2003年11月4日(火)
新しいコースを受ける学校の初日。
このコースはイタリアに暮らす外国人の社会サービスというか、異文化の習慣の差などで困っている人を助ける仲介役をこなすための学習をする場なのであるが、実ははっきりとしたことは、まだわかっていない。ただ、同じく異国に住む身として、困っている同国の人の役に立ちたいと思い、申し込んだのだが、日本人のニーズがあるかどうかもわからないし、具体的なことは授業を受けていくうちにわかってくるだろう。
教室には、モザンビーク人、コンゴ人、モロッコ人が3人、アルゼンチン人、インド人、中国人、ルーマニア人、アルバニア人が2人、そして日本人の私という面々がそろった。
シチリア出身の先生は、ずいぶん早口な上、選抜したメンバーだから安心しているのか、それこそイタリア人に話すかなのような「自然」な感じで話すので、こちらはついていくのも大変である。やはり、イタリア語および文化を学ぶ学校とはずいぶん雰囲気が違う。今までは手加減されていたわけだ。しかも、大学卒業か同レベルの人と限定しているため、なんとなく話す話題も高度である。初日なだけあって、まだどんなクラスメートなのかもよくわからないので、変な羞恥心を感じ、わからないときに手を挙げてとめることもできなかった。しばらくすると、この「緊急事態」に私の脳みそが応対できるようになるか、見極めた上で、正直になろうと思う。
今日は自己紹介もかねて、「相手と話し、その内容を理解する」レッスン。
二人一組となり、30分ほどお互いに質問しあって自己紹介をし、その後、その相手のことをクラスで発表というものだった。自分のことを言うのは慣れたものだが、人のことを紹介するのは私はまだまだ不得手。私の相手はアルバニア人のおしゃべりなお姉さんで、イタリアには7年。半時間ほど教室の外、廊下をぶらぶらしながら、なかなかいい感じで「おしゃべり」できたのだが、どちらかといえば彼女のペースで進んだ話の内容は理解できても、それを自分の言葉で置き換えるのはなかなか難しい。しかも、私が最後の発表者となり、今までみんなが話してきて、彼女も抱えていた共通の問題点などを簡略に話し、あまりプライベートなこと(たとえば女性だから年齢は言わないほうがいいかな、とか、まだ一人身だ、とかetc.)は公に言わないほうがいいかな、と勝手に気を遣ってしまったので、すぐに発表を切り上げると、彼女としては不満だったのか、自ら自己紹介をペラペラとはじめた。それを聞いていると確かに話し合ったことなのだが、自分の口から話すと、ぽろぽろと抜け落ちていた点がたくさん出てきた。自分が注意散漫だったわけではないが、この辺り、慣れていないのもあって、学習である。(逆に、このお姉さんは私が言っていないことまで「美しく」作り上げて、私のことを発表してくれちゃっていたが、これも私がアガッてしまった原因かもしれない。)
休み時間も、教室に残っていた人たちとおしゃべりしていてが、とても刺激的であった。
政治的、経済的な問題などでイタリアにやってきた人がほとんどだったが、いわゆる「先進国」出身の私がどうしてイタリアなんかに来たのか、と質問されたのも印象的だった。私としては、「よりよい暮らしのために」というみんなと共通の理由があるのだが、なんだかキョトンとした顔をして、「まあがんばってね」などと言われる始末。ダンナがイタリア人だというのは、おまけのおまけ(と言ったらさすがに主人は眉を吊り上げるだろうか・・・)で、私はイタリアという国が好きである。なんといっても、「自由」!これがポイントである。
モザンビーク人(名前をまだ覚えていないが)の彼女が、イタリア人は過去のローマ帝国時代からの栄光に誇りを持ちすぎで、自国の外のことには関心がなさすぎて、閉鎖的で発展せず停滞している、などといっていた。私は、イタリア人が「井の中の蛙」であることは賛成だけど、閉鎖的だとは思わない。逆に、とても大らかでオープンな国民だと思う。確かに、外国の文化とかそういうものに興味を示して、それを取り入れようという風潮は少ないかもしれないが、それが自分のそばに存在していても、別に恐れない。例えば、私が一時期過ごしたドイツなどでは大量のトルコ人がいるが、彼らに仕事をとられるとか、変な文化を持ってくるとか、彼らがドイツの生活圏に入ってくることを恐れ、トルコ人をまとめてある場所に隔離する。そんな風潮を感じられた。しかし、イタリアではみんな入り乱れて生活し、もののたとえだが、バスで隣に黒人が座ろうともいやな顔をするイタリア人というのはごくたまにしか見かけない。もし外国人が群がっているとすると、私から見ると、イタリア人が外国人を隔離するのではなく、外国人が自ら固まっているパターンが多いように思う。つまり、自分たちの生活パターンを脅かさない限り、いようがいまいがあまり関心がないのだ。逆に、外国人(特にムスリム系)の方が頑なに自分たちの文化を守り、イタリアに溶け込もうとしない、という形だ。それこそ、彼らの頑固さは相当なもので、最近ホットな話題に上がったものがる。
イタリア南部のある小さな村に住む、イタリアに帰化したエジプト人が、自分の子供が通う小学校の教室から十字架を外すように裁判を起こした結果、外すようにと判決が下されたことに対して、多くのイタリア人が反発しているというものだが、300年400年と続いた小学校の十字架は、ただ単に宗教のシンボルではなく、イタリアの文化そのものだ、とチャンピ大統領までが声明を発表し、イタリア全体で大議論を起こしている。このエジプト人は、学校のような公共の場で特定の宗教を押し付けるのはおかしい、という理由で訴えたのだが、彼以外の住民はみなこの判決に不服で、その十字架の意義と、イタリア人のアイデンティティにかかわる問題ということで、一大センセーションである。この騒ぎに、小学校はしばらく休校。子供たちもいやおうなく巻き込まれている。
日本人である私は、宗教ごときにもめるのがいまいちピンとこないのだが、こんなたとえ話をされて、ちょっと納得。
イスラム教徒の国では、女性は肌を露出することは厳禁で、外出する際は必ず頭にスカーフを巻かなくてはいけない。それは地元イスラム教徒に限らず、外国人駐在者も守らなければならず、それを破れば、牢屋に入れられる。いくらイタリア人とはいえ、イタリアの法律はムスリムの国では無効なのである。しかし、そんなムスリムがイタリアに来て、町を歩く女性が髪を振り乱しているのが気に入らぬと、いきなり訴え、イタリアにムスリムの常識を押し付け、イタリアに住むすべての女性にスカーフ着用を強制したのと同じようなことだ、と。確かに、私自身にふりかかってくることを想像すると、イタリア人がキャンキャン騒ぐのも理解できるような気もする。私にとったら単なる宗教のシンボルだが、彼らにとってはそれ以上の、そこにあって当然のものなんだなぁ。その当然の権利をいきなり剥奪され、しかも、民主主義的に言えば、数の上で圧倒的に大多数が反対にもかかわらず、そのような判決が下されたことに対して、騒がれているのである。
しかも、少しややこしくしているのは、感情論。イタリアに来た外国人が、イタリアのシステムが気に入らないのであれば、自分の気に入る国に立ち去りたまえ、というもの。ただし、彼はイタリアに帰化している、エジプト系イタリア人である。外国人というより、イタリア人として扱われるべき立場の人である。
自分の家に招いたゲストが、私が家に飾っている時計が気に入らないからどけてくれ、と頼み、それをどけるのがいやな私はどうする、といったレベルで考えると私はわかりやすいが、ゲストなら帰ってくれとは言えても、家族となると帰れとは言えない。なかなか複雑な問題である。
2003年11月2日(日)
パルマのほうに来ている。
昨日は聖者の日で、今日は死者の日ということで、私たちもお墓参り。
こちらのお墓を最初に見たときは、面白く感じたものだ。
日本でも墓地を確保するのは大変らしいが、こちらでもスペースを省略するためか、壁に4段5段の名前と写真付の石がずらりと並び、それこそ、お墓のコンドミニウム状態である。普段は造花組も多いが、多くの人がお参りするこの時期、まん丸で手のこぶし一つ分ぐらいの見事な菊の花が、彩りを添えている。ちなみに、イタリアでは菊は死者に対する花なので、普段の花束には使わないように気をつけたい。間違えて渡した日には、「あなたは私に死ねと言っているの?!」と友人を失うことになる。
友人セルジョの家によると、牛の胃の煮込み料理を作っていた。
定年退職者のセルジョが、ミラノの自宅から一人で気楽にここに帰ってくるたびに、同年代の結婚していない友人たちが集まってきて、いい年の男の集会所といった感じで、食事を作りあったり、トランプをしたりして時間をつぶしているのだが、男ばっかりで、それぞれのこだわり料理という感じで、なかなか面白い。(こんな会にのこのこと顔を出してもうっとうしがられないのも、私の特権かな。)
イタリアの食のメッカ、パルマ周辺より、選りすぐりの材料を使った料理。いくらか年をとっているだけあって、彼らにはそれぞれのこだわりがあり、セルジョ自身もミラノでは手に入らないものをここに来たときに買い込んでいくようだ。
木べらをかき回している、その鍋の中をのぞいてみると、みごとにひだひだの白っぽい筋肉みたいなのがぐつぐつと煮込まれていた。聞くと、朝9時からすでに3時間半ほど煮込んでいるらしい。取り出してくれた一片を味見してみると、日本の焼肉の時に食べていた「あれ」に似ている。うちの焼肉では欠かせない「ミノ」とか「チョウ」とか呼ばれていたものだ。人はこれを「こてっちゃん」とも呼んでいたかな。それがどの部位なのかは知らないが、見た目といい、かんでみた感触といい、「チョウ」と似た感じだが、「チョウ」が「腸」だとすると、「胃」とは違うわけだなぁ。「どうだ?」と聞いてくるセルジョに、
「日本では鉄板で焼いたものを、しょうゆがベースのソースにつけて食べるのよ。もっとも、日本では『高貴な』人が食べるものじゃない、と思われているけど」
「じゃあ、『貧しい』人の食べ物なのかい?」
「でも、うちではいつも食べていたし、それこそ韓国の人がやっている本格的な焼肉屋で食べる分は、とってもおいしくて、私は好きだけど」
「いつもこれだったら飽きるけど、たまだったらおいしいよな。でも、鉄板でやるのは・・・」
どうも、硬くなるのがいやなようだ。
イタリア流は、4〜5時間たまねぎ、セロリ、にんじん、にんにく、パセリなどと一緒にじっくり煮込み、出来上がったらバターを鍋の中に入れて溶かし、お皿に盛ってパルメザンチーズの粉チーズを振り掛けて、頂く。
ちょうど昼食時。
私のために一皿、分けてくれた。
お昼を準備してくれているイーリスに悪いから、ほんのちょっと味見するだけのつもりだったのに、やわらかい筋肉が野菜ソースを十分に吸ってとってもおいしい。結局一皿全部平らげた私は、これからまた改めて昼食である。
2003年10月31日(金)
もう10月最終日。
日々、時間が経つのが早い。
もう結婚してから1ヶ月である。
まだ主だった友人たちに結婚報告をしていなかったので、挨拶メールを送る。
よく結婚したカップルが写真付のはがきを送っているが、ここトリノの写真屋ではそのようなサービスはないらしい。メールを持っていない友人には、写真をはがき大に印刷して、裏側にメッセージを書いて送ることにしよう。
改めて、写真を見てみると、二人でちゃんとした写真がない。
これではメッセージも様にならないと思い、ヴィデオテープからめぼしい画像が取れないかどうか見てみるのだが、式自体はあっという間に終わったし、パーティのほうでは私がカメラマンだったので、二人のツーショットというのはほんとに少ない。その一瞬を探し、目を皿にして凝視し、そこからいくつかの静止画を取り出し、停電の暗さを多少カバーし、その上からお絵かきなどして遊んでいると、気がつくと夕方になっていた。
だめだなぁ、この手のことをやりだすと、止まらない・・・
2003年10月30日(木)
学校から帰ってきて、家の扉を開けた瞬間、呼び鈴が鳴った。
インターフォンに出ると、私への小包だという。
はて、誰かと思うと、結婚式にも招待したドイツの先生からだった。
箱を開けてみると、中から出てきたのは圧力鍋!私が探していた、まさにそのものだった。
日本から持ってきた料理本で使われていたタイプの圧力鍋で、中にもうひとつかごがあり、その底に穴がたくさん開いていて、鍋の中で蒸し料理も同時に出来るという優れものである。
それがドイツのフィスラー製だったので、ちょうど結婚式に持参するプレゼントに何が欲しいかと先生が聞いてきたのをいいことに、探してもらえるように頼んでおいたものだった。
しかし、当日別のプレゼントを持参した先生曰く、ドイツではそのタイプはもう売っていない、とのことだったので、ドイツでの購入をあきらめ、日本のいとこに私が以前そのタイプを見かけた店に行って情報収集して欲しい、と依頼し、その結果、日本でもない、とのことだったので、がっかりしていた矢先であった。
願えばかなうものだなぁ。うれしいぞぉぉ。
ずうずうしくも、頼んでみて、よかった〜!
