2002年12月30日(月)
年末最後の週末ということで、今日もあれやこれやとやることがあった。
昨日、借家に入っている一人が新しく買ってきた洗濯機を使ったところ、配水管が排
水溝につながれていないようで、1階(日本の2階)の壁にある排水口からドドドーッ
と中庭に排水が吐き出されて、大騒ぎになった。
家を貸すときにその辺りはちゃんとしていたはずだし、実際以前その借家に住んでい
た人は問題なく洗濯機を使っていたことを思えば、配水管も設置されていたはずだ
が、どうやらその配水管があった場所付近の壁に空調のモーターの設置工事を新たに
したときに、外されたとしか想像できない。
信じられないようなことがイタリアではよく起こる。
日本でのあらゆるサービスと比べると、明らかにズボラなことが多く、工事をすると
しても、それこそ信用ならないから、自らがチェックする必要がある。
今回の工事も、おそらく空調のモーターを設置した人は配水管が邪魔だから外し、後
ほどつなげ直すつもりでいたのだと思う。それで、モーターを設置し終えて、きれい
に収まったモーターを見てすっかり満足して、配水管のことは忘れ去ってしまったん
だろう。こういうタイプは本当に多い。
こっちがそれに気がつかなかったのも悪いが、あったはずの配水管をもう一度買い、
それを設置する手間が余計にかかるというのがその結果だ。本当に踏んだりけった
り。
壁にはあらゆる管が這っている。
フレックスなパイプを使用できるのであれば設置も簡単であるが、屋外で熱湯にも寒
さにも耐えられるものでないといけないわけだから、かっちりとしたパイプである。
大元の排水溝につながっている配水管の口まで、大雑把に長さを図って近くの店で、
パイプやらあらゆる角度に曲がった接続パイプや、それを固定する器具などを適当に
見繕ってもらう。それらをもって、実際に壁の上で組み立ててみるんだが、すでにあ
る管を避けながら、目的地まで到達させるのはなかなか難しい。接続パイプをいろい
ろ組み合わせながら結局は予定していたラインと違うラインをたどり、もっと長いパ
イプが必要になった。午後に再び店が開いてから、必要がなかった接続パイプを返
し、もっと長いパイプと交換してお勘定。13ユーロ。
地元のよく知っている店だから、先に部品を適当に渡してもらって、必要なものだけ
買い取るなんていうこともできるのがありがたいが、配管工事まで自分でするように
なるなんて、イタリアに来る前の自分では想像もできなかったことだ。
昨日のアイロンのコードの状態が気になったので、これもまたコードのみ買ってきて
付け替えた。古いコードについていたプラグは捨てずに、リサイクル。ちょうど古い
延長コードも状態が悪かったので、これも自作。イタリアには2種類のプラグ形式が
混在しているが、どちらでも仕えるメスのマルチプラグと延長コード8メートルほど
買ってきて、そこにアイロンからリサイクルしたオスのプラグを繋げる。これで、配
管を壁に固定するドリル作業に使える。
ジュゼッペのおかげで、いろいろなことを経験させてもらえ、訓練されたので、この
手の作業は何の躊躇もなくお手伝いできるようになった。はしごに登るどころか、屋
根にまでちょいちょいと上がることもある。そのうち家回りのことは何でもこなす便
利屋になるんだろうな。
2002年12月29日(日)
この時期は食べて・食べて・食べてであるのがイタリアの習慣だが、今日の夕食後あまりにお腹が一杯になって、じっとしているのも苦しいので、アイロンがけを始めた。
古いものを大事に使うのはいいが、イーリスに出してもらったアイロンは、水蒸気の出る穴はカルキで詰まっているし、コードは切れそうになって電線がむき出しになっている部分があり、非常に危険な状態だ。しかも、温度調節のつまみもブロックされ最高温度に設定されたまま動かない。
ままよ、と温度が上がりきる前に私の化学繊維のブラウスに軽く触れてみた。その瞬間にジュッと生地が溶けてしまった。
うう、ショック!
軽く触れただけなのに、あっという間に、大きな穴。
エレガントな赤いお気に入りのブラウスだっただけに、余計に残念。
我が家のアイロンでは、最高温度でもこんなことは起こらないのに、どうやらここのアイロンは種類が違うようだ。
とても重いし、表面がアルミニウムでできているようだ。
温度の伝わりが非常によくて、高温になるので、木綿のものなどは非常に簡単にアイロンがけができたが、それ以降、木綿以外のものには気をつけたにもかかわらず、それでもうっかり溶けかけてしまったものがアイロンの表面にこびりついてしまい、その汚れが落ちない。手入れが簡単な我が家のステンレスのものとはずいぶん勝手が違う。
ブラウス1枚だめにして、お勉強をさせてもらった。
2002年12月26日(木)
クリスマスは当日とその前後の日も祝日。今日はサント・ステファノという日。
彼の両親の家にいるが、今日は彼らの孫もやってきて、にぎやかに家族が集った。
やはり孫がいるとおじいちゃんおばあちゃんはハッスルするもんだが、おばあちゃんはどうやら仲間入りをするのがおじいちゃんより苦手のようだ。
カードで遊びだしたみんなの輪には入らず、自分の場所を求めてというか、自然と台所に行って、孫のためにケーキを焼き、次の食事の準備をいそいそと始めた。
何か手伝おうと私も台所に入っていったのだが、「みんなの相手をしておいで」と体よく追い出され、あまり主張しすぎるのもよくないかと思って一旦引き下がったんだが、おばあちゃんが一人で働いているのを放っておくのもいい気がしないので、横に座って話し相手になりながら、やらせてくれる範囲で手伝いをしていた。
リヴィングでワーッと歓声が上がると、おばあちゃんも聞き耳を立ててそれに反応していた。若い人がいるというのは、はやり雰囲気が華やぐ。
ゲームの合間に孫や息子は入れ代り立ち代り台所に顔を出し、どんな様子なのか見に来る。でも、おじいちゃんだけは来ない。食事の用意もケーキも焼きあがった。普段ならおばあちゃんのことを気遣いながら、共同作業ですべてをやっているおじいちゃんは、今日孫を目の前にして興奮して、すっかりおばあちゃんのことを忘れてしまったようだ。
「ほら、ごらん。フェルナンドに何も言わずにケーキも焼けてしまったよ。普段は私ひとりにやらせないからね。『どうして知らせなかったんだ!』って後で言われるかしら?ふふふ。」
「聞いたかい、あのうれしそうな声。みんながフェルナンドに勝たせてあげているのにね、気がつかないのかしら。」
「さてと、すべて準備OK。ケーキもとってもきれいに焼けて、いい匂いがしているのに、フェルナンドは一度も顔を覗かせないねー。きっと私のことすっかり忘れているのよ。ひどいわ。」
おばあちゃん、すっかりしょげている。
ゲームからみんな解散したようで、やっとフェルナンドが顔を出したが、ケーキのことに何のコメントもしない。孫たちとの遊びにすっかり満足し、ニコニコとしている様子におばあちゃん、
「自分の近くのことばかり見て、周りのこと見えていないのね。ケーキ焼いちゃったの、気がつかないの!」
「ああ、このケーキ。前回準備しておいた生地を使ったの??」
「違うわよ、小麦粉をふるうところから、卵を混ぜるのも全部今やったの!今、私が全部やったの!」
「ああ、そう。でも生地は前回のが残っていたんだからそれを使えばよかったのに。」
「そんなこと、忘れていたわ。もう焼いちゃったんだから遅いわよ。」
「まあ、いいんじゃない。」
なんていう会話が私の頭上で交わされていた。
77歳になっても、いつまでもかわいいおばあちゃん。
今もこれからもおじいちゃんとラヴラヴだね。
2002年12月20日(金)
かかりつけの医者では金曜日は午前中のみ開業している。
しかし、今日の午後2時に胃のサンプルの検査結果を聞かなければいけないので、それを待つことにした。
午後2時になり、おもむろに電話する。
結果、陽性。
つまり、ウィルスがいる、ということだ。
このまま放っておくと、やっぱりよくないんだよなぁ、などと思いながら、クリスマス前最後の仕事の日ながら、なかなか集中できない。
考えれば考えるほど、胃が痛くなるような気さえした。
来週よりパルマのほうに行くため、医者に行くのは年明けか。
結果を知ってしまった以上、このまま放っておくのはあんまりいい気はしないが、今まで半年以上も放っておいたのだから、10日ほど経ったからといってそうそう変わるものでもないだろう。
気にはなるが、予定を変える気もないところが、私らしいとでもいうか・・・。
同僚は、「コーヒーも、辛いのも、だめよ。ワインも控えめに。」などと言ってくれる。
コーヒーは我慢できるが、ワインを控えるのはつらい。
医者に「だめだ」と言われていないし(まだ行っていないからなんだが)、まあいいやと夕食時にやはり飲んでしまった。
2002年12月19日(木)
今日、胃カメラを飲んだ。
半年以上もしつこく胃の痛みが続き、時折医者に胃薬を処方してもらっていたが、一向に直る様子がないので、実際に見てみる気になったわけだ。
イタリアでは、まず普通はかかりつけの医者に行く。
ここでの診察は無料。
そこで薬を処方してもらったり、他の医者にかかる診断を書いてもらう。
薬は町の薬局で買う。
問題は他の医者にかかるときだ。
町の保険所に行って、そこでその予約を行うわけだが、大抵1ヶ月ぐらいは待たされる。
今回の胃カメラの検査では、一番近い病院で受けようと思えば4ヶ月待ち。そこまで気長になる気もなかったため、2つほど町を越えたところの病院で2ヶ月待ちというのを選択。
それからというもの、相変わらず胃は痛いし、胃カメラ検査とはどのようなものなのか想像しては、びくびくとしていた。
カメラなんだから、箱みたいなのがコードにくっついているんだろうか。
きっと痛いだろうから、暴れないようにベルトみたいなので体を固定されるのだろうか。
飲み込むのはなんとかなったとしても、検査後カメラを取り出すときにのどにひっかかるんじゃないだろうか。
予約をしたときの注意書きに、できれば同伴者と一緒に来ることが望ましいとか、その日は車の運転をしないように、とかあるから、強い麻酔を打たれるのだろうか。
