて、手招きされるんだが、どれだけお金をせびられるかわからないし、近寄りたくない。病院の周りを2周ほどして、やっとぎりぎり車が3分の2入るぐらいのスペースを見つける。お尻が道路に少し突き出ているが、仕方がない。

 

広い病院の廊下をぐるぐると突きぬけ、目的の場所にたどり着いたのは、予約時間の3分前。冷や汗ものである。

 

 

 

時間になると、ひとりひとり受付のために入室し、各自の机といすに座った。机を並べて、受付をしてくださった先生を眺めている姿はまるで学生時代の教室にいるような感覚だ。目の前には2本ずつ2色の試験管が試験管立てにあり、先生が各自にコップと薬袋を配りながらゆっくりと説明し始めた。

 

「今からみなさんにお水を配りますから、袋をやぶり、中身をコップの中で溶かしてください。しっかり溶かし終わったら、それを飲み干してください。そして、黄色いキャップのついた試験管を開けて、ストローを試験管の底までしっかり差し込み、鼻で深呼吸してから息を吐ききってください。また鼻で深呼吸して、もう一度息を吐く。2度吐き終わった人はすぐにストローを抜いて、試験管のふたを閉めてください。わかりましたか?質問がある方はどうぞ。」

 

みんな神妙な面持ちでコップを持ち、かき混ぜ棒で中身をかき回している。

 

飲んでみると、レモネードのような味がした。

 

しっかり息を吐ききった試験管の底には水滴ができていた。

 

それから数分後、今度は別の薬袋を渡され、それから30分ほど待って、別の試験管に息を吐いた。

 

待っている間、私は常にかばんに入っている読み物を取り出して読んでいたが、そんなに待つことを知らなかった人たちはぶーぶーと文句を言い出し、そのうち一人が自分の胃潰瘍武勇伝みたいなのを話し始めると、みんなが我も我もと自慢話を始め、知らないもの同士どころか、検査が終わったあとには、なんとなくチームメイトみたいな雰囲気さえ醸し出していた。この辺りはさすがにおしゃべり好きのイタリア人らしいところである。

 

結果は、1週間後。

 

2003年5月26日(月)

 

夕方5時ごろ、ボスが声をかけた。

 

「仕事が終わったら、ちょっと残ってね。話があるの。」

 

 

 

同僚とともに会議室に入ると、ボスは悲しそうな顔をしている。

 

「とっても残念なことを言わないといけないんだけど・・・」

 

 

 

会社が危機で、休眠状態にするということ。

 

つまり、仕事は通常通りは今月まで。

 

来月は就職活動に励んでもらって、給料は7月まで払う、とのことだった。

 

他の外の協力者たちはもうすでに切ったが、内部の私たちに払う給料のお金もない、とのこと。

 

これからは、創業者たちだけになって、休眠状態にし、休み明け9月ぐらいにまた様子をみる、とか。

 

なんとなく、うまくいっていない雰囲気だけは感じていたが、実際に言い渡されてしまうと、やはりショックなものである。

 

 

 

2003年5月23日(金)

 

パルマ行きの電車の中。

ぎりぎりにオフィスを出たので、早足で駅の中を進み、電車の座席に座ると、ぐっとのどが渇いてきた。

ジュゼッペが会社の食堂より取ってきたのか、桃とりんごをにゅっと差し出してきた。

 

私はティッシュペーパーをひざの上に広げ、これまたジュゼッペが差し出した折りた

たみ式のナイフを開けて皮をむき出した。

 

皮をむき終えて、それを差し出すと、彼は首を横に振った。

 

「(あ、そうなの。)」

 

と納得して、一人でかぶりつく。

 

小さいが、なかなか果汁豊かなおいしい桃だった。

 

勢いづいて次々とかぶりついていると、思いがけず汁がぴゅーっと隣の人の座席まで

飛んだ。

 

あっと思って、飛んだ先を確認すると、隣の人にはかからず、その座席の端が少し濡

れてしまった。

 

すぐにでも拭きたいと思ったが、手にはじゅるじゅるの桃。

 

まずは手元の果物を片付けてからにすることにした。

 

 

 

隣のおばさんはどうやら何も気づいていないようだ。

 

向かいに座っている連れの女の人とおしゃべりに夢中になっている。

 

いかにもイタリアのおばちゃんらしく、感情豊かにたわいもないことをしゃべってい

るが、幸い組んでいる足が濡れたところと反対側に向かって組まれているため、すぐ

に服を汚してしまうことはなさそうだ。

 

 

 

さっさと桃を片付けて、さらに手元にあるりんごをどうしようか、一瞬考えた。

 

ここで、ティッシュをもう一枚出してきて、飛んでしまった果汁をふき取る作業をす

ると、手元のりんごや桃のむいた皮が落ちてしまう可能性がある。

 

しかも、おばさんたちの会話の様子からして、果汁が飛んだことをわびながらティッ

シュの手を伸ばしたとしたら、きっと「まあ!なんてこと!!もう少しで汚れるとこ

ろだったわ!!」みたいにきゃんきゃんと騒がれるのではないか、とためらいを感じ

てしまう。ここは、しばらく様子を見ながら、よりよい機会を探ることにした。

 

 

 

そのままの姿勢を維持しながら、注意深くりんごの皮をむき、それを4つに割って、

半分をジュゼッペに差し出し、残り半分を食べ始めた。最後の一切れを一口かじった

ところで、おばさんが組んでいた足をほどいた。

 

あっと思っているうちに、おばさんは立ち上がって、頭上に置いてある荷物より何か

を取り出しているようだ。

 

 

 

「(チャンス!)」

 

と思って、残りのりんごを一気に口の中に押し込み、むいた皮をティッシュの中に丸

め込む。

 

「(さあ、いざ!)」

 

と手を伸ばそうと筋肉に動く指令を出したとたん、おばさんは勢いよくドシンと倒れ

こむように座った。

 

桃の果汁は、見事に洋服の下!!

 

 

 

しばらく、どうしようか考えた。

 

ここで言い出したところで、すでに果汁はない。

 

それどころか、楽しく会話の続きをしているおばさんにとっては、余計なお世話であ

る。

 

 

 

「(だまっていよう。)」

 

私は静かに、おばさんがせめてものジーンズをはいていたことに感謝した。

 

10分後、おばさんたちは、にぎやかにおしゃべりを続けながら、去っていった。

 

2003年5月21日(水)

 

市役所に結婚に必要な書類を提出。

 

月曜日はストで肩透かしをくらったが、今回は問題なくパス。

 

とはいえ、私の後、すぐに窓口は閉められてしまった。

 

どうやら、全職員会議があるようである。みんながあわただしく部屋から出て行く。

 

やれやれ、これだから早めに来てよかった。

 

 

 

昨日の夜、「明日の朝、市役所に行く」と話をしていると、ジュゼッペがこんな風に

はじめた。

 

「あっ、そうなの。だったら、市役所での結婚で指輪が必要なのか聞いてきてよ。も

し必要でないって言ったら、買わないよねぇ。」

 

何気なく「そうね。」と返事はしたものの、ん、まてよ、と何かが心にひっかかっ

た。

 

 

 

指輪って、結婚指輪のことだよな。

 

結婚しても結婚指輪はなし、ってこと??

 

 

 

「ちょっと待って。今なんて言った?どういうこと?」

 

「だって僕は指輪をしないしさ、必要ないって言うんだったら買うこともないんじゃ

ない。」

 

 

 

頭が真っ白になった。

 

返事に詰まっていると、

 

「でも、君が欲しいんだったら、何でも好きなものを見つけて買っておいで。」

 

 

 

いや、そうじゃなくて、私のイメージの中には、結婚に指輪というのは自然に存在し

ているもんであって、欲しいとか欲しくないとかの問題ではない。

 

そんなことを考えたこともなかった。

 

 

 

言い換えれば、指輪のことさえ、忘れていたのである。

 

もし、話題に出なかったら、結婚式の当日に「あっ!」ということになっていたかも

しれない。

 

そうなったらそうなったで、私は別にかまわない。

 

ただし、自分の結婚後の生活のイメージに、指輪は存在していた。

 

今までと生活自体は変わらないだろうが、そこに不慣れなものが薬指にある。

 

それを見て、「ああ、結婚したんだな。」なんて実感するのだろうか、などと想像し

ていた。

 

 

 

言われてみて、どうして結婚指輪が存在するのか、欲しいものなのか、必要なものな

のか、私にとってどんな意味があるのか、など、「好きなものを(勝手に)みつけ

て、買っておいで」というコメントと合わせて、考え、感じる必要を感じた。

 

あまりに突然の衝撃だったため、ひどく動揺した。

 

 

 

実際、市役所の窓口で書類を提出し、職員さんを目の前にすると、昨日は「どうして

私がそんな質問をしなきゃいけないのか。」といやな気分になっていたのを思い出し

た。まだ気持ちが整理しきれていないが、情報をひとつ増やすのもいいかもしれな

い、と思い直し、聞いてみた。

 

「いえ、必ずしも必要なものではありません。」

 

という回答であった。

 

2003年5月18日(日)

 

トリノ郊外のペチェットに住む友人宅に招かれ、その町で行われている花祭りを見

学。

 

めずらしい花などにも目移りするが、もみじの木に思わず心が動いてしまう。

 

久々の日本でみた、新緑が美しいもみじを思い出した。

 

これ以上鉢植えが増えても世話に困るし、大体育つのに適した場所が、もうない。

 

先日の学校で日本庭園の説明をしたときに、受けた質問が頭に浮かんできた。

 

 

 

「なるほど、日本の庭園は自然さを大事にしているみたいだけど、じゃあ、どうして

盆栽なんてするの。無理やりあんなに小さくして、自然に反すると思わない?」

 

 

 

これに対して、盆栽のことに興味ももったことのない私は、ただ「わからない」とし

か答えられなかったが、そう言われれば、伸びても切られてばかりで、小さいところ

に押し込められている(あるいは、そういう風に見えるだけで実際は違うのかもしれ

ないけど)盆栽はかわいそうな気もしてきた。

 

その盆栽から鉢植えを連想し、本来直植えに適している植物を、むりやり鉢植えで育

てるのは、エゴむき出しのような気もするし、そんなことをするのも気が引ける。

 

