高雄啓三の「ボストンのお茶会」・2002
Keizo Takao's Boston Tea Party
内田先生
しばらくご無沙汰していました。
忙しくご活躍のようでなによりです。
あまりに忙しすぎるのでしょうか?
風邪をひかれたとか、体調にはお気をつけ下さい。
早くのご回復をお祈り申し上げます。
では久しぶりのボストン便りです。
日本でも東京が雪だったりしてだんだんと冬っぽくなってきているようですが、今年のボストンは10月から雪が降ってたりとなかなか厳しい冬になりそうです。
今朝などはシャワーを浴びて髪が濡れたままで外に出たら、駅まで3分間あるいただけなのですが、何か頭に異変が…。
触ってみるとかちんこちん。
そう、凍っていたのです。
「スーパーハード」の整髪料を思い出しました。
電車に乗って大学へ行くと途中でチャールズリバーという川を渡ります。
去年は一番寒いときに薄く氷が張っているのを見たぐらいだったのですが、今年はもう随分と氷が張り始めてるみたいで、普段は泳いでいる鳥たちが氷の上に並んでいました。
今年は相当寒くなりそうです。
さて、こんな時期にこちらではどんなことをして過ごしているかといいますと、基本的にはもう、おやすみモードです。
11月の最後の週は Thanks Giving Day 、つまり感謝祭でお休みになります。
普通のアメリカ人はこの週には実家に集まり、感謝祭のおきまりの料理を家族で食べるのです。
おきまりの料理というのはなんと言っても「七面鳥」の丸焼きでしょう。
巨大な七面鳥の中にいろいろな具を詰め込んでオーブンでほとんど丸一日かけて焼くのです。
なぜ七面鳥なのか、なぜそもそも感謝祭なのか?
という疑問に一応答えておきたいと思います。
これはアメリカにイギリスからメイフラワー号で最初に来た人達に由来します。
そう、彼らはここマサチューセッツに着いた訳なんですが、
よりによってこんな寒いところに冬に到着してしまったわけです。
当然食料もなく、バタバタと死んでいってしまっていたのですが、親切な原住民のインディアンたちはそんな彼らに食料を与え、狩猟や農耕までも教えてあげたのです。
何とか生き延び、翌年の秋には収穫に恵まれ、そこで収穫を祝って感謝祭というものが生まれたのです。
最初これにはインディアンたちも呼ばれたとか。
その後しばらくしたらインディアンたちを虐殺していくことになるのですが…。
去年はこんなことも知らずに、「ああ、なんだか街中の店が閉まってるなあ」なんて思いながら何もせずに過ごしてしまったのですが、今年はきちんと感謝祭らしい過ごし方をすることになりました。
そうです、感謝祭の当日は研究室の先輩のおうちに集まって七面鳥とカボチャを食べました。
七面鳥を食べるソースは伝統的にのっとって七面鳥を焼いたときに出る肉汁と内臓で作ったグレイビーソース
そしてもうひとつボストン名産の果物を使ったクランベリーソース(甘い)です。
七面鳥自体がクセは強いですが淡泊な味なのでどちらもおいしく食べられました。
しかし調理法やソースそのものはイングランドの伝統から来ているので、普通に食べたらおいしくないものなのかも知れません。
幸いなことに今回は日本人夫妻の手によって調理されているので、問題なくおいしく食べられたのです。
ソースに「味が足りないね」と醤油を加えたりしてました。
聞くところによるとグレイビーソースは普通、味のないソースらしいです。
しかし驚いたのは七面鳥の巨大さ。
大して巨大な七面鳥だとも思わなかったのですが、食べはじめてみるとどこをどう切っても肉が出てくる、そして全然小さくなっていかない…。
先輩夫婦は「4,5人ならこの大きさだね」と言われて買ってきたそうなのですが、3分の1も食べることが出来ませんでした。
その結果、先輩のお昼のお弁当はその後5日間ほどひたすら七面鳥でした。
Thanks Giving の翌日には各地で "After Thanks Giving Sale" というのが行われます。
おそらく一年の中でもっともモノが安く買える日なのだそうです。
買い物はあまりしないのですが、とにかく今年は寒くなりそうなのでそろそろ防寒具でも買おうかなと思い、先輩夫婦に付き合って翌日買い物に行くことに。
驚いたのはセールが朝の5時半頃から始まるということでした。
"Early Bird Sale" というのですが、これに間に合うために朝4時半に家を出るのです。
「防寒具を買いに行こう」と思っているので当然大した防寒具を持っていない私にはちょっと夜明け前の冷気は大変でした。
こんなにまでして買い物をする人がどのぐらいいるのかと思えば、我々が到着してしばらくしたらショッピングモールの駐車場はほぼ満員、人気のある店には長蛇の列が出来ていました。
そんな熱気に乗せられて、私も人生初のバーゲンで「こんなに買ったことってあったかな?」というぐらい買い物をしてしまいました。
こんな調子で Thanks Giving の週が終わると、数週間でクリスマスです。
Thanks Giving では実家に帰って家族と過ごす人が多いですが、クリスマスはもっと大型の連休にして暖かいところに旅行する人が多いようですね。
私はそんなときにがんばって仕事を進めて、なるべく早く、春までには一旦日本に帰れるようにがんばろうと思います。
それでは失礼します。
高雄啓三
高雄くんもすっかりアメリカ生活になじんでしまったようですね。「今年は去年より寒いね」というような気候の比較が自然に「その土地の去年」となされるようになるのが、「住み着いた」ということの指標になる、とそのむかし加藤周一さんが書いてました。そんな感じ。今度帰ってきたら遊びに来て下さいね(ウチダ)
内田先生
高雄です。
ついに渡米して一年が経ってしまいました。
昨年の10月18日にボストンに降りて、今日でちょうど一年です。
早いものです。
この一年間は今まで過ごした一年と、全く違うような、それと同時に意外とこれまで通りの一年でもありました。
とにかく今のところなんの問題もなく無事に生活できていることを感謝しています。
さて、一年経つと何が起こるか。
予定では英語がネイティブ並にペラペラと話せているはずだったのですが、いまだに和風英語です。それもそれほど上手でもない和風の英語。
渡米直後の三歳児以下状態はさすがに脱していますが、この先改善されるのかどうか、ちょっと不安なところです。
実は渡米した人が一年経って往々にして直面するのは国際免許の期限です。
まあ、普通はすぐに免許を取るのですが、日常生活で車を頻繁に使うわけでもない私はそのままほったらかしにしていました。
その期限をふと見ると、かなり迫ってきているのに気付くわけです。
というわけで、免許を取りに行きました。
最初はもちろん筆記試験。
これをパスすれば仮免許がもらえて路上試験を受けることができるわけです。
なんとボストンではこの筆記試験が日本語で受けられてしまいます。
しかも日本語の問題はかなり昔からの使い回しで、レパートリーも少なく、ボストン在住の日本人の方々が覚えているのをホームページに掲載したりしています。
そのおかげで配布された "DRIVER'S MANUAL" をさほど熱心に読むまでもなく、ホームページをプリントアウトしたものを電車の中で読みながら試験会場へ。
本当に全く同じ問題が出ていて数秒で終了。
多少日本語そのものがおかしい問題(問題が成立しない問題)もあるのですが、たぶんパーフェクト。
さて、路上試験ですが、この時に国際免許が重要になってきます。
筆記試験に受かってもらえるのは仮免許ですが、これで運転するには隣に免許を取って一年以上の人が乗っていないといけないのです。
当然、路上試験には車を自前で出して会場まで行かなければならず、国際免許がなければ免許取得後一年以上のスーパーバイザーが必要となるのです。
それが国際免許があるうちに免許を取らないといけない理由な訳です。
さて、アメリカでは何でも現場の係員が決めてしまいます。
というわけで路上試験の内容は試験官によってまちまちです。
そのため「どこどこの会場は厳しかった」「あそこは簡単だ」などいうことになるわけです。
国際免許の期限が迫っている私は今回失敗してしまうと国際免許の取り直しかあるいは誰かにスーパーバイザーを頼まなければならないので失敗は許されません。(平日の昼間に仕事がある人に付き合ってもらうのはさすがに気が引けます。)
当然、なるべくイージーなところを選びます。
選んだのはウォータータウンというところ。
ここでうちの研究室の先輩が試験官から受けた指示は "Turn right." それを4回。
それで終了。
もっとすごかったのはうちの研究室に来ている学部学生の場合は、試験官が彼女のスーパーバイザーに"Is she good?"