2003年10月29日(水)
昨日の夜から、温度差が激しすぎて体がついていけなかったのか、頭がガンガンしていたが、今朝は耳が痛くて目が覚めた。頭を傾けるだけで、ズキズキする。
ちょうど飛行機に乗って、空圧差のせいで耳の奥がズキズキする感じにも似ていたので、鼻をつまんで耳抜きを試みると、イタイ!!まるで鼓膜が破れたかのようなぐらい、鋭い痛みが走った。
夕方、医者に行ってみると、先生は私の耳の穴にライトをあててのぞきながら、
「ずいぶん赤くなっていますねぇ。」
と言って、どうしたのか聞いてくる。
私としてはトルコ風呂に行ったから、こうなったのかどうか確信がもてなかったので、話したものか迷っていたのだが、これといって他に思い当たることもない。
「実は昨日トルコ風呂に行ってきたんですが、それで寒さにやられたのかもしれません」
「トルコ風呂は普通暖まるものですが・・・」
「いや、だから、その内と外の温度差に体がショックを受けたのかと・・・」
「そうですか。それでは、しばらくトルコ風呂は諦めてくださいね」
まるで、私たちアジア人はトルコ風呂が大好きで、そこに行けないのは辛いだろうけど・・・というかのように、同情の響きがあったので、あわてて付け加える。
「いえ、トルコ風呂には昨日が初めてで、好奇心があったからだけなのですが・・・」
先生は、私を見て、にやりと笑った。
そういや、そんなこと説明するまでもなく、どうでもいいことだわな。
処方箋を持って薬局に行くと、出てきた薬は飲み薬だった。耳に直接さす耳薬みたいなのを想像していただけに、意外だった。
2003年10月28日(火)
トルコ風呂へ。
前回行ってきた友人の話を聞いていたので、ひそかに楽しみにしていたのだが、言いだしっぺのその友人は風邪でダウン。その他にも当日キャンセル組が続いて、結局私を含め3人。そのうち、1人は今回が初対面。正面玄関で「はじめまして」の挨拶をしながら、即裸のお付き合いをするなんて、ちょっと日本人ならではかしら。
受付にイタリア人っぽくないお兄ちゃんが二人。それぞれIDと引き換えに、ロッカーの鍵を受け取り、お兄ちゃんはエスプレッソ用プラスチックのコップに、オリーブからできた、どろっとした茶色いトルコの石鹸を入れて渡してくれる。
「お風呂の部屋に入って5分ぐらいしたら皮膚が柔らかくなってくるから、この石鹸を全身に塗ってください。古い皮膚細胞が取れますよ。目は避けてください、痛いですから」
ワクワクしながら、脱衣室に行くと、平日の昼間なだけあって、バスローブを羽織って寝そべっているお姉さんが一人。
水着の下のほうは必ず、ということだったのだけど、前回の友人のアドヴァイスに従い、私はパンツ一丁。初対面の彼女はビキニ。もう一人の友人はビキニを持っていないからワンピースの水着という姿で、扉を開けると、黒人と白人の女の子がそれぞれ中年のおばさんのマッサージをしていた。
早速シャワーを浴びて、さらに奥の扉を開けると、薄暗い中、蒸気でもうもう。これが、うわさのトルコ風呂。日本で入ったことがあるミストサウナと同じような感じである。中央に大きな黒い石の台があり、その上で白人の女の子が大の字になってうつぶせに寝転がっている。蒸気の中、お姉ちゃんの白い肌がちょっとピンクがかっていて、それと黒い台とのコントラストがぼわっと浮かび上がって、ちょっとセクシーである。いかにもアラビアちっくなタイル張りの部屋の四方の壁の前に石のベンチがあり、ライトがうっすらと当たっている辺りに3人とも腰を下ろす。お兄ちゃんが言っていた通り、石鹸を塗りながら、おしゃべりしていると、汗がたっぷりと出てくる。途中で入ってきたおばさんは、冷たい水を汲んだバケツを足元に置き、時折その水で顔をぬぐっている。私は顔につけた石鹸が汗で目に入り、あわてて隅の洗面台のほうに行き、顔を洗ったのだが、またその水道の栓が羽のような形で、おしゃれであった。
のぼせてくると外に出て、冷たいシャワーを浴び、しばらく休んでから、もう一度中に入り、それを2度くりかえすと、私は満足し、脱衣室で横になって熱を冷ましながら友人たちを待った。彼女たちはさらにもう1セット。ほくほくになって、3人で横になっていると、黒人の女の子がハーブティーを持ってきてくれた。甘みが効いていて、体にじわっとしみこんでいく感じだった。
体がぽかぽかなので、セーターなどを着込むのがためらわれるほどで、行きに着けてきたマフラーなどは手に持って外に出ると、ひんやりした冷気がちょうど気持ちいい。でも、湯冷めしてはだめだと、ブラウスのボタンをちゃんと上まで閉めなおす。時計を見ると、2時間ほどたっていた。ほど近くに住んでいるらしい彼女たちは歩いて帰り、私はトラムを待った。周りの人が寒そうにコートの襟まで立てている中、私一人鼻の上の汗をぬぐい続けた。
2003年10月26日(日)
今日から冬時間。
家中の時計を1時間戻す。
友人夫婦に誘われて、オペレッタ「Al Cavallino Bianco」(訳せば、「ホテル『白い子馬』にて」といったところだろうか)を観にいった。アルファ劇場というこじんまりしたこの劇場は、以前友人のオペラを見にいったときの別の小劇場のボロちい座席に腰が痛くなったのを思いおこさせたが、一人20ユーロの入場料を払っただけあって、アットホームな雰囲気のまともな劇場だった。
このオペレッタは、ベルリンで1930年に初演され、ドイツのザルツカンメルグットという町に実在するホテルが舞台の、ホテルの第一給仕と女主人を中心に繰り広げられるドタバタコメディだったが、照明の使い方などが単純で、学校の文化祭のような雰囲気で、オーケストラが演奏する音楽も、地元のお祭り風で、なんとなく懐かしい気分になった。ただし、前日、面白いテレビ番組がなくて、つい手元のDVDで本格オペラの「カルメン」を見てしまったため、出演者の歌唱力、小道具などの差が目に付いてしまったのが、私の失敗だった。そりゃ、世界の3大テノールの一人、ホセ・カレラスと比較されるほうはたまったもんじゃないよな・・・。
ただし、観客の反応が非常によく、周りの多くの人たちは、時折出演者と一緒に歌いだし、出演者が求める合いの手にも快く対応し、手拍子などもリズムよく、盛り上がり方がすばらしかった。オペレッタに限ったことではないが、イタリア人はコンサートなどでも反応がよく、場を盛り上げるのが上手なので、アーティストはイタリアで演奏するのを好むなどと聞いたことがあったが、これがそうなのか。なるほど。
友人の説明によると、主演だった男性がこの劇場の持ち主で、家族ぐるみで経営しているようだ。友人もそうだが、期間中チケットを定期予約購入している人も多いらしい。道理でリピータ同士、アットホームなわけだ。日本で言えば、宝塚とか、劇団四季などのファンといったところだろうか。いやいや、雰囲気的には吉本新喜劇に近かったりして・・・。
2003年10月25日(土)
離婚に伴い、元妻と連名で所有していたガレージを売り払ったジュゼッペは、私のことが話題に上ったついでに、買主と和食レストランでのランチを提案したらしく、待ち合わせ場所に行くと、ジュゼッペと同世代のイタリア人ご夫婦がにこやかに手を差し出してきた。
コンドミニウムの地下にある駐車場なので、同じコンドミニウム群に住む人が興味を示すのが当然なところで、このご夫妻もここに住んで何年といったところだが、私のことは知らなかったらしく、それどころか、時折話を交わしているコンドミニウム住人でさえ顔は知っていても名前は知らない、という状態。都市部のマンション住まいというのは、日本もイタリアも大して変わりはない(南イタリアでは違うかもしれないが・・・)。まだ、知らんぷりせず、挨拶はちゃんと交わすだけ、イタリアはマシか。
和食は初めてというご夫婦、料理が出てくるたびに私が説明するんだが、いわゆる和食的なものは苦手のようだ。生魚が使われたにぎり寿司はもちろんだめ、味噌も豆腐もあまり、ご夫人にいたっては、大抵、醤油と砂糖で味付けされた料理が基本の和食は甘ったるくて・・・と、手が止まり、味見するだけでも、と勧めるのだが、見たことがない知らないものについては、食べたことがなくても、だめだと判定されるらしい。パンがどうして出てこないのか、との質問に、白いご飯を指差しながら、それがパンの代わりだと説明すると、何も味付けされていないただの白いご飯を食べるという発想が消化できないのか、手をつけなかった。
ご主人のほうは、折角だからと、恐る恐るながらすべてを味見していたが、おあげをつまんでみて気に入らなかったのか、味噌汁は残した。
このご夫婦に限らず、イタリア料理からかけ離れたものに手を出したがらない人は意外に多い。
確かにイタリアは歴史もあり、世界遺産など美術的価値が高いものも身の回りにごろごろあり、食べ物もおいしい。よって、自国のもので満足だから、わざわざよそのものを冒険して知る必要はない、という内向きの発想の人が多いのも理解できるし、実際、井の中の蛙である。その井が極上の居心地だからそれでいいんだろうけど。
一方、日本は世界一の飽食美食の国である。世界中のグルメ料理にあふれ、それらをごくごく身近に楽しむことができる珍しい国である。しかも、それらの情報の充実度は異常なぐらいである。(私から見れば、あふれすぎだが。)