かわりに、もっと実用的なもの、ローズマリーとサルヴィア(セージ)の鉢植えを入

場券についていた割引を使って購入。

 

 

 

友人宅に引き返してきて、その庭先でほっと一息。

 

庭があるというのは、ほんとうにうらやましい。

 

確かに手間はかかるし、維持するのに金銭労力を消費するのは間違いない。が、その

代価として、この安息が得られるのである。

 

私自身、大きな庭のある家で育ったので、なんとなく懐かしい気も起こってくるし、

日本びいきの友人が坂本龍一のレコードを鳴らしてくれている中、すっかりリラック

スして、冷たいビールを飲みあげた。

 

じとっと汗にぬれた体にシュワッと爽やかさが流れていく。

 

 

 

実に気持ちのいい週末であった。

 

お土産に友人が庭から切ってくれた淡いピンクがかった白いバラが2輪、テーブルの

上でデリケートな香りを漂わせている。

 

今晩のおかずは、早速サルヴィアのフライといこう。

 

2003年5月16日(金)

 

先日ミラノより入手した書類のサイン証明。

 

これはトリノ県庁にて意外に簡単に片付いて、ホッとした。

 

ただ、職員のおばさんより、

 

「”Puo’ andare”行ってよし。」

 

なんて表現をされて、なんとなく心にひっかかる。

 

別になんてことない表現なんだろうけど、なんとなく軍隊の響きがあるというか、上

司が部下に向かって発するような感じがするのである。

 

私の感じすぎか。

 

2003年5月15日(木)

 

学校で日本の文化、庭園の説明、お茶、書道の実演を他の日本人とともにやった。

 

みんなとても珍しがり、しーんとして見入っていた。

 

もっと退屈がるだろうと思っていたのに、やはり日本は神秘の国として興味があるの

ね。

 

2003年5月14日(水)

 

再びミラノへ。

 

日本領事館まで出来上がっているはずの書類を引き取りに行った。

 

これだけ時間が掛かったんだから、さぞや立派な、それこそ透かしなどが入った紙な

どに書かれた書類なのだろうと思うと、渡された書類はただのA4のオフィスペーパー

に、タイプ打ちされたもの。申し訳程度に領事館のはんこが押されている。

 

しかも、日付が昨日の13日。

 

では、先週の金曜日から、領事館側は何をしていたのだろうか。

 

そんなに証明書類などの申請にきている日本人が数多くいるとも思えないし、こんな

簡単な書類のためにわざわざミラノまで来させられて、と腹がたってきた。

 

 

 

つまりは、書類作成には時間がかからないだろうが、肝心のそれにサインする人がい

なかったということかもしれない。いくらイタリア式になったとはいえ、日本人がそ

こまでのろまになったとは思えない。

 

ということは、私がちょうど領事がいないときに来た、という単なる不運か。

 

2003年5月13日(火)

 

通信教育の教材セットが届いたようだが、昨日不在届けが届いていたので、それを引

き取りに郵便局まで足を伸ばした。

 

不在届けをにゅっと窓口に出すと、おじさんが奥から段ボール箱を持ってきて、

 

「本当に受け取りたいですか?なんだったら、送り返すけど。」

 

と言ってきた。

 

おじさんは、段ボール箱の切れちゃった切れ目に指をあてて広げてみて、中身を見

て、

 

「どうやら、本のようだけど・・・」

 

と私に決断を迫ってくる。

 

全く変な質問をするおじさんだ、と思いながら、

 

「もちろん、ひきとりますよ。いくら払えばいいのですか。」

 

と支払いに対する心配をとってあげようと、はっきりと声に出して返事した。

 

 

 

無事段ボール箱を受け取り、よく見ると、四隅がみごとに切れていた。

 

段ボールが切れるんだから、よほど荒っぽい運送のされ方をしたのだろうか、などと

思いながら、家に持ち帰り、中身をチェックした。

 

 

 

夜、郵便局のおじさんの変な質問の意図がわからなくて、ひっかかっていたので、

ジュゼッペに起こったことを話した。

 

「そんなに、引き取らない人っているのかしら。お金を払わないといけないから?

だって、私の場合、わざわざ欲しくて注文したものなのよ。『本当に欲しいですか』

なんて言われてびっくりしたわ。」

 

「ああ、それはね、きっと箱が切られていたからだよ。受け取りのサインをしたら、

たとえ後で何かが足りなかったとしても、証明するのが難しいからね。僕だったら、

まあ中身にもよるけど、受け取りを了承しないケースもあるだろうな。」

 

 

 

そうだった。

 

私はなんて能天気だったんだろう。

 

そのことをすっかり忘れていた。

 

幸い、今回は何も欠けていなかったが、箱が開けられていることはよくあること。

 

ただし、税関などでチェックを受けるときは、開けられたあとで、ちゃんと税関の

テープで閉めなおしてある。

 

そのテープもなにもなく、四隅がみごとに切られていたのである。

 

その可能性を考えるべきであった。

 

そろそろ、日本の平和な休みボケから、イタリア式へと感覚のスイッチを切り替えな

いといけない。

 

2003年5月11日(日)

 

ジュゼッペの友人、エツィオが昨日からやってきている。

 

今日はさらに別の同僚家族も誘って、ポー川ほとりのレストランでランチ。

 

シェフおまかせのコースで25ユーロ。

 

なかなかボリュームたっぷりで、おいしかった。

 

幸運なことに絶好の天候だった上、イタリアでちゃんとしたレストランで食事をほと

んどしたことがないので、ただただ珍しく、トリノの丘に立つ趣のある家々に、すぐ

脇に流れるポー川、という演出にもすっかり酔ってしまった。

 

 

 

いや、演出に酔ったというよりも、実際にワインを飲みすぎたのかもしれない。

 

同じテーブルには、同僚の奥様とその子供が2人。

 

子供たちはテーブルにつかずに、脇で買ってもらったばっかりの駒をまわして遊んで

いて、お皿が来たときだけテーブルに戻ってくる。奥様は最初の1杯だけワインを口

にされたが、それ以降はお水ばかり。

 

結局テーブルに運ばれた2つのピッチャーのうち、こちら側に配置されたピッチャー

は全部私が飲んでしまったのである。

 

 

 

ああ、今日も天気よし!

 

と、すっかり上機嫌の私である。

 

2003年5月10日(土)

 

サッカー、ユヴェントスのリーグ優勝。

 

町の中はすごいパレードの大騒ぎ。

 

うるさくて、隣を歩いている友達との話も聞こえない。

 

2003年5月9日(金)

 

久々にミラノに行った。

 

結婚するための書類をミラノの日本領事館に申請するためだ。

 

以前その手続きを行った人から、朝に出せば、当日夕方には引き取れると聞いていた

ので、早起きして電車に乗ったにもかかわらず、職員からは

 

「来週の水曜日以降にできますので。」

 

と意外な台詞を聞き、思わず詰め寄った。

 

「そうなんですか!では、郵送していただけないでしょうか。」

 

「いえ、そういうサービスはしておりませんし、お金の支払いの問題もありますの

で。」

 

と取り合ってもらえない。

 

いくら日本の機関であれ、イタリアにあると、すっかりイタリア化してしまうようで

ある。

 

 

 

もう一度ミラノにわざわざ来ないといけない、とがっかりとして、地下鉄に乗りこん

だ。

 

地下鉄の窓に、自分の意気消沈した顔が映っている。

 

こういう風に、自分の姿をガラスの上に発見するのは、久々の感覚だ。

 

日本で通勤していた当時のことを思い出しながら、先々週に快適な日本のシステムの

恩恵に与っていただけに、余計にイタリア式の非効率的なわずらわしい手続きを恨め

しく思った。

 

 

 

日本の役所では、窓口で簡単なフォームに記入し、その場で書類を出してくれる。

 

しかも、その手続きに5分待つと、お姉さんから「大変お待たせしました。」とまで

言われるのである。

 

まったく、恐縮してしまうほど、丁寧で、便利な社会である。

 

 

 

ぶちぶちと愚痴りながら、そのまま家に帰ろうかとも思ったけど、どうせ休みをとっ

たんだし、せっかくミラノに来ているのだから、ミラノオフィスに顔を出そうと、行

き先を変えた。

 

普段メールでやり取りばかりしている同僚とも、たまには生で会話してみたいもので

ある。

 

毎日メールのやりとりとしているから、ただなつかしいという感じでもない。

 

久々に会うんだが、どんな状況かはよく知っているという、いかにもヴァーチャルな

友人といった変な感じである。

 

 

 

最近オープンしたらしいエジプトの店でケバブサンドイッチをほうばって、近くの

オープンバールでコーヒーを頼んだのはいいが、タバコの煙が来るわ、季節的に綿毛

が空中に飛び回っているわで、なんとなく落ち着かないので、公園の木陰に移動。

 

しばし、お互いのプライヴェートの近況など、歓談。

 

同僚と別れ、電車に乗るころには、腹立ちも収まっていた。

 

2003年5月6日(火)

 

ナポリからの研修生も休みから復帰してきた。

 

今日はわざわざナポリから「本物の」水牛のモッツァレッラをオフィスまで持ってき

てくれることになっていたので、こちらもトマトやらパンやらバジリコなどを用意

し、みんなで一緒にランチを食べた。

 

 

 

私にとって、モッツァレッラとはスーパーなどで買う普通の牛乳で作ったモッツァ

レッラの味であったので、それとはまったく別物であった。

 

なんとも言えないぎっしりと詰まった質感、微妙な牛乳の味の違い、噛んだときの歯

ごたえ。

 

ほんとこれだけで立派なランチになりうる。

 

今までサイドディッシュ的な扱いしかしてこなかった、私のモッツァレッラ感ががら

りと変わった。

 

さらに、モッツァレッラを保存していた液もおいしくて、はしたなくも、パンにその

液を吸わせておいしく頂いた。

 

ちなみに、このようにお皿に残っているスープをパンでぬぐうようにして食べるのを

「fare la scarpetta小さい靴をする」というらしい。どうしてそう言うのか、誰も

知らなかったが、なかなか面白い表現だ。足元に落ちているものを見つけたときに足

で自分の下にすべてかき寄せるようにする行為に見た目が似ているだからだろうか、

などと想像すると楽しい。

 