そしてスーパーバイザーが"Yeah, she is very good!"
そして試験官が"O.K."
それで終了。
エンジンをかけるまでもなく路上試験が終了したりする場合もあるのです。
しかし最近は911事件以来のこのご時勢を反映して免許を取るのも厳しくなっているという話です。
さて、私の場合ですが、
とりあえず事務所に行くとおまわりさんがふたり控えてます。
書類を見せると試験会場の場所に関して説明があります。
「ここの駐車場の真ん中に道があってそれを右に曲がってちょっと行った信号を右に・・・」
なんてことを普通に英語で喋られてしまうと聞き取るのと覚えるのを同時には出来ないので
「わかりにくいから地図書いて」と頼むと、「はぁ?俺たちの説明が理解できないんだったら試験なんて出来ねぇぞ。」なんてことを言われて仕方ないので神経を研ぎ澄まして彼らの英語を聞く。
よくよく聞けば単に建物の裏に回るだけなのでした。
最初にそういってから説明してくれればいいのに、いきなり道順だけ口で説明されてもそりゃ分かりませんよ。
とにかく、言われたとおり建物の裏に回ってみるとパトカーが二台車一台分のスペースを空けて縦に並んでいました。
ああ、本当ならここで縦列駐車をテストするんだなと分かります。
しかし、試験を受けている車が何台かあるのですが誰ひとりとしてそんなことはしていないのでおそらくやらないのでしょう。
しばらく待っていると私の番になりました。
名前を確認すると車のチェックから始まります。
ブレーキランプ、ウィンカーの確認、そして手信号。
それだけ済ませると試験官が助手席へと入ってきます。
その日は日射しの強いいい天気で、日向にいると暑いぐらいだったので、試験官のお巡りさんが最初にやったことは車の冷房を最強にしたことでした。
"Oh, strong!." なんて言いながらしばらく気持ちよさそうにしていました。
「じゃ、前に進んで」ってことで発進。
予想通り縦列駐車はしないで済みました。
駐車場を出てちょっと行ったところでやったことは車庫入れとは言えないような車庫入れ、車を入れなければならないスペースが日本の場合の1.5倍はあるので何も考えなくても入ってしまいます。
その後、バックでまっすぐさがれるかを10メートルぐらい。
最後にスリーポイントターン、ようするに道の真ん中で切り返しながらターンするという、通りの多いところではとても迷惑な、こちらでは当たり前のターンをして、また最初の駐車場に戻ってきました。
で、"O.K. You get it." と、これだけで終了。
また受付に戻って書類を書いて提出。
あとはお金を払えば免許取得。
しばらくすると免許証が郵便で送られてきました。
やっぱり嬉しいものですね。
今までは何も考えずに食事に行ってお酒を注文すると断られたりもしましたが、免許さえあれば、もうパスポートを持ち歩かなくてもお酒が飲めるようになるのです。
少しずつ、人間扱いです。
それではまた。
高雄啓三
2002年9月30日
内田先生
突然ですが、行って来ました。
The Rolling Stones World Tour 2002-3 "Lick"
あのローリングストーンズがワールドツアーをするという、そしてそのツアーがボストンから始まるという。
行かずにはおれませんでした(別にそんなコアなファンじゃないんですけどね)
チケット発売開始の日は、休日というのに研究室に出てきてインターネットと電話でチケット取り。
その時売り出していたのはフォックスボローと言うところのアメフトのスタジアム(数万人収容)。
それとボストンの小さなライブハウス(数百人収容)。
さすがにライブハウスのチケットは取れず、
アメフトスタジアム(これは昨シーズン優勝したパトリオッツの本拠地)のチケットを入手。
まあ、ステージは遠くなっちゃうけど、ツアーの初日だからいいっか、なんてことを思っていたら、
その数日後、「追加公演決定、ボストン、フリートセンター(数千人収容)」しかも、これが一番最初になりやがるのです。
ああ、やられた。
アメリカンのショウビジネスにしてやられました。
何が追加公演か、最初からそんなものは決まっているのです。
気付けなかった私が悪い。
しかし、コンサート当日はそんなことも忘れてフォックスボローへ。
ボストンから車を飛ばすこと2時間ほど。
駐車場が開く3時頃に現地に到着。
駐車場に車を入れて辺りを見回すと駐車場へと連なるおびただしい車の列。
こんな辺境の地には列車なんて無いので当然みなさん車で来るわけです。
スタジアムが3万人収容だとすると1万台ぐらいの車が来るんでしょうね。
駐車場もスタジアムの何倍あるんだろうと言うぐらいだだっ広かったです。
さて、開演は7時ということになっていて、6時まではスタジアムに入ることすらできません。
しばらくはグッズショップなんかを見ていましたが、よくよく周りを見ると驚くべきことに気付きました。
煙があがっている・・・。
そう、駐車場のあちこちで、煙があがっているのです。
煙だけならいざ知らず、テントを張っている集団も、
ついには音楽かけて踊ってる連中も・・・。
そう、駐車場ではなぜか至る所でバーベキューパーティーが繰り広げられていたのです。
「何しに来てるんだ、コイツラ?」と一瞬考えてしまいました。
彼らの饗宴はコンサート直前まで続いていました。
聞けば、アメフトの試合があるときはこれはごくごく当たり前のたのしみ方なのだそうです。
ここで盛り上がりまくって結局スタジアムに入らずに帰ってしまう人もいるとか。
さて、コンサートですが、全然始まらず、
秋風の吹き付ける中、寒さに耐えながら待っていると8時ぐらいになってやっと前座のバンドが演奏を開始、30分ぐらい演奏していました。
しかし、そこで気分が盛り上がったところで真打ち登場とはならず、何もないまま1時間・・・・。
「まだ到着してないのだろうか・・・」なんていう不安もよぎったところで、やっとローリングストーンズ登場。
米粒程度にしか見えないのですけど、前座のバンドとは明らかに違う存在感がそこにはありました。
かっこいいんです。
涙が出ました。
ああいう老人になりたいものです。
しかし、ローリングストーンズだけに、観客の年齢層は多様でした。
っていうよりはおじさんおばさんが多かったですかね。
目に付いたのが親子連れ。
お父さんとお母さんが熱狂して踊りながらシャウトしてるのに挟まれて、年頃の娘さんがキョトンとして席に座ってステージを眺めてるのは不思議な光景でした。
そういえば明らかに80ぐらいは行ってるおばあさんもいました。
もっと驚いたのはそのおばあさんがマクドナルドのハンバーガーを食べていたことでしたが・・・。
アメリカの人の年齢に対する感覚ってのは明らかに我々とは違うんですね。
ミック・ジャガーのような老人になりたいけれど、
老人になってハンバーガーは食べれないな(今でも無理しないと食べれないもの・・・)。
それではこの辺で。
失礼します。
Yeah! おいらも1990年のストーンズ初来日のときの東京ドームの初日に行ったことがあるよ。
開演時間が7時だったけど、6時半ごろまで空席だらけなの。どうしてなんだろうと思っていたら、そのあとからぞろぞろとグレーのスーツのサラリーマンたちが殺到してきた。仕事が終わってから来たんだね。
ロックコンサートで座席が一面のネズミ色スーツというのも珍しい光景だったよ。でもみんなノリはすごくよかった。
終わったあと、水道橋の駅のまわりでみんなピースサインを出して叫んだのさ
It's only Rock'n'roll but I like it!
uchida
2002年8月29日
内田先生
すこし間が空いてしまいましたが、お変わりありませんでしょうか?