そんな国からやってきた私に、「あなたパスタ料理するの?」「いつもお箸しか使わないの?」などという質問は少し間抜けに聞こえる。しかし、井の中しか知らないんだから、仕方がない。
逆に、私はその土地その土地の珍しい食べ物には大抵トライする。地元の人がおいしいとしているんだから、それには理由もあるだろうし、実際おいしいものも多い。
どちらが、「幸せ」なのかは、意見が分かれるところだろうけど。
2003年10月24日(金)
今月頭に、ジュゼッペの古い友人から突然手紙が来た。
70年代、アメリカ、シアトルで働いていたときに知り合った日本人、ということは聞いていたが、長年音信が途絶えていたので、その生死さえわからなかったぐらいで、そこに書かれてあったメールアドレス宛に、久々の近況報告や写真のやりとりが続いていた。
そろそろ落ち着いたところで、同じ日本人として、私のほうからも質問をしてみた。
どうやら彼はシアトルで生まれ育った日系二世のようで、日本の学校には1年しか行ったことがない、とのことで、日本語でメールするのであれば、ローマ字で簡単な単語でお願い、とあった。岡山からアメリカに渡った両親とは日本語でしゃべっていたらしいが、その日本語は明治時代のもので、現在の日本語とはずいぶん違う、とも書かれてあり、とても興味深い展開になってきた。
日本にも明治・大正の時代を生きてきたお年寄りの方はいるが、海外に移住した人というのは、そのまま時代を冷凍保存した形になり、それを現代っ子の私とコンタクトするために解凍する、ってな感じだろうか。思わず、ティーンのころに盗み見た父の夏目漱石の蔵書の、堅苦しい文体を思い起こし、どんな会話になるか、想像力をかきたてた。もっとも、日本語はどうやら苦手なようなので、英語で会話がメインになるだろうが、是非お住まいのアラスカまで会いに行ってみたいものである。
2003年10月23日(木)
先日の着物展会場に紙漉きの作品を取りにチェントロ(町の中心部)まで来たついでに、近場の中華食料品店で、お買い物。仕入れ前なのか、生物の種類が少ない。これまでは土曜日に来ていたので気がつかなかったが、曜日によってこれほど差があるようだ。買うつもりだった豆腐は手に入らなかったが、日本酒の大瓶などをかごにつっこみ、レジに持っていく。さらに、もうすぐなくなる片栗粉を買おうと、おばさんに聞いてみる。
「おばさん、紙切れとペンを貸してください。あるものを買いたいんだけど、イタリア語と中国語の表記ではどれなのかよくわからないの」
おばさんが差し出した紙切れに、漢字で「片栗粉」と書き、日本語ではこう言うのだが、と説明すると、中国語で店の男の子に何かを指示して、持ってきてもらった袋にはイタリア語で「米粉」と書かれている。袋の上から触った感触はたしかに片栗粉に似て、ギシギシした感じがするが、米を挽いたものならば、違うものじゃないか、と疑い、
「これは水溶きして火にかけると、ドロドロになるかしら?」
「ドロドロ?」
おばさんはいつもいい加減なイタリア語をしゃべっているだけあって、質問の意味がよく理解できないようだ。手振り身振りで説明すると、「あ〜!それそれ」と声高に調子を合わせて、店子に指示を出すが、要領をえないので、自ら別の袋を取りに行った。その袋には「タピオカ粉」と書かれてあった。再び手振りでドロドロになるかと再度確認すると、
「シーシー(はいはい)!なるなる!ドロドロ!!」
などと、首を振りながら大げさに肯定する。
私はタピオカという食料を知らないので、なんとも言えないが、片栗粉の原料も知らないので、何とも返答の仕様がない。ここはおばさんを信じて、試しに買うことにした。
夕食で、早速そのタピオカ粉を試してみると、たしかにドロドロした感じが出てきた。別に変な味になるわけでもなく、見た目も片栗粉を使用したときと何も変わらないようだ。
辞書で調べると、タピオカもカタクリも、その地下茎からでんぷんをとって商品にしたもののようだ。おそらく、でんぷんの質の違い、ということだけだろう。
ひとつ、お勉強!
2003年10月21日(火)
前回の帰国時に知り合った人がローマに語学留学に来て、1ヶ月ほどたったところだが、イタリア人と友達になりたいと言っていたので、一昨日の日曜日に私のローマの友人に頼み込んで、ローマ人によるローマ観光を仕込んだのだが、それがどうなったのか知りたくて、彼女に電話した。
朝の10時の待ち合わせから、なんと夜中近くまで一緒だったという彼女。途中から彼の友人宅に行って、さらに別のイタリア人も加わって、それこそイタリア語三昧の日だったようで、楽しかったそうだ。
ただ、最後の別れ際に、彼がキスをしてきたので、焦って一生懸命説明してそこで収まったらしいが、彼女にとってはびっくりだったらしい。
「もおー!あの男は!!大丈夫よ。私がちゃんと釘刺しとくから・・・。気にしないで、キスなんて挨拶みたいなもんだから。ローマでは私も知らない人からバールで、いきなりプロポーズされたこともあるし」
「そうみたいですねぇ。私はまだ慣れないけど」
一応彼女を落ち着かせるために言った台詞だが、挨拶の頬のキスと口へのキスとはやはり意味合いが違う。そうこう話しているうちに、私の携帯電話が鳴った。
彼女との会話を終えて、携帯電話に出ると、ちょうど話していた当人だった。
「ちょうど、あなたのこと話していたのよ」
「彼女はぼくのこと、どう言っていた?」
「一日中付き合ってもらって、イタリア語もゆっくりしゃべっていたから理解できたし、楽しかったそうよ」
「うん、途中からロベルトの家に行ってねぇ。覚えているだろう?それで、「ぼく」のことはどう言っていたんだよぉ?」
「そうね、優しくて、感じがよくて、いい人みたいだってさ。ただし、あなた最後に彼女に何をしたの?」
「何のこと?」
「彼女、驚いていたわよ。キスなんかしちゃって!駄目じゃない・・・」
「だって、彼女もかわいかったし、楽しかったし」
「一応、これはローマ式だから気にするな、とは言っといたけど。日本では初対面の人にキスなんてしないの!」
「おい、ちょっと待った!ローマ式だって?ぼくだって誰彼にもキスはしないよ。キスするのはもっと近しい感じの・・・」
「ハハハ、よく言うよ。これだからローマ人は・・・(笑)」
「ぼくも日本のことは大好きだし、新しい日本人と知り合いになれて、感謝しているよ」
「それだったら、彼女にイタリア語のレッスンしてあげなさいよ。そのうち彼女もお礼の電話をするって言っていたけど」
「ああ、ぼくも近々電話するつもりでいたんだ」
彼女のほうでは、純粋にイタリア人の友達が欲しかったようだけど、どうなることやら。
10月20日(月)
2週前と同じ時間割のフィデンツァ行きのバスに乗る。
また、あのナポリの運転手のようだ。
今度は前列に座った若い女の子と会話を試みている。
ようするに、おしゃべりなのだなぁ。
スパゲッティの話などで女の子が呼応してくれたのがうれしいのか、ちょうどお気に入りの曲だったのか、ラジオよりクイーンの曲が流れ始めるとそのヴォリュームを少し上げた。
バックミラーには、にこやかな顔が映っていた。
フィデンツァのほど近くまできたところで、その女の子の携帯電話が鳴った。
運転手のアンチャンはすぐにラジオのヴォリュームを落とした。
「ええ、もうすぐそこまで来ているから・・・」
女の子は言葉数少なく答え、すぐに携帯を切った。
ジュゼッペもその様子を見るとはなく見ていたようで、
「彼はヴォリュームをすぐに下げたねぇ。」
なんて私に耳打ちする。
そして、バスは駅に到着した。
「さようなら」
一列目に座っていた彼女は、真っ先に降りていった。
「さようなら」と答えるアンチャンは無表情だった。
2度目に見るこんなアンチャンになんとなく親しみを持って、私も「さようなら」と挨拶をした。
2003年10月17日(金)
先日試験を受けた学校の方の結果発表。
秘書の部屋の前では、何人かが入室を待っていた。どうやら一人ずつ招き入れて結果を伝えているようである。
私の前にいた女の子が部屋から出てきた。どうだったか結果を聞くと、だめだったらしい。そこに黒人の女の子たちが割り込んできた。なんだかわからないけど、彼女たちのほうが先に来ていたらしい。
私のほうでは特に急いでいるわけではないので、場を譲ると、部屋の中から黒人特有の太い笑い声が聞こえてきた。彼女たちは合格したということだろうか。私が受講したいコース以外の発表も今日らしいが、もし同じだとしたら、2人も18人の枠からとられちゃったのかな・・・。
次に私が入室すると、秘書の人たちはまだ笑っている。
どうやら、イタリア人とは違う反応を示す外国人とのやりとりを、おちょくり半分に楽しんでいる模様。私が入室すると、秘書の男の人のほうが、女の人のほうに、「この『かわいい』中国人の相手は、今度はぼくがする!」などとはしゃいで言っていた。
結局その男の人はこの作業に慣れていないらしく、私の名前がどこにあるのかさえ見つけられなかったので、あらゆるコースのリストを私に渡し、私はすぐに自分の名前を見つけた。
合格だ!
ついでに、一緒に試験を受けた友達の名前も見つけた。
よかった!これで、二人一緒にわだかまりなくコースに通える!