 

 

ナポリでは、いわゆる牛乳屋さんみたいなところに行って、モッツァレッラは買うも

のらしい。

 

スーパーの流通系統には、この「本物の」モッツァレッラは乗っからないらしい。

 

確かに、スーパーで売っている水牛のモッツァレッラも買って食べたこともあるが、

ここで食べたのとは種類が違う、とでも言えるだろうか。それぐらい全く別の代物

だった。

 

 

 

この「本物の」味に慣れているナポリ人は、よその土地でモッツァレッラを食べる気

はしない、とか。

 

ピッツァについても同様にナポリのこだわりのピッツァの存在が、ピッツェリアから

ナポリ人を遠ざけているに違いない。

 

友人などと気軽に行けるイタリアのファーストフード、ピッツェリアに喜んでいけな

いなんて、なんてかわいそうなんだ、ナポリ人!!なんちゃって。

 

2003年5月2日(金)

 

昨日からラパッロの別宅に来ている。

 

ガスや電気の調子を調べて、ほとんど誰も使わないのに基本料金ばかり払わされる電

話のサービスを切り上げてしまうのが今回の目的だったんだが、電話でイリスに最後

の確認をすると、

 

「私たちも今年は行くだろうから、何もいじらないで、そのままにしておいて。」

 

と話が変わってしまった。

 

どうやら「おじいちゃん」フェルナンドの調子がいいようである。

 

体調がそれほどよくないときは気弱になり、息子であるジュゼッペに、「もう面倒な

ことはいや。すべておまえが管理すること。」とまる投げし、電話サービスを切るこ

とも何度も話し合って納得していたはずなのに、元気になると気も若返りし、自分の

コントロール下にすべてを置きたがるようである。

 

 

 

元気でいてくれるのは大変いいことなんだが、自分の親の、というより「年寄りの」

気まぐれに振り回される自分の役割に嫌気がさし、それじゃあ、と言わんばかりに、

すべてを放り出して、今日のジェノヴァ行きをジュゼッペはさっさと決めた。

 

 

 

ジェノヴァ。

 

いつも電車で通過するだけで、まだ行ったことがなかった。

 

そのジェノヴァの水族館を目指して、海辺を走る電車に乗った。

 

あいにくと曇りがちな空だが、雲の合間から射した日差しがきらきらと海面に反射し

ている。

 

日差しは暖かいが、汗ばむような陽気でもない。

 

今から1ヶ月ぐらいの期間が1年中で1番好きである。

 

 

 

電車の中では、目の前に5、6歳ぐらいの女の子とおじいちゃんが座っていた。

 

同じように水族館を目指しているようである。

 

ちょうどあの年頃の子供はそんな感じだったか、ひと時もじっとしておらず、体をく

ねくねとくねりながら、女の子はずいぶん興奮しているようである。私たちが話しか

けると、次から次へと冗談を連発し、ひとりでゲラゲラと笑っている。

 

「この電車はあのトンネルと通過するとユーロスターに変わるの!」

 

「あそこの窓のところに住んでいるおばあさんのこと、知っているわ。とっても意地

悪で醜いのよ!」

 

などと、その想像力には脱帽である。

 

ジェノヴァの駅からバスにのり、水族館の切符売り場まで、とぎれなくひとりでしゃ

べっていた。

 

 

 

切符売り場では行列ができていた。

 

おじいちゃんと女の子は切符を間違えて買った人からその切符を譲り受けて、さっさ

と会場への行列に消えていった。

 

私たちは散々待った挙句、会場内も人の頭、頭で、水槽の中身がよく見れなかった。

 

3Dのヴィデオを上映しているというので、その部屋に入ってみると、いきなり日本

語が飛び込んできた。

 

Panasonicが作成したヴェデオのようである。

 

ジェノヴァに来て、日本製のヴィデオ。

 

日本から帰ってきたばかりでなかったら、少しは感傷にひたったかもしれないな・・

・。

 

とにもかくにも、人、人、人だし、私は日本で買ったばかりのヴィデオカメラを使う

練習ができた、ということで自分を納得させた。

 

2003年4月30日(水)

 

ついつい、日記を書くのをさぼっているうちに、1ヶ月以上経ってしまった。

 

前回書いたのはちょうどイラク戦争が始まったばかりのころだった。

 

そして、私はそのイラク戦争のせいか、肺炎のSARSのせいか、予約していた飛行機が

キャンセルになって、フランクフルト経由ではなく、パリ経由で日本への一時帰国か

ら昨日遅く帰ってきて、さすがにヘトヘトである。

 

 

 

久々に乗るエール・フランスの機内食が美味しかった。

 

思わず感心して、隣の人に「美味しいですねぇ。」などと話しかけると、「はぁ?」

と胡散臭げな目つきでもって返事が返ってきた。どうやら美味しいと感じたのは私ぐ

らいのようである。

 

その隣の彼女は日本人で、これからプラハへ旅行に向かっているそうで、普段の旅行

ではその都度とれた飛行機にのるので、特定のエアラインばかりに乗っているわけで

はないらしい。

 

逆に私はマイルの関係もあって、いつもルフトハンザに乗っていたので、その違いに

敏感に反応してしまった訳だ。

 

機内誌の感じも洗練されているし、さすがヴィヴァ・フランス!といった感じであ

る。

 

2003年3月20日(木)

 

学校に着くと、全教員、生徒が一教室に集まっていた。

 

私も手招きされて、入っていくと、先生の一人が話し始めた。

 

「みなさんもご存知のことと思いますが、イラクへの攻撃が始まりました。」

 

普通の出来事ではないので、みんなでそのことについて話したい、という趣旨のよう

だ。

 

大多数は平和主義の主張を繰り返し、仕切っていた先生は、

 

「みなさんも、是非『平和』と書かれた旗をベランダからつるして、戦争反対を主張

してください。」

 

ということでとりあえず締めくくられた。

 

 

 

イタリアでは平和主義者によって、虹色の「PACE(平和)」と書かれた旗が各家庭よ

り外に向かってつるされている。その数は日を追うにしたがって増えていて、政府の

ことはまずおいて、一般社会では戦争反対の雰囲気が高まっている。それに呼応する

かのように、ヴァティカンの法王も今回は非常に力を入れて平和を説いている。

 

 

 

私も戦争がいいことだとは思わないが、なんとなくこの平和運動には馴染めない。

 

なによりも、平和運動のためにどうしてFIATはじめ主だった企業がストを起こすのか

がわからない。

 

みんなが広場に集まって、戦争反対運動をするというのが表向きだが、現政府の、戦

争には直接参加しないがアメリカ軍がイタリアの基地を使うことを許可するなどと後

方支援を表明したことに対する対抗という姿が丸見えである。

 

2003年3月18日(火)

 

今日から研修生が一人オフィスに来た。

 

IT関連のコースを受講後、3ヶ月間企業で習ったことを実践し、技術認定みたいなの

がもらえるらしい。

 

企業側としても、それらの研修生を受け入れることが義務付けられているらしい。

 

 

 

ナポリ出身の彼女は、東京にも1年間いたらしく、日本語もある程度わかる。

 

私から説明を受けるときは日本語がよい、と彼女が希望したため、日本語でソフトの

使い方などを説明するんだが、変な感じだ。

 

 

 

「これはねぇ、写真をいじるときにここを選んで・・・」

 

「『いじる』って何ですか。」

 

「ああ、『いじる』って方言だったかな??『触る』とか、この場合は『修正す

る』っていうか。イタリア語ではritoccoのこと。」

 

「ええっと、この『ファイル』メニューですね。ああ、この漢字、知ってる!でも、

何て読むんだったかな。」

 

「ほぞん(保存)よ。」

 

 

 

ひとつひとつの手順でいちいちひっかかり、こんな調子で会話すると、私のほうが気

を使い、疲れてしまう。

 

彼女のほうが生徒の立場で、一生懸命ついていくために疲れるのが本来の姿のはずな

のに、楽勝の母国語での会話に私のほうが疲れているんだから、世話がない。(実

際、彼女は余裕の涼しい笑顔である!)

 

どちらが彼女のためになるのかわからないけど、ひたすら自分のペースで気にせず続

けるより、ですます調でできるだけ簡単な単語を選んでしゃべるほうが気は楽だ。こ

んな風に感じるのも少し日本人的だろうか。

 

 

 

だが、不自然な日本語での会話は、やはり疲れる。

 

早々にイタリア語に切り替える。

 

彼女は不機嫌そうにほっぺたを膨らませて、

 

「これじゃ不公平だわ。あなたはイタリア語の勉強ができるけど・・・」

 

「ははは。だったらあなたから日本語で話しかけることを受け入れるわ。」

 

「そうね。『る調』の調子も思い出さなきゃ。」

 

 

 

彼女は自然な会話調の日本語を「る調」と呼んでいた。

 

そんなに「る」って出てくるかな・・・。

 

2003年3月14日(金)

今日、家の玄関の扉を替えた。

がちゃっがちゃっと金属の棒が壁のほうに突き出てしまる鍵が、うまく閉まらなくなり、普通の鍵1本でしばらく過ごしていたが、このままでは、簡単に扉を破られてしまうということで、最新の普通の鍵屋さんで鍵のコピーができない鍵を使って、金属棒の本数も増えた扉を設置することにした。

金持ちでもないし、泥棒に入られたとしても、盗まれるものなどほとんどないのだが、問題は、泥棒が入ってきて家の中をぐちゃぐちゃにされたときの恐怖感である。

日本の実家には、泥棒が何度も入った。

あの当時は、まだのどかなもので、変な物音を聞いた母親が2階の部屋から階段を下りようとすると、その階段で、泥棒と鉢合わせ。そのまま、「ショッ!ショッ!」と手で追いたてたら、泥棒はおとなしく家を出て行ったという逸話もある。(母は勇敢だ!!)