イタリアに行ってまいりました。
女学院からも二人来ていましたので既にお聞きかも知れませんが、
少しだけご報告します。
多田先生がイタリアで毎年、合気道と気の練磨の講習会をしてらっしゃるのは
もちろん知ってましたし、聞くたびに「行きたいなあ」と思ってはいました。
しかし、理系の大学院生に2週間にわたる休みなど所詮夢でしかなく、
ヨーロッパはあまりに遠く感じたものでした。
しかし、ボストンに来てみると、さすがニューイングランドと言うだけあって
ヨーロッパはさほど遠いところではないのです。
そしてここはアメリカ。夏にバケーションは当たり前なのです。
「これは行くしかない。」
切羽詰まった理系の大学院生の分際ながら、
この夏はイタリアに二週間という暴挙に打って出る決意をしたのです。
結論としては「イタリア、最高でした。」
まず、食べるものすべてが美味しかったです。
日本から来た人達にはそんな感動もなかったかも知れないですけど、
ボストンから来た私には全てのものが美味でした。
スパゲッティは当然アルデンテ。
ボストンにもイタリア人街ってのがあるんですけどね、
アメリカ人用に調整されているのか、パスタを頼むと基本的にぐでんぐでんののびき
りパスタが出てきます。
そんなことはさておき、メインの目的である合気道の稽古ですが、
これも非常に気持ちよくできました。
イタリアの講習会に行きたいと思った理由のひとつに
ボストンで満足のいく稽古が出来ていないと言うのもあったのですが、
見事に解消されました。
稽古、食べる、寝る、という循環を何度か繰り返すと体調はすこぶる良くなります。
ただ途中から参加している子供達に目を付けられてしまい、
お昼寝が出来なくなってしまいました。
何かにつけてちょっかい出したりイタズラしたりの子供達なのです。
木剣を使った稽古の後にはそのまま私に向かって木剣を振り回してきます。
だからといってこっちはまともに打ち返すわけにも行かず、ひたすら防御に徹しま
す。
しかし一人の子は12歳にして合気道歴6年というつわものなので
気を抜いていると斬られてしまいます。
こっそりと昼寝をしようと横になっているとめざとく見つけて飛びついてきました。
「嫌だったらちゃんと拒絶しなきゃダメだよ」とは言われても、
あまりにかわいい子供達なのでついつい付き合うことになりました。
お昼寝が出来なくなった最初の日だけちょっとつらかったですが、
それにもすぐに適応したのか、日が経つにつれて身体が軽くなっていきました。
2週間の講習会でしたが間の週末には多田先生の勧めもあり、フィレンツェとローマ
を観光させていただきました。
これによって合気道関係者以外に「イタリアに二週間行って来た」と言った場合の良
きアリバイが出来ました。
とはいえ、フィレンツェもローマも素晴しかったです。
一日ずつしかいられないのが本当に残念でしたが、もともと今回は観光が出来るとは
思ってもおらず、
棚からぼた餅のつもりで遺跡や美術館を巡りました。
後でイタリアの連中に話をしたら、
「フィレンツェとローマ、一日だけ?クレイジーだ!一週間はいるべきだ。」と怒ら
れてしまいました。
確かにあの週末は典型的日本人観光客の如くせわしなく動き回ったものです。
ごめんなさい、今度来るときはもっとゆっくりします。
多田先生がイタリア語で説明する稽古に参加しているというのは非常に不思議な気分
でした。
歴史的なことを説明されている場合は重要な単語はほとんど日本のものなので
何についてお話ししているのかはだいたいわかるのですが、
技術的な説明になると完全にイタリア語になってしまい先生の身振りから推測するし
かありませんでした。
もっとも「わかりません」という顔をしていると先生が日本語で教えてくれたりする
のですが・・・。
稽古と同じぐらいかそれ以上に嬉しかったのは先生と食事をご一緒できたことです。
食事の時は基本的に日本語ベースで、普段なかなか聞けないお話を聞くことが出来ま
した。
道場での寝泊まりは元駒寮生である私にとっては何ら苦になるものではありませんで
した。
快適に過ごすことが出来ました。ただ、今年は珍しく雨が多く道着の洗濯だけはちょ
っと苦労しました。
そんな環境の中で友達になれたイタリア人達とはなんだかこれからいい付き合いが出
来そうです。
本当に素晴しい2週間でした。
なにせ、La Spezia を去るときには本当に涙が出てしまったくらいです。
実はイタリア滞在中に、日本に行かなければならない用事が出来てしまいました。
研究室に残っていた先輩にボストンー成田の航空券を買っておいてもらい、
イタリアから帰ったらボストン滞在はほんの20時間で成田へ。
10ヶ月ぶりの日本だというのに(だからですが)何かと忙しく、用事をこなしてい
るうちに
ボストンに帰らなければならない日付になってしまいました。
神戸のみなさんにとお土産まで用意して道着も持ち歩き、
行く気満々だったのですが残念ながら今回は神戸まで足をのばすことが出来ませんで
した。
申し訳ありませんでした。
今回は成田到着で用事を済ましながら西に向かい、
京都までは行ったのですがそこでタイムオーバーになってしまいました。
次に日本に帰るときにはぜひとも関空かあるいは小牧空港を使って
神戸のみなさんの顔が見れるようにしたいと思います。
それではこの辺で。
高雄啓三
2002年6月30日
内田先生
お書きになった本がずいぶんと評判がよろしいみたいで、なによりです。
すごく売れているんだということが意外なところから実感されました。
実は合気道関係者ではない大学時代の友人から、「内田樹先生という方の本がおもしろいと評判があり、どれどれとHPを見ておりましたら、高雄くんのコーナーがあって・・・」というメールが来たのです。
こういう意外なつながりと循環は心地よいものです。
ところでボストンで日本語の本を読むのはなかなか大変なのです。あるにはあるのですがとても高いのです。
こんなことなら前回ニューヨークに行ったときにもっと大量に本を買い込んでくるべきだったと後悔しています。
あのときは十冊以上買ってきたはずなんですか、帰りの電車を降りる頃にはほとんど読み尽くしてしまっていて、現在は日本語の本は渡米の際に持って来た古典っぽいものをちびちびと読むだけになってしまいました。
というわけで日本語の文章に対する感受性が昂進してしまっている今日この頃です。
こちらの日本人の奥様方で週間アエラという雑誌をまわし読みしているのですが、たまたま同じ研究室の先輩の奥様が最終の読み手らしく、一ヶ月遅れぐらいで私に回してくれます。
日本にいたときでもたまに週間アエラを読むことはあったのですが、基本的にニュース雑誌ですからそれをほど感動したりすることはなかったと思います。
しかし、今、週間アエラを読むと目頭が熱くなることが少なくありません。不思議なものです。
それほどまでに日本語で書かれた本というものから離れて生活していたのです。
電車通学が多かったせいもあり、昔から続けてきた読書生活がこのようなかたちで停滞してしまうのは
ちょっと納得が行きません。
さて、このような状況を打開するためには、
1、読書は諦めて他のことをする。
2、値段を気にせず本を買う。あるいは日本から取り寄せる。
3、英語の本を買う。
ということになるかと思います。
というわけで手に取った本は "Harry Potter" 。
今やどこの書店に行っても見ることが出来ます(既にブームは終わりつつあるのかも知れませんが)。
もともと子供向けに書かれた本という話を聞いていたので何とか読み切れるかなあととりあえず買ってみました。
これがなかなか面白くて、どんどんと読めるのです。
英語もやさしいし、よくできた物語です。
戦いがあるのに人は死なないし、男の子と女の子が出てくるのに恋愛は全くないし、それでもなお、読んでる人間をわくわくさせつつ物語が進んでいきます。
児童文学としては驚くべきクオリティというべきでしょう。
おかげで何度か電車を乗り過ごしてしまいました。
そういうわけで一巻、二巻、三巻と、結構な勢いで読んでしまいました。
さて、第四巻を読もうかというところでちょっと困ったことになりました。
一巻から三巻まではペーパーバックで読んでいたのですが、四巻はハードカバーのものしか見あたらないのです。
こちらのハードーカバー本の大きさは尋常ではありません。
というか、ペーパーバックでだいたい日本のハードカバー並の大きさなんですから、ハードカバーになるともう図鑑か百科辞典のような大きさです。
持ち歩いて電車の中で読むことが多い私にはクリティカルな問題です。
日本の文庫や新書の素晴らしさが身にしみます。
しかし、なぜ第四巻にペーパーバック版がないのか?