10月16日(木)
ここ数年通っているイタリア語の学校の方の初日。
明日合格発表がある別の学校の方の結果次第で、ずっと通っていた午前中のクラスに通えなくなる。
先生のガブリエッラが素晴しい先生で、未だにこの最上級クラスでは落ちこぼれだけど、入った当初と比べればずいぶんと上達し、先生も満足していたぐらい、目に見える変化に達成感は高かった。
今期のクラス別リストを見てみると、午後のクラスを第一希望、今までの午前のクラスを第二希望にした私は、やはりいつものクラスから外れ、担当も別の先生だった。しかも、同じレベルの人が少なかったせいか、ひとつ下のレベルのクラスと統合されているようだ。
なんだか、ちょっとがっくり。
実際に行ってみないとわからないけど、ここ数年来慣れてきた各国代表のハイレベルな主張に再びめぐり会えるだろうか。時間割も夕食前の微妙な時間だし、なんだか行く気なくなりそう・・・。
10月15日(水)
日本人の女同士でランチにいこうと誘いを受けて、日本人がシェフをしているあるフランス料理のレストランに行く。私たちと同じような年代の、かわいらしい女性がシェフで、お客ががやがやとやってくる前だったので、ゆっくりとお話。こんなところで日本人と知り合いになるのも、なかなか乙である。
ラザニアと煮野菜、いわしのテリーヌといったボリュームたっぷりなお皿で、味はさすが日本人がやっただけあって、デリケートであった。(きっと日本人受けする味なんだろう。)
程なくぞろぞろとお客がやってきて、満員になった。これは、イタリア人にとってもおいしい、ということだろう。
結局最初に来て、最後の客が出て行くまで、店でねばっていた。
この辺り、いかにも日本人的だろうか。
これだけの人数分をひとりで裁いた彼女に賞賛の言葉をかけて、挨拶をすると、なんと値段までおまけしてくれた。ここまでされちゃぁ、また来なきゃね。
2003年10月14日(火)
トリノの着物展に行く。
四季ごとになかなかがんばって展示してあった。
最後の部屋では、草履やかばん、帯止めなどの小物、あらゆる種類の反物などが展示されていて、その横であの有名な女性、う〜ん、名前が出てこないが、私が日本にいた当時はお茶の宣伝に出ていた人だが、その人が京都弁で着物の手入れの仕方を説明しているヴィデオを流していて、なんだか懐かしい音の響きに思わず聞き入ってしまった。
そこから棟を変わって、さらに奥まったところに入っていくと、日本文化の紹介ってな感じの部屋に出て、都電の様子、女子高生の姿、レストランの本物そっくりのメニュー皿のプラスチックオブジェクト、漫画などが展示してあり、その奥の一部屋で一人の男性が紙漉きを実演していた。
私の姿を見て、日本語で話しかけてきて、日本人だということが判明。
トリノで紙漉きなど教えているアーティスト、とのことだった。
折角の機会なので、ジュゼッペが紙漉きに挑戦。枯葉や枯れ枝などを使って、なかなか楽しそうにやっていた。
3日後に仕上がっったものを展示会の受付に置いておいてくれるそうだ。
2003年10月13日(月)
みんなでFILAのアウトレットショップに行くためにトリノとマッジョーレ湖のちょうど中間辺りのビエッラまでドライヴ。
ショップにたどり着くと、月曜日は3時からしか開いていないということで、時間つぶしに隣町オロパの僧院を見学に行った。ずいぶん山道を上がっていくと、すっと視界が広がり、壮大な僧院が姿を現した。見るからに、カトリックの権力パワーがムンムンである。百以上はあるだろうか、僧侶たちの部屋の廊下が左右に伸び、右側には教会があり、中には真っ黒なマリアとイエスの像が飾られていた。(特徴的だし、きっと有名なんだろうけど、面倒になって説明は読まなかったが。)
正面の階段を登りきると、それこそ大きな僧院がデーンとそびえている。山の森林が紅葉し、霧がかっている中、なんだか雰囲気抜群である。日曜日には大型バスが何台も到着するであろうこの場所も平日に参拝する人はまばらで、ここもまたゆっくりと見学ができた。
ビエッラの街中では、年代ものの建物も手入れよく保存され、町全体がとてもかわいい感じ。最近見た町の中で、久々のヒットであった。
時間になり、肝心のFILAの店に戻り、品を物色したが、どうやら私の趣味ではないようだ。ジュゼッペは同僚にうわさを聞いてこの店に期待していたが、気に入ったもののサイズが合わず、結局シャツが2枚。唯一セルジョがスポーツウェアのセットを喜んで買い込んでいた。
店員曰く、ちょうど先週末に誰かさんがたんまり買い込んでいった模様。
アウトレットでの買い物はツキとタイミングが大事である。
10月12日(日)
昨日からウチに来ているミラノの友人と共に、トリノ散策。
中心部で、サラミやらワインやら健康食品やら見本市が行われていて、私たちも出来立てあつあつのポレンタを頂く。ポレンタとはとうもろこしの粉を熱湯の中で1時間以上かき回してどろどろになったものをそのまま食べてもよし、冷やして固めたものでもよし、貧しい時代のパンの替わりのようなものである。
自宅では、ずっとかき回しているのが面倒で、なかなかやらないんだけど、そういう人たちのために3分でできる粉も販売されている。しかし、それはやはり味がずいぶん違うらしい。私は試したことないけど。
ここで試食させてもらったものは、この1時間ものの粉で、大鍋で男の人が交代でかき混ぜ棒をまわしていた。
そのパフォーマンスにお祭り気分は盛り上がるけど、肝心のお味のほうは粉引きがずいぶん荒いものなのか、ごわごわとした感触だった。
ちょっとがっかりしたけど、ピエモンテ地方のワイン、バルベーラを飲んで、気を直す。カップ半杯ほどだったけど、キューッと頭にくる。舌の上を転がる濃厚な感じとコク。普段飲んでいる軽い炭酸ワインとは違って、すぐにクラクラと気持ちよくなってきた。
ほかほかしたいい気分で、場所をリヴォリのお城に移すと、ちょうどクラッシックカーの持ち主が一堂に会していて、ジュゼッペも友人のセルジョも幼年時代を思い出し、懐かしそうに見て回っている。中でも私は姿も名前そのままのトッポリーノ(ねずみ)という黒い小さな車を気に入り、車と一緒に記念撮影。丸いランプがミッキーマウスの耳のようでとてもかわいい。
程なく、いかにも「それ」らしい持ち主たちがそれぞれのマイカーに乗り込んで、街中のパレードに消えていくのを見送った。
2003年10月10日(金)
今日こそはジュゼッペと一緒に遠出をするぞ、と早起きすると、真っ青な空。
ドライヴ日和である。
雑誌にもいろいろ写真が出ていた、クーネオ地方のサルッツォに向けて出発。
トリノから南に向けて、まずはピネローロ。
トリノを小さくしたような感じの町。
町の真ん中に大きな広場があり、周りの店の1つよりかわいい包装紙を見つけて、購入。
美術館は、なんと金曜日が休館。
特に他に見所はなさそうな感じだったので、次はカヴールに向かう。
カヴールはとても古い町。
中心部から丘の上を見上げると、上のほうに寺院のようなものが見える。
車がやっと1台通るような道を登り、駐車場には車一台さえない!
丘の頂上まで登ると、マリア様が飾られていて、カヴールとその周辺のパノラマが楽しめた。誰にも邪魔されることなく、新鮮な空気を吸い、一服。平日の旅行はこういうところがよい。
さらに南に、サルッツォに向かっている途中、有名な寺院を通過するが、12時を回り、ちょうど拝観時間から外れてしまったので、帰りによることにする。
サルッツォはなかなか味のある町だった。
ここはいい家具がいい値段であることで有名らしい。
こちらはまず腹ごしらえ、と人が一杯いるところがおいしいに違いないとみつけたところで、ちょうど終わったらしい人のテーブルに座ると、どういうわけか、ここは予約済、と道路側のテーブルに追い払われ、感じが悪いので、別のレストランを探す。
結局、地元のビジネスマンが軽くランチをとっている感じのところで、日替わりランチメニューをよく冷えたビールと飲んで、一息。人間、お腹がすくと、元気もなくなり、歩き回る気力もなくなるが、バールマンが支払いのときに、マロッキーノ・コーヒーをおまけでくれて、さらにご機嫌に元気回復。
サルッツォの有力者の元館をひとつ見学して(もちろん、見学者は私たちだけ!ガイドに説明もとめ放題)、中心部の石畳をうろうろ。鐘楼に登ろうかと思ったけど、入場料もとられる上、歩き回った疲れからかジュゼッペは登らないというので、外から眺め、お城のふもとまでたどり着くと、私自身疲れを感じたので、また次回に、ということにした。日本からイタリアにやってきたのであれば、できない業だが、近場に住んでいる利点である。
見学した館で修復した作品が返品されたというマンタのお城を最後に見学。ここでも見学者は私ひとり。ここではガイドもなく、説明が書かれた紙切れが渡され、誰も見ていないのをいいことに、見事なフレスコ画をヴィデオカメラにおさめる。一応撮影禁止だったんだけど、入場料をケチって庭で待っていたジュゼッペにもこれで見てもらおう、と。
2003年10月9日(木)
トリノ市内うろうろ。
新婚旅行らしきものはしないけど、新婚ということで折角15日間も休みをもらったジュゼッペも家にいることだし、トリノ周辺の日帰りドライヴぐらいはしたいと思っていたところである。そんなところに、古本でピエモンテ州特集の雑誌を見つけた。ちょっと、読んでみて、めぼしいところをピックアップしてみよう。
外は暑いのやら、寒いのやら、わからない。
どうやら、風邪をひいたらしく、微熱もあるのだろうか。
くしゃみ、鼻水に悩まされる。
こんなときは、外をうろうろせずに、おとなしく家でじっとしているのが賢明なのかもしれないな、と思いながらも、人だらけの週末ではなく、平日に街をふたりでぶらぶらするのが珍しく、トリノの隅から隅まで歩いていると、探していたタイプの圧力鍋も見つかった。ちょっと気に入らない点もあるので、値段などを聞いて、とりあえず参考にする。
2003年10月7日(火)
地域の保険所より来ていた無料の婦人科検診の案内で、私の割り当ては今日。
イタリアでは年頃の女性は毎年検査をするもの、ということで、私もイタリアに来てから毎年検査を受けてきたが、いい先生を探して、やっとみつけたプライヴェートの女医さんのところでは、結構な値段になる。
それが、無料ということで、よろこんで受けることにした。
今まで受けてきた検査でも、変体っぽい先生だったり、丁寧な説明に感心したり、機械的でいやな感じだったり、毎回いろいろ感じるものもあったので、どんな感じか、ドキドキして順番を待っていると、今回は早口の女性の先生だった。
最初の問診が聞き取りにくく、何度も聞き返し、なんとなく焦ってきた。
別室で下着をとって、診断室に戻ると、今回の先生は、なんと溶接工がかぶるような透明なヘルメットをつけていた!膣よりサンプルを採るときに、跳ね返りなんかがあるんだろうか???
診察台にのぼると、普通ひざを置くような台に、靴のまま足を乗せろ、という。
「ええ?靴のまま?」
ちょっと動揺して、焦っていると、
「さあ、膝を開けてください」
「膝を開く?」
「そう、『開く』っていう動詞ぐらいわかるわよね、イタリアに何年?」
「ええ、もちろんわかりますが・・・」
落ち着いていれば、なんともない動作。つまりは「股を開く」ということなのだが、その時は思いもしない展開に頭が真っ白。「(開くはずのない膝の部分をどうやって開くんだ??)」などと半分パニック状態だった。
約5秒後、はっとその意味に気がついて、妙に恥ずかしくなった。
そういや、日本語でも「膝を開く」とも言うか・・・。
無事に検査も終わり、先生は私のちぐはぐな動作にケラケラ笑いながら、結果は郵送しますとか説明していた。
いやいや、毎度のことながら、慣れない検査である。
2003年10月6日(月)
トリノへ帰るため乗ったフィデンツァへのバスの中、運転手がべらべらと声高にしゃべっていた。
車内では誰もしゃべっていないので、その内容がまる聞こえである。
運転席の真後ろに座った若い男の人を相手に、自分の仕事遍歴の話をしているようだが、ナポリ地方のアクセントながら一応イタリア標準語でしゃべっているものだから、私にもわかるし、なんとなく面白くて思わず聞き耳を立ててしまった。
その中から、面白かった台詞をひとつ。
「俺さあ、ナポリ出身だけどさ。南イタリア人とは一緒に働きたくないんだ。だって、「働かされる」もんねぇ。だから、北に来たのさ。今の仕事なんかいいよぉ。朝もゆっくり10時ぐらいから3時過ぎまで。病気だっていえば、ちゃんと休めるしさ。ははは。」
ちょっと説明しよう。
つまり、南イタリア人である彼が、同じ南イタリア人と一緒には働きたくない理由は、お互いの「事情」をよく知り尽くしているがために、さぼろうと思ってついたうそが通じないからである。そんな状態でさぼると、それこそマフィアっぽい人に痛い目にあうだけ。その点、北イタリアでは仕事の種類もいろいろあるし、北の人は「病気だ」という南の人の理由を素直に信じて、休むことも許可するし、替わりの人をあててちゃんと穴埋めをする。それでいて、お給料もなかなかよしとくる。
同郷のよしみ、というか、地域愛というのがイタリア人は強いが、ナポリではナポリ人を信じていないという皮肉さ。
こういう台詞を北イタリアで堂々としゃべっている神経。
まったく、南の人には、「参っちゃう」ね。
個人的に、北だ、南だ、って区別はしないけど、北イタリアに住んでいると感じる「だから、南は・・・(ため息)」という雰囲気になんとなく理解を示してしまう私も、すっかり北イタリア人化?