などなど。
さて、当日。
初めて行く病院だから、少し早めに家を出た。
30分ほど予約時間より早くついて、受付に予約用紙を出すと、
「ああ、タケダさんですか。昨日お電話したのですが、どなたもいらっしゃらなくて・・・」
いやな予感がした。
病院内がいやに静かで、待っていた他の患者曰く、今日は医者がストをしているらしい。
「予約いただいた時間はちょっと都合が悪くなったので、ご連絡申し上げたかったのですが、早めにいらっしゃったので、ちょっと先生方の様子を見てきます。」
受付の窓の後ろでも、待合室の他の人たちも、私のことをジロジロと見ている。
どうやら、この町では外国人が病院に来るのは珍しいことなのだろうか。
待つこと、ほんの5分。
先生方がまだいらっしゃったようで、すぐに呼ばれた。
「イタリア語わかりますか?」
と不安げな助手さんに、勢いよくうなずくと、ほっと安心したように説明をしだした。
検査を受けることを了承する旨の書類にサインをし、口を開けるように言われる。のどにシュッシュとスプレーをかけられた。
どうやらこれが麻酔らしい。
無味無臭。
飲み込んで、10秒後ぐらい、すぐに麻酔が効いてきているのを感じた。
のどが腫れて、扁桃腺にかかったのと似たような感覚だ。
首に涎掛けみたいなのをかけられ、そのまま診察台に横になった。
目の前にモニターなどがセットされた台が引っ張り出されてきて、黒いチューブみたいなものを見た。
口先にプラスチックのじょうろみたいなのを突っ込まれ、何の前触れもなく、いきなりチューブを口に入れられた。
できるだけ協力しようと、のどの奥へ移動するのを意識しながら、こみ上げる吐き気をこらえていたが、それでも2度ほどゲーッと吐きそうになると、助手さんが私の背中をぽんぽんたたきながら、
「はい、いい子にしていてねぇ。」
と言うのだが、自然作用のようなもので、なかなか自分で止めるのは難しい。
チューブはどんどん内部に入り込んでいった。
麻酔のせいもあって、よだれがだらだらと出てくる。
モニターには、きれいなピンク色の肉の壁が見えていた。
苦しいながらも、自分の肉体の内部を見ているという滅多にない機会に興奮してモニターを見続けた。
昨日の夜中から水分含め何も飲食していないので、当たり前のことだが、胃の中は空っぽのようだ。自分ののどや胃の内部がこのようにきれいなピンク色なことにちょっと安心した。一瞬だが、黄色く変色している部分が見えた。
あっと思ったが、カメラはどんどん移動し、そして、入っていくときに苦労したのとは対照的に、するりと口の中からチューブが抜かれた。
正味5分もなかったんじゃないだろうか。
終わってみれば、あっという間の検査であった。
助手さんに気分はどうかと聞かれたが、どうってことはない。
渡されたガーゼで口の周りを拭きながら1分ほどそのまま横になっていたが、すぐに起き上がれた。
結局何がわかったのか、一刻も早く知りたかったので、先生に話しかける。
「先生、モニターで見てみて、どうでした?」
「そうね。潰瘍があるけど、他の部分はきれいなもんだよ。」
横から助手が
「先生がすべてを診断書に書いてくださるから、安心しなさい。」
とぴしゃりとさえぎった。
もし、これがイタリア人患者であれば、きっとおしゃべりを続けるのだろうけど、まあいいやと黙って診断書をコンピュータに向かって書いている先生の様子を見ていた。
しかし、よく考えてみたら、たとえ麻酔がかかっていても、しゃべれるようだ。
しゃべるのにのどの筋肉って使わないのかな、などととりとめもなく考えながら待っていたが、どうやらプリンタの調子が悪いらしく、助手は私に待合室で待つように言った。
10分ほどして、助手が私を手招きした。
診断書とずらずらっと並べて書かれた薬の処方箋を渡され、小さなビンを顔の前にかざしながら、
「胃の中からサンプルをとりました。ウィルスがいるかどうか検査しますので、明日の午後2時にここに電話して、結果をこの診断書のこの欄に書き込んでください。」
帰りの車の中、診断書を読んでみる。
知らない単語がたくさんだ。
しかし、どうやら5mmほどの潰瘍が2つほどあるらしい。
家の近くまでくると、のどの麻酔もほとんど取れた。
お腹がすいたが、もう少しの我慢だ。
あと1時間ほどで軽い昼ごはんを用意しよう。
2002年12月10日(火)
イタリア国有鉄道から小切手が届いた。
一体何の小切手なのか記憶をめぐらせてみると、なんと、昨年の11月にした電車遅滞によって乗り損ねた特急料金の返金申請に対するものだった。
そんなもの、申請した本人も忘れていたが、7ユーロと59セント。
1年以上もかかったことも驚きだが、うやむやにされずにちゃんと処理されたことのほうがびっくりだったりして。
2002年12月7日(土)
新聞の添付として、今日から毎週世界の料理本シリーズの販売が始まった。
第1回目は和食。初回ということで、2.5ユーロ。次回からは5ユーロとなる。
先週、この広告を見た友人がこのことを私に知らせてくれて、たった2.5ユーロで豊富な写真つきということなので、試しに買ってみた。
実際手にとってみると、しっかりとしたハードカバー。
写真も広告どおりたくさんあって、手順を追って説明してくれているなかなか親切な料理本である。
日本の地理、食文化、四季などの説明があって、さらに食べ物、食材、調味料、台所道具のミニ単語帳付。使われている写真も、正しい日本のものを扱っており、中国のものなどが混じったような怪しげな雰囲気はない。
では、和食といえば、どんなものを紹介してあるのか、列記してみる。
・ 寿司(太巻き)
・ かつおのたたき
・ すき焼き
・ てんぷら
・ 親子丼
・ 豚のしょうが焼き
・ 魚の照り焼き
・ 肉団子
・ 肉じゃが
・ 鴨南蛮
・ 鶏丸ときゅうりのスープ
・ コロッケ
・ 鮭のから揚げ
・ じゃがいも饅頭
このうち、ぱっとイメージの浮かばないものといえば、鶏ときゅうりのスープとじゃがいも饅頭。
スープのほうは、似たようなものを食べたことがあるんだろうけど、特に名前がなかったんじゃないだろうか。ちなみに、ローマ字でTori-Gan Kyuri Supu-Jilateとあるのだが、Jilateて何?
内容をみると、鶏がらと昆布でスープをとっているようだが、Jilateが日本語でどう書くのかがわからない。
から揚げもKarageと書かれており、一瞬「?」と思ったが、イタリア人風に「カラーゲ」と発音してやっとわかったぐらい。から揚げはKaraageと表記してほしかったな(笑)。
じゃがいもの饅頭とは、湯がいたじゃがいもを裏ごしして団子状にし、中にえびを詰めて蒸したもの。ほぉぉ、こんな風には食べたことがなかったな。
とまあ、こんな感じで、和食ってたって地方によって味付けなどもいろいろ違ってくるが、これがイタリア人から見た代表的な和食ということらしい。(おそらく日本人の監修は入っているだろうけど。)おそらくイタリアでも作れることを意識した選択だとは思うが。
しばらくこれで遊ばせてもらおう。
2002年12月3日(火)
今日のリスニングの授業でディクション、つまり発声法に関するテープを聞いた。
標準語のイタリア語で書かれたテクストをミラノ、ローマ、シチリア出身の人がそれぞれ読んでみて、その違いを感じるというものだ。
方言ではない。
あくまで、「イタリア語」である。
しかし、かなりの違いがあった。
今まで発声法を意識したことはなかった。
自分の中では、イントネーションと方言における、各人の話し方の違いによって出身地方がわかると思っていたが、発声法そのものに方言の影響が出るという、考えてみたら当たり前のことがとても新鮮だった。
日本とイタリアにおける「なまり」の位置付け違いも面白い。
大阪弁はお笑い文化のようなものとして受け入れられるから別格としても、東京に地方から出てきた人たちはバカにされまいとして自分たちの「なまり」をかくす傾向が日本にはある。
多くの日本人が、なまりと標準語をそれほど苦労せず使い分けられる。私も地元以外の人がいるときは自然と標準語になり、関西出身だとは思われずに会話に参加していることもある。
学校でしっかりと標準語の発声法を習った記憶はほとんどないのだが(発声法で気を使ったのは音楽の時間ぐらい)、アナウンサーはじめ、しっかり標準語をしゃべっている人が身の回りにたくさんいることも含め、標準語教育というのは、日本では行き届いているのかもしれない。
イタリアでは日本よりなまり文化が強い。
アナウンサーが標準語の発声法で話すようになったのも、戦後まもなくしてかららしいから、まだ50年ほどの歴史しかないということだ。
中学校の先生をしている友人曰く、演劇関係の人が発声法について教える時間というのがほんの少しだが一応あるらしい。しかし、こんなことが始まったのも最近のことで、多くのイタリア人はなまりで話す先生にイタリア語を教わったことになる。
しかも、日本と違って、なまりでしゃべることに罪悪感を全く覚えていない。というより、正式な発声法を実践したことがない人が多い。聞く分には問題ないが、自分で話せないということだ。
しつこいようだが、方言ではない。
外国人である私が何かを質問すると、標準語で答えてくれる人たちはたくさんいる。
しかし、聞きにくいのは、標準語をなまりでもって話している場合である。
たとえば、場所を聞きたくて質問したら、「xx stazione(スタツィオーネ=駅)はここを右に曲がったところ」と説明してくれるのだが、これがミラノでは「xxstasione (スタスィオーネ)」と聞こえ、ローマでは「xx stazzione (スタッツィオーネ)」となるわけである。
まあ、この例では自分で想像できる範疇にある音声なので、あまりいい例ではないな。
では、同じくsとzのこのケースではどうだろうか。
「助けて、助けて!ここに気違いがいる! Aiuto, aiuto! C’e’ un pazzo!」
気違いというのがpazzo(パッツォ)。このzがsになって聞こえると、passo(パッソ)。こうなると「助けて、助けて!ここに通路がある!」という意味に聞こえてしまう。(ちょっと無理してこじつけ?)