どうやら日本でも英語版の Harry Potter は結構売れているらしくて、調べてみると第四巻のペーパーバックも売られているんです。
ナゼ?
こっちの方がオリジナルじゃないの?
などと考えてるうちにペーパーバックの写真にたどり着く。
・・・違う。
私の持っているのと表紙が違う。
第一巻に至ってはサブタイトルまで違う。
よくよく見ると「イギリス版」と書いてある。
確かにこの本の作者はイギリス人だし、舞台もイギリスである。
だから私は「そうかあ、これがイギリス英語かあ。あんまり変わんないなあ。」
などと思いながら読んでいたのですが・・・。
間違いでした。
私の読んでいたのは「アメリカ版」なのでした。
原書だと思ってたのに・・・。
アメリカ語訳だったのでした。
そしてアメリカ版第四巻のペーパーバックはまだ発売されていないのです。
へたにアメリカ版なんてものがあるので、原書はほとんど輸入されていないみたいで
どこの本屋を探してもアメリカ版しか見つかりません。
アメリカ版をつくるならきちんとコンプリートしてくれないと読者が困るのですが、
売れ行きが鈍ったのでうち切ったのでしょうか?
第四巻をペーパーバックで読むためには個人で取り寄せるしかないのでしょうか?
そしたら今度こそははイギリス英語ですが・・・。
それとも巨大なハードカバーを読むべきなのか。
ちなみに第五巻がもうすぐ出るらしいのですが、
そちらもどういうことになるのか、ちょっと心配です。
それでは失礼します。
2002年6月14日
内田先生
私が研究させてもらっている研究所では毎年、"Retreat" というものが行われます。
今年も6月10日から12日まで、2泊3日でマサチューセッツ州の北の北、もうちょっとでカナダというメイン州の海辺の町 Kennebunkport という海辺の町にて Retreat が行われました。
日本語に対応するものとしてはおそらく「慰安旅行」というのが適当なんだと思います。
しかし、「慰安旅行」と違うのは参加者の研究に関する発表があるということです。
というわけで「リゾート地で泊まり込みで行う内部向けのシンポジウム」というのが適当でしょうか?
発表しなければいけないので直前1週間ぐらいはみなさん必死になって準備をしていました。
私もそうでしたが・・・。
しかし、ボストンから車を飛ばすこと1時間半。
メイン州の空はあくまで青く、打ち寄せる波の音は日頃の喧噪を忘れさせてくれました。
何だかんだやっぱり、リゾート地は違います。
すぐ近くには前大統領の別荘があるようなところです。
泊った部屋も素晴しい。
急にキャンセル者が出てしまったため二人で使うはずの部屋を一人で使う。
オーシャンビューのでかい部屋。
ベッドはキングサイズなのだろうか、横幅の方が大きいベッドになんて寝たことなかったです。
しかも一人で・・・。
はしゃいでいると実は到着した初日に発表することになっていることにいまさら気付く。
私の場合はポスターによる発表なのでとりあえず貼るだけ貼っておく。
口演発表が終わるとポスターの会場にみんなが移動するのですが、その途中に Open Bar。平たく言えばタダ酒が。
ビールやらワインやら、思い思いの飲み物を手に談笑しながらポスター会場へ。
当然発表者の私は英語を少しでもスムーズにするためビールなど少々。
とはいえ、お酒には弱い私のこと、私のポスターの前に人だかりが出来る頃にはすっかりできあがってしまったりしていました。
思考力は低下していたかも知れませんが、英語は多少マシになるので何とか切り抜ける。
ただちょっと態度がえらそうだったかも知れないのが気になりますが、アメリカなのでいいでしょう、きっと。
そして夕食。
メインディッシュはロブスター。丸ごと一匹。ゆでただけ。
これは食べ応えがあります。
アメリカ的料理ではじめておいしいと思える食事だったかも知れません。
ゆでただけで全く味付けをしていないというのが非常に評価できるところです。
これで酢醤油でもあれば文句ないのですが、残念ながら出てきたソースはサワークリームにバターソース。
これがあらかじめかかっていたら暴動モノです。
ちなみに去年出たロブスターはちゃんとした料理だったのでとても食べれたものではなかったらしいです。
おつとめも果たしたし、相当気分良く夕食を終えると今度は DJ/Karaoke Time。
さっきまで発表会場だったところがクラブに早変わり。
お偉い方々も歌います。それにあわせてだんだんみんなが踊り始めます。
ノーベル賞受賞者も歌ってました。踊ってました。
研究室単位で一緒になって歌を歌ってたりするのですが、
私の所属する研究室はシャイな人々の集まりなので、そもそもその場に私ともう一人のポスドク研究員しかいませんでした。
「これは多少なりとも存在をアピールしておかないといけませんね」
ということで "Have you ever seen the rain" を二人で熱唱する。
意外と大受け。カラオケ発祥の国の面目を保つ。
これでちょっと顔と名前が知られたみたいです。
その後さらにホテルから出てバーで飲む。午前1時閉店で追い出されるまで飲んで話す。
そしてホテルに戻ってくると一緒に飲んでた先輩が
「これでプールに行くと気持ちいいんだよ」なんてことを言う。
さすがに海水浴にはまだ寒すぎるのですが、ホテルには温水プールがあるのです。こっそりと水着に着替えてプールへ。照明は水中からと上からはブラックライト。
水に浸かってぼーっとしてると何ともリゾート以外の何ものでもない気分。
翌日睡魔と格闘し続けなければならなかったのは言うまでもありません。
そんな調子の2泊3日の Retreat でした。
「日頃の疲れをとる」というよりは「日頃とは違う疲れ方」をして、
明日からまた実験の日々が始まるわけです。
ところで私が研究している研究所の名前が変わりました。
Center for Learning and Memory (記憶と学習センター)だったのですが、
先日から Picower Center for Learning and Memory になりました。
Picower という人が、センターの名前を変えるほどに寄付をしてくれたのです。
その額 $50 million。日本円だったら 60億円ぐらいでしょうか?