2003年10月3日(金)
結婚式に来れなかった元同僚が、南イタリアからトリノまで荷物を取りにやってきたついでにウチに遊びに来た。
パーティのときの写真やらヴィデオやらを見せながら、おしゃべり。
お昼時になったので、簡単に和食風ランチを用意する。
そこに、週末の里帰りのために会社を早退してきたジュゼッペも一緒になって、ゆっくりしたいところだが、昼過ぎに私は面接に行かないといけない。一気に味噌汁をぐいっと飲み干して、
「私は行くけど、ジュゼッペが家を出るまでゆっくりしていってね。」
というと、彼女も私について帰るというので、一緒に家を出た。
車を走らせながら、特にこれからの予定もないというので、学校まで一緒に来てもらった。
面接の前、控え室で彼女相手に「イタリア語会話」の練習。
友達としゃべるのはあまり問題がないが、Leiの形式で知らない人とイタリア語でしゃべるのは、未だに緊張するような状態である。なんだかどきどきしてきた。
そこに、面接を終えた知り合いが控え室に入ってきたので、どんなことを聞かれたのか聞き出し、面接のシュミレーション。
いざ、面接。
質問項目に頭の中で用意したことをべらべらとしゃべり、試験官はすらすらとメモをとっていた。
試験問題はどうやらよく回答していたようである。
ひとつだけ、文法問題の間違いを指摘された。
なかなか感触はよし。
もしかして、期待していい??かしら????
2003年10月2日(木)
昨日の試験の次の面接の日の発表を見に行った。
学校がウチに近いこともあり、ついでに郊外に住んでいる友達の面接予定日も見てきたので、彼女に電話する。
「私の面接は明日で、あなたのは来週の火曜日みたいよ。」
「どうして?!受付番号も連番、試験を提出したのも一緒、なのにどうして面接日が違うの?」
私は彼女のその真剣な驚きように驚きながら、
「どうしてって・・・例えば名前のアルファベット順とか。」
「SとTで続きじゃない。きっと見込みのある人を先に面接するのよ。」
「(にやりと笑いがもれながらも)そんなんじゃないわよ。そうね・・・出身国の地域別とか。」
「同じアジアじゃない・・・」
「う〜ん、だったら・・・そうそう、きっと外国人局の受付窓口みたいに、いわゆる先進国カテゴリーのEUとアメリカと日本っていうのと、それ以外の国っていうやつよ。このコースで学んだ仕事っていうのは、そういう国出身の方が必要とされてるしさ。」
「だったら、どうして日本のほうを先に面接するの?」
彼女の執拗な追及に、思わず笑ってしまった。
「ねぇ、やめよう。どちらにしたって、私たちにはその理由なんてわかんないんだから。」
「はは、そうね。」
それにしても、彼女「も」真剣にこのコースに期待しているのね。
うわさによれば、18人しか枠がないらしいし。
どうなることやら。
2003年10月1日(水)
今度新しく通いたい学校の試験日。
久々に大学の授業みたいな階段教室に足を踏み入れると、いろいろな人種の老若男女がざっと70〜80人集まっていた。
それにしても、ほとんどのいすのクッションが切られていて、鉄の板がむき出しになっている、なんとも荒んだ感じ。我が日本の母校の美しさとは月とすっぽんである。
試験監督が簡単に説明の後、試験用紙が配らられる。
どうやらこのコースを受講するのに必要なイタリア語の理解度を計るための試験らしく、筆記問題である。
今まで受けてきた試験では、tuのカジュアルな形式で問題が書かれていたのに対して、Leiの尊敬形で書かれてあるので、一段とフォーマルで、大人扱いされている感じ。
いきなり、最初の問題のテーマの選択の段階で、片方のテーマの意味がよくわからなくて焦ったが、なんとか片方がわかったので、そちらのほうに沿って書く。しかし、書きながらもほんとに正しくテーマを理解しているのか、不安が広がっていった。
書き終えた人がどんどん退出していく中、私もなんとか書き上げたときに残っていたのは20人ぐらい。
試験監督に用紙を提出して、次回の面接の日程などを聞く。
教室の外に出て、一緒に受けていた友達にその出来を聞くと、彼女にとっても少しむずかしめだったらしい。私だけじゃなかったんだ、となんだかちょっとほっとした。
2003年9月30日(火)
そういや、私結婚したんだっけな。
まさに、そういう感じだ。
何にも変わらない、以前と同じの生活。
今日は日本人友人のひとりとトリノでランチ。
お祝いということで、おごってもらった。
なんだか、パーティに招待もしていないのに、祝ってもらってなんだか悪い気もしたが、一生にそう何回もない晴れの舞台なんだから、と説得されて、なんとなくその気になってしまう私もお気軽か。
2003年9月29日(月)
昨日はまた夜中までドイツ組とおしゃべりしていたので、頭が重い。
こんな日は朝寝坊したいところだが、ジュゼッペは今日も出勤。
お見送りしたあと、イギリス人友人とまったりとしゃべる。やっとイギリス英語にも耳が慣れてきた感じだ。
しばらくして、他のドイツ組もやってきて、朝のおしゃべり。
私の着物姿がきれいだった、とかやたらとほめるので、調子に乗って、私の赤ん坊のときからの写真アルバムなどを見せながら、別の着物姿も披露する。
10時ごろ、彼らもドイツへ向けて出発。
やっと、バタバタが終わった。
今日はもう何もしない、と決め込んでソファーに座り込み、テレビをつけると、みんなが停電、停電と大ニュースになっていた。なんと、イタリア全土が停電だったんだ!知らなかった!!(なんて暢気な?!)
しかも、問題のフランスからの送電のことでは、トリノが要らしいじゃないか。
全国ニュースでも、地方ニュースでも、停電、停電である。
イタリアの別の都市に住んでいる友人たちにもパーティには招待したんだが、結局それぞれの都合で来れなくなって、予定していた人数より少なったことは土曜日の時点でわかっていたのだが、もし、その中から来れる人がいたとしても、結局停電のせいで電車もストップしていたし、どちらにしても来れなかったんだなぁ、などとぼんやりと思う。
2003年9月28日(日)
成人式の前日の頭状態だったので、ピンが痛くてまともに寝れなかった。
しかも、「空洞」の日本髪風である。うっかり横向きに寝てしまって、ぺっちゃんこになってしまったら元も子もない。
記憶のあるうちは枕にあごを立ててうつぶせに寝る、という姿勢を保っていたのもあるし、一晩中近くからセキュリティサイレンが鳴り響いていて、寝不足プラス今日これから起こることを考えると自然にハイな状態。
朝の5時ぐらいに寝るのをあきらめて、とりあえずトイレに立つ。
すると、電気がつかない!
水の出も悪い。
「ああ、またか。」
と寝ぼけ頭でうっすら考えた程度で、またベッドにとりあえず戻る。
ゲストが別の部屋にいるので、音をたてるのを遠慮しなければいけない。
6時半ごろ、どうせ寝れないのだからと起き出し、音を出さない作業、植物の水遣りを始める。
そのまま、床に座り込んで、ぼんやりと空が明るくなるのを窓から眺めていた。
外では相変わらずサイレンが鳴り続いている。
まさか、彼のアウディの防犯サイレンじゃないよなぁ、などと気になるが、もしそうだったら彼も気がついて起きてくるだろう、と思い直し、勝手にほっとしてみる。
7時過ぎ、ジュゼッペも起きだした。
やっぱり電気がつかない。
外をのぞいてみると、どこも電気がついていない。
この一帯全部が停電のようだ。
8時前。
イギリス人友人も起きてきた。
彼の車のサイレンではないようだ。
まだ、電気がつかない。
冷蔵庫の扉もなるべく開けないようにし、とりあえず朝食の準備。
まだ朝も明けきっていないので、ろうそくをつける。
なんだか、夕食みたいな雰囲気だ。
8時15分ごろ。
冷蔵庫のモーターがぶぅぅんとうなりだし、電気が回復したのがわかる。
ラジオをつけると、どうやら大型の停電だったようだ。
フランスからの送電線に問題があったやらどうやら・・・、しかし、私の頭は着物のことで一杯で耳にニュースも入ってこない。
9時過ぎ。
男性陣を台所に閉じ込めて、全身鏡のある玄関で着物と格闘しているところに、すぐ近所のホテルに泊まってもらったドイツ人友人がやってくる。
「いったい、イタリアでは何が起こったんだ!」
と、幾分興奮気味である。
そりゃそうだろう、夜中サイレンは鳴るし、電気は止まるし、イタリア語はわからないし・・・。
その彼も台所に追いやって、再び鏡の前で本とにらめっこしながら着物を着付け。
やっと出来上がったころには、じっとりと汗をかいていた。
おお、せっかくの化粧がくずれてしまっては台無し。あわてて化粧直しをする。
10時半ごろ。
とりあえず、ドイツ人友人退散。
こちらはみんなに配るお土産やら、カメラやら、バタバタと準備。
12時ごろ。
雨がしとしとと降り出した中、ドイツグループと一緒にトリノ市内の和食レストランへ出発。
レストランに着くと、なんと停電中。
つい先ほどより、電気をとられちゃったようである。
ジュゼッペの説明によると、この停電の復旧作業を優先させるために、トリノ市内をブロックに分けて、各ブロックごとに1時間半から2時間ほど再び送電を中止されているようである。
そのブロックの時間割で、見事にお昼のお食事時にどんぴしゃり!
これまたすごい、できすぎの話。
とりあえず、非常灯とろうそくの火の中で、パーティのはじまりはじまり。
まず、みんなにお箸の使い方の説明。
割り箸は割って使うもの、というところから、おおっとどよめき。
やっぱり、結婚パーティにありがちなお城のレストランとかじゃなくて、和食レストランにした趣向が正解だったかな、とちょっとうれしくなる。
まあ、はじめっから上手に使える人なんて珍しいんだから、みんなにはフォークとナイフも用意してもらい、みんなの食べている様子をカメラで撮影。さすがに普通にとると、画像が真っ暗になるので、ナイトショット機能を使うと、ちょっと青ずみながらも明るく撮影ができること発見。
食事も半ばあたりに電気がもどってきた!
まだ英語にスイッチできていない頭でしどろもどろ英語テーブルで食べてしゃべり、イタリア語テーブルを回ってヴィデオカメラをまわし、各料理の説明を簡単にする。
それにしても、普段イタリア語で会話しているインド人の友人とも英語で会話する羽目になり、なんだか頭が余計に混乱する。まさに、日本の友人と英会話の練習をしているような変な感じ。バイリンガルでもない限り、この違和感はとれないだろう。各友人と話すときに使う言語はひとつに決めておいたほうが身のためだ。
そろそろお腹も落ち着いてきたあたりで、3人の友人に頼んでいたスピーチをお願いする。
一人目はジュゼッペの同僚で、ごくごく簡単にイタリア語でスピーチ。
二人目はドイツ語の先生に英語で。
これがまたなかなか考えたスピーチで、プレゼントにまつわる伝説を私たちに再現させようとしたもの。
詳しい話は割愛するが、その杯より二人が同時に一滴もこぼさずにシャンパンを飲まないといけない、という趣向だったのだが、私はヴィデオカメラのファインダーを通じて伝説を聞いていて、注意が幾分散漫になっていたので、その意図がよくわからず、ぼーっとしていたんだが、ジュゼッペもどうやら頭は別のところにあったらしく、二人して間抜けなパフォーマンスを見せてしまったが、最後にはトリックもわかり、めでたし、めでたし。
三人目は私のイタリア語の先生がイタリア語で、先生らしく卒のないスピーチでしめくくってくれた。
デザートを食べたころに、お土産を配り、そして、お約束のブーケ投げ。
未婚者は二人しかいなかったんだが、そのうちの一人が欲しがったので、彼女のほうへ一直線に投げて、ナイスキャッチ。彼女も満面の笑みであるが、かわいそうなのはその彼氏。みんなから結婚の日付を決めてしまえ、と迫られ参ったトホホ顔をしていた。(その彼氏は、実はジュゼッペより年上のはず。確か60代?)