とまあ、こんな風にsとz以外にも、開いたeと閉じたeなど、微妙ななまりというのがイントネーションも混じって存在していて、学校でもなまり矯正は盛んでないため、トリノでイタリア語を学んでいる私たちは自然とトリノ風のなまりでしゃべっていることになるのだ。
2002年11月30日(土)
北野武監督の「ドールズ」を見に行った。
北野映画はこれで「菊次郎の夏」に続いて、2度目。
それほど関心があるわけではないが、日本人が撮った映画で普通に上映されているのがたまたま北野映画なだけである。
それでも、日本のものがなつかしくて、学校の先生から上映の情報をもらったときは、さすがにうきうきとした。
とはいっても、日本のように字幕ではなく、吹き替え。
オリジナルを見たわけではないので実際はどうなのか知らないが、若い男同士くぐもった声で「よぉ」とか挨拶しているに違いない場面で、「チャオ」という音声が聞こえてくるのには参ってしまう。
日本でも最近は映画館上映の分でも、吹き替えが見直されてきているなどという記事を読んだことがあるが、私は字幕派である。
なんといっても、オリジナルの俳優の声が聞きたいし、原語で内容がわかるとうれしいものだ。
吹き替えの得点は、速いスピードで流れる字幕を追わなくていいことと、字幕の字数制限よりゆるやかだから、細かいところまで内容を訳せるというところだろうか。
ストーリーの展開が速くて、台詞がぽんぽん出てくるような映画なら、確かに吹き替えのいい面が生かされるが、今回の「ドールズ」のような、ほとんど台詞がなく、展開がゆっくりな映画は、できれば字幕にしてほしい・・・と日本人の私は特に思う。
なんといっても、日本人の顔した人が、いかにも西欧人っぽい太い声で台詞を言うのに、しっくりこない。
イタリア人の中にも、日本人みたいにのどで発声している人はいるのに、またどうしてよりによってああいう声質の人を選ぶのだろうか。
声優の中に、ちょうどいい人がいなかったのだろうか。
それとも、イタリア人の感覚では、ああいうのがどういう場面であってもいいのだろうか。
まあ、顔が売れている俳優ではないし、似たような声というのを意識する必要は低かったのかもしれないが。
でも、ひとつだけ膝ポンものがあった。
やくざの親分が昔の恋人から手渡されたお弁当を開けて、言った台詞が、
「コミンチョ。Comincio.」
つまり、「いただきます。」というのがオリジナルだと思うが、これに相当するイタリア語がない。「ブオナペティート Buon appetito」という食事を始める際の決まり文句があるが、こちらは訳せば「よい食欲を」、つまり、「たっぷり召し上がれ」といった感じになるので、「いただきます」とはちょっと違う。
そこで、訳者さんは「コミンチョ」つまり、「(食べ)始めます」という言葉でその雰囲気を表したわけだ。なるほど。
内容的には、ぱっと見からして、ずいぶん色使いを意識しているのがわかる。
派手な色の組み合わせがありありで、特に赤色が印象的な使われ方をしていた。
日本の男と女の間の恋愛や結婚の価値観について、人形浄瑠璃の一場面に掛け合わせて、それぞれの生き様を描いていたが、その描き方もとても直接的。
見ていて、迷うところがないというか、監督が表現したかったことがはっきり表れた、わかりやすい映画であった。
ただし、日本の価値観について描いているので、その背景を知っている人と知らない人とでは理解に差があるかもしれない。
先生が私とこの映画について話したがっていたのは、このせいもあるだろう。
次回の授業のときに、話してみよう。
2002年11月24日(日)
最近、雨続きである。
晴れたら、ちょうど行われているワインの試飲会にでも行こうと思っていたが、なんとなく鬱陶しくなって、ずっと家にいた。
せっかくなので、クリスマスツリーの飾り付けを行った。
以前は本物のもみの木を買ってきて飾ったこともあったが、葉が落ちてくるし、毎年木を切られるというのに何となく気が進まなくて、プラスチックの模型ツリーを買ってきた。
組み立てて、形を整えてみると、なかなか本物に近い雰囲気がある。
飾り物を収納した箱を引っ張り出してきて、ひとつひとつ丁寧に取り出す。
薄紙をがさがさと開けると、なつかしいガラスの繊細な飾り。
下のほうからは、自分たちの手作りのクルミの実の飾りもたくさん出てきた。
クルミの飾り作りは、簡単である。
きれいに割れた殻にひもの輪を通して再び接着剤でつける。
それだけである。
中に1セント硬貨を入れたり、上から色を塗ったり、あとは遊び心次第。
思い出に浸りながら、ひとつひとつ飾っていくのは、楽しい作業である。
別にキリスト教に帰依したわけではないが、お祭りごととして純粋に楽しめる作業である。
言ってみれば、女の子がウキウキしながらひな祭りのお人形をひとつひとつ出して飾る作業に似ている。
クリスマスで宗教色の強い飾りといえば、プレゼーペというキリスト降誕の場を人形などで再現した飾りがあって、カトリックの総本山、ヴァティカン市国でもこれがメインで飾られている。このミニチュアの道具も凝りだしたらきりがないほど精巧にできたもの、表情豊かな人形、など見ていて飽きないが、自分で飾るのであれば、やはりクリスマスツリーのほうが、いろいろな難しいことを考えずに、単純に楽しめる。
蚤の市で見つけたものやら、もらったもの、手作りのもの。
ばらばらな品揃えなだけあって、豪華ではないが、出来上がってみると、色とりどりのもみの木。そんなに悪い見栄えじゃない。
点滅ランプをつけてみて、しばらくうっとりと見惚れていた。
2002年11月20日(水)
私が働いているオフィスは、ちょっと洒落た建物の中にある。
自分の首の高さにある鍵穴に鍵を突っ込んで、4メートルぐらいある表門を開けると、中庭へとぬける大きなホールが広がる。そのうちのひとつの棟に素敵なすりガラスで模様が描かれた扉をさらに鍵で開けて入ると、吹き抜けのスペースにエレベータが設置されている。
そのホールの周りに階段が張り巡らされ、その階段の裏側にそれまた美しい模様が描かれていて、鉄の網でできているエレベータのレールを通しても、下から風景が楽しめる。
エレベータの扉はもちろん手動式で、木とガラスでできたこの箱の中には赤い布が張られているベンチがあって座れるようになっている。
私が知っている中で、このエレベータホールはトリノで一番美しい。
たまにエレベータが故障するので、3階(日本でいう4階)にあるオフィスまで階段で上がるのだが、それぞれの階の天上が高いので、段数が多い分、上まで上がると息が切れる。そのことまで配慮されている(?)のか、階段の踊り場のコーナーにも三角ベンチが配置されているのはご愛嬌・・・。
オフィスの各窓とバルコニーに出る扉には雨戸があるのだが、古い建物らしく、ここでは日本のように引き戸式である。
左右の戸袋から、引っ張り出してくる時に、時折妙なものが室内に紛れ込んでくる。
今日の仕事が終わって、扉を閉めかけたときに、頭の上を黒いものが飛んだ。
びっくりして身をよけると、床にこうもりが転がっているのを見つけた。
戸袋のすきまにどうやら潜んでいたらしいところを、危うくぺっしゃんこにするところであったといったところだろうか。
本物のこうもりを明かりの下で身近に見たのは、実はこれがはじめて。
気味が悪いものである。
目をつぶって、うずくまっているが、こんなところで死んでもらっても困る。
仕方がないので、箒を持ってきて、とりあえずバルコニーまで出そうと軽く触れると、正気づいたのか、こうもりはびっくりしたようにあわてて飛び去っていった。
「もう、びっくりしたのはこっちのほうだ!」
とか、ぶつぶつつぶやきながら、扉を閉めた。
まあ、今回は無事飛び去ってくれてよかった。
以前、似たような状況で落ちてきたのは、雛鳥(鳩?)だったが、どうやら弱っていたらしく、箒でこっそり押しても動かないのだ。
それでも、気持ちが悪いので、バルコニーの方向へ追い立てようとしたのだが、隙を見せると室内のほうへ向かって這った。なんとか外まで押しやって、どこかに行ってくれることを願いながら扉を閉めたのだが、なかなか動かず、仕事中気になって何度もガラスを覗き込んではため息をついていた。
その雛鳥は、その日中、バルコニー上を右往左往這っていたが、決してどこかへ飛び去ってはくれなかった。
明日、そのまま死んでいたら気味が悪いが、まだ死んだわけではないし、バルコニーからつき落とすのも殺動物行為につながるし、扉を開けると中に入りたがるが、箒でブロックしながらすばやく雨戸を閉めた。
翌日、祈る思いで出勤してくると、同僚が意味ありげなウィンクをした。
「(もしかして・・・)」
と、あわてて扉のほうへ行くと、どうやらどこかへ飛び去ったらしく、姿が消えていた。
「いないんだったら、先に言ってよね!」
なんて同僚を小突きながらも、ほっと一息。
戸袋には、日本でも苦い経験がある。
まだ私が小さかったころのことだが、実家の雨戸を閉めようと戸袋の小窓を開けて手を突っ込むと、何か冷たいものが触れた。
飛び上がって身を引くと、何かがいた。