当時の泥棒は、見つかったら逃げる、というのが常套だったのだが、最近の泥棒はもっと物騒になってきたらしく、自分の安全のためには人の命を奪うことになんのためらいもないような場合も増えてきたと聞く。

何より、知らない人に自分のプライヴェートな空間を勝手にいじられるのが気持ち悪い。

物がなくなるのもショックだが、それよりそれ以降、いつまた知らない人が家に入ってくるかもしれないという恐怖の方が大きいだろう。家に帰ってきて、扉を開けるのが怖くなるだろうし、カタリと変な物音がするたびにビクビクすることになる。

扉とその枠、周りのセメントをとり、壁に穴をあけて、新しい枠を入れる。

穴と枠とのギャップをセメントで埋めなおし、扉をつける。

8時半から今12時半。

これを書いている間、ずっと一人の作業人が働いているが、なかなかたいそうな仕事である。

午後は仕事なんだが、どうやら行けそうにない。

作業員は今からランチ。

午後2時半に戻ってくるとのこと。

もう少し早く戻ってこれないか、と聞いてみたが、

「xxもしなきゃいけないし、ooのための店はまだまだ昼過ぎじゃないと開かないし、ほんとなら12時にもなったら引き上げるのが普通だけど、ぼくは時計を持ち歩かないから、今まで働いたんですぜ。そりゃ無理ですわ。」

と、元気よく反撃が返ってきた。

ここはイタリア。まあ、こんなもんだワナ。

 

2003年3月11日(火)

先週からイタリア人のお母さん子ぶりについて、授業中に活発な意見交換が行われているんだが、日本人のお母さんの経験話が特に心に残ったので、書いておきたい。

イタリアのお母さんは子供の世話をしすぎるぐらいするので、保育園に通う年齢になっても、ボタンがかけれない、靴紐が結べないなどという子たちがたくさんいるらしい。それでも一昔前は、たわいのないことでも一人でできるようになると、「ああ、ぼくもひとりで靴がはけるようになった。」などとちょっとした「大人」になった気分を味わう自立心が子供にもあったそうだ。しかし、今は「だってできないもん。」と子供はやろうとする努力もなく、その様子を見てられない母親が手を貸すので、いつまでたっても靴紐が結べず、「どうせ母親が結んでくれる。」とできないことを気にする様子もない、とか。

前述の友人は日本式に、保育園に通うころには一通り自分の身の回りのことは自分でできるように教育したため、保育園に送り届けてから、他の母親たちが子供が遊戯服に着替えたりするのを一から、助けるというよりすべてをやってあげている横で、自分の娘が一人できちんと着替えている様子を誇らしく見ていたらしい。

その娘が小学生に上がっても、友人の多くは靴紐が結べず、先生も手に余って、彼女に手伝ってくれるように頼んだらしい。そうして、彼女は友人たちの靴紐を結んであげながら、成長した。

現在、彼女は18歳。

ある日、ふと母親である友人にもらしたらしい。

「私も、たまにはお母さんに靴紐を結んでもらいたかったな・・・。」

友人は日本式の教育がいいと固く信じていたので、その信念に従って厳しく教育したが、子供の立場に立つとまわりのみんながみんな母親に甘えている中で、自分は甘えられないというのは、多少心に引っかかるものがあったということだろうか。友人は、「自分は日本の考え方をそのままそっくりイタリアに持ち込んで実践したけど、『郷に入っては郷に従え』とでも言うか、現地の状況も少しは配慮にいれなきゃね。すべてが『こうでなきゃいけない』というのではなくて、もっと柔軟に対応するべきところもあったかもしれない。何十年かたってみて、そんなことを考えるのよ。」と言っていた。

みんなと同じように甘やかせばよかった、というような単純なことではなく、甘やかすことも悪いことではないという心情にたどり着いた様子。

甘やかされて育った多くのイタリア人は、確かにお母さん子になる。

その弊害もたくさんあるが、概して愛情をあふれんばかりにストレートに受け取った子供たちは、非常にスウィートな人となる。そして、大人になっても、「お母さん!」と叫んで、抱きついて挨拶をするような状態は、ほんとによく目にするし、家族の絆はとても固い。いつも連絡を取り合って、関係がとても近い。

こういうのをベタベタしていて、あんまり好きでないという人もいるかもしれないが、そう悪いものでもない、と私個人的にも思う。友人にとっては、子供の巣立ちも近くなってきて、自分の子供はイタリア人みたいに近しい関係を保って、いつまでも「仲がいい」親子関係を持ちたい、ということらしい。

かといって、母親がなんでもしてくれる環境が気持ちよくって、卒業もせず、働きもせず、30歳すぎても、40歳すぎても、いつまでも実家にいて親のすねをかじって生きていくようなのでは困るけど・・・。

教育問題は、いろいろ考えさせられそうだ。

授業後、インド人の友人に誘われて、彼女の家でランチ。

初めて訪れた彼女の家は、絨毯やつぼなどの装飾品を扱っている店を経営していた。

まるで、時代を少しさかのぼったかのように、同居世帯家族で、ご主人の兄弟姉妹の家族も一緒に住んでいて、食事は店の従業員なども一緒にとることも多々あるとか。

ヘルパーさんが何人もいて、1歳と数ヶ月の赤ん坊のことも見ていてもらえるし、電話の内線で、「お友達がひとり来たから、パスタを100gほど追加してね。」などと台所に指示を出している様子など、私が普段暮らしている世界とはちょっと違う。

インドでは弁護士の仕事をし、同じような同居世帯家族の環境で、暮らしていたらしい友人は、イタリアでもそのまま「インド風」の暮らしぶりだ。

きっと、インドでも裕福な層に属する人だったんだろう。

親が選んだある人と結婚する予定で、西欧の法律を学びに数ヶ月ほどイギリスに留学する航路途中、数日の休みをイタリアで過ごすつもりで寄ったところ、現在のダンナ様と劇的な出会いがあって、そのまますぐに結婚したそうだ。ダンナ様については、以前ヴェジタリアンのことに触れたときに書いたが、イタリアにいながら自然にヴェジタリアンになった人である。

同じカーストに属する人との結婚という意識がインドにはまだ残っているらしく、親が選んだその人はとてもいい人だったこともあり、本人同士は「じゃあ結婚しましょうか」と同意していたらしいが、同じくイギリスに留学中の相手に、友人が正直に「イタリアで心から愛する人に出会ったので、その人と結婚したい」と電話すると、「いいよ、君のことが気に入らないと親には言えばいいだけのことだから」とあっさり同意したとのこと。そして、現在のダンナ様を連れてインドの両親に紹介したときも、まったく反対なく、すんなり収まったとか。

いやぁ、実にうらやましい話である。

店じまいをして、ランチに合流したダンナ様は、さすが商人だけあって、打ち解けやすい魅力的な人だった。

話す内容も明快だし、面白い。私の話も辛抱強く聞いてくれるし、文法的に間違えるとしっかり訂正してくれる。適当に聞き流すのではなくて、しっかり受け止めてくれているようで、非常に好感が持てた。

ヴェジタリアンランチとはどんなものか、と興味津々だったが、カリフラワーのパスタとインゲンのサラダだった。

パルメザンチーズと、これまたとびきり薫り高いオリーブオイルをふりかけて、なかなか美味しいランチだった。このオリーブオイルは特別に南部のほうから取り寄せているらしい。道理でスーパーなどで売られている水のようにサラサラのオイルとは違い、いかにも搾りたてというイメージで、どろっとしている。これほどオリーブの香りが感じられるオイルは初めて口にする。彼らは肉も魚も食べない厳格なヴェジタリアンなので、それらで出汁もとれないし、こういう調味料、スパイス類はアクセントとして大事なのかもしれない、などと想像する。もっとも、食には「普通の人たち」より細やかに気を配っているだろうな。調理してくれたラテンアメリカ出身らしい人に、そのあたり聞いてみると、「ヴェジタリアンの料理は単純で簡単なのよ。」と、けらけらと笑いながら答えてくれた。

食後、夕方再び店を開けるまで、ダンナ様は自室に入っていった。

私たちは、カフェイン抜きの紅茶をいただき、ちょうど昼寝から目覚めた息子君と友人がじゃれている横でちょっと世間話。その横の作業室では、お手伝いさんがアイロンをかけている。

なんて、平和な空間なんだろう。

途中から、ダンナ様も子供の遊びに参加しだしたり、ここだけ時間がゆったり流れている感じだ。

思わず、雰囲気にひたって、ゆったりしすぎて、出勤時間が過ぎていることを急に気がついて、あせり。

あわてて、車に乗り込んで、現実に向かって、アクセルをふかした。

 

 

2003年3月7日(金)

明日、3月8日は女性の日。

女性にささげる、ミモザの花束が、町のあちらこちらで見かけられ、黄色いポンポンがかわいらしい。

女性の日とは、日本のひな祭りとは違って、イタリアで女性にも投票の権利が与えられ、男性と女性の権利平等が認められたのを記念してできたお祭り。

かといって、祝日ではないので、仕事はあるんだが、女性はミモザの花束をプレゼントされ、最近ではレストランで外食というのがパターンのようである。もっとも今年は土曜日なんだけど。

同僚に何か祝うのか、と聞いてみたところ、

「別にそんな気はないわ。だいたい最近のお祭りってすっかり商業化しちゃって全然雰囲気じゃないし。もし、祝うことがあるとすれば、それは、例えば女性が夜11時に外で家に向かって歩道を歩いても、どきどきしながら急ぎ足で歩かなくてもよくなったときね。」

「女性が男性より体力的に弱いのは自然だし、そんな日は来ないんじゃない。」

「いいや、意識次第よ。」

「それより、そういう暴力自体はイタリアではアメリカより少ないんじゃない。」

「でも、そういう意識があるのは事実だし。」

「暴力というより、スリの心配のほうが高いわよね、イタリアでは。(笑)」

「命の危険度という意味では、確かにアメリカの方が高いかもね。」

そんな会話をしたことを、夜、パルマへ移動している最中にジュゼッペに話すと、

「そうだねぇ。少なくともイタリアでは女性の数の方がずいぶん増えているのを知ってる?つまり、将来的には・・・わかる?」

「男性の方が女性の標的になるってこと?たくさんの女性からウィンクされながら、『今晩お暇?』って10メートルごとに聞かれるようになるんだったら、一部の男性にとっては天国なんじゃない?」

「まあ、人によるね。」

「確かに毎日だったら参るかな。(笑)」

そのうち、「男性の日」というのができるかもしれないな。

追記:

今回乗ったパルマのバス、座席のカヴァーの一部が切れていた。

乗り心地がトリノのバスよりいいのには変わりないけど、以前「赤い革」と書いたのは間違い。

ほんとだったら、どんな贅沢なバスだろう・・・。

革に似せてあるビニールが正解。

でも、ほんとによくできているんです。すわり心地もよし!