2003年9月27日(土)
結婚式、当日!
ゆっくりと朝食をとっていると、なんだかいつもと変わらないような感じだ。
ジュゼッペに花嫁のブーケを花屋まで取りにいってもらっている間、久々に化粧道具を取り出し、念入りに化粧を施しながら、鏡の自分を眺めてみる。
よかった、久々だったけど、化粧の腕は落ちていなかったみたい。
イタリア人に化粧をしてもらった友人がアイメイクを頑張ると写真写りがいいというので、いつもより少し濃い目に色のグラデーションをつけてみたり。やっているうちに、少しずつ気分がウキウキしてきた。やはり、私も女・・・。
カメラマンの友人もやってきて、出発前の様子を撮ってもらう。
出来立てフレッシュなブーケを持って、お気に入りのドレスを着て、カメラを向けられていると、いい気分がしてくる。
朝の新鮮な空気の中、そろそろ時間だということで家の外にでると、ちょうど彼側の証人を引き受けてくれた友人もやってきた。カメラマンのワイン色のアルファロメオに乗って、いざ市役所に出発!
市役所前の広場で、私側の証人ともう一人の友人の到着を待っていると、すぐ近くのマーケットに買い物にやってきた人たちが口々に、「花嫁さんだね。おめでとう!」「とってもきれいだよ!幸せにね」などと次々に声をかけてくれる。「ありがとう」と返事をしながら、私の頬は緩みっぱなしだ。
みんながそろい、市役所の女性アシスタントが、「どなたと入場しますか?」と質問してくる。
いまいち質問の意味がわからなくて、「私の証人はあそこにいますが・・・」なんてとんちんかんなことを答えると、「いえ、普通はどなたか男性と一緒に入場するものですが」と言われ、ハット気がつく。ああ、花嫁の父のことか。
「ああ、誰にもその役目を頼んでいないので、彼と一緒に入場します」
「わかりました。では、どうぞ」
ターンタータターン、ターンタータターン、ターンタタターター、タータタター・・・・
とおなじみの結婚式の曲がながれ、二人で行進。
先の女性アシスタントと、しわだらけ顔の白髪の男性が正面にいて、握手を交わす。
まずは、指輪を交換するのか聞かれ、目の前の銀のお盆の上に指輪を置く。
それから、しわくちゃ顔の市長代理が法律何番の何々によって、グダラグダラ・・・と話はじめ、例の
「ooはxxを妻と認めますか」
「はい」
「xxはooを夫と認めますか」
「はい」
「証人は今の発言を認めますか」
「はい」(双方の証人から)
「それでは2人を夫婦として認めます」
「おめでとう!」
で終わり。
それから、指輪を交換して、市役所発行の書類に私たち二人と証人二人それぞれが署名して、速やかに退場。式場の音楽係の人が入場のときと、指輪の交換のときと、退場のときに音楽を鳴らしてくれたが、あまりにもすぐにそれぞれが終わったので、メインパートにたどり着くことなく、音楽をフェードアウトしていたのが印象に残った。
場所を自宅に移し、みんなにとりあえずおぜんざいを振舞う。
私の証人はインド人の友人に頼んだだめ、ヴェジタリアンである彼女と夫と息子さんが食べられるものを何か作らなければ、と数日前からいろいろ考えていたが、これが案外簡単でない。
一番簡単なのは、みんな好き嫌いがないパスタ料理が手軽でいいんだが、日本人である私の家に招いておきながらそれはないかな、と思い、何か和のものを・・・と思案するんだが、出汁をつかわない和食というのはなかなかないものである。肉魚はもちろん、卵もにんにくもだめ、カフェインもだめ、直接肉や魚が入っていなくても、それらでとった出汁もだめ。当日はバタバタしたくなかったので、それこそ、カレーでも前日に煮込んでおいて、当日はご飯だけ炊けばいい、という風にしたかったが、カレーのルーの箱を見るとどうやら肉のエキスが入っているようなので、これもだめ。ケーキやクッキーも卵が入ってるのはだめ。ヴェジタリアンをもてなすのは、慣れないと難しいものである。
しかも、彼女の夫はとても真剣にヴェジタリアンしているので、たとえヴェジタリアンメニューを出しているレストランでも信用ならない、と言って外食もしない、という徹底のしよう。
私が出したおぜんざいもどのように調理したのか、詳しく聞いてくる。
それでも、私を信用して食べてくれた、というのは、言い換えればとても名誉なことである。なあんて、ちょっとおどけてみたり・・・。
実際には市販の切り餅を使用したんだが、餅の説明で、米をまず蒸して・・・と説明し始めたときに、「蒸す」という単語がとっさに思いつかなくて、英語のsteam(スティーム)から想像して、イタリア語風にスティマートという単語をひねりだして一か八かで言ってみると、一瞬みんな沈黙。それから、大爆笑。
「あなた、英語のスティームから想像したのね」
「イタリア語では『蒸気で調理』って言うのよ」
「それにしても、スティマートとはかわいいな。いかにも英語チックでさ」
「僕の別の英語圏の友人にもそんな風にしゃべるヤツがいてさ、想像力をたくましくて聞いてるのがなかなか面白かったのを思い出したよ」
どうやら、私の造語はヒットだったようである。
ちなみに、後で辞書で調べてみると、スティマートstimatoという単語が立派に別にあり、「尊敬された」とか「重んじられた」とかいう意味であった。道理でどこかで聞いたような響きのはずだ・・・とほほ。
それから、二人ほど仕事やその他の都合で帰っていき、ジュゼッペが家の中をゲストに案内しているうちに、私はドレスの上からエプロンをつけて、昼食の準備。
メニューは結局、焼き飯をメインに菜っ葉のおひたしとセロリときくらげの和え物。
同じ野菜でも、おしょうゆで味付けしたヴァージョンを楽しんでもらえたようである。
ランチが終わって、友人の子供に家中のおもちゃをひっくりかえされた状態になったころ、ドイツのミュンヘンからも友人が到着。さらに人数が加わって、イタリア語と英語がちゃんぽんで会話が進むのだが、久々の英語に頭の中のスイッチがなかなかうまく変わらない。初めてのトリノにはしゃいでいる私のドイツ語の元先生にトリノの観光スポットを説明するんだが、相手はじっと私の顔を見て、にやりと笑う。
「あなた、今のをもう一度『英語』で説明してね。ふふふ。」
なんと、参った!英語でしゃべっていたつもりだったのに、勝手にイタリア語に途中から変わってしまったようだ。
気恥ずかしさごまかしに、今度はへらへらとドイツ語で唯一覚えている相槌などを使い、とりあえずは笑いに紛れ込ませてしまう。
みなさんに程よく楽しんでいただいて、やっと家に静けさが戻った夕方、今度は明日の着物に合うような髪のセットをしてもらうため、近所の美容院へ。
ここの美容院は初めてなんだけど、日本で着物を着たときの写真などを持参してイメージを必死で説明すると、わかったのかわからないのか、ただ単に着物姿が珍しいのか、みんなで私の写真を見回して、「きれいね!」などと口々に褒めてくれるのはいいんだが、ミストでばりばりに固めながらセットしていく様子に不安が高まる。
ここで負けてはいけないと、ああでもない、こうでもない、と口うるさく注文を出して、細かく修正させたいところなのだが、ラストにミストで固める日本のパターンと違い、ひとくし、すくうごとに固めていっているので、修正させるのもそう容易なものではない。しかも、脇をふんわり膨らませるための「かもじ」も手元にない、と言うではないか!逆毛をたてて、毛先をくるくる巻き込んで、苦労して膨らませた「空洞」の日本髪風になるまで、私も晴れ舞台のために口で頑張った。ああ、せめて私の髪の毛が多くて、助かった・・・。
家に戻ると、ドイツ組の一人が町から戻ってきていた。
彼は、ミュンヘンで働いているイギリス人。
イギリスのなまりがとってもきつい英語をしゃべる。
夕食は簡単にパスタで済ませて、彼とジュゼッペがビールを片手に話し込んでいるのを横で聞いていると、なんだかパブにいる気分になってくる。
ぼーっとしていると、もう夜中。
ああ、とうとう着物の試着をしなかったなぁ。
まあ、いいや。明日ぶっつけ本番でやっちゃえ!!
9月26日(金)
いよいよ、明日!