暗いコーナーに目をこらすと、蛇らしきものがいた。
キャーキャーいいながら、みんながいるところまで逃げていった、といったものだ
そのときのぞくっとした感覚を、まさかイタリアでも味わうとは。
歴史ある美しい建物の中の、これまた美しいオフィスで働くのに、得意になるときもあるが、この予期せぬ気色悪い遭遇だけは、ごめん被りたい。
2002年11月19日(火)
今日の授業で、ちょっとした言葉遊びをした。
簡単な一文を作り、その中に都市名を単語と単語の間に忍ばせて、それを当てるといったものだ。クラスを2つのグループに分け、それぞれが考えた問題を出題して、隠れた都市名とその州名を正しく答えた得点で競ったわけだが、問題を考えることを含め、単純なようでなかなか熱中できるゲームである。いかに不自然でない文を作文できるか、みんなで頭を絞った。
音声だけではさすがになかなか難しいので、グループを代表して一人が黒板に問題を筆記した。わがチームからは、きれいな文字を書くということで、日本人の友人が立った。
彼女は教科書どおりの見事な筆記体で、丁寧に書いていた。
よく言われることだが、アルファベットを普段使っている人より、日本人のほうがきれいに文字を書くことが多い。なぐり書く人が少ないのと、習ったままきっちりと形をなぞるケースをよく見る。
私は恥ずかしながら、それには当てはまらず、みみずが這ったような文字をふにゃふにゃと書いてしまうのだが、西欧人がスラスラと書いた「悪筆」の方がもっと読みづらくて苦労した経験も多いので、いつ頃からかブロック体で書くようになった。
筆記体の学習はどうやらすべての国で行われるようではなく、ブロック体からかけ離れた形をした筆記体の文字を読めない人たちがいた。「習字」は日本では必須であったが、他の国では趣味の分野なのかもしれない。
久々にみる美しい筆記体に影響されて、自分も練習問題を解きながら、問題文から筆記体でノートに書き出してみた。
何年ぶりだろうか。
ペンがぎこちなく動き、なかなかスムーズに書けない。
mの山の頭が4つなったり、iでつなげるところが微妙に浮いたり、なかなか難しいものである。
普段は悪筆の私も、筆記体を習った当時はよく練習したので、多少なりともまともに書けるつもりでいたが、時間とともにそのスキルも落ちることがわかり、軽く動揺した。
そういえば、最近はキーボードばかりたたいて書いているので、手書きの機会さえ減っている。漢字が自分で書けなくなるだけでなく、文字を書く作業自体に手の筋肉がしなやかに動かなくなる。習字は継続しないと技が落ちるのは、日本語だけじゃないんだなぁ、なんて妙に感心してしまった。
2002年11月13日(水)
今日はめずらしいことがひとつ。
毎日バスに乗っているので、バスの中の情景というのを書き出したら本が一冊できてしまうほどネタがあるが、今日の分はポジティヴなこと。
いつものようにバスに乗っていると、停留所でもないのに、交差点を渡ったところでバスが止まった。運転手が扉を開け、交差点の信号待ちをしていたイタリア人のおばさんたちに声をかけた。
「気をつけてください。男の子たちがかばんから財布を盗もうとしていますよ。」
そういわれて、おばさんたちはすぐにかばんをチェックしはじめた。
そのそばで、男の子たちは言葉がわからないのか、何が起こっているのかわからなかったのか、何事もないかのように立っていた。実際には盗みはまだ成立していなかったようで、おばさんたちも何のことだかよく飲み込めなかったようだ。
「ほら、あなたの横のその男の子たちですよ。」
と運転手が畳み掛けると、ちょうどバスの中に私服警官がひとりいたようで、
「どの子たちですか。ああ、あそこのですね。ちょっと待っていてください。」
といって降りていき、警察官バッチを見せながら、男の子たちに注意していたようだ。
実際にどんな言葉をかけたのか、わからなかったが、最初男の子たちは知らぬ顔で通そうとしていたが、うるさく言うので、すたこらと逃げ出した。
たった30秒ぐらいのことだったが、その警官が再びバスに乗りこみ、出発した。
バス内でスリの被害に会う人も多いせいか、文句を言う人はひとりもおらず、「警官が乗り合わせていてちょうどよかった。」「まだ盗まれていなかったんだねぇ。よかったね。」などと好意的な発言を安堵のため息と共にしていた。
こんな運転手もいたんだねぇ。
2002年10月31日(木)
木曜日は書く授業の日。
今日は各自が前回書いた「外国人からみたイタリア」という文章の文法ミス説明とその文章の発表だった。
普段思うところがあるような扱いを受けるようなことも多々あるだけあって、みんな熱がこもった演説をぶっていた。
一番多かったテーマというのは、やはり外国人だからというだけで不当な扱いを受けたことについてだったが、EUとその他先進国出身の人とそれ以外の国から来た人との意見の温度差が面白かった。
イタリア語では外国人というと、大体2種類に分けられる。
EU域内の人とそれ以外の人。
それ以外の人のことをエクストラコムニターリ、ずばりEU域外人という言葉がある。
私のような日本人、他アメリカ人などのG8に参加しているような国の人は、準EU国みたいな感じで取り扱われるが、有色人種、また同じ白い肌の人でも東欧諸国から来た人たちは、同じ手続きをするのにも何倍もの苦労をする。
笑い事でないが、思わず笑ってしまった笑い話のひとつ。
ポーランドから来た女の子なのだが、外国人局に問い合わせのために訪れると、まず「EU域外の人ですか?」ときかれ、そうだと答えると、別の担当者との訪問予約をとらされたそうだ。改めてその日に戻ってくると、引き合わされた担当者はイタリア語も英語も、もちろんポーランド語もしゃべれない人だったそうだ。どうやらその担当者はブルガリア人のようであったが、どういうことかと前回担当してくれた人に問いただすと、「EU域外の人なんだから、同じでしょう。きっとあなたの役にたつと思って・・・」などと答えたらしい。
他にもこの「エクストラコムニターリ」というだけで、不利な立場に立たされることを切々と訴えている人がたくさんいたが、アメリカ人の生徒の一人が、これはイタリアだけが外国人をそのように扱うのではなく、基本的に自然な人間性のひとつという説を唱えた。つまりは、自分の文化とずいぶん違う人たちが自分たちに近づいてくるということは、恐れを生み出すということだ。アメリカは移民受け入れの経験が長いだけに、見方がクールというか、私は素直に「ふぅん。それもそうだねぇ。」なんてのん気に考えていると、東欧諸国出身の生徒たちが猛反発。
「アメリカ人やドイツなどのEU諸国の人たちはいいわよ。まともな人間扱いを受けるんだから。ハンガリー出身と言っただけで『貧しい人たちが、私たちの国へ流れてきた』という先入観でみられるんだから。」
などと噛み付いた。
それに対する別のアメリカ人の応対が面白かった。
「じゃあ言わせてもらうけど、私はアメリカ人だからということで、世の悪いことはすべて私たちのせいにされるのよ。特に9.11以降は!」
これも、笑い事じゃないけど、目からうろこが落ちた。
みんなが一様に同意したことは、イタリアではイタリアの外の国に対する関心が非常に低いということだ。
外国語がしゃべれる人が非常に少ない上に、学校でも実際にイタリアのことばかりを習うらしい。私が日本では諸外国のことを扱ったクイズ番組などがたくさんあって、学校教育以外にも外国の(特にアメリカ中心ではあるけれども)情報があふれている、と指摘してみた。続いて、イタリア滞在歴の長い日本のお母さん生徒が、日本は歴史的に昔は中国や韓国から、明治の文明開化でも、アメリカやヨーロッパから文化を吸収しようとやっきになってやった背景がある。しかし、イタリア人は自分たちの国をひどく愛し、それで満足しているので、外に目が向かないのではないか、とも発言し、みんな首を縦にふっていた。
確かに、食べ物はおいしいし、時間はゆったり流れていて、人生楽しんで生きているし、建築や芸術の世界でも、世界中の人たちをうならせるものを身近にごろごろと持っているイタリア人だから、自分たちの国や文化に誇りを持つのもよくわかる。
外国語をしゃべる人が少ないことについて、イタリア人のお母さん生徒が
「ムッソリーニのファシズム時代に、外国語での地名をイタリア語に直させたり、つまりはイタリア語でイタリアの授業をすることを学校に強制したせいもあると思うわ。」
などと発言すると、
「スロヴァキアでも共産主義時代はロシア語の学習を強制されました。でも、その他の言語も歴史も広く学習しました。それに、もう50年以上もたっていて、その影響だけでこの状況は説明できないと思うわ。」
「そうよね。私たちの母国語を使う人なんて、世界中でほんの少しですもの。外国語を勉強せずにはやっていけないわ。」
「それだったら、イタリア語も同じことじゃない。使っているのはイタリアだけなんだから。」
「いや、イタリアは私たちの国より恵まれているから、そんなことは気にしなくてもいいのよ。」