 

2003年3月5日(水)

ここ2日連続で、朝方の睡眠を妨害された。

家の前に駐車している車の1台より、防犯アラームが朝の4時から誤操作で鳴り響くのだから、睡眠を妨害されたのは私だけではないはず。

腹立たしいのは、アラームが鳴り止むのは8時ぐらい。

つまりは、持ち主はそれまで熟睡しているってことだろうか。

それでも、もし昨日1日だけのことであったなら、仕方がないと思いもできるけど、2日連続である。

おかげで体がだるくってたまらない。

こんなときは、泳ぎにでもいって、シャキッとしたいところだが、そんなときに限って奇数の日。

うちの車のナンバープレートは偶数。今日は車で外出できない。

イタリアの主だった都市では、スモッグ大気汚染がひどいので、自動車の使用許可をナンバープレート最後の数字が偶数、奇数で規制していて、その日が偶数なら偶数のナンバープレートの車が、奇数の日なら奇数のナンバープレートの車が使用を許可されている。その他、昔のナンバープレートの車は奇数であれ、偶数であれ、その日は使用禁止。トリノでは水曜日と木曜日に実施されている。

バスでも行けるのだが、時刻どおりに来ないし、待ち時間も合わせると下手すると30分ぐらいかかる。

車では直線距離で、5分。

やはりこの便利さにはかなわないだろう。

すっかり行き気も失せてしまった。

なんだかついていない日である。

 

2003年2月20日(木)

今晩はイタリアで初オペラ観劇。

ロッシーニの「シヴィリアの理髪師」で、ロジーナ役を日本人友人がやる、というので興味津々で見に行った。

トリノ郊外、モンカリエーリの小さな劇場。

雰囲気的には学生時代の学芸会という感じで、少々ボロイ。座席も硬く、お尻と背中がいたくてしょっちゅう体をねじって体重移動させないとやっていられない。入場料が8ユーロ50セントなんだから、文句は言っちゃいけないだろうが、ずいぶんつらかった。

演劇者の質はほどほど。

主人公のフィガロは、顔の表情は豊かだが、声はいまいち。

伯爵は、最初はあんまりだったが、後半、より声も乗ってきたようだ。

友人のロジーナはなかなかいい声をしていた。ただし、発音が日本人なまりの部分が残っていて、プロの迫力とは正反対の、カタカナイタリア語の「かわいい」感じが出ていた。これぞまさに学芸会といった感じだ。

2幕の後半あたりになると、平日ということもあり、疲れがどっとでてきて、眠くなってきた。時計を見るともう23時半をまわっている。それを見計らったかのように、入り口のカーテンの隙間から、ヒョーっと冷気が入ってきた。誰かが劇場の扉をあけたのだろうか。外は零下のはずである。眠気はとれるが、今度は足元が寒すぎる。演劇を楽しみたくても、環境のせいで、「早く終わらないかな」と考えはじめてしまったのが残念だったが、それも仕方がないような環境であった。

もともとは日曜日の夕方に行われる予定だったのが、大気汚染対策のため急遽車での外出禁止令が出てしまい、木曜日の夜に変更になったんだが、これはつらい。

劇場を出て、車に乗り込むと0時半。

観劇の余韻を楽しむどころか、へとへとになってしまった。

ドイツ時代、ミュンヘンでオペラを見たことがあるが、あちらでは幕間の休憩ではシャンパンとおつまみというのだったので、ビスケットぐらいは出るのかな、と少しは期待していたけど、何にもなしだった。

オーケストラもなし。

音楽は録音テープでも流すのかな、と思ったが、幕の後ろでピアノ演奏は生だった。

3時間ずっと引き続けているのは、そうとうつらいだろう。

終了後の舞台挨拶で出てきたピアニストは、これまた想像とは正反対のひょろひょろの男の子が、いかにも指が痛そうにもみもみしながら出てきたのが印象的だった。

しかし、友人がこれほど本格的にオペラ歌手の勉強をしていたとは知らず、なかなか感心した。登場人物でただ一人の外国人だったが、引けはとらなかった。一緒にみていたイタリア人友人は、「そうね。彼女はなかなかいい声をしていたわ。でも、日本人がオペラをするのを見るのはちょっと変な感覚を覚えるわ。」と感想をもらした。

変とはなにさ!と日本人の肩を持とうとすると、「じゃあ、イタリア人が歌舞伎をする姿を思い浮かべてみてよ。」と言われて、思わず反撃の言葉を失ってしまった。いい悪いを別にして、確かにちょっと変な感覚だワナ。

 

2003年2月16日(日)

今日は早起き。

昨日の快晴に気をよくした友人が「連れて行ってあげたいところがあるんだけど・・・」と8時半に約束をしていたのだが、あいにくの曇り空。

トリノをまたいで、待合場所まで行ってみると、雪がちらちらと降り出した。

あまりの寒さに、とりあえず近くのバールに入り、カプチーノで体を温め、再び外に出ると、ちょうど友人も車でやってきた。

「残念だね。天気がよければ湖まで行こうと思っていたんだけど。」

白い息を吐きながら、まず私の手をとって挨拶をする友人。

ジュゼッペとはtuで親しげにしゃべるが、親子ほどに年が違う私に対してはいつまでもLeiの敬称でしゃべる。まだイタリア語の丁寧語がよくわからなかったころ、私は初対面の彼に対しても普段使っているtuで話しかけたが、返ってくる返事はいつもLei。距離をおきたがっているのかと最初は戸惑ったが、いつもやさしく、とてもうちとけて話しかけてくれる。どうやら私をlady扱いしているだけのようである。

彼の車に乗り込み、とりあえず出発。

天気の様子を見ながら、その方向へ行ってみるんだが、雪の降り方はますますひどくなるばかり。

「やっぱりダメだね。湖まではいけないけど、アッリエのお城まで行ってみよう。」

行き先を変更したのはいいが、辺りはあっという間に雪で埋もれていった。新雪にゆっくりとタイヤの跡をつけながら、車が滑っていく。前のほうで彼とジュゼッペが世間話をしているのをまるでBGMのように聞きながしながら、初めて行く場所にワクワクした。

現れたアッリエのお城はとても大きくて、雄大だった。

ただ、残念ながら、手入れが行き届いていないようで、城内の噴水の彫像も真っ黒でこのまま放っておくと崩れ落ちそうである。

お城見学の切符売り場に行くと、見学客が珍しいのか、ただ朝早かっただけなのか、売り場のおじさんはずいぶんと驚いたようだ。

私たち以外に見学客もいなく、まもなく始まったガイドツアーも独り占めであった。

彫刻や絵画が素晴しいのはお城の常ながら、こちらはカーテンがとても繊細で色使いもとてもかわいい感じであった。中には本格的な小さな劇場もあり、階上の桟敷席もなかなかながら、音響効果も完璧ということだ。年に何回か、ここでコンサートも催されるとのこと。さぞや素敵なことだろう。劇場付のお城というのもなかなか珍しい。

棚の中の陳列品も興味深いものもあるのだが、陳列の仕方が陳腐であった。無造作に通路に棚を置き、適当に並べたというような印象だ。これもきっと、見学者がほとんどいないため、手抜きなのだろう。お城自体は素敵なのに、もったいないことだ。

ガイドの人も言っていたが、折角の観光名所も誰も知らないか、関心がなく、人が寄ってこないそうだ。人が来なければ、維持する費用捻出も難しいし、維持する動機付けも乏しくなるということだ。残念なことである。

ピエモンテ州は2006年のトリノオリンピックに向けて、観光にも力を注ぐとか言っときながら、こういう情報発信、ツアー企画などの発想がまだまだ抜けているようである。

ドイツの、同じく辺鄙な場所にある、シンデレラ城モデルとして有名なノイシュヴァンスタイン城では、それこそひっきりなしに大型バスがツアー客を連れて来ていたものである。ロマンチック街道の終点として、行政も大いにPRしているし、人がどんどん集まるしかけもあり、お城のきらびやかな面だけでなく、台所などの裏の面も公開していてなかなか面白い。

それに引き換え、たとえばこのアッリエ城では4階あるうちの1階一部しか公開していない上、地下などはもってのほか。庭には上の窓から眺めるだけで、入れないし、折角の装飾も手入れが行き届いていない。

友人曰く、ピエモンテ州には大小合わせて1500ほどのお城があるらしい。

そんなにあるか、と思うが、考えてみたらトリノだけでも5,6個あることを思えば、そうかもしれない。

折角ハードがあるのだから、行政が上からうまく旗を振れば、観光業も立ち上がるのではないかと思う。観光マイナーからメジャーへも夢ではないのだ。バローロをはじめとするワインの数々、トリュフなどの食、バロック建築、アルプス、映画などなど、取り上げる面はいくらでもあるんだから。

そういう恵まれた環境にいながら、私はまだほとんどを楽しんでいない。

なによりも出不精の気があるのも理由のひとつだが、分野に明るい地元人ではないので、どこからどう始めようか、よくわからないというのもあるだろう。

そういう意味で、ここに60年暮らしている友人が、時折誘ってくれるのは非常にありがたい。その彼の勧めで、彼曰く「ピエモンテで一番おいしいレストラン」でランチした。もう何代も経営者が変わらない、昔からの味を守っているレストランとのこと。でも、今は次世代の若者の姿が見当たらない。ここも世襲の問題に突き当たっているのだろうか。友人曰く、最近の若者は「楽して」お金儲けできることしかやらないから、いくらお金が入ってくることでも、1日中身を粉にして働くようなレストラン業は敬遠したいということだ。

お金かひまか、ということになれば、ひまが大事ということか。

「モウレツ」はもうはやらないのね。

 

2003年2月8日(土)

 