ゲストがいつどれだけ来てもいいように、どっさりと食材を買い込み、足りない食器を探しにデパートまで走り、念入りに家をもう一度掃除して、それからそれから・・・と次々とこなしていたつもりで、すっかり忘れていた車の掃除。
夕方になって焦ってガソリンスタンドの洗車場までもって行き、ざっと洗車してから、家の前でバケツと雑巾で細かいところのお掃除。普段路上に放り出しているだけあって、雑巾が真っ黒になるほど汚れていた。
せっせと拭き掃除をしているところに、友人が到着。
彼に当日のカメラマンを頼み、その私のカメラの使い方の予行練習に来てもらったのだが、予定外の掃除が入ってしまって、時間割がくるってしまった。
そこに、グッドタイミングで帰ってきたジュゼッペに掃除をバトンタッチして、ジーパンの汚れを払いながら、とりあえずご挨拶。そんな私たちの様子を見て、
「大丈夫。明日は僕の車で送っていってあげるから・・・」
とやさしく声をかけてくれた。
確かに我々のおんぼろフィアット・チンクエチェントより、彼のエレガントなワイン色のアルファロメオの方が絵にはなるだろうが、結局誰も呼んでいないし、美しい車であろうが、愛着のあるおんぼろ車であろうが、私たちには大差はないのである。まあ、市役所まで1台で行った方が便利だし、その場合、ウチの2ドアより彼の4ドアの方が便利だワナ、なんて考えるあたり、私も超現実的だろうか。
自分でもヴィデオカメラを持っていて、子供たちの成長の様子を撮ってきた経験のある彼は、すぐに使い方をマスターし、私のヴィデオカメラそのものに興味を持ち出した。
「おお、ここはいつも面白いメカがあっていいね。日本で買ってきたの?」
「そうよ。今度はちゃんとこっち用にしてきたから、テレビでも見れるわ」
「そうそう、この型番は最新モデルの内で、ヴィデオと写真が1台でとれるものについているもんだよ」
と、一緒についてきた奥さんにうれしそうに説明している。
どうやらずいぶん「お勉強」しているようだ。
私も日本で聞いてきた販売員の宣伝文句を思い出しながら、いろいろ説明すると、ウンウンとうなずきながら奥さんとクリスマスプレゼントにしよう、などと話している。
「ねぇ、他にも何か『新しいもの』ないのかい?」
「なに?プレゼント候補をいろいろ探しているわけ?そうねぇ、やっと最近DVD鑑賞ができるようになったことかなぁ。このマルチリージョンのプレイヤーなんてどう?」
「う〜ん、別にウチはマルチリージョンじゃなくてもな・・・」
彼も私もメカ好きなので、いつも機械関係では盛り上がる。
明日の撮影も、きっと大丈夫だろう。
簡単にざっとパスタの夕食をとって、ワインを飲んでいると、今日のバタバタの疲れがどっと出てきた。しばらく1時間ぐらいテレビでも見ながらゆっくりしたいところだが、そういうわけにもいかない。
明日のホームパーティのために洗っておいた食器を丁寧に拭き、食事の下ごしらえをし、ゲストの部屋のベッドを整えて、乾いた洗濯物のアイロンがけをし、最後に明日のドレスにアイロンをあておえたのは実に夜中をまわっていた。
いやいや、世の奥様方はにっこりとご主人の連れてきたゲストをおもてなしするために、これだけのことを準備していたんだなぁ。えらいもんだ。
改めて、奥様業の大変さを思い知りつつ、何でもかんでもギリギリにならないと腰の上がらない自分を恨んでみたり・・・。直らないのよね、この性質って。
2003年9月25日(木)
今年度のイタリア語学校の申し込みに行った。
ここに通うのも今度で4年目。
先生とも顔見知りだし、夏休みはどうだったかなどと話がもりあがってしまい、オーラルの試験はする必要なし。簡単に筆記試験の分を書き終えると、今度新しく連れてきた日本人の友人の様子を見に行った。
在伊1年の彼女は、文法問題は余裕のものだが、作文でずいぶん四苦八苦していたようだ。今回の作文のテーマは「母国の代表的な飲み物あるいは食べ物の紹介」で、「寿司」はむずかしいから「すき焼き」にしたところで、やはり細々としたことが言えずに手間取っていたらしい。
「私なんか、『緑茶』を選んだから、調理法も何もないし、簡単だったわよ。」
と言うと、「ああ、お茶か!思いつかなかったわ。」などと悔しがっていた。
テスト慣れの差である。
その後、まだイタリアで運転していない彼女(やはり、イタリアでの運転はコワイらしい・・・さらにオートマ限定免許??)を家まで送りがてら、お茶をご馳走になった。そこで彼女の1年前の結婚式の写真などを見せてもらいながら、その体験談を拝聴。
イタリアに着いたばかりで、全然言葉がわからないなか、ドレスを選び、言われるがままにバタバタと事が進んで行ったらしいが、プロに頼んだ写真アルバムはさすがの出来で、その他DVDもセットにして作ってくれたらしい。
思いっきりモデルになりきって、変なポーズをとらされるのも、時間が経ってくると段々快感に変わってくるとか。そういえば、前半は緊張した面持ちが、後半はすっかりはまっている感じだ。しかしながら、さすがにポーズのリクエストが日本のとはずいぶん違う。(とかいいながら、私自身日本でポーズを注文されたのは高校卒業アルバム用に学院内の庭で撮影されたときだけだが・・・)
花嫁が寝室のベッドに寝そべっているのはいいとして、普通に大理石の床に座っているときは、アシスタントに思いっきりスカートをめくられたらしい。どうやら、足を見せないといけないらしい。
彼女はなかなかのおみ足だったからよかったものの、大根足の人も同じようなことをさせられるのだろうか。(きっと、そうだろう。おでぶちゃんも気にする風でもなく見事にへそ出しルックのピチピチパンツしているし。)
その他、普通にキスすりゃいいものを、後ろに立っているダンナのネクタイを花嫁が引っ張って、振り向きキスなど、大和撫子風の花嫁では考えられないような、やはり「イタリアの女性は強し」を象徴するようなポーズである。
着物にも着替えた彼らに、フォトグラファーはさらにポーズを求めたらしいけど、そこは彼女ががんばって、「着物でポーズは変だから」とおとなしめの姿で写真に納まっていた。
参列者の面々に、日本からの人たちもたくさん写っていたが、親戚はもちろん、元同僚だけでなく、その同僚の叔母さんなどという、直接は全然関係ない人まで「イタリアでの挙式?!そりゃもう是非是非!!」という状態でワイワイやってきたらしい。その後、「ご一行様」を連れてミラノ観光に出かけたり、着いた翌日から「和食が恋しい」と叔母さんから泣きつかれた上に、やっとみつけた寿司屋のシャリがすっぱすぎるなどと文句をつけられたりと、なかなか大変だったようだ。そんな話を聞いて、私の結婚式に日本からの参加者がいないのを、半ばほっとしてみたり・・・。
2003年9月15日(月)
結婚パーティの会場はトリノ市内の和食レストランとした。
普段、日曜日は定休日なんだけど、特別に開けてもらうことに。
今日赴いて、メニューの相談。
中にはヴェジタリアンもいるので、かつおなどからとった出汁も使わないように、細かく指示しながら、彼らには特別メニュー。
大食いのイタリア人にも満足してもらえるように、前菜2皿、メイン3種類、サラダとご飯と味噌汁、そして生魚がいける人には寿司も。デザートは羊羹とアイスクリームより選択とした。
だいたい、こんなもんだろう。
2003年9月12日(金)
近くの宝石屋さんへ。
結婚指輪、結局買うことにした。やはり、記念だし。
そう話したときに、彼は私が好きなものでいい、と言っていたので、あらかじめ下見をして、シンプルながらちょっと変わった感じの指輪を選んでいたのだが、サイズを測りに来た今日、実際に指にはめてみて、ぶつぶつと文句を言い出した。
「う〜ん、あんまり好きじゃないなぁ。」
「じゃあ、どんなのがいいの?」
「そうだねぇ、こんなのどう?」
と言って、彼が差し出したのは、分厚い金の指輪。模様が掘り込んである。
私の指にはめてみると、なんだか成金のいやらしい雰囲気。
「私はいやだなぁ。それに飽きがくるわよ、こういうの。」
確かに、私が最初に選んでいたものは、彼の指には貧弱な感じがしたが、普段指輪をしないから(どんなのでも)いいよ、と言っていたんじゃないの??
それから、ああだ、こうだ、とボックスにある指輪をいじくりまわして、やっと二人が同意できるものがみつかった。
実際の場になって、やっぱり自分の好みを主張してくる辺り、よくありがちな話。
なまじ、彼も根は宝飾品好きだし、まあこれも思い出。
2003年9月8日(月)
新しい借家人と契約書を結ぶ。
ここ数ヶ月間毎週末パルマの方に来て右往左往していた問題がやっと解決して、やれやれ一安心。
ほっとしていると、昨日テレビでやっていたミス・イタリア全世界版のコンテストの話が話題に出てきた。
片親以上がイタリア人である世界中に住んでいる女の子たちのコンテストなんだが、今年は日本よりも一人参加していた。通常、アジア系の人は早い段階で脱落するんだが、なんと、彼女はベスト4まで残って大活躍。
「彼女はとっても感じがよかったわよ。逆に他の3人よりもね。エレガントだったし。」
なんて、日本人である私によいしょ、もあるんだろうが、なんとなく誇らしくなったりして。
2003年9月7日(日)
ここ数ヶ月、いろいろと問題があった借家の話がやっと片付きそうだ。
ほっとした心持で、契約書を持って、車に乗り込むと、何かがおかしい。
すぐに近くのバールの前に駐車して、見てみると、タイヤがひとつパンクしていた。
昨日からカーブを回るときなどに変な感じで、私の運転のせいというより、タイヤの空気圧がおかしいと同乗していたジュゼッペは言っていたが、パンクだったとは。
彼はテキパキとジャッキを取り出して、ポンポンとジャッキのレバーを押すと、車も簡単に上がっていった。
しかし、肝心のタイヤを固定しているねじの鍵が甘くなっていて、力を込めて回そうとするとすぐに外れてしまい、タイヤが取れない。
時間的に修理屋さんは開いていないし、どうしようもない、ということで、月曜日まで問題解決はお預け。
「今まででタイヤ交換ができなかったのは今回がはじめて」と彼は少し悔しそうな顔をしている。
ああ、だからあんなに落ち着いて処理していたのね。
2003年9月6日(土)
昨日からパルマの方に来ている。
今日は朝から屋根に登って鳩の糞の掃除。
まあ、なんてすばらしい一日の始まりなんでしょう・・・。
2003年9月4日(木)
市役所に行って、結婚に関する書類がすべて整ったか確認。
私側の書類はすでに5月に提出していたのだが、市役所が取り寄せる彼側の分が諸々の事情で遅くなり、6ヶ月はかかると言われていたところを、電話攻撃プラス弁護士のコネを使って、その6ヶ月分たまっている書類の束の1番下ではなく、上の方に入れてもらって処理してもらった結果、やっと地元の市役所まで書類が回ってきたという訳だ。それでもしっかり5ヶ月(まあ、夏休みを除けばもう少し短いか・・・)かかっているんだから、これから同じ道、離婚成立後再婚、をたどる人は離婚登録の手続きだけに1年ぐらいは覚悟ってなところだろうか。いやいや、イタリアの離婚男と結婚するのは、離婚成立までの年月を含めて、それはそれは気が長くないとやっていられない。ミラノなんぞでは、離婚者の数も多いのか、書類処理が6ヶ月どころか1年分以上たまっているらしい。
窓口で、お姉さんはにっこり微笑んで、
「やっと届きましたねぇ。では、早速公示の手配をしましょう。月曜日はちょっと忙しいですので、火曜日でいかがでしょうか。」
そう、市役所での結婚は「誰々と誰々が結婚するといっています」という公示が12日間張り出されて、誰かがそれに異議を唱えると結婚が執り行えなくなっており、その公示期間終了後、問題なければ6ヶ月以内に結婚という形をとる。
「ええ、どうぞよろしく。」
と言って、立ち去りながら、顔がにんわりとしてきた。
やっと現実的になり、正直なところほっとしたのと、なによりやはり、うれしいものだ。
ああ、結婚するんだなぁ、私。
2003年9月3日(水)
ヴィデオカメラのDVテープでとった画像をやっとコンピュータにとりこめた。
機械の相性が悪いのか、コードの接触が悪いのか、設定が悪いのか、何が悪いのかがさっぱりわからなくて、日本語のPCを持っていっても相談できる相手はいないし、ひたすら電源をつけたり消したり、コードをつけかえたり、いろいろ試しはじめて何週間たっただろう。そういうときの問題っていうのは、わかったときはとても単純なものなのだ。
私の場合は、PALとNTSCの問題だった。
PCは普通の日本国内使用、新しく日本から買って帰ったヴィデオカメラは国外用、つまりPAL。
そのことをすっかり忘れていたので、手間取ったというわけだ。
数年前、日本を出る前にあわてて購入したデジカメは国内用、海外用などと考えずに手っ取りばやく売れ筋を買っていき、こちらでテレビに接続して映すことができなくて不便をしたものだから、今回はそれを考慮して自分が普段住んでいる地での便利さを優先させた結果、自分の「おもちゃ」の間の互換性を考えなければならなくなった。
幸い、ソフトがPALとNTSC切り替え可能だったので、それこそワンクリックで問題は解決したんだが、そこに行き着くまでにずいぶんひとりで悩んだ。日本だと、近くの電気屋さんにひとっ走りで解決、でも、こちらではそうもいかない。
ついでに、PALとNTSC問題の別の好奇心が生まれてきて、手持ちのDVDで実験をしてみた。
日本で買ったDVDは当然手元PCのDVDドライブで読めるとして、こっちで買ったPAL用のDVDが読めるかどうか試したところ、なんと問題なく読めた。
PCのモニターにおける画像処理にはNTSCとPALの違いは関係ないということだろうか。
テレビに接続しているDVDプレイヤーは頑張ってマルチリージョンでNTSCとPAL両用のものを買ったので、テレビでの様子とはウチでは比較できないんだが、たしか、DVDのリージョンは日本も欧州もリージョン2で一緒の番号が使われている。
ということは、欧州に住んでいる日本人というのは、PCにおけるDVD観賞という点でラッキーということだろうか。
今度は是非、アメリカからDVDを取り寄せて、実験してみよう。
2003年8月31日(日)
ピエモンテ州北部、スイスに程近いところにあるオルタ湖に行ってきた。
緑の丘に囲まれた湖には、白い帆を立てたヨットが走り、真ん中に堂々と浮かぶ島には中世の世界がそのまま残され、そこまでにはヴェニスの水上タクシーのようなものが観光客の往来に利用されている。
かもめが空を飛び、白鳥は観光客にえさをねだる。
そんな湖畔でキュット冷えた白ワインを飲みながら昼食をとっていると、気分はモンテカルロ。
(って、モンテカルロに実際行ったことはないんだが・・・)
こんないいところに日本人がひっとりもいないなんて、不思議なもんだ。
近場で静かで落ち着いていて、観光要素も抜群、食べ物もおいしい、そしてモンテカルロより安い!