ロブスターが丸ごと食べられるのも、Picower 夫妻のおかげなのでしょう。
とりあえず、感謝感謝。
それでは失礼します。
2003年5月28日
内田先生
ちょっと間が空いてしまいましたが、
これからもちょくちょくと書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
さて、アメリカの大学の研究室では学部の学生も研究に参加してます。
日本の場合は卒論研究のために参加するというのがほとんどですが、こちらの場合は研究参加のためのプログラムが組まれていて、その中で研究に参加すると単位がもらえたり、あるいはお金がもらえたりします。
そんな事情もあって私のいる研究室にもたくさんの学部の学生さんがいます。
だいたい、一人に一人という感じで基本的にはポスドク研究員が指導にあたります。
そんな中、また一人の学部学生がやってきました。
しかも Freshmen (一年生)。
なんのアポイントメントもなしにいきなりプロフェッサーのオフィスに現れたという彼は
地中海はサイプロス出身。
さて、誰に指導をさせようかとあたりを見回したプロフェッサーはだいたい一人に一人ずつ学生がついてしまっているのに気付きます。
「残っているのは・・・、 Keizo!」
というわけで、不肖ケイゾーがなんと天下の MIT の学生をえらそうにも指導するということに
なってしまいました。
指導とは言っても基本的には私の仕事を手伝ってもらいながら、それに必要な知識と技術をおぼえていってもらうという感じですが。
しかしこの彼(ポスドク研究員達は勝手にキプロス君と命名)、さすが地中海出身だけあって感覚が違います。
特に時間感覚が。
私も少年期を愛知県で過ごしただけに基本的に「名古屋時間」で行動、つまり時間にはルーズなのですが、さすがにシエスタがある文化にはかないません。
「じゃあ、明日は2時頃に来ます。」とは言いながら・・・、
実際に来たのは5時過ぎだったり・・・。
まあ、さすがにその時はお説教しましたけど。
面白かったのは、「今日は6時に友達と約束があるから」っていう時でした。
もうすでに6時を随分過ぎてしまっていたので、
「いいの?6時に約束があるんじゃないの?」って聞いたら
「オー、ノープロブレム、僕はいつも遅れるのです。彼はそれを知ってるのです。」
さすが地中海人。
以来、彼が来る時間のアポイントメントは「2時から2時半の間に来ます。」という形で
幅を持たせるようになりました。
それでも彼はだいたい「2時から2時半」だったら「2時35分頃」に来るのですが・・・。
しかし彼が紫外線に照らし出された DNA を見て、
「オー、ビューティホー!」と感嘆の声を上げたときには
「こういう感覚もあるんだな」とちょっと嬉しく思いました。
(ちなみにエチジウムブロマイドという物質とDNAを混ぜて紫外線を照らすとオレンジ色に輝くのです。もちろんどちらも DNA と相性がいいということはつまり、発ガン性がありますが・・・。)
さて、アメリカの大学はもう夏休みです。
キプロス君はこの夏をイギリスで過ごすそうです。
次に会うのは8月の終わりになります。
それでは今回はこの辺で、失礼します。
高雄啓三
2003年4月4日
内田先生
ボストン茶会事件では大量のお茶が海に投げ込まれ、海の色が紅く染まったと言われいます。
また、しばらくボストンで水揚げされる魚は紅茶の味がしたとか言われていますが、そんな微妙な味を関知できる人がいたんでしょうかね?
さて、今回はボストンでの洗濯事情とそれに付随する衣類についてお話しします。
一般的にアメリカでは洗濯物を外に干すということが許されていません。
こんなに乾燥しがちな気候で日射しもとっても強いのに、洗濯物は干せないんです。
まれに中庭があったりするようなところでは干せることもあるみたいですが、私のようなアパート住まいではそんなことは無理な話です。
そこで登場するのは乾燥機です。
おそらく一般家庭では必須な家具として大きな洗濯機と乾燥機があるのでしょう。
しかし私はアパート住まい。
そして人工の大半を学生が占めるボストンでは自前で乾燥機を持っている人なんてほとんどいないと思います。
そういった理由で町中にはいたるところにコインランドリーがあります。
多くの人はそこで洗濯と乾燥をするわけです。
まあ、洗濯事情としてはそれだけなのですが、そういった洗濯事情は着るべき洋服を規定していきます。
どういうことかといいますと、コインランドリーで洗濯、乾燥のしやすいものが好まれるということです。
おそらくそういう理由で、売ってる服(特にシャツなど)のほとんどが簡単に乾燥する化学繊維製のものです。
しかも化学繊維製の服は安くできるのでしょう、お買い得な値段になっていまして、私もこちらに来てすぐに何も考えずに買ってしまいました。
それが間違いのもとでして、やたらと色落ちしました…。
最初は予想していたのですが、2度目の洗濯の時にはもう大丈夫だろうと思っていたのでいろいろと白いものも一緒にして洗ってしまったのです。
その結果、白いシャツも道着も!、鮮やかにピンク色になってしまいました。
三度目もまだ白いシャツをピンク色に浸食していましたが、それ以来その服を着る気にならないので最近は無事に過ごしています。
そもそも肌が人並みより弱い私は化学繊維の衣類はだめなんです。
以来、服を買うときはまずタグを見て原材料が "cotton 100%" というのを確認することにしてます。
しかしまたこのタグがくせ者でして、でかくてかたいのです。
当然、原材料が綿100%でもタグは当然ナイロン製だったりするわけです。
そしてでかくてかたいのです。
そのまま着てしまうと一日中ひっきりなしに攻撃を受けることになります。
痛いのです、かゆいのです。
あと許せなかったのは化学繊維100%の靴下ですね。
しばらくはこれしか手に入らなくて不愉快な思いをしました。
あやうく日本から大量に送ってもらおうかとも思いましたが、なんとか綿が80%ぐらい含まれている靴下を発見しました。
でも、なぜか厚手っぽくてごわごわしてるんです。仕方ないのかもしれませんが。
車でも電化製品でも、何でもいいものは日本製です。はい。
こないだテレビを見ていたらオフロード用バギーの CM がやってまして、それの宣伝文句が、
「これはスシじゃない。これはタケノコじゃない。これはゲイシャガールじゃない。このグレートなバギーは日本製じゃないんだ。Made in USA なんだ!」っていう感じで、やっぱりアメリカ人でも「いいものは日本製」っていう認識があるみたいですね。
それでは失礼します。
高雄啓三
2002年3月19日
内田先生
東京ではもう桜が咲いているとか、
結局暖冬で終わってしまいそうな今年のボストンですが、今朝は久しぶりに雪が降っていました。
岡田山の桜もそろそろなのでしょうか?
さて今回は英語についてです。
ボストンにはボストン訛りというものがありまして、
ちょっと発音が変わっています。
R の音をあまり使わないんです。
もちろん、 rain ように頭文字に R が来たり、その後にすぐ母音が来るような場合は問題ないのですが、母音の後に R が来て、ちょっと巻き舌っぽく R をのばすというときに、ボストニアンは R を発音しません。
archery とか、arm とか、そのまま aa とのばします。
日本人には分かりやすくていいのかもしれませんが、ちょっと不思議です。
ちなみにニューヨーカー達はメディアの浸透の効果なのか、
教科書っぽい英語を喋ってくれて私には聞きやすかったです。
さて、そんなボストンに来て早、4ヶ月が過ぎました。
当然、そろそろ英語もペラペラになっていて欲しいのですが、
なかなかそうも行っていません。
多少はマシになっているのでしょうが、
相変わらず知能指数が三分の一程度になってしまったかのような言動を続けています。
しかし先日、私にとっては驚くべきことが起きました。
ちょっと疲れがたまっていたのか、いつも起きる時間になってもまだちょっとまどろみながら夢を見ていました。
その夢の中で、なんと自分は英語で喋っているのです!