などと反論などが出てきて、ますますヒートアップ。
そこで先生がひとこと。
イタリアは歴史的に外国へ移民していくことばかりで、外から入ってくる人を受け入れるようになってから、まだ日が浅い。だから、どうやって対応すればいいのか、みんなが戸惑っている面がまだまだある、と一応釈明。
あーだこーだと議論が白熱したが、結局イタリア人はイタリアが一番だと思っている、というのが一番の原因だと思う。
それと比べると、日本は「外国人になりたい」願望を持っている若者なんかが多かったりして、ずいぶん違う雰囲気だ。外から学習する能力は高く評価するけれど、イタリアほどとは言わないから、愛国心を持つような教育も大事なんじゃないかぁ、とちょっと寂しさを感じてしまった。
2002年10月20日(日)
昨日、鯖が特価だったので買ってみた。
そして、昨日はみそ煮、今日は酢締めで食べてみた。
われながらなかなか美味しかった。
これで、ちょっと料理上手の母に少しでも近づいた気分になった。
以前にも言ったことだが、私は包丁を使うのが苦手である。
それは、使ってこなかったからなんだけど、手を切るのがこわいというのが一番の理由。
だから、ものを切るときは必ずまな板を使う。
皮をむくときぐらいは空中で包丁を動かすが、それをそのまま自分の手の上で切るというのは今でも苦手だ。
これは包丁の種類にもよると思う。
日本の台所で一般的に使われている包丁はよく切れて、大きい。
だから、自分のように手の小さい人が、それを自分の手の上で操るには不都合なのである。
その点、テーブルナイフであれば、小回りがきく大きさで、たとえ刃が指に当たっただけで皮膚が切れてしまうようなこともない。
たまたまなのかどうかはわからないが、友人や同僚のうちに食事に呼ばれたときに見た感じでは、このテーブルナイフを使って料理をしている人が意外に多い。
もちろん、「ちゃんとした」ナイフもあるのだが、これが一番使いやすいということなのだろうか。
さらに、まな板を使う場面も異様に少ない。
ちょっとしたものは手の上で切っているし、やわらかいものなどはお皿の上で片付けている。不思議に思って、同僚に一度どうしてまな板を使わないのか聞いてみたことがある。彼女はまな板を出してきて、いかにも「さあ料理をするぞ」という雰囲気があんまり好きじゃないし、今のスタイルで不自由がないから、ということだった。
まな板って、あんまりありがたがられていないのかなぁ、などと思いながら、一昔前にはやった料理の鉄人の番組を思い出していた。海外のゲストと鉄人が勝負して、そのコックが自分をアピールするパフォーマンスで、なんとまな板の上に土足で上がったのだ。
私もちょっとぎょっとしたが、鉄人があとで「神聖なまな板の上に土足で上がるなんて、信じられない!」と半ば怒ってコメントしていた場面があった。
そういえば、彼の実家ではまな板は台所の床の上に直接、壁に立てかける感じで置いてある。もちろん台所の床は毎日拭いて掃除しているが、その上を土足で歩いている生活をしているのだから、心情的にできればシンクの上などに移動してほしいと思う。そんなことを気にしているのはきっと私だけなんだろうな。
魚料理から包丁の話へと展開したのもなぜかというと、今回再び3枚おろしに挑戦したからだ。以前やったときは、見事に身がぼろぼろになって失敗した。
それで、「やっぱり私は包丁使いが下手くそなんだ」とちょっとコンプレックスを抱いていた。で、今回は思い切ってよく切れる包丁を出してきて、ためらわずに一気に引いてやってみたら、案外難しくなかった。
以前失敗したのは、私のせいではなく、包丁のせいだったことがわかって、ちょっとうれしい。
これで、魚料理のレパートリーが、丸ごとグリルやから揚げから、少し広がった。
2002年10月19日(土)
今日は快晴だ。
久々にマッダレーナ公園に散歩に行きたくなり、下の階に住んでいるロベルトおじいちゃんと犬のチャーリーを誘って、トリノ郊外の丘の上のこの公園まで車を飛ばした。
ゆったりとしたのぼりの道、頂上まで45分ぐらい。
落ち葉を踏みしめながら、木々の間を歩くのは気持ちがいい。
空気がひんやりとしていた。
世界中を旅したロベルトがジュゼッペにその思い出話を熱く語っているのを横で聞きながら、私は足元に落ちているいがぐりを棒でいじくりながら、栗を拾っていった。
あちらこちらに落ちているので、その気になれば買い物袋いっぱいぐらいはすぐに集まる。去年は公園に詳しい人に教えてもらった場所で、特に大きい実ばかり選んで拾って、焼いて食べたものだ。今日拾ったものは、それらより少し小ぶりだ。殻をむく手間を考えると、これを食べるのはあまり賢明な判断ではない。10個ぐらい拾って、それ以上はやめておいた。
ロベルトはどうやら彼の話を本にしたいようだ。
彼ならきっと面白い話が書けるだろう。
ぺらぺらぺらぺら、しゃべりだしたらとまらない。
それをデジタル化するお手伝いをすることになった。
つまり、彼の話をコンピュータに入力する作業を私たちが担当することになった。彼は協力者ができてうれしくなったようで、さらにぺらぺらぺらぺら。
すっかり本が売れたような気になったロベルトは、そのお金でまたどこかへ旅するぞ、などとしゃべっている。
「ちょっと待った!まずは、話の内容を記録してちょうだい。」
と諭す私たちの話はまったく耳に入らないようだった。
2002年10月11日(金)
延長した滞在許可書があがってきているかどうか、外国人局まで行ってみた。申請してから言われたとおり40日経ったからだ。
去年は30日ぐらいで出来上がっていたのに、さらに数日が伸びているというのはそれだけ移民が増えているのだろうか、ただ単に役所の怠慢度がひどくなっただけか。
同時期に滞在許可書を延長したローマの友人は、新しい法律がすでに施行されていた、と言っていた。つまり、今回より外国人は指紋をとられる、といったものだ。
彼女曰く、指10本だけでなく、手の上のほう、下のほう、髪や目の色、刺青があるかどうかなどなど、かなり細かくデータをとられたそうだ。
犯罪防止のためとはいえ、指紋をとられるのは個人的にあまり気分のいいものではない。
しかも、犯罪を犯すような人たちは、大体正規に滞在許可書など取得せず、何気ない顔して暮らしている人も多い。どれだけ効果があがるかも疑問である。
私は過去1度指紋をとられたことがある。
実家にどろぼうが入ったからだ。
警察に行って、黒いインク台みたいなものに指を乗せ、紙の上に各指ぐるりと押さえつけられて指紋をとった。
しっかり模様がでるようにだろうが、他人に指をぐいっと押さえつけられ、真っ黒になった自分の手を見て、なんだか罰せられているような気がした。
また、そのインクが普通に手を洗ったぐらいでは取れないような特殊なインクで、いや〜な気分になったのをよく覚えている。
さらに、その警察官はおせっかいにも、
「きれいな指紋ですねぇ。お手伝いなど全然していないんじゃないですか。」
などと余計なコメントを母に向かって言っていた。
当時、中学生ぐらいだっただろうか。
今回もあんなことをさせられるのかも、と重い気分で室内に入ると、警察官のおじさんがゆったりとタバコをふかして、隣の部屋の方を指差した。
隣の部屋に行ってみると、今度はお姉ちゃんたちがおしゃべりを携帯電話を交えてしていた。
「それでねぇ。エリーザの彼ったら・・・クックック。」
私の姿は目に入っているだろうに、誰もカウンターに近づいてこようとしない。
まったくもう・・・と思いながら、
「スミマセン!滞在許可書を取りに来ました!!」
と声を張り上げると、やっと近くにいたお姉さんが腰を上げ、私の顔を見て一言。
「あなた、午前中にこなきゃだめよ。」
「えっ、私、日本人ですけど、他のEU諸国と一緒の午後じゃないのですか?」
ひょっと肩をすぼめながら、隣の同僚に、
「日本人は午後なの?」
なんて聞いている。
私はイライラしながら、彼女たちの間抜けな対応にじっと我慢していた。
後ろの机にずらりと滞在許可書が並んでいるのが見える。
でも、もし、このお姉ちゃんたちのご機嫌を損ねて、午前中に来なくてはならなくなると、それこそ地獄。過去2度した8時間待ちをしないといけない。
EUとアメリカと日本がありがたくも午後の対応になったのに、それをこのお姉ちゃんたちは知らないとでも言うのだろうか。
私の書類はすでにあの机の上にあるというのに。
「確か、日本人は午後でいいのよ。」
「じゃあだれが午前なの。」
「中国人よ。」
やれやれ、といった感じで、お姉ちゃんは私が差し出した控えの紙を持って、机の前に行った。私の書類を束の中から引き抜き、カウンターに引き取り台帳を引っ張り出しながら、また他のお姉ちゃんたちのおしゃべりに参加しだした。
私はその上にそそくさとサインし、「さようなら」と挨拶をして退出した。
お姉ちゃんたちは、そんなことはお構いなしに楽しそうに笑い声を上げていた。
私にとって、とても大事な滞在許可書。
それを無事に入手できたのだから、これで終わり。
何も文句はないはずだけど。
だけど、だけど。