(だから!モンテカルロには実際には行ったことはないんだが・・・ちょっとしつこい?)
だいぶ得をした気分。
案内をしてくれた友人に感謝!
夜、ベランダから今話題の火星を見てみた。
トリノのちょっと郊外に大きな望遠鏡がある展望台があるんだが、電話をしてみると予約一杯で受け付けてもらえなかった。肉眼でも見えるとのことだったので、試しにみてみると、あるある。(おそらく、それらしきものが。)
ちょっと大き目の赤い星である。
南東の空にくっきりと目立っている。
一応家にある双眼鏡を出してみたが、そんなものでは何にも肉眼と代わり映えはしない。
まあ、ほんとに真っ赤なお星さま。
空想上の火星人というのは、本当に存在しているんだろうか。
なんて、ロマンチックなことを考えるより、裸足で歩みだしてしまったバルコニーの床の砂汚れの感触のほうが気になってしまったあたり、私もすっかり主婦?
明日、しっかり掃除をしよう。
2003年5月27日(火)
大ボスたちがやってきた。
話す内容は昨日の話と一緒である。
「あなたたちの就職活動にはできるだけ協力するから。」
という言葉。
私は、1時に病院にいかなくてはいけない。
観光業界のことや、私たちのビジネスケースの洗い出しなどで話が声が段々高くなってきている中、私は一人しらけて、時計ばかり見ていた。
会話の途切れに、「すみません。」と言葉をかけ、会議室を退出した。
今回の病院行きは、例の胃の検査をしたときに発見されたピロリ菌が退治されたかどうかを調べる検査のためである。
時間に遅刻すると検査は受けられない、とはっきりと予約用紙に書いてあったので、焦って病院近くまで来ると駐車場所がない!かろうじて空いているところはモロッコ人らしき人たちが場所をキープしていて、手招きされるんだが、どれだけお金をせびられるかわからないし、近寄りたくない。病院の周りを2周ほどして、やっとぎりぎり車が3分の2入るぐらいのスペースを見つける。お尻が道路に少し突き出ているが、仕方がない。
広い病院の廊下をぐるぐると突きぬけ、目的の場所にたどり着いたのは、予約時間の3分前。冷や汗ものである。
時間になると、ひとりひとり受付のために入室し、各自の机といすに座った。机を並べて、受付をしてくださった先生を眺めている姿はまるで学生時代の教室にいるような感覚だ。目の前には2本ずつ2色の試験管が試験管立てにあり、先生が各自にコップと薬袋を配りながらゆっくりと説明し始めた。
「今からみなさんにお水を配りますから、袋をやぶり、中身をコップの中で溶かしてください。しっかり溶かし終わったら、それを飲み干してください。そして、黄色いキャップのついた試験管を開けて、ストローを試験管の底までしっかり差し込み、鼻で深呼吸してから息を吐ききってください。また鼻で深呼吸して、もう一度息を吐く。2度吐き終わった人はすぐにストローを抜いて、試験管のふたを閉めてください。わかりましたか?質問がある方はどうぞ。」
みんな神妙な面持ちでコップを持ち、かき混ぜ棒で中身をかき回している。
飲んでみると、レモネードのような味がした。
しっかり息を吐ききった試験管の底には水滴ができていた。
それから数分後、今度は別の薬袋を渡され、それから30分ほど待って、別の試験管に息を吐いた。
待っている間、私は常にかばんに入っている読み物を取り出して読んでいたが、そんなに待つことを知らなかった人たちはぶーぶーと文句を言い出し、そのうち一人が自分の胃潰瘍武勇伝みたいなのを話し始めると、みんなが我も我もと自慢話を始め、知らないもの同士どころか、検査が終わったあとには、なんとなくチームメイトみたいな雰囲気さえ醸し出していた。この辺りはさすがにおしゃべり好きのイタリア人らしいところである。
結果は、1週間後。
2003年5月26日(月)
夕方5時ごろ、ボスが声をかけた。
「仕事が終わったら、ちょっと残ってね。話があるの。」
同僚とともに会議室に入ると、ボスは悲しそうな顔をしている。
「とっても残念なことを言わないといけないんだけど・・・」
会社が危機で、休眠状態にするということ。
つまり、仕事は通常通りは今月まで。
来月は就職活動に励んでもらって、給料は7月まで払う、とのことだった。
他の外の協力者たちはもうすでに切ったが、内部の私たちに払う給料のお金もない、とのこと。
これからは、創業者たちだけになって、休眠状態にし、休み明け9月ぐらいにまた様子をみる、とか。
なんとなく、うまくいっていない雰囲気だけは感じていたが、実際に言い渡されてしまうと、やはりショックなものである。
2003年5月23日(金)
パルマ行きの電車の中。
ぎりぎりにオフィスを出たので、早足で駅の中を進み、電車の座席に座ると、ぐっとのどが渇いてきた。
ジュゼッペが会社の食堂より取ってきたのか、桃とりんごをにゅっと差し出してきた。
私はティッシュペーパーをひざの上に広げ、これまたジュゼッペが差し出した折りた
たみ式のナイフを開けて皮をむき出した。
皮をむき終えて、それを差し出すと、彼は首を横に振った。
「(あ、そうなの。)」
と納得して、一人でかぶりつく。
小さいが、なかなか果汁豊かなおいしい桃だった。
勢いづいて次々とかぶりついていると、思いがけず汁がぴゅーっと隣の人の座席まで
飛んだ。
あっと思って、飛んだ先を確認すると、隣の人にはかからず、その座席の端が少し濡
れてしまった。
すぐにでも拭きたいと思ったが、手にはじゅるじゅるの桃。
まずは手元の果物を片付けてからにすることにした。
隣のおばさんはどうやら何も気づいていないようだ。
向かいに座っている連れの女の人とおしゃべりに夢中になっている。
いかにもイタリアのおばちゃんらしく、感情豊かにたわいもないことをしゃべってい
るが、幸い組んでいる足が濡れたところと反対側に向かって組まれているため、すぐ
に服を汚してしまうことはなさそうだ。
さっさと桃を片付けて、さらに手元にあるりんごをどうしようか、一瞬考えた。
ここで、ティッシュをもう一枚出してきて、飛んでしまった果汁をふき取る作業をす
ると、手元のりんごや桃のむいた皮が落ちてしまう可能性がある。
しかも、おばさんたちの会話の様子からして、果汁が飛んだことをわびながらティッ
シュの手を伸ばしたとしたら、きっと「まあ!なんてこと!!もう少しで汚れるとこ
ろだったわ!!」みたいにきゃんきゃんと騒がれるのではないか、とためらいを感じ
てしまう。ここは、しばらく様子を見ながら、よりよい機会を探ることにした。
そのままの姿勢を維持しながら、注意深くりんごの皮をむき、それを4つに割って、
半分をジュゼッペに差し出し、残り半分を食べ始めた。最後の一切れを一口かじった
ところで、おばさんが組んでいた足をほどいた。
あっと思っているうちに、おばさんは立ち上がって、頭上に置いてある荷物より何か
を取り出しているようだ。
「(チャンス!)」
と思って、残りのりんごを一気に口の中に押し込み、むいた皮をティッシュの中に丸
め込む。
「(さあ、いざ!)」
と手を伸ばそうと筋肉に動く指令を出したとたん、おばさんは勢いよくドシンと倒れ
こむように座った。
桃の果汁は、見事に洋服の下!!
しばらく、どうしようか考えた。
ここで言い出したところで、すでに果汁はない。
それどころか、楽しく会話の続きをしているおばさんにとっては、余計なお世話であ
る。
「(だまっていよう。)」
私は静かに、おばさんがせめてものジーンズをはいていたことに感謝した。
10分後、おばさんたちは、にぎやかにおしゃべりを続けながら、去っていった。
2003年5月21日(水)
市役所に結婚に必要な書類を提出。
月曜日はストで肩透かしをくらったが、今回は問題なくパス。
とはいえ、私の後、すぐに窓口は閉められてしまった。
どうやら、全職員会議があるようである。みんながあわただしく部屋から出て行く。
やれやれ、これだから早めに来てよかった。
昨日の夜、「明日の朝、市役所に行く」と話をしていると、ジュゼッペがこんな風に
はじめた。
「あっ、そうなの。だったら、市役所での結婚で指輪が必要なのか聞いてきてよ。も
し必要でないって言ったら、買わないよねぇ。」
何気なく「そうね。」と返事はしたものの、ん、まてよ、と何かが心にひっかかっ
た。
指輪って、結婚指輪のことだよな。
結婚しても結婚指輪はなし、ってこと??
「ちょっと待って。今なんて言った?どういうこと?」
「だって僕は指輪をしないしさ、必要ないって言うんだったら買うこともないんじゃ
ない。」
頭が真っ白になった。
返事に詰まっていると、
「でも、君が欲しいんだったら、何でも好きなものを見つけて買っておいで。」
いや、そうじゃなくて、私のイメージの中には、結婚に指輪というのは自然に存在し
ているもんであって、欲しいとか欲しくないとかの問題ではない。
そんなことを考えたこともなかった。
言い換えれば、指輪のことさえ、忘れていたのである。
もし、話題に出なかったら、結婚式の当日に「あっ!」ということになっていたかも
しれない。
そうなったらそうなったで、私は別にかまわない。
ただし、自分の結婚後の生活のイメージに、指輪は存在していた。
今までと生活自体は変わらないだろうが、そこに不慣れなものが薬指にある。
それを見て、「ああ、結婚したんだな。」なんて実感するのだろうか、などと想像し
ていた。
言われてみて、どうして結婚指輪が存在するのか、欲しいものなのか、必要なものな
のか、私にとってどんな意味があるのか、など、「好きなものを(勝手に)みつけ
て、買っておいで」というコメントと合わせて、考え、感じる必要を感じた。
あまりに突然の衝撃だったため、ひどく動揺した。
実際、市役所の窓口で書類を提出し、職員さんを目の前にすると、昨日は「どうして
私がそんな質問をしなきゃいけないのか。」といやな気分になっていたのを思い出し
た。まだ気持ちが整理しきれていないが、情報をひとつ増やすのもいいかもしれな
い、と思い直し、聞いてみた