昨日の朝破水して病院に行ったと言っていたパルマの同僚。

ちょうど昨日の夜からパルマのほうへ来ていたので、お祝いとお見舞いに行くことにしたんだが、家にも携帯にも誰も出ない。どこの病院に入院しているのかがわからない。

ままよ、と町に出て、とりあえずプレゼントを買う。

こういうとき、親友であれば、何がほしいなどとあらかじめ聞いているんだろうが、予定より3週間早かったこともあって、何の準備もしていない状態だったから、無難なお花にしておきなさいと周りは言うのだが、あんまり気が進まない。

もし私だったら、他の人からも間違いなく花は届くだろうし、花よりも実用品の方がうれしい。ただし、経験者曰く、本人の意表に出るようなものだと、たとえもらっても使わないことが多いとか。だから、お花にしておきなさい、としつこいほど勧められるのだが、そんなものだろうか。私なら、手元にあるんだったら何でも使ってみるけどな。しかも、彼女の周りの友人たちはまるでベビーブームのように次々と妊娠しているらしいから、使いまわしもしてもらえるだろうと思い、結局、実用品、かわいい水色のバスローブを買う。うん、これなら使ってもらえるだろう(と勝手に納得する)。

めぼしい病院に電話し、「昨日生まれたはずの・・」と聞いて、案外すぐに見つかった。

病室を訪ねると、だんな様と初対面。

非常に疲れた顔をしていた。

話を聞くと、生まれたのは昨日の夜11時を過ぎていたとか。

「じゃあ僕はとりあえず家に戻って、また昼過ぎに来るよ。」

と言って、だんな様は去っていった。

彼女は眉間にしわを寄せて、非常に苦しんでいた。

自然出産だったらしいが、陣痛みたいなのがまだ続き、そこに切れた痛みまで加わって寝ることもできなかったとか。

ぽつりぽつりと話しながら、20分ぐらいすると赤ん坊が運ばれてきた。

ほんと、「赤い」。

髪の毛は黒くなくて、明るい茶色だ。

目元はなんとなくアジアちっくだが、鼻も高くて、ぱっちり二重である。

驚いたことに、爪がずいぶんと伸びている。

そうだよな、爪も世に生れてから成長し始めるわけじゃなし、考えてみれば当然だが。

お母さんの腕枕ですやすやと寝ている様子をカメラに収めた。

ご当人たちはきっと疲れて、記録を残すところまで気が回っていないだろう。

写真を後日送ることを伝えて、退室した。

赤ちゃんはとてもかわいらしく、ほんとはもう少し見ていたかったんだが、もしかしたら他人の存在に授乳もしにくいのでは、と遠慮した。

「お母さん、すごく苦しんだよ。私のかわいい赤ちゃん。」

訳せば、こうなるだろうか。

彼女がイタリア語で話しかけていたのが印象に残った。

こういう表現は、たしかにイタリア語の方が簡単だワナ・・・。

 

家に戻り、中庭の掃除。

大きくなった植物の枝払いをして、枯れた葉っぱを取り除いて、ついでに、空いている場所へバラの挿し木を試してみる。

トリノの家で試してみたんだが、挿し木の方が以前試したバラの実より再生率が高そうだ。実際、室内の温度に春を思ったのかほとんどの枝から芽が出てきて、しかも、あわてん坊の1本が、根を地上に突き出したりもしている。その後、「まやかし」を知った挿し木たちの芽も枯れていったが、枝本体はまだ干からびずにいるものも数本ある。バラの実による実験は結果ゼロだったが、挿し木実験の結果、春が楽しみである。

中庭のそばの一室で、地下の貯蔵庫よりイーリスがたくさん空き瓶を出してきた。

そうだった。今日はワインの瓶詰めをするって言ってたな。

慌てて近くに駆け寄り、お手伝いする。

トリノでは買い物のたびにワインを調達しているが、ここではワインのまとめ買いをしているのである。エミリア地方だから、当然のようにLambruscoに代表されるような発泡赤ワインである。腕で抱えられないような大きな樽のような瓶から、いつも使っている1.5リットル入りの瓶へ移し変えるのである。

漏斗を使って、瓶に詰め、全部で18瓶と半。ということはあの樽には28リットルぐらい入っているということか。

ちなみに値段は36ユーロ、リットル当たり1ユーロとちょっとほど。

スーパーで極々たまに安売りしているときの値段といい勝負である。しかし、これは誰が何を使って作ったか中身に安心できる地元のワイン。スーパーに毎回買いに行かなくてもいいし、いい銘柄の安売りを買い逃したときのことなんか考えると、なかなか捨てたものじゃない習慣である。

ただし、いつも同じワインになる。

安売りに惹かれてふらふらとワインを変えている私から見ると、ちょっとつまらない気がしないでもないが(ただ単に、私の趣向がはっきりしていないからだけなんだが。)、レストランでちょっと気取ってワインを注文するわけでもないし、普段の生活では気に入ったワイン一筋というのもいいのかもしれない。そういえば、父はビールのときはキリンラガー一筋だったな・・・。

引き続き、中庭で今度は瓦葺き。

中庭の一角にあるお手洗いの屋根から雨が漏るらしい。

そのお手洗いを使用しているテナントの一人がクレームをつけてきたので、瓦を乗せてみようとジュゼッペが思いついた。ちょうど庭の一角に使用していない古い瓦の山があり、その山が一列でもどけれて、しかも利用するんだから、一石二鳥というわけである。

その瓦は1800年代の手焼きの瓦で、半円より少し短いめの弧で40cmぐらいの長さ、一方の弧が小さくて、もう一方の弧が大きい、上から見ると細長い台形になっている。昔、家の屋根を葺き替えたときに残ったものを中庭に積んでいるわけだが、これが案外いい値で売れる。古い屋根を修理したい人たちへの需要だ。ちょうど2年ほど前は、瓦1枚辺り6000リラ、ユーロに換算すると約3ユーロ。今はもう少し安く取引されているらしい。その価値を知ってか、時折誰かが盗みに来ていたようで、減っているのを発見してから、破損なくきれいな瓦は一部倉庫の中にとりあえず移したりしたが、まだまだ中庭に残っている。

私が中学生のころ、実家の母屋の屋根を葺いた。

灰色で、「へ」のような波形の四角い瓦だった。

大工さんたちが作業している姿も、うる覚えだが、確か、下地の木の桟にひっかける感じで、同じ方向に少しずつ重なり合いながら、ぴったりと瓦を組み合わせていたような気がする。

でも、このコッピと呼ばれるこの瓦は、同じ要領ではうまくいかない。

下地の様子がよくわからないのだが、横の広がりはうつ伏せと仰向けを交互に組み合わせて位置を固定し、縦には小さい弧と大きい弧を交互に重ねていくのが基本のようだ。

ほんの2平米強ほどのコンクリートの水平面の上で、レゴで遊ぶ感覚でコッピを組み合わせてみる。傾斜をつけるために、一方にこれまた余り物のタイルを下に敷いて、とりあえず表面を埋めてみたが、コッピの大きさで表面積がうまく割れず、中途半端な空きスペースが出来てしまった。下地も囲いもなにもせず、ただ単に瓦を乗せただけだから、平面から瓦がはみ出す訳にはいかない。縦方向には、瓦を上から重ねれば多少調節できるが、横方向には、瓦1枚が収まるスペースがなければ、延長のしようがない。

弧ではなくて、最近多い平たい瓦であれば、もう少しなんとかなったかもしれないが、ないものはないし、仕方がない。

 

ひどく不恰好な「瓦葺」となったが、お金も時間もかけずにあるもので間に合わせたんだから、こんなものだ、と無理やり納得する。しばらくこれで様子を見てもらっておいて、問題があれば他の解決策を考えよう。明日から他の家の屋根もよくよく観察しなければ・・・。

 

2003年2月1日(土)

とっても寒い朝。

アルプスの雪化粧された部分も増え、真っ青な空に美しい。

雪の白さに触発されたのか、無性に豆腐が食べたくなり、中心部の中華系の店まで買い物に行く。

店でばったり日本人友人に会った。

2歳になる娘さんを乳母車の中に発見。

やっとはいはいしだしたばかりなのをついこの前見たような気がしたが、もう2歳。

この子のかわいさに私もずいぶん影響されて興奮していたのに、時間が経つのは早いものだ。

「大きくなったねぇ。」

ほっぺたをつねりながら話しかけると、

「うん、2歳!」 

とらしき、ちょっと幼児語なまりの日本語で返ってきた。

感心して、友人を見ながら

「日本語しゃべるのねー。感心感心。」

「そりゃそうよぉ。うふふ。」

などと挨拶する。

小芋らしきアフリカ系の芋と白菜と豆腐を買い、黒人と中国人がごったがえす中、レジの前で順番を抜かされないように踏ん張っていると、お会計をすでに済ませた友人が思い出したように出口から私に声をかけた。

「納豆が買えるようになったのよ、この先の別の中国人のお店。知ってる?」

「ええ、知らない!どこどこ?」

「この道を入った最初の店。『納豆ください』って言うと奥から出してくれるわ。」

ああ、納豆。

どれだけ食べたかったか。

あまりのうれしさに1セットとは言えず、2セット持ってきてもらい、予定外にお金を使い込んでしまった。1セットに3パック。1パックが1ユーロ。確かに高いよな。でも、うれしい。これで来週はもりもりがんばれそうだ。

 

2003年1月24日(金)

フィアット会長、ジャンニ・アニェッリが亡くなったとの報道があった。

トリノはフィアットのお膝元。

各界のVIPたちも集まってきた。

アニェッリ氏は世界でも最も有名なイタリア人のひとり。

フィアット、アルファ・ロメオ、フェラーリなどのイタ車を通じて、あるいはサッカーのユーヴェントゥスのファンなどから親しまれていただけでなく、政界、経済界にも大きな影響を持っていただけあって、全局トップニュース扱い。

日本で言えば、天皇陛下が崩御されたときほどではないが、それこそ、松下幸之助、本田宗一郎、豊田章一郎、井深大、盛田昭夫が同時に亡くなったのと同レベルぐらいの扱いであった。