このわだかまりは、外国人にしかわからないだろうな。
おっと、そういえば、指紋をとられなかったな。
対応時間帯も把握していないぐらいだから、法の施行がトリノで徹底されるのもあと数ヶ月ぐらいかかるのだろうか。
もう、笑うしかない。
2002年10月9日(水)
今日から暖房が始まった。
朝起きたら、ラジエーターが暖かくなっていた。
もう肌寒くなってずいぶんたつので、やっとセントラルヒーティングが始まって、うれしい。
近所の郵便局でも私を対応してくれたお姉さんが、「今日からは暖房が入ったから、少しはマシになるわね。」と喜んでいた。
オフィスでも、寒がりの同僚がラジエーターの前でお昼休みの間へばりついていた。
みんな待っていたんだなぁ、という感じ。
イタリアでは暖房使用期間について一応法律がある。
詳しくは知らないが、いつからいつまで、何時から何時まで、といったことが決まっているらしい。
もちろん南北に長い国なので、例外はある。
アルプス上にあるヴァレ・ダオスタ州などはきっともっと早い時期から暖房も入っているだろう。逆に、アフリカに果てしなく近いシチリアなどは暖房の試用期間も短いものだと思う。実際のところは知らないが。
我が家は古いコンドミニウムなので、セントラルヒーティング。つまりどっぷりこの法律に従っている。夜は11時を過ぎると暖房が切られるので、寒くて夜更かしには向かない。お陰で基本的には夜型人間の私も、冬の間は早くにベッドにもぐりこむことになる。
寒さについては人それぞれ感度も違うわけだから、なんとも不便な法律だと思う。
エネルギー節約というアイデアはいいことだが、多少の融通が利かないとね。
実際、最近の傾向としては、それぞれが好きなときに暖房をつけられるシステムが好まれる方向のようだ。
そのうち、「今日から暖房が入ったね!」とみんなでうなずくような季節風物詩的な状況もなくなってしまうのかもしれない。
2002年10月5日(土)
午前中に諸々の用事を済ませ、午後は家でゆっくりしていた。
男どもは出かけているし、私の目の前の女どもはみな、暖炉近くのソファで軽く居眠りをしているようだ。
私は、ノートPCのふたを閉め、散歩に行ってくる、とメモを残し出かけた。
パルマ郊外のここは、田舎で、なだらかな丘陵地帯が目の前一面にある。
丘の上には車で行ったほうがよさそうなので、丘の下のコースをたどることにした。
テクテクと車道を歩いていくと、両脇の奥のフィールドで大型の耕作機械がウンウンと音をたてて動いていた。たまに車が通過するぐらいで、人っ子ひとりもいなかった。
農家のひとつの柵より、雄鶏が5羽の雌鶏を従えて、道の端まで出てきた。
「おお〜、すごいハーレム状態だねー。」
なんてつぶやきながら、さらに道を進む。
30分ぐらい歩いただろうか、運動靴ではなくパンプスだったので、砂利がところどこにある車道に足の指が痛くなってきた。
車が1台通過した。
日が傾き、人家もないところをひとりで歩いていると、少しさびしくなってきた。
そんな時、先日母が言っていた台詞が頭を突いた。
「北朝鮮への拉致問題知ってる?大の男10人がかりでさらったそうよ。気をつけてね。」
今私がいるような状況は絶好のチャンスみたいなものだ。
まあ、拉致はないとしても、追い剥ぎに会うかもしれない。
「(しまった!かばんにIDやら財布やら入ったまま持ってきてしまった!!)」
ただの散歩にそんなものを持っていく必要もないのに、なんで持ってきてしまったんだろう。自分で勝手にひやひやしながら歩いていると、後ろから車が1台すっと近づいてきた。
「(ひゃっ!)」
として振り返ると、道を尋ねられた。
「私は土地の者ではありません。」
と答えると、改めて私の顔を見た男の子は、
「そりゃごもっとも。どうもありがとう。」
と納得して去っていった。
「(私は、アホや。こんなところを歩いているんだから道ぐらい聞かれるよな。)」
などと思い直して、歩いてきた道を見返してみた。
引き返すのと、このままぐるりと道なりに歩いていくのとでは同じような距離だ。
そのまま歩いていくことにした。
上り坂になり、足取りも重くなってきた。
もう1時間ぐらい歩いている。
どこかに座れるような場所を探してみたが、見つからなかった。
坂を上りきると、家がいくつか建っていた。
塀の中から、私のにおいをかぎつけた犬がワンワンと吠え出した。
庭先でお茶していたおばさんたちも私のほうへちらりと視線を向けた。
なんとなく、ほっとしている自分がいた。
まっすぐ続いているその道で、コンクリートの配水管を道路に埋めている人に出会った。
「こんばんは。」
なんとなく親しみを感じて、挨拶を交わした。
それから余裕が戻ってきて、野草を楽しみながらさらに、30分ぐらい。
足が棒になりながら、家に到着。
男性陣も家に戻っていた。
気分転換に散歩に出かけて、一人で勝手にひやひやと想像しながら、くたくたになって帰ってきた。
バカだよなぁ、とひっそりひとりで笑った。
2002年10月4日(金)
10月よりトリノ周辺ではバスの料金が値上がりした。
新しい切符は、全面にトリノの町のイラストが描かれており、ずいぶんと華やかな感じになった。しかし、サービス自体はちっとも改善されていない。相変わらず時間通りに来ないし、来たと思えば、同じ番号のバスが前後に連なっていたり、プラスチックの座席のすわり心地はとっても悪い。これから寒くなる時期、あのひんやりした感覚がいやだ。
今週末、パルマに里帰りしてきて、パルマ駅よりバスの切符を買った。
こちらでは値上がりしていなかった。
バスは市営なため、地域によって運営方法が違うわけだ。
バスに乗り込み、改めて中を見回してみた。
まずは座席のすわり心地がよい。赤色の革が張られており、ずり落ちることもなく、クッションの具合もちょうどいい。
座席の数が多い。若者の私も安心して座っていられる。
エンジン音が静かだ。
軽く空調がきいている。
サスペンションの具合がいいのか、滑らかに路上を動いている。
扉も滑らかに開く。
などなど。
すっかり満足して窓からすれ違うバスを見ていると、正面にMANと書かれてあった。
MANは確かドイツのメーカーだったのではないか。
トリノではIVECO製が使われている。
FIATのお膝もとで、当然といえば当然だが、FIATグループのものだ。
IVECOでも新式のものはエンジン音が静かで、滑らかに走るものもある。
にしても、道のど真ん中でエンジントラブルで立ち往生しているバスを見かける機会が、いや、自分がそれに乗り合わせる機会も多々あることを思えば、性能は?マークである。
座席には、布が張り付けてあって、ずれ落ちることはなくなったが、耐久性のない生地なのか、すでにほつれているものも多く見苦しい。
しかも、進行方向に背を向けて設置してある座席が多く、そこに座っているとなんとなく不快である。
たまに来るだけのパルマだから、いいところばかり目に付くのかもしれない。
でも、毎日使うバスだから、できれば快適なものをどんどん導入してほしいと、思ってしまう。
2002年9月28日(土)
6時30分。ミュンヘン中央駅に到着。
なつかしい駅の風景。
昨日のミラノ中央駅と比べると、明らかにすっきりとしたデザイン。シンプルで機能的。いかにもドイツらしい。とても清掃が行き届いている。
駅のコーナーのひとつが飲食コーナーとして改装されていた。明るい照明の下、クロワッサンとコーヒーを頼んだ。
出てきたコーヒーは、ジャンボカップになみなみと注がれており、飲んでみると、
まっまずい・・・。なんなんだ、この水でのばしたようなコーヒーは!
そうだった。ドイツではコーヒーはこんな味だった。
すっかりドイツに到着したことを実感。
朝食で一息ついて、駅の中を少し散策。
さすが、オクトーバフェストの期間だけあって、酔っ払ってハイになっている人たちも多い。身長の高い若い男の子のグループとすれ違いざまに、げーーっぷ、とすごい音を聞かされた。おおっ、この大胆さ!素朴な無神経さ!まさにドイツ!!
待合室では、いすから床の上まで、ぐてっとなって寝ている人で一杯。これまたすごい雰囲気だ。
早速退散して、友人に電話をかけるべく移動。
公衆電話の近くには、タッチパネルでインターネットサーフィンができるような台が壁から突き出ていた。こんなところもやはりドイツっぽい。
数年前のテレホンカードを電話に突っ込んでみたが、やはり使用不可だった。マルクからユーロにも変わったし、だめだろうとは思っていたが・・・。
キオスクで新しいカードを買い、友人に電話。まだ起きたての友人とは1時間後に会おうということで、またふらふらと構内を歩いていると、2度もコインを拾った。
そうなのだ。ドイツではコインが落ちているんだよね。
イタリアでは全くといっていいほど落ちていない。つまりは見つけた人がすぐに拾ってしまうからだろうと思う。その点、ドイツ人はおおらかなのか、ほとんどの人が気がつかないようだ。ケチな私は、以前に住んでいたときもよくコインを拾ったものだった。たまにお札まで頂戴したこともある。(おいおい、ちゃんと交番に持っていけよ、ってか?)
