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 Dangerous days of

the most "Danziri-ous" editor of the town

日本一だんじりなエディター」江弘毅の甘く危険な日々

 

11月22日

 

平成16年度祭礼の五軒屋町若頭の寄り合いがあるので、スタッフが忙しく集まっている編集部を6時過ぎに出る。

「ちょっと岸和田へ行かなあかんので、先に失礼するわ」とみんなに声をかけ、帰ろうとすると「もう来年の準備ですか、博多の山笠みたいですね」と編集部のM。 彼女は「シティ情報ふくおか」から弊誌へ移ってきた編集者だ。

「おお、そやねん。当然や」。そうではあるが、実際は目的の一つに、みんなが会館に集まって飲むこともある。

さて寄り合いは、平成16年度つまり暦でいえば「来年」の祭の寄り合いだが、岸和田の場合はもうそれが「今年」である。

9月15日の本祭の翌日(まれにその週末)には落策(らくさく)と呼ばれる慰労会のようなもの行われ、その場で次年度の役が引き継がれる。さる9月16日、落策の宴席の場で、平成15年度若頭責任者のわたしは、同級生の副責任者兼前梃子責任者のM雄に平成16年度責任者を引き継いだ。

彼はこのときから五軒屋町若頭筆頭になり、わたしは五軒屋町若頭顧問になった。

申し送り」事項は五軒屋町内に関しては9月21日の町会総会の反省会で彼に申し送り、同様に若頭責任者協議会に関しては28日に済ませている。よってそれ以降の寄り合いは、五軒屋町若頭としては、一切が平成一六年九月岸和田地車祭礼のために行われる準備である。

高島屋のジングルベルの音とウインドウをすり抜けて、 正式に「カシラ」を引き継いだばかりの去年のいまごろを思い出しながら、南海電車で岸和田へ。

岸和田駅前のカフェバーで生ビールを一杯だけ、グッとひっかけて集合時間の5分前に町会館に着く。すでに筆頭ほか会計ほかの幹部諸君、前梃子の面々が揃っている。「こんばんわぁ」と声がかかり、新責任者がいる正面の座敷机のナナメ横に座る。

何というかそれは、ほんのこのあいだまで、祭が終わるまでの感覚と全く違っている。無事終わったという安堵感がほとんど、そして今日から来年9月本番まで、果たして何が出てくるか…。こんな視座は今までかつてなかったし、とくに肩の荷が下りた、というのはこんな気分を指していうのだろう。

缶ビールと焼酎と氷、つまみが出てくる。ビールを飲みながら、一年年長で相談役として残っている従兄のK、Iさん、そして14年度責任者のYさんの3人と、上部祭礼団体である世話人会の今年の陣容についての話をする。

彼らはあと一回、16年度のこの祭が終わると、世話人に「上がる」予定でいるが、そうなるとその次の年の顧問/相談役は私とM雄の2人になってしまい、また17年度の筆頭予定者のTも同い年で「ちょっと寒い」。

1つ年長の大工のYさんは「それは年回りちゅうもんで、しゃあない。祭はそんなものや」と言われる。それより今日の寄り合いに、わたしとM雄以外のあとの同い年が欠席しているのが「寒い」とのこと。

そんな話の中、「えー、定刻を過ぎましたので、総会を始めさせていただきます」とM雄の一声。「なにい、総会をはじめさせていただきます、ってかあ。あいつの口からこんな言い方が…」と思っていると、下の者から「ええぞー」という声が飛んだ。

M雄が取り仕切る初めての寄り合いが、一気になごむ。

その新責任者からの話は、若責協第1回総会が開かれ、その場で4月に行われている安全祈願祭を7月に実施する案が出ているという報告。そして会計からの予算不足について深刻な内容の話。それじゃ、手ぬぐいか何かをノベルティにして、祭当日に販売してはどうかとか、そこは商売人の町、さまざまなアイデアが出る。

次の正式行事は、元旦の朝のだんじり小屋での祝賀会だ。

私の中での「今年の祭」がどんどん過去のものになってくる。

 

9月28日(日)

 

若頭責任者協議会の平成15年度祭礼反省会が午前10時半から、だんじり会館で行われる。

庶務の大北町Hの進行で、会長の筋海町Nの挨拶、その後、今日とくに顔を見せている大工町の副責任者と次年度責任者が「故人に成り代わり」通夜と葬儀参列御礼の挨拶。

反省事項は本町責任者からの水道局前ショートカット・コースの曳行の質問ほかは特になし。続いて会計報告がさっと終わり、そこから「これをもって本年度協議会の閉会」の宣言がある。