ただし、ずっと癌闘病していたし、公の席にも姿を現さなかったりしていたので、驚きというものはない。とうとう来たか、といった感じである。

死亡説もずいぶん前からささやかれていたし、昨日アニェッリ家の家族会議が開かれて、その翌日という、タイミング的に計られすぎた発表という気がする。

ラジオでは、去年のクリスマス前に司祭を呼んで懺悔をしたとか言っていたから、おそらくその辺りにすでに死亡していたのだろうと私は思う。

フィアット・グループは今経営難で、顔である自動車部門も売却が検討されているが、それを頑なに拒んできた会長の死で、話もスピードアップされるかもしれない。

家族会議でジャンニ・アニェッリの跡を継ぐことになった、彼の孫(娘の息子)はまだまだ若く、成長するまでは彼の弟が後見するということになったらしいが、フィアットというイタリアが誇る大企業が再び光を見るのは、なかなか険しそうだ。

やはり、会長の死とともに、一時代が終わった感じがする。

 

2003年1月21日(火)

 

学校主催の月に1回の映画の日。

 

今回は「Jalla! Jalla!」という若干24歳のレバノン人監督の映画であった。

 

Jalla Jallaとはアラブ語で「早く、早く」といった急かすときの台詞である。

 

スイスに移住したレバノンの男の子は、スイス人の彼女がいて、仕事も友人も恵まれ

て社会にうまく溶け込んだのだが、家族はアラブの伝統を守り、アラブ式に親・親戚

一同が決めた相手との結婚を迫られ、その価値観の違いの葛藤というのがメインテー

マ。

 

ヨーロッパに移住したアラブ系の多くの人たちが通る道なんだろうが、愛・セックス

・友情など、若者らしい悩みのテーマをうまくコメディータッチで演出していて、単

純で、すがすがしく笑える映画であった。

 

友人曰く、レバノンの映画といえば、もっと複雑で重く、難しい映画が多いらしい

が、これはどうも例外のようだ。これも、24歳のフレッシュな監督のお陰だろうか。

映画には監督の実際の家族が出演し、費用もそんなにかけていないだろうが、実の生

活臭を感じるなかなかよい映画であった。

 

 

 

映画の帰り、知人が近くのバーで書道展をしているということで、寄ってみた。

 

日本では書道を教えていたらしい彼女は、ここで習い始めたセラミックの絵付けも上

達が早いらしく、書の後ろや周りにちょっとした水墨画風イラストを入れているのも

なかか素敵だ。素人の私がみても、手のコントロールが確かな達者ぶりで、なかなか

楽しめた。

 

 

 

私は字を書くのが大変下手で、筆圧なくふにゃふにゃとみみずが這っているかの様な

のだが、ならば、その昔、毛筆ならばふにゃふにゃでもなんとかなるのではないかと

思い、少しだけ習字の先生のところに通ったことがある。

 

が、筆はやわらかくても、ちゃんとした字を書こうと思えば手のコントロールが大事

で、普通に机にひじを置いて書くのでもふらついているのに、ひじを浮かせて仮名の

続き文字などうまくいくはずもなく、散々であった。

 

彼女に賞賛の言葉をかけて、自分の経験を少し話すと、

 

「そう、同じ1本の線でも千回書いてください、と私も先生に言われました。」

 

というコメント。習字も奥が深いものである。

 

 

 

作品を鑑賞しているうちに、話を聞きつけたイタリア人たちが続々と入ってきた。ざ

わざわしだした中で、ぽつんと一人の女の子が所在なさげにいた。どうやら彼女が日

本から連れてきた娘のようだ。息子さんと彼女とは彼らがトリノに来たばかりのころ

に仕事を通じて会ったことがあるが、娘さんは彼女がイタリア人のご主人と結婚して

から日本から来たはずだから、まだ数ヶ月しかここで暮らしていないだろう。

 

 

 

お義父さんは仲間と語り合っているし、お母さんは英語で他の人に作品の質問に答え

ている。もともとこのバーはお義父さんの娘さんの彼氏所有のもので、彼らの仲間、

イタリア人若者同士で盛り上がっている中、なんだかちょっとかわいそうな状況だ。

 

助け舟を出そうと話しかけると、ほっとした様子で笑顔を見せた。

 

 

 

中学生ぐらいだろうか、インターナショナルスクールに通い、公用語は英語で、イタ

リア語のレッスンがひとコマあるらしい。家ではお義父さんがいるときは英語という

暮らし。なかなか大変そうである。

 

お母さんも娘を連れてきた以上、もう少し助けてあげてもよさそうだが、彼女もイタ

リア語を学習中で、今ゲストを接待しているように、きっと普段の生活も彼女自身の

ことで精一杯なんだろうな、と勝手に想像する。

 

お義父さんにとっても、所詮連れの子。それほど関心はないだろう。

 

大変な環境に入ってしまったこの子を見ながら、思わず自分の数年前の姿、ドイツに

赴任していた時のことを思い出した。

 

 

 

ドイツオフィス立ち上げでミュンヘンに送られ、当てにしていた上司も来ず、一人で

オフィスを切り盛りしていたとき、会社を代表してパーティーなどに招待されたのだ

が、参加者はそうそうたる会社の社長さんと奥様であったりして、20代前半のアジア

の女の子が一人でその輪に入るのはなかなか難しく、ただただオードブルをつまみ食

うことでなんとか存在していた自分。ワインをぐびぐび飲み、その勢いで話しかけた

りもしたが、大の経営者と共通の話題などなく、社交の場の定番テーマ、天気などで

話を盛り上げるのも至難の業。日本のことで水を向けられてもろくに答えられない。

何か特技を持っているか、高尚な趣味でもないと、大人のパーティー参加は心苦しい

ばかり、とずいぶん背伸びをしていた時期。いつ、会場を去ろうか、招待してくれた

人に失礼だろうか、惨めに映っていないだろうか、そんなことばかり気になって、ど

こに自分の身を置いたらいいのか、キョロキョロしながら、「大人たち」を観察して

いた日。ドイツ人だから、というわけではないが、ほんとに大きな人たちに見えた。

 

それでも、顔だけは覚えてもらって、再会したときに声をかけてもらえるようになっ

たり、一緒にカフェテリアで食事をしたり、名刺を頼りに営業に思い切ってオフィス

を訪ねたりしながら、少しずつ自分のテリトリーを開拓して、「場」にも慣れていっ

た。

 

 

 

当時の私のように、アンティパストが出てきたのを見つけて、彼女は真っ先にテーブ

ルまで行き、皿から皿へつまんでいた。これがパーティー慣れの第一歩。頑張れ!!

 

 

 

 

 

 

 

2003年1月20日(月)

 

貴乃花が引退したニュースを読んだ。

 

日本を離れてからしばらく大相撲中継も見ていないが、私は大の相撲好きである。

 

取り組みで小が大を制するなどの面白みもあるが、仕切っているうちに集中し、闘志

を燃やす力士同士の雰囲気の盛り上がりが好きだった。

 

 

 

平成15年、つまり2003年度1月の日本相撲協会のカレンダーは貴乃花が取っ組み合っ

た瞬間の集中した顔がアップになっている。

 

新年になり、このカレンダーを壁にかけたときから、なんとなく貴乃花の状態が気に

なりつつ、1月場所の活躍を応援していた。結果、引退。残念である。

 

 

 

相撲人気が衰えているときに、華のある横綱の引退。

 

国技でありながら、最近は外国人力士の活躍の方が目立つ。

 

昔かたぎの横綱がいなくなって、相撲協会も変わらずをえないであろうか。

 

他のスポーツのように国際化していくのだろうか。

 

 

 

本心としては、日本人力士がもっと活躍してほしいが、相撲を愛する人で、それを感

じさせるような取り口の力士であれば、結果外国人でもかまわない。

 

美しく、気力あふれるこの伝統スポーツを、これからも、私はひそかに見守っていき

たい。

 

 

 

 

 

 

 

2003年1月11日(土)

 

新開店の和食レストランへ行く。

 

フィリピン人が仕切っているらしいが、内装はとてもシックで、中華風のまがい物の

店とは違う和風の雰囲気だ。

 

出てきたお皿も趣味がいい。

 

野菜なども細かく刻まれていて、味付けも繊細。

 

天重を頼んだら、えびが2本ではなく、3本も並んでいた。

 

お米のたき方も、硬くなく、べちゃべちゃでもない、ちょうどいい具合。

 

突き出し、サラダ、お重、味噌汁、デザートのアイスクリームのセットで10ユーロ。

 

なかなかお得で、おいしいランチ定食であった。

 

今日は日本人ばかりが来ていたが、私も気に入ったので、イタリア人にもどんどん宣

伝しよう。

 

 

 

 

 

 

 

2003年1月10日(金)

 

先月見つかった胃潰瘍のことで、医者に行く。

 

薬だけは新年早々、処方してもらったが、バイトの医者かどうかもあやしい人が対応

してくれたので、今日改めて出直したわけだ。

 

私と同じく、先生にちゃんと診てもらいたいという人たちなのか、待合室はいっぱい

だった。しかし、半数ぐらいは薬の処方箋を書いてもらいにきているだけのようで、

秘書の前で行列ができていた。

 

その列の後ろでしばらく待っていると、秘書が「先生に掛からないといけない人はい

ますか?」と言ったので、列の後ろのほうから抜け出そうと、「すみません、通して

ください。」と前の人に声をかけると、とがった声で「どうして?」ととがめられ

た。

 

どうやら、私が順番抜かしをしようとしているものと誤解したらしい。

 

「ただ、保険証を秘書に出したいだけです。」と説明すると、通してくれた。

 

 

 

待合室で、本を読みながらおとなしく待っていた。

 

どんどん人は少なくなり、私の前にいたおばあちゃんが自分の番が来そうだと、いす

から立ち上がり、診療室の前の様子を伺っていた。

 

「(私は、その次にあたるわけだから、まだまだね。)」と思いながら、リラックス

して本を読んでいると、なんと私の名前が呼ばれた。

 

びっくりして、開きっぱなしの本を持ちながら、あわてて診療室の中へ行き、自分の

状況を説明し、薬のこと、治療後のことを確認した。

 

3分ほどで出てくると、おばあちゃんが私に抗議し始めた。

 

「あなた、ひどいわね。順番は私が先だったのに、この年寄りを抜かして先に入って

いくんだから!ちゃんと・・・」

 