地下鉄とバスを使って友人宅へ。
イタリアと違って、比較的時間に正確だし、乗り換えもすぐそば。コネクションもスムーズ。こういう無駄のなさがドイツの魅力だ。
荷物を降ろし、ソファに落ち着くと、頭がふらふらとしてきた。
昨日暑くてあまり眠れなかったのがきっと原因だろう。
友人が台湾で買ったというグリーン・オイルを試すように、渡してくれた。
指先で軽く額にのばし、しばらくするとはっかのようなすっきりとした感覚がじわじわと広がり、うそのように気分がよくなった。
説明書をみると、他に腹痛、頭痛、虫さされ、やけど、かゆみ、筋肉痛などに効くそうだ。ほんの少し塗っただけで効果が表れる、万能薬のようなものだ。私がしきりに感心していると、お土産だとしてくれた。ほんの3センチほどの小瓶。これからよい旅のお供になってくれそうだ。
頭がすっきりしたところで、軽く腹ごしらえ。
出来合いのポテトサラダとハムのステーキというインスタントフードながら、しっかりビールを飲む。
ビールを飲むのは久々だ。
たまにピッツァ屋で飲むこともあるが、あれはビールではない。
色がビールらしいだけで、おいしいと思ったことはない。
それに比べ、このコク。
ハムと甘めのマスタードという組み合わせとばっちりだ。
オクトーバフェストに行く前からぐびぐびといった。
会場周辺からすごい人だかりだ。
日本人の姿もよくみかける。
昨日までとはうって変わって快晴の日、世界中からワイワイ集まってきた感じだ。
遊園地の絶叫マシンなどの横を通過しながら、目指すは観覧車。
すぐに順番が回ってきた。
なかなか機能的に人の列を裁き、きっと3周ぐらいで終わるだろうと思ったら、6週ぐらい回ってくれた。ちょうど乗車客の交代をするときに、自分のかごが頂上に達し、しばらく止まる。絶好のシャッターチャンスだ。
ありのように群がっている会場一杯の人を見下ろしながら、ミュンヘンの町並みをも眺める。なかなかいい眺めだ。
空気が涼やかで、何か温かいものが飲みたくなった。
ビールという気分ではなかったので、ホットワインと菓子パンを頼んだ。ホットワインとともに毎年違うデザインのカップがついてくる。5種類の中から気に入ったカップを選ぶ。これもいい思い出だ。
お酒の燗と一緒で、寒いときに暖かいワインは体の芯から温める。
すっかりほかほかになって、いい気分で人ごみの中を歩く。
ビアホールの前で友人の友人と待ち合わせをしていたが、待っている間も人の波にもまれる。あいにくビアホールの扉は閉ざされたままだ。というのも、午前中に入った人たちでホールの収容人数いっぱいになっているからだ。そうとは知らずに後から後から人は押し寄せ、引き返す人と鉢合わせ、さらに千鳥足の人とも合わさって、足を踏まれないようにするのが精一杯。1時間近く待ってみたが、扉は開かないし、友人は来ないし、人ごみに酔ってくるし、退散することにした。
思えば、年を重ねるごとにビアホールに入るのがますます難しくなってきているような気がする。以前来た時も、取引先の会社の升まで招待されたりしたから場所取りにも苦労しなかったが、タイミングよく来ないと入りにくかったことを思い出した。人・人・人で、気楽にビールを楽しむこともできなくなり、別の地元の友人はもう何年も顔を出していないとか。その気持ちもよくわかる。
街中のある広場までくると、何か催し物をしていた。気分を変えて、ここでビールを楽しむことにする。どうやらロシア語でバンドが楽器など鳴らしているが、日の光も弱くなり、ビールを飲んでいると余計に寒くなってきた。早々に退散。
家に戻ると、ビールとホットワインが混ざって、猛烈に眠くなってきた。
私も友人もお互いに理解したようで、それぞれ1時間ほど仮眠する。
一休みしてすっきりしたところで、お腹はあまり空いていないので、軽くトマトソースのスパゲッティを作る。友人がとっておきの南アフリカのワインを開けてくれた。
濃厚なワインだった。
イタリアでは普段軽めのワインばかりを飲んでいるので、こんなしっかりしたワインは久々だ。友人とおしゃべりしながら、あっという間に1本開けてしまった。
ケーブルテレビより、友人は気を利かせて英語のチャンネルをつけてくれた。CNNのいかにもアメリカンな巻き舌を聞いていると、なんだか頭がくらくらしてきて、明日に備えて眠ることにした。
ほんと、こんなに食べて、飲んで、寝て、食べて、飲んで、寝ての1日は久々だった。
さぞかし、胃袋もびっくりしていることだろう。
2002年9月27日(金)
久々にドイツ、ミュンヘンへ。
有名なビール祭り、オクトーバフェストの時期に合わせて、友人に会いに行くことになった。
ミュンヘンは、以前ここで暮らし、働いていたこともあって、特別になつかしい。たった2日間の週末旅行だが、うれしくてたまらない。
今回は夜行列車で行くことにしたのだが、もうすでに行きのクシェットは予約一杯で、仕方なく一等の寝台ワゴン。これまた、初めてのことで、ワクワクした。
自分のワゴンに入ってみると、そこにはベッドが2台。クシェットと比べると、しっかりシングルサイズのベッドで、腰かけてみても頭が天井につかえることもなく、ゆったりだ。早速木製のしっかりしたハンガーにコートをかけて、自分は上段のベッドを使うことにした。部屋のコーナーに鏡があり、その下の台のふたを開けると、それは洗面台だった。トイレ以外は外に出なくても用が足せるようになっていた。木製のそのふたを閉めると、洗面台ともわからないような、おしゃれなつくりで、簡易机にもなる。電気のコンセントもあり、ちゃっかりデジカメのバッテリーを充電させてもらった。
鏡を開けると、そこにはタオルと石鹸と飲料用水。洗面台からの水は手を洗うようであって、飲むな、と表示があった。
ワゴンの中は暑かった。
エアコンもあるにはあるのだが、まったくきかなかった。
2002年9月23日(月)
新学期の学校の登録に行ってきた。
ここは、滞在許可書をちゃんと持ってさえいれば、無料で授業が受けられる外国人専門の学校である。
それこそ、国籍もばらばらであれば、年齢もティーンエイジャーから60代あたりの方まで。学生、主婦、会社員、肉体労働者、難民ボートで渡ってきた人たちまでいる。
初めてこの学校へ来たころ、いろんな意味で刺激をたくさん受け、毎回の授業ごとに大変興奮した。いろいろな言語でしゃべる人たちが一緒にイタリア語を勉強すると、やはりお国柄というのが出てくる。日本人はたいてい文法には強いが、発言力は非常に弱い。一方で、ぺらぺらとしゃべれているのに、単純な文法がまったく理解できない人。(あんなに繰り返し説明しているのに、どうして理解できないのか、ほんとうに理解できない。ある程度のことならばすぐにわかる日本人というのは、やはり学校教育が行き届いているといえるだろうか。)こういう人たちが同じクラスにいるところを教えるというのは、本当に大変なことだと思う。文法か、オーラルか。どちらに重点をおいても、誰かしらがつまらなく思ってしまう。初期レヴェルを教えるのが一番難しい。
少しレヴェルがあがると、それぞれのお国事情を発表したりして、授業にも色が出てくる。
日本にいるとアフリカやアラブあたりは疎遠で、ほとんど情報が入ってこないけれど、宗教のことやら、習慣、食べ物、結婚観など、いろいろな地域の様子が聞けるのは非常に楽しい。
去年は美術の授業が試験的に取り込まれ、絵画や建築のほんのさわりだけだが、教えを受け、仕上げは美術館めぐり。これが好評だったので、今年はもう少ししっかりとプロジェクトを組むつもりだと、聞いた。とても楽しみだ。
もう3年目になる私と先生方とは、よく知った仲ではあるが、登録時にクラス分けテストがある。初期レヴェルのクラスは出入りが激しいが、レヴェルがあがるにつれ、メンバーがほぼ固まってくる。このメンバーがなぜか毎年戻ってくるので、きっとまた同じクラスだろうと、よって先生との軽い面談で終わるのでないか、などと思っていたら、しっかり聞き・読み・書きの試験を受けさせられた。ボールペンさえ持っていっていなかったので、先生の机から拝借したら、「もう、あなたときたら、学校にペンなしで来るなんて!」と早速お小言。こういう雰囲気が好きだ。
2002年9月22日(日)
トリノとミラノの間、ヴィルチェッリ郊外の小さな町のお米祭りに行ってきた。
秋になると各地で収穫祭りが行われる。たいていその町のお城の中庭や広場などで、飲んで食べて生演奏つきのおしゃれでグルメなフェスタとなる。
当然、私もしっかり食べるつもりでちゃんと朝食を控えていった。が、大変な人だかりに待った割にはこぶし大のリゾットやお米のサラダしかもらえず、ちょっと期待はずれ。一緒にいたイタリア南部出身の友人曰く、「南部の祭りではもっと気前がいいから、バンバン盛ってくれるけど、さっすが北部はケチだ。」なのだそうだ。どうやら南部では収穫祭という農作業の区切りをみんなで祭るといった色彩が濃いらしく、一方北部は社会的というより商業的とでも言えるだろうか。
それでも、ワインをぐびぐび飲みながら、水辺近くの木陰のテーブルで日曜日の午後を友人と過ごすというのは、なんとも贅沢な休日だ。
お米以外にもいろいろな珍味が並べられ、せっかくなのですべてのテントをまわることにした。ちょうど仲間にグルメでリッチさんがひとりおり、彼が行く先々でいろいろ質問して名刺を集め、気に入ったものを買っていっている横で、試食も頼みやすく、ラッキーであった。たとえ一口ずつであったとしても、ハム、サラミ、チーズ、お米のクッキー、お米のグリシーニ、オリーブのペースト、チョコレート、ケーキなどなど数多くの種類を食べていくうちに自然とお腹もいっぱいに。カロリーもたいへんなものだろうから、夕食は控えねば。
一番の珍味として、今回初めてかたつむりのサラミを食べた。
通常のサラミのようなくさみがほとんどなく、淡白な味わいだが、こりこりっと歯ごたえがあり、「ああ、いかにもかたつむり」といった食感。(とかいいながら、かたつむり自体を食べたのは今回が初めてだが。)あっさりしているので飽きがこない。色が白っぽく、まだらであり、きれいだとは言えないが、なかなか美味であった。
最後の仕上げに、「姑の舌」と呼ばれるピエモンテ州特産のせんべいのようなパンのペペロンチーノ風味の分を買った。そのせいか、名前も「悪魔の舌」と名づけられていた。
この「姑の舌」とは長〜い舌のような形状で、薄っぺらいのでさくさくっとしたパンの一種である。姑とは嫁やら若い者をつかまえてはくどくどと言うということで、こんな名称をつけられているらしい。
私が一袋買っているときに、横にいたおばさんがしゃべりかけてきた。
「私は確かに姑の立場にいるのだけど、そんなに説教をしたり、文句をつけたりなんてしないのよ。嫁ともとっても仲良くしているし。なのに『姑の舌』だなんて、ひどい名前よね。」
こちらとしては、思わず肩をすくめてみせるしかなかったが、本心では、「(そうやって言っているあなたも立派に舌が長いんじゃない?もし黙っていることができるんだったらね・・・。)」なんて、ちょっと意地悪に思ってしまった。
2002年9月21日(土)
ジャスミンのつたの伸びるのが早すぎるので、柵を手作り。ただ上に伸ばすのではなく、左右ジグザグにして、高さを抑える。
小植物の図鑑を見つけ、思わず購入。
散歩をしながらみかける植物のこと、食材の残りから芽が生えてきて、現在成長中のレモン、アヴォカド、にんにく、生姜などをどうして育ててやったらいいのか、などなど知りたくて、ずっと心の中にひっかかっていた、やっと納得のできる本。うれし。
2002年9月14日(土)
彼の両親のお買い物のお供をした。
フェルナンド(彼の父)はフランチェスコ(彼の息子)がいるとウキウキしすぎて、ガソリンスタンドで40ユーロ分給油を試み(多すぎだって!タンクに入らない)、自動車エンジンふかしすぎ!スピード100キロ!!