これで終わりだ。

その後、あらかじめ呼んでいたマイクロバスに乗って、亡くなった大工町若頭責任者のKさんの家へ。額入りの記念品の色紙と試験曳きのときに各町責任者全員で撮った写真を届けに弔問に行く。

家に上げていただき、全員が遺影の前にずらりと座る。その遺影は祭のときのもので、だんじりに乗ってる法被姿の彼である。横に大工町の法被と若頭責任者の襷が供えられている。

会長から焼香する。チーンとお鈴を鳴らし「議長、写真持って来たで」と彼は言った。

それは小学校時代から知るN独特のぶっきらぼうな言い方で、その語調で本当に彼らは春からそれこそ毎週、寄り合いを重ね、町を離れた執行部の立場として、またある時は町を代表する立場として話し合ってきたんだなあと実感する。

奥さんと中学生くらいの子供さんに一人ずつ丁重な挨拶を受け、N家を出る。道すがらめいめいが「ちゃんとええ祭して、よかった」「みんなで揃て、きっとKも喜んでる」と、まるで自分を納得させるように話す。

再びマイクロバスに乗り、平成16年度の責任者が揃う宴会場へ行く。その引き継ぎの食事会には、年番長、岸和田市長、曳行責任者協議会会長も来賓として出席されている。

席順は三郷の寄り合いで引いたパレードくじ順で、各町の責任者と次年度責任者が向かい合って座る。ぼくの席の左隣は南町の責任者とその向かいの次年度責任者、そしてその隣は大工町の次年度責任者だけで、ぽつんと一つだけ空席だ。

料理が進むに連れ、そのお膳の上が皿で一杯になる。仲居さんが「ここの方、まだ来はれへんのですか」と南町のWに訊く。

Wは「そやねん、もうけえへんかもしれへんなあ。そやけど全部置いといたってえな」と言う。

そうそう、それでいい。いい答えだ、と思った。

平成15年度若頭責任者協議会最後のこの日は、責任者の全員が、酒があまり進まなかった。

 

9月22日 Post Festum 特別編

 

内田先生。

祭りが終わりました。

hp9月分、更新できなくて申し訳ございませんでした。

9月1日の「三郷の寄合」からは、毎日夜7時から寄り合いやら何やらで、終わってから深夜にまた阪神優勝本の編集と、「世の中にこんな忙しいもんあったんかの」超多忙状態でしたが、なにもかも今から思えば周囲りがやってくれたというか、おのずと「カシラ」として顔を出しさえすれば万事良しだったのかも知れません。

それを伝統というのかどうかはわかりませんが、段取りにしろ何にしろ、うちの町の「型」みたいなものが、確かにあったと思います。

けれども始まると、もう祭です。何が起こるのかは誰にも分かりません。

7日の試験曳きは、それこそ真夏の猛暑で、一人の死者を出した去年もそうでしたが各町、青年団が熱中症で病院に運ばれるもの多数でした。

五軒屋町も7人が曳行中に救急車を呼ぶようなことになりまして、またそのうち一人が、病院から帰った後、意識不明になり、命には別状なかったものの、肝臓と腎臓機能に障害を来たし、入院中です。

医者によると今の20代は、われわれと違って、小さなときに汗をかいていない環境で育ってきたので、汗腺の数が少なくて、熱中症になりやすいとのこと。背中にあせもを作っているようなガキは、最近もう見かけませんもの。

そういえば30代の後梃子やわれわれ若頭、さらに世話人さんで倒れた者は誰一人いません。

続く13日の試験曳きには、最終のカンカン場での遣り回しの際に、大屋根の大工方が転落してしまいました。大腿骨と手首を折る大怪我です。

その夜は各町の見舞客の応対、さらに堺町S字で屋根を当てていたので、損傷した破風の修理で午前1時までかかりました。

曳き出しの神事が午前3時からなので、わたしと前梃子係はほとんど徹夜の状態で、宵宮に突入しました。

怪我の経過は、16日火曜日に脚の手術をして、上手くいったようなのですが、hpでも書いたことがあります、だんじり大工の棟梁なので、ちょっとあとのことが気がかりです。