となおも続けるおばあちゃんを先生が遮った。

 

「違う違う。ぼくが間違えたんだ。カルテを見て、彼女がすぐに終わりそうだから、

彼女を先に通したんだ。」

 

私は、こんな反応を待っていなかったため、思わず言葉を失って立ち尽くしていた

が、先生の言葉にはっと正気づいて、脇によると、おばあちゃんはじろりと私を見な

がら、杖をついたおじいさんを連れて、診療室に入っていった。

 

 

 

どうやら、この待合室にはいらいらしている人が多いようだ。

 

でも、休み明けの混雑だけが原因なのではない。

 

私が感じるイタリア人の特徴のひとつだ。それに関連して、別のことを思い出してい

た。

 

 

 

ある日、ガソリンスタンドに給油に寄ったついでに、タイヤの空圧を計ろうと、脇の

計測器の近くに車を止めた。

 

自分たちの前に、先にそこにいた人の車があったが、その人は携帯でしゃべってい

た。ただ一つだけあるその計測器をまだ使っていないようだったので、こちらのほう

へ伸ばして、タイヤのチューブのゴムを開け、計測器を接続し、調圧しようとしてい

るところに、その人が携帯での会話を終わらせながら、近づいてきた。

 

「(携帯に向かって)・・そういうことだから、また後で電話するよ。チャオチャ

オ。(こっちに向かって)・・スミマセン。計測器をこちらによこしてくださいませ

んか。」

 

開いた口がふさがらないとはこのことだ。

 

「電話していらっしゃったでしょう?それで・・・」

 

「いや、だから電話は終わらせましたし・・・」

 

 

 

こんなことで討論するエネルギーを費やすほうがバカだ、と思い、計測器を渡した。

 

 

 

結論:

 

イタリア人は自分の権利だけでなく、都合のよさを守ることに対して、非常に敏感で

ある。

 

 

 

 

 

 

 

2003年1月9日(木)

 

今日の授業の課題は、「自分が好きな動物の立場で人間に文章を書く」。

 

それぞれに好きな動物は何か、と先生は聞きながら教室を回っていたが、インド人の

生徒のところで「私にとっては、どんな動物であれ気持ちが入りすぎて、こういう課

題は難しい。」というコメントを発したところから、彼女の菜食主義者としての主張

とそれ以外の肉食者との間でかなりヒートアップした議論が行われた。

 

 

 

彼女は、動物は人間より弱い立場にあるのだから守らなきゃいけないし、動物だって

殺されるときに苦しんでいるのだから、そんな残酷なことはやめよう、と呼びかけた

のに対し、特にヨーロッパの寒い地方出身の人たちが猛烈に反発。人間の歯は肉も食

べるようになっているだとか、栄養学的に必要なことだとか、そういう学術的な議論

よりも、「ただでさえ寒いのに、肉がなきゃやってられない!」という主張が一番私

の心に響いた。

 

 

 

みんな穏やかにしゃべっているのだが、顔からは断固として自分の主張を譲らない

ぞ、というのが覗いていて、話は平行線をたどり、ちょっと角々した雰囲気が漂いだ

し、私としてはそれ以上聞いているのはちょっと辛いぞ、と思い出したところで、

ちょうど休憩時間がきて、それぞれの用事で席を立っていった。

 

 

 

宗教、地理、習慣、環境、価値観、いろいろなファクターが考えられるが、スリムで

引き締まった体を持ち、元気な彼女の様子を見ると、菜食主義というのは健康的なん

だろうな、とは思う。しかし、どんなものを食べているのか、という話になったとき

に、たんぱく質は欠かせないから、必ず豆を使っているそうだ。中でもレンズマメが

重要で、この豆からは動物性たんぱく質と同質のものが取れるらしい。そんなに豆・

豆・豆で飽きないか、と思うが、彼女曰くいろんな調理法があるし、問題はないとい

う。なんと、インドでは犬も肉ではなく豆を食べている、という話を聞き、これまた

びっくり。

 

 

 

菜食者のように、必要なものだけ取り、余計な殺生をするな、というのもメッセージ

だったが、言い換えれば、彼らは必要最低限の栄養分を厳格に取っているということ

になる。だから、豆に飽きたからといって省略したりすると、翌日は頭がふらつくこ

とにもなりかねないということだ。それだけきっちり計算された食バランスを考え、

実行できる人にはよいが、私のように思いつきで調理している人には、菜食主義は向

かなさそうだ。

 

 

 

しかし、肉がメインで育ってきた欧州各地の人たちと違って、野菜も魚もたっぷりの

食生活だった日本人としては、「肉抜きの生活なんて、考えられない!」という拒否

感はない。それどころか、彼女が言う3タイプの食べ物というのもわかるような気が

する。その3種類とは、徳をもたらす食べ物、情熱をもたらす食べ物、無知をもたら

す食べ物のことだ。例を挙げてみると、徳をもたらすのは、野菜・穀物・果物一般。

当然豆もここに含まれる。情熱をもたらすのが、肉や魚類。これは動物が殺されたと

きにその苦しみが肉に残っていて、それが人間に取り込まれると情熱になる、という

悪い意味の情熱である。無知をもたらすのは卵、にんにくなど。卵は雛になるもの、

にんにくなどは香りが強いなど。

 

そういわれてみれば、なんとなく想像できるような気がする。が、ヨーロッパ系の人

たちは「ハッ!全く何を言ってるんだか・・」といったような反応をしていた。冗談

で「そうか、私は卵を食べ過ぎて、無知になってしまい、理解できないんだわ。」な

どと自嘲気味に笑い出す人までいた。

 

 

 

地理的に、冬場は野菜果物が取れなくて、肉を食べるしかなかったという場所柄と、

一年中野菜果物がとれる地域とでは、環境も違うし、生まれてくる宗教も違う。彼女

の発想がどうしても理解できない一人が、「あなたは宗教的な理由で菜食主義なので

しょう?」と理由付けをしようとする。彼女は「違う、自分の意思。誰からも押し付

けられていないし、自分の子供も大きくなって自分で判断できるようになったら、判

断させる。」といいながら、彼女の夫の話をしてくれた。

 

 

 

彼女の夫はイタリアで生まれ、イタリアで育った一般的なイタリア人。

 

つまり、普段から肉を食べる環境で育った。

 

10歳ぐらいのときに、台所で肉を切るのを手伝っていて、自分の指も切ってしまっ

た。

 

痛がっているその子を見ながら、叔父さんが「お前も痛かっただろうが、肉も痛いん

だぞ。」と別に他意なく、子供をあやす普通の文句として言ったところ、その子は

はっと目覚めたらしい。それから肉を絶つようになり、そうしているうちに家族全員

も菜食主義者になったとか。

 

面白いではないか。

 

回りの環境、宗教など関係なく、メディアの情報に踊らされたわけでもなく、純粋に

こんな風に目覚めて菜食主義になる人もいるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

2003年1月7日(火)

 

休みも終わり、通常モード初日。

 

やはり気持ちが張るというか、休みの期間よりいろいろ刺激があっていいものだ。

 

 

 

朝、車の霜かきに30分。

 

あれは霜というより、雪と氷の塊であった。

 

昨日は一日雪が降っていたが、友人宅での夕食後家路についたときは雨に変わってい

た。

 

そのときからこうなることはわかっていたが、うっかりワイパーを立てておくのを忘

れていたので、すっかりガラスに凍り付いてしまっていた。

 

まずは、扉が開かない。

 

鍵穴に鍵を突っ込んでロックは外れたが、取っ手が凍り固まっていてレバーが引けな

い。

 

エンジンをかけて、ヒーターを最大にしたくても、扉が開かなければ話が始まらな

い。

 

霜とり道具も車の中だし、仕方なくゴリゴリと扉の周りの雪氷を車のキーでとること

5分。やっと扉が開いた。雪だけならばこんなに苦労しないんだが・・・。

 

 

 

学校に遅れて到着すると、それぞれの休みの話をしていてまだ授業は始まっていな

かった。

 

クラスメートの一人は試験を受けて、100人以上の受験生の中で10番という優秀な成

績で受かったらしい。この試験は外国人滞在者用のあらゆることのアシストするその

国の人のための仕事を得るための試験で、コネなしで仕事を見つけることが難しい外

国人にとっては挑戦し甲斐のあるもの。日本人は企業から派遣されて来ている人が多

いから、しっかりしたサポートを受けやすい環境にある人も多いし、あまり必要とさ

れていないが、ポーランド人の彼女もニーズはあまりないと聞かされていたらしい。

でも、一生懸命勉強して、結果合格し、これから新たなコースを受けていく彼女の前

向きな姿勢に刺激を受けた。

 

 

 

もっともこれまでの授業中でもイタリア語はほとんど違和感なく使いこなしていた

し、発言の数々からも彼女の優秀さは窺い知れたが、なんといっても若い!大学を卒

業したばかりで、まだまだ頭が柔らかい状態が少々うらやましい。

 

私は外国語の勉強をするのはあまり苦にならないが、特にラテン派生語をしゃべって

いる人たちの上達の早さと比べて、自分の習得度の遅さに焦りを感じることも多々あ

る。多少不利な面があるその語彙力のケアを彼ら以上にするべきなんだろうが、学生

時代と違い、頭が固くなりつつあるのか、3度ぐらい繰り返し聞いても記憶できない

単語もたくさんある。

 

そのことを嘆いていても仕方ないので、彼らと同じものさしで測るのはやめて、いい

刺激だけ受けるようしようと思っている。そういう意味でも、彼女の快挙を励みにし

よう。

 

 

 

仕事帰り、バスの乗り継ぎを待つ間、寒さに耐える。

 

私が使用するバスは特に乗り継ぎが悪い。

 

いつもならそろそろ着くはずのバスがなかなか来ない。そこに回送バスが通過した。

ナンバープレートがちゃんと変わりきっていなくて、私のバスの番号が残っていた。

きっと何か調子が悪かったから、終点に着いてから回送にしたんだろうが、よりに

よってどうして今日なんだろうなぁ、などと思いながら、足踏みを続けた。頭もキン

キンしてくる。

 

この寒さに、休み中につけた脂肪が燃焼してくれるだろうか・・・。