その自分の喋った英語に驚いて残念ながら目を覚ましてしまいましたが、衝撃的な出来事でした。
この分だと、寝言が英語のになる日も近いのでしょうか?
もう一つ、英語について。
こちらの大学ではたまにちょっとしたパーティとかレセプションぽいものがありまして、
そんなときにはお酒が出てきます。
私はお酒に弱くてほとんど飲めないのですが、さすがに他の飲み物がコーラとダイエットコークだけだとうんざりして多少軽そうなお酒に挑戦することもあります。
先日もそんなパーティに顔を出していました。
その日は自分の研究室の人間はなぜか誰も来ておらず、
あまり知っている人もいなかったので適当に食べるだけ食べて
夕食代でも浮かそうかと考えていたら隣の研究室のポスドク研究員を見つけました。
ぽつぽつと喋っていたのですが、途中から私もお酒を飲み始めたら
なんだかだんだん、いつもよりスムーズに喋っている自分に気がつきました。
日本語用の脳をアルコールが抑制してくれてるんでしょうか、
それとも下手な英語を使う羞恥心がなくなっていくだけなのでしょうか、
どちらにしてもとりあえず英語が喋れるようになるので非常に有用です。
そういえば、ニューヨークで「こっちに来て三ヶ月にしては英語が上手い」とほめられたときも、相当に酔っぱらっているときでした。
お酒を飲みながらの英会話教室なんてあったら上達も早いのではないでしょうか
(もうあるかもしれませんが?)。
それでは失礼します。
2002年3月5日
内田先生
無事、ボストンに帰ってきました。
もう4ヶ月も前になりますが、はじめてボストンに来たときはちょうど夜だったこともあり、立ち並ぶビルの夜景に相当驚いたものでしたが、やはりニューヨークと比べてしまうとボストンは小さな街ですね。
ボストンとニューヨークというのはちょうど関西と関東みたいな感じでして、なかなか対抗意識が強いということを知りました。
メジャーリーグで言えばボストンはレッドソックス、ニューヨークはヤンキースですが、これがちょうど阪神と巨人みたいなものでしょうか。
とにかくレッドソックスファンはアンチヤンキースだし、ヤンキースファンはアンチレッドソックスなのです。
私のニューヨーク滞在中にアメリカの国民的行事である「スーパーボウル」がありました。
セントルイスラムズとニューイングランドパトリオッツで戦っていたのですが、パトリオッツは本拠地がボストンなんですね。
なぜか関係ないのにニューヨークでも大盛り上がり。
「どっちを応援してるの?」と聞くと、
「当然、セントルイスだ。」とニューヨーカーの答え。
「なぜ?」矢継ぎ早に質問、
「ボストンにあるスポーツチームは勝っちゃダメなの。絶対!」
"Never!" と言ってました。
確かにパトリオッツつは今まで3回スーパーボウルに出場したことがあるのですが、いずれも敗戦。今回は5年ぶりの挑戦でした。
そして知っている人は知ってるでしょうが、パトリオッツがはじめての優勝をしてしまうのです。
ニューヨーカー達は本気で悔しがってました。
そして残念ながら直接見れなかったのですが、本拠地ボストンの盛り上がりかたは尋常ではなかったらしいです。
翌日の優勝パレードなどは平日の昼間にやっているのに、125万人の人出だったとか。
平日の昼間ですよ?
さすがアメリカです。
きっと学校の先生も生徒達に「さあ、これからパレードを見に行くぞ」とかって言って見に行っていたのでしょう。
そういうアメリカは嫌いではありません。
その反動か、オリンピックはさっぱり盛り上がっていませんでした。
いつの間にか終わってしまいましたね。
日本では盛り上がっていたのでしょうか?
もちろんソルトレークシティやユタ州では大いに盛り上がっていたのでしょうが、ここボストンでは全くと言っていいほど盛り上がっていませんでした。
特別番組が組まれたりというようなことは全くなかったですね。
結局、私もニュースと新聞以外でオリンピックを見ることはなくて終わってしまいました。
不思議なものです。
ところで、
多少なりとも都市部のアメリカで生活していると、本気で「外へ出れば七人の敵がいる」状態になってきます。
幸いなことにまだ路上で銃声を聞いたりナイフを見たりということにはなっていませんが、そういうことが現実に起こりうるという空気がこっちにはあります。
争いがキライな「非戦」の私としてはもちろん争いは避けたいのですが、
「七人の敵がいる」という感覚は知らないうちに争いを避けるようになる気がします。
そしてその感覚は自分自身の行動をまっとうなものにしていく緊張感や矜持になるのでしょう。
そんなわけで、暗い夜道も悠然と歩いています。
それでは失礼します。
2002年2月13日
ニューヨーク便り、その2です。
マンハッタンで日本を漁り、適当に時間を潰してから研究所に向かいました。
コールドスプリングハーバー研究所はいわゆるバイオ関係の研究のメッカと呼ぶべきところです。
とにかくその筋の人たちにはあこがれの場所ですらあるのです。
毎年セミナーが行われて、そこで発表することはこの上ない名誉なことであるとか。
そんなところですからゲスト用の宿泊施設はホテル並です。
偉い先生方が泊まるわけですから。
オフシーズンの冬であるからこそ、
貧乏学生のわたくしもそんな部屋に泊まることが出来るわけです。
しかも、タダで。
そこそこの広い部屋、机にベッド。
パーフェクトです。私がそれ以上を望むことはありません。
朝起きて、ベッドをぐしゃぐしゃにしたまま研究室へ、
実験をして帰ってくればちゃんとベッドメイクされています。
感動。
しかも研究所の宿泊施設だからでしょうか、チップを置いておいても受け取っていないようです。
ちょっと残念に思いながらもささやかにラッキーと思ってしまう自分はまだアメリカ人ではないのでしょう。
ここは自然が豊富なところなのでちょっと見慣れないものを海岸で見ることが出来ました。
それはカブトガニ(の抜け殻)です。
きっと季節が合えば生きて動いているのが見れたのでしょうが、今回は残念ながら抜け殻のみ。
とりあえず、研究室の先輩ポスドクから小さいのをひとつ拾ってきてと頼まれていたので
探し回ってみる。
しかし、カブトガニとは良く名付けたものででかいものは本当にそのまま兜になりそうでした。(もちろんこれは抜け殻ではなくて本当の殻でしたが。)
お手頃サイズの抜け殻をいくつか手に研究所にもどりました。
さて、こんなところに何をしに来たかといいますと、私の研究プロジェクトのひとつにトランスジェニックマウス(遺伝子を組み換えたネズミ)を使うものがあり、そのネズミを作っている共同研究者のところに遺伝子組み替えのチェックをしに来たのです。
たまにはよその研究室におじゃまするというのもいろいろと刺激になって良いものです。
今回、一番印象に残ったのはこの研究所に来ている大学院生達です。
10人ぐらいで一緒に食事したり遊んだりしたのですが、みんな明るい!