80歳こえて、現役で運転できているのはとっても喜ばしいことだけど、運動神経の衰えのことも考えて、年齢相応の運転をしてほしいところだが、久々に会う孫にいい刺激をうけて、自分のいいところを見せようという気持ちもよくわかる。「私が運転しましょうか?」という台詞を思わず飲み込んだ。
おじいちゃんのハッスルぶりにさすがに不安そうなおばあちゃんに、「帰りは僕が運転するよ。」なんて耳打ちしている息子。おいおい、やっと路上教習始めたばかりの無免許なことわかってるのか、なんて思いながら、「さあ、帰るぞ!」と満面笑顔のフェルナンドから結局誰もキーを奪えず。
「あそこの家はわしの友人の・・・」
なんて余裕のわき見運転、センターラインをオーヴァーするハンドルをそっと引っ張るフランチェスコ。私が運転するって、やっぱり言えないワナ。
パルマで友人とピッツァの昼食。
久々に日本語で思いっきりしゃべれて気分すっきり。母国語がやはり一番!
明日結婚式に参加するため美容院で髪をセットする友人に、興味津津でついていった。
セットももちろん、そこがどのように髪をカットするのか見てみたかったからだ。
こちらで髪を切ってもらって満足したことがない。
日本の美容師のように「きっちりと」カットをしてくれないからだ。
ただ「カット」というといきなり髪を濡らさずハサミを入れ始めたりというのは序の口、櫛できれいに髪をそぎ分けてから少しずつ切っていくこともなく、大雑把にクリップで髪をかきあげて、それこそ本当に無造作にパサパサ切っていくなんていうのもアリ。
イタリア人の髪質であれば、それでもいけるのかもしれないが、日本人の髪はやっぱり違う。切ってもらった当日は様になっていても、3日もすればもうすでに崩れてくる。自分を満足させる美容院を探すのは本当に骨の折れることなのだ。
洗髪も非常に苦痛である。
いすをリクライニングさせることなく、洗面台の正面が頭分だけへっこんだところに自ら頭を入れ、心持後ろに反り返る。当然顔にタオルをかけてくれるようなこともないので、シャンプーの泡が、乱雑にかけるシャワーのしずくが顔にかかる。何より洗面台の端が肩に当たって痛いし、姿勢を維持させるために首がつりそうにもなる。洗髪後の方のマッサージなんていかにも日本的なサービスなんか、想像することもできないに違いない。
これが、地元の安美容院だけでなく、たとえどんな高級なカリスマ美容室でもこうなのだ。
もし、日本のみなさんが享受している「眠ってしまいたくなるぐらい気持ちのいい洗髪」というのをこっちで実施したら、もうかるだろうか・・・などと考えてしまう。
友人の短い髪を苦労してセットしていく美容師さんの様子を観察しながら、他の人をカットしている美容師の様子も探ってみた。おお、友人の言っていた通り、櫛でそぎ分けているじゃないか!感心感心。
これでパルマに来たときはどこに行けばいいのか知ることができて、うれしくなった。
いやいや、実りの多い週末であった。
2002年9月13日(金)
今日は半ドンで、彼の里、パルマへ。
2ヶ月前ぐらいに施行された、主要幹線道路では昼間でも常にヘッドライトをつけること、というルールを守っているのは高速道路でも半分ぐらい。警察は1ヶ月の猶予期間をもって、その後は厳しく取り締まるなどといっていたくせに、そんな様子は一向に見えない。さすがイタリアだ。
日本でもどこかの運送関係の会社が全車にライト常時点灯を義務付けたら事故が減ったなどというニュースを読んだな。確かにそんな効果があるのかもしれないが、こちらで事故を減らそうと思ったら、まず運転免許証の保持を確認するのがある程度有効な気がする。
街中を運転していても、「えっ?そんなのあり?」という運転ぶりをよく見かける。
一番左のレーンにいる車が、その右側にいるわれわれ2台の車の前を急に通って右折するなんていうのはしょっちゅうで、太い白線で停止ラインがあっても、ブレーキを踏むことなく突っ込んできて、優先道路から先に入ってきた車に向かって「どうして俺の前に割り込んでくるんだよ!」と言わんばかりにブッブーと鳴らす。
日本でいうキープレフト、こっちではキープライトということになるのだが、みんながみんな早く行こうとせっかちなせいか、どちらかといえば道路の中央から左側に車がたまりやすい。そこを腕に覚えのある(?あくまで自己評価だが。)ドライヴァーは右側から追い越しをするわけだ。右側は特に要注意だ。
まあ、そういう荒い運転をする人が多いイタリアにやってきた移民たちは見よう見まねで覚えたに違いない。さらにヘンテコリンな感じで走っている。免許など取りに行くはずもなく、無免許ながら車を買って転がしている移民たちはたくさんいる。
警察官さんよ、パトカーの中でコンビ組んでいる人とのおしゃべりに夢中になるばっかりじゃなくて、ちゃんとお仕事してね。
2002年9月11日(水)
明日の午後は仕事ができないので少しでも片付けようとして、帰りが遅くなった。
停留所にも人はまばらで、そのバスには男性ひとりしかいなかったが、私のバスの番号には違いないので私も乗り込んだ。次の停留所でその男性が降り、私ひとりになった。
運転手はおもむろにバスの番号をガラガラと変えだした。
「おやっ?」と思ったが、別に降りろとも言われないし、そのままおとなしくしていた。ちょうど信号も赤で停まった次の停留所で、ある男の人が「このバスはいったいどこ行きなんだ?」といったジェスチャーをしたので、運転手が扉を開ける。でも、「あっちに行くのか?」「そうだ。」といった簡単な会話が交わされただけで、誰も入ってこない。その男の人は私を不審そうに眺めただけで、バスを見送った。おかしいなと思ったが、運転手が私に何も言わない以上、おとなしく座っていた。
いくら各停留所に人がまばらだとはいえ、そこから通過するすべての停留所で停まらない。
「おや、まるで私のための貸し切りバスだな。これで早く帰れるからラッキー」なんてふてぶてしくも思いながら、さすがに少し不安になり、もしかして、私の存在が忘れられているのだろうか、バックミラーに私の姿が入っていないのだろうか、と想像してみたが、ルートはいつも通りだ。家には近づいているのだから、何か言われるまで座っていようと思いなおす。それから20分後ぐらい、運転手はおもむろに、「次で降りるんだよ。」と私に言った。
家までのルート、ちょうど3分の2ぐらいいったところの停留所だった。
それでわかった。
このバスは車庫行きだったのだ。
すぐ目の前に車庫がある。
暗い停留所に1人残され、まわりを見回す。ぱらぱらと通過する人たちが心なしか私のことを不振げに見ているような気がして不安げに待つこと20分。次に来たバスも車庫に入るためにブーブー言う乗客の残っていた数人を降ろした。
歩いて去る人、迎えを呼んだ人などがいなくなり、結局そこにはおばさんが1人、お兄さんが1人、そして私。それぞれあきらめたように、ぽつんと離れてしばらく待ってみた。
「(もう9時前だ。ジュゼッペに一応連絡を入れよう。)」
と家まで電話する。
私が軽く事情を説明すると、すぐに迎えに行くと言って彼は電話を切った。
まもなく到着した車に乗り込んで、暗闇で緊張していた気分が少しほぐれる。そんな気持ちを見透かすかのように言われてしまった。
「夜は昼間普通の人でも変わることがある。どうしてこんな時間になってしまったの?」
「・・・仕事の区切りがつくまでやっていたら、あっという間に時間がたってしまって・・・それに、バスが連続して車庫行きだなんて、まったくアンラッキーよね。」
「この時間ならそれもアリだな。マサコも時間が来たらさっさと帰る訓練をしなきゃね。残った仕事は明日少し早めに出てすればいい。それでも残れと言われるの?そこまで言われるだけの扱いを受けてる?よく考えてごらん。『ごめん、家に帰らなきゃ。』と言うだけだよ。そうしたら車庫行きのバスにつかまることもない。」
仕事の内容はともかく、立場的にはバイトなのだから、彼の言うことはよくわかる。
それでもズルズルと仕事を続けてしまうのは、一番最初に働いた日本の会社で染み付いてしまった習慣かもしれない。私って、やっぱり日本人!?