日本の大学院生というのがどことなくまじめで物静かなのに対して、こちらの大学院生は普通の若者達でした。
まあ、研究に携わっている大学院生というのはそもそも研究をやりたいと思ったから研究をやってるわけで、そこにはまじめであるとか物静かであるとかという要素は全く関係ない筈なんですよね。
ひたすらにはしゃぎ回る彼ら彼女らを見て、ちょっとだけ安心しました。
さて、世界一の大都市ニューヨークにはたどっていけば何か縁のある人がいたりするわけでして、今回はたまたま京大の合気道サークルの先輩にあたる人が二人ニューヨーク在住ということを聞きつけまして、ぜひお会いしましょうということになりました。
聞けばこの二人、月に一度ほど自宅で合気道の研究をしているとか、そういうわけでそんなところに参加させていただきました。
アパートの一室、絨毯の上ですので静かな練習しかできないので、座技の呼吸みたいなものを中心に「原理原則の研究」という形で半日ほどお稽古。
久しぶりに人に手を取ってもらうということだけでもすごい感動ものでした。
その後はM先輩の奥様も交えて4人でマンハッタンにてお食事。
ここでも当然日本食です。
寿司と天ぷらのどちらにしようかと迷っていると、「迷ったら両方頼みなさい」とのお言葉。
親に連れられてはしゃぐ子供のように両方注文。
どちらも素晴しく美味しく、またもや感動。
日本のちょっといい店程度にかなり美味しい、さすがニューヨーク。
先輩方、ごちそうさまでした。
そしてその後はマンハッタンで一人暮らしをしておられる先輩のマンションに泊めていただく。
とは言ってもそのまま武道論に花を咲かせて夜明けを迎えてしまったのですが・・・。
翌日は二人でラーメン屋さんへ。
ちなみにラーメンもアメリカではなかなか食べれない日本食のひとつです。
O先輩、ごちそうさまでした。
その後、そのO先輩が働いていたというあのワールドトレードセンターの跡地へ行ってみました。
ただひたすら瓦礫の山を整理し続けているという感じでした。
ニューヨークは我々から見るとすべての建物が大きく見えます。
それぐらい圧倒される大きさの建物が多いのですが、写真で確認してみるとそういった建物はワールドトレードセンターの半分以下の大きさしかないんですね。
あの建物がどれくらいの存在感を持ってそこにあったのか、実物を見ていない私には想像もできません。
やりきれない気持ちをあらたにして帰途につきました。
結局、日本めぐりばかりになった今回のニューヨーク滞在でしたが全然アメリカっぽくなくて済みません。
ようするに大都会には何でもあるということですね。
ちょっとした里帰りがわりのニューヨーク滞在になりました。(そういえば結局、自由の女神を見ていない。)
次回からはまたボストンのお茶会に戻ります。
それでは失礼します。
*お詫びと訂正
前回のボストン〜ニューヨーク間の長距離バスについて「グレイトハウンド」という記述がありましたが「グレイハウンド」の間違いでした。お詫びして訂正させていただきます。
前回お伝えしたように、今回はニューヨーク便りです。
ボストンからニューヨークに行く手段にはいろいろありまして、一番安いものなら片道 $15 ほどで行くことが出来ます。
これはボストンのチャイナタウンとニューヨークのチャイナタウンを結ぶチャイナタウンバス。
とにかく安いのですが、「狭くて汚くて、生きた心地がしない」という意見が多いです。
先日、ルームメイトがこれを利用してニューヨークへ行って来ました。
往復で $40 だったそうです。時間帯によって値段が違うとのこと、一番安いのはニューヨークに夜中に着くもので、片道 $10 だとか。
一度載ると、「二度と乗るもんか」という反応を示す人が多い中、ルームメイトは「そんなに悪くなかった。また使うと思う。」とのことでした。
意外です。
もうちょっと値段をあげると「グレイトハウンド」という普通の長距離バスがあります。
これは片道で $40 程度。
そして普通考えられているのはやはり飛行機でしょうか。
これだとエコノミーで $300-$500 程度ですかね。
こちらの人は日本人が新幹線を使うような感覚で飛行機を使うということです。
飛行機を使えば一時間ほどですが、乗る前の待ち時間や空港までの手間を考えるとニューヨークまでならどれもかかる時間は4−5時間ということになってしまうのでしょうか。
そして最後に紹介するのが今回私が使った「アムトラック」、列車の旅です。
Express のビジネスで $117 でした。
ゆとりのある旅を楽しみたいという人が使うという話です。
乗って納得、席の広さは格別です。
霧が立ちこめる朝の景色も、飛行機なら不安を誘いますが、列車の旅では心地よい眠気を誘います。
車窓から見る凍りついた湿原が今が冬であることを思い出させます。
ちょっと気分は「世界の車窓から」、溝口肇の曲が聴きたくもなります。
さて、朝靄の立ちこめるような時刻にボストンを発ったのですが、着いたのはお昼にちょっと早いぐらいの時間。
目的地のコールドスプリングハーバー研究所にはそこからさらに一時間電車に乗らなければいけません。
せっかくのはじめてのニューヨーク、そのまま素通りするのはもったいないということで、ちょこっとニューヨーク見物をかねてブラブラしようと考えます。
何せいいかげんなことにはこの出張、正確に決定したのは木曜日、で月曜日に出発、しかも何時に着くなんていう連絡もしていないまま出発したのでした。
というわけで、夕方ぐらいまで散歩させてもらいました。
まず向かったのは本屋さん。
そう、日本の本屋さん。
ニューヨークには紀伊国屋書店があるのです。
そしてさらに驚くべき事に、私が日本にいたときにもっとも利用したであろう書店である、BOOK-OFF のニューヨーク店があったのです。
これには感激。
日本語の本は、こちらで買おうとするととても高いのです。
ボストンにも日本系の書店はありますが、だいたい定価の1.8倍ぐらい。
この円安のおかげで2倍近くの値段になっていたりします。
紀伊国屋に行けばだいたい1.5倍ぐらいの値段になるでしょうか。
しかし、ブックオフに行けば・・・、
そう、やっぱりありました、「1ドル均一」。
思わずいろいろと衝動買いしてしまいました。
本屋を巡るとおなかもすいてきたので昼食。
ボストンで食べれる日本食は所詮現地人向けの(キワモノとしての)日本食だったのですが、
ここニューヨークの日本食は違います。
ちゃんとした日本食屋があるのです。
今回私が初日の昼食に選んだのは「蕎麦屋 soba-ya」。
「蕎麦屋」と書いたのれんが期待を誘います。
店員はほとんどが日本人、蕎麦打ち職人は・・・メキシカン?
結構手際よくこねたりうったり切ったりしてます。
で、お味の方はというと、これはなかなかよろしくて、アメリカで食べることの出来る日本食としてはかなり良い部類にはいるのではないでしょうか。
さすがニューヨーク。
ざるとセットで鰻丼を頼んだのですが、こちらも蒲焼きの懐かしき香りに涙しそうになります。
最後には蕎麦湯も出てきて納得、満足。
この分なら寿司屋も期待が出来ます。いつか行こうと自分に誓う。
本屋で時間をとりすぎたのか、そうこうしているうちに日も傾きはじめていたので覚悟を決めてコールドスプリングハーバー研究所へ。
コールドスプリングハーバーというところはロングアイランド島の北の方にありまして、ニューヨーク市民にとっては毎週末に行ける保養地なのです。
ただしもちろん、それは夏の間の話。
冬は誰も近寄りません。他に何もないので・・・。
研究所での話はまた次回にでもいたします。
それでは失礼します。
2002年1月25日
内田先生
どうしても研究室とアパートの往復で終わってしまいがちな毎日を送りがちですが、生活をいくらアカデミックにしても文化的な生活にはなり得ないということを再認識しつつある今日この頃です。
よくよく考えればボストンは芸術の街でもあるはずなのです。
というわけで、日曜日に Blue Man Group の公演 "TUBES" を観に行きました。
そう、日本ではペンティアムのテレビCMでおなじみのあの青く塗りたくったおじさん達のパフォーマンスを見に行ったのです。
どうやら Blue Man Group というのは全米何カ所かにいるらしく、それぞれでいろいろなパフォーマンスをやってるようです。
中には音楽に合わせて電化製品を投げたりぶつけたりしていくというなのもあるのですが、ボストンの Blue Man Group はおそらく私が日本にいたときにペンティアムのテレビCMでやっていたのと一緒だと思います。
ドラムのスティックで4の数字の形をした筒を叩いているやつです。
そう、それが今回私が観た "TUBES" というやつです。
まず、なぜ観に行こうかという気になったかといいますとMIT にはチケットオフィスのようなものがあっていろいろな催し物のチケットを斡旋してくれているのです。
そしてその情報は MIT で働いてる人(私も含めて)に毎月届けられるようになっています。
というわけで、「たまには文化的に」と思っているところに Blue Man Group の文字が目に留まったのでした。
しかも驚いたことに小さい会場なのに私の席は最前列から三列目、ベストポジションでした。
席につくとそこに用意されていたのは「カッパ」。
ビニール製ですが頭からすっぽりかぶれるようなカッパがひとりにひとつづつ用意されていました。
「何が起こるの?」「飛び散るの?」
不安と期待が否が応でも高まります。
そして・・・
と、これ以上はこれから観る人もあるかもしれないのでやめときましょう。
とにかく視覚的にも聴覚的にも楽しめましたし、観客も舞台に上げられたりと興奮しっぱなしでした。
私はあの青いおじさんに頭を掴まれるという出来事に遭遇しました。
というわけなのでハプニング系がお好きな方にはおすすめです。
日本公演があれば是非どうぞ。
待ちきれない方はボストンへ是非どうぞ。
翌日、月曜日は祝日でお休みでした。
意外なことにアメリカは祝日が多くありません。
日本が働き過ぎだからといって一生懸命祝日を増やしていたのを考えると不思議な気がします。
しかも United States だけに州によって祝日が違っていたりします。
その日は Martin Luther King's Day(キング牧師の誕生日)でした。
おわかりかもしれませんが、この祝日は黒人解放を記念したものです。
一応全米で祝日な筈の日ですがどうもそうでもないようです。
マサチューセッツ州のとなりのニューハンプシャー州は全米で最後までこの日を祝日に指定していなかったとか。
アメリカの名門大学といえばハーバードですが、そこから来ている人の話によると
「白人は誰も休んでなかったよ」とのことでした。
どうやらそもそもハーバードのアカデミックカレンダーでは平日扱いだったようです。
WASP (White Anglo-Saxon Protestant) のエリートのための名門校ということのなのでしょうか?
その点、同じボストンにある我が MIT はエンジニアのつくった学校なのでしょう、ちゃんとその日はお休みでした。
でも、我々外国人からすると祝日というのは不思議なものです。
当然日本の祝日だからと言って休むなんてあり得ないのですが、こちらの祝日もどうもいまいちぴんとこないという感じです。
というわけでその日も、そもそも祝日というものを意識しない東洋人達がいつものように一生懸命研究に精を出していたそうです。
ところで、1月の28日から1〜2週間、出張することになりました。
共同研究者のいるニューヨークにあるコールドスプリングハーバー研究所というところに行って来ます。
ニューヨークとはいってもマンハッタン島ではなくロングアイランド島なので周りにはなにもないとか。
というわけで、26歳の誕生日をニューヨークにで迎えるということになりそうです。
次回は一時的にニューヨーク便りになるかと思います。
それでは失礼します。
2002年1月11日
内田先生
そして皆様
おそくなりましたが、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
こちらはお正月という感覚はあまりなくて
私のいる研究室でも1月は2日から通常営業でした。
実際カレンダーを見ると1月1日だけが祝日になってますし、それが普通のなのでしょう。
そのかわり、クリスマス以降の年末は丸ごとバケーションなのです。
あと、気がついたのは "Happy New Year!" というのは意外と年末に使われる言葉だということですね。
「あけましておめでとう」というよりは「良いお年を」に近いみたいです。
1月の1日にはまだ "Happy New Year!" というのが聞かれますが、2日とか3日になるともう通常営業なのでもうそういった言葉は聞かれなくなります。
さて、
新年早々こちらでは(ローカルにですが)とんでもないことが起こってしまいました。
MIT の研究室での出来事です。
水道やガスなどの配管が天井を通っているのですが、最近ちょっとだけ水が漏れていたので修繕を依頼していました。
そして昨日、修理の人がやってきてなおしていたのですが…、
水道管の修理するのに水を止めずにやってるんですね。
私はその場にはいなかったのですが、いた人の話によると、「なんかうめき声あげながら作業してたんだけど、だんだんうめき声が大きくなってきて・・・」
そう、最後はパイプを完全に切断してしまったのです。
それからは大騒ぎです。
天井から降り注ぐ水。
パイプを切ってるわけですから半端な量ではありません。
滝のように降り注いでいました。
それに加えて水を含んでもろくなった天井の板がどんどん落ちてきます。
早く元栓を止めればよいのに、分業化が進んでいるアメリカでは担当が違うのでしょうか?
15分ぐらいは研究室内は土砂降りが続きました。
当然、すべて水浸しです。
また意外なことにこちらの建築は日本に比べるといいかげんで、信じられないことに床が全然平らじゃないんです。
高いところと低いところがあって、当然水は低いところに集まります。
デスクや実験台がそういうところにあった人は悲劇です。
コンピュータなども冠水してしまっていました。
さいわい、私のデスクは水源から一番遠いところにあり、かつ位置的にも高かったらしく、被害は少なくて済みましたが。
しかし、これが最先端を標榜する MIT で起こっていることかと思うと、なんとも信じられない出来事です。
ローカル的には911の悲劇に匹敵するぐらいショックな出来事でした。
911はこちらの緊急用電話番号ですが、
おりしもその日は1月10日、110 の日でした。
(洒落にもなりませんが・・・)
不幸中の幸いとしてはその水が汚染水ではなくて水道水だったことですね。
アメリカらしいと思ったのは、そのパイプを切った人は決して
"I'm sorry." とはいわないということですね。
絶対に謝らない。
そして周りの研究室の人が見物に来て "I'm sorry." と言うんですね。
ああ、こういう言葉(「お気の毒に」ぐらいでしょうか?)なんだなあと、感心してしまいました。
しかし、復旧が早いのにも驚きました。
今日は翌日なのですが、皆さんいつも通りに実験してます。
掃除係の人も「そんなに珍しいことでもないよ」と言ってましたし、水を吸い取るための巨大なドラム缶型の掃除機が常備されていたことからも(それも1台じゃなくて3台4台もあったのには驚きました)
本当にそんなに珍しいことではないのでしょうね。
もう一つアメリカらしいことは、
当事者が謝らないかわりに、すぐに保険屋さんが来て状況を把握しようとしていたことです。
保険に入ってなかったら事故ということで終わりにするか、訴訟するかということになるんでしょうね。
さすがアメリカです。
ずいぶんとアメリカというものがよく分かった一日でした。
(結論としては意外とお粗末な国だということです。やっぱり日本がいいですね。)
それでは失礼します。
USA