15日の本宮の最終のカンカン場で、よせばいいのに「今年はもうやめとけ。カシラとしては宮入りだけは許したる」と事ある度に再三言っていた前梃子コンビの同級生が持って、右のM人が転倒して、危機一髪。紙一重で頭の大きなタンコブだけで済みました。

最後の最後、毎年ながらのフルスピードだったので、これはとてもショックというか、病院から戻ってくるまでの約2時間弱の間、わたしはひざががくがくと震えるほど心配しました。

若頭詰所に、頭に怪我の手当をされて顔を見せた瞬間、「せやからもう持つな、て今年何べん言うたんや。一つも人の話を聞けへんやないか」と、怒りながら安堵感で泣いていました。

みんなは大きな事故も揉め事もなく「今年はええ祭りやった」といってくれてますが、ええ祭とか悪い祭とかではなく、まあ「祭らしい祭」だったといえます。ただし五軒屋町だけを見た場合。

hpにも再三登場していた、若頭責任者協議会で議長をしていた大工町の責任者が突然18日に亡くなったのです。

漁師の網元の息子として育った一つ年長の彼は、子供のころから体に障害をもっている人でしたが、中学校のときはサッカーの選手で、だんじり的に人よりも、思いっきり突っ張って生きて来たのだと思います。

彼が今年の若頭筆頭をすると決まったのは、わたしと同じで3〜4年前のことだと思いますが、一度心臓発作で倒れたこともあって、そのころから酒もタバコもぴったとやめていたのですが、本番の今年になって、みんなと同じ以上に飲み、ぼくやほかの町の若頭は、「つかまると朝まで帰れない」とあきれていたし、大丈夫かいなと心配もしていました。

さらにここ数年の大工町のだんじりは、足回りの改良のマッチングもあって、見ているほうがハラハラするほどの状態で、今年も試験曳きからアテまくりで、14日の午前には堺町S字で横転するわで、イケイケでした。

14日の昼メシの時間に、大工町の若頭詰所に見舞いに行ったら、さっと立って挨拶に応対してくれて「おう、すまんのう。遠いのに。うちは今年、何でも一番や。Sでこかすのん大工町くらいや」と、ちょっとアキレ気味に自慢してました

また大工町は宮入の一番くじを当てていたので、順番が宮三番のうちの町の後でした。すごいスピードの宮入の遣り回しで、観客の拍手が前を行くうちの町まで聞こえてきました。後でビデオを観てもおそらく今年の宮入のベスト町でしょう。

そんな順番上、神殿に上がってお祓いを受けたあと、彼と待合いで顔を合わせました。「ごっつい速かったんやてなあ」と誉めたら「当たり前やないか。今年は何でも一番や、ゆうてるやろ」。

最後の15日晩は、酒が入ってるのでいろんな揉め事が多いのですが、多分にもれず今年、大工町は喧嘩が4〜5回もあったそうです。

この町は、一昨年も昼の曳行中に、観光客衆人環視の中、入れ墨をちらつかせて見物に来た、とある広域暴力団のヤクザ4〜5名とだんじりを止めての乱闘をやっています。暴力団は祭が終わってから、町内にお金を要求しにきたとのことです。本当にこのつまらん時代を象徴するような、情けないシノギです。

「あいつら、喧嘩商売やのに、喧嘩負けて後から言いに来るんや。まあオレらが直接、話つけて半分にしたけどなあ」と酒の席で何度か聞きました。

そして今年15日の晩の灯入れ曳行の際、私服を着たやくざと揉めている若い衆に若頭として止めに入って、ヤクザに殴りかかられたそうです。

それが直接の原因かも知れないということで、祭明けの岸和田はちょっと騒然としたムードで、緊急に寄会も開いたりしましたが、司法解剖の結果、因果関係なしとのことでした。

隣の中之濱町の責任者のKは「終わってから、夜中会館、片づけてたらいきなり、カシラおるか、てうちに上がって来て、普段嫌いなビール飲んで、飲んだら食べへんのに、鮨やらぎょうさん食べてた。どないしたん、カラダに悪いで、って冗談いうたったんや」「終わったら、長い旅に出る、て変なこというてた。多分、また入院するちゅうことやとおもてたら、そうなった」

会長で筋海町のNは「13日に記念撮影してみんな帰ったのに、最後まで筋海で飲んじゃあった。そのあと、宮本行って五軒屋行って堺町行って、帰り道に通る町、全町回る、て言うてた」

実際、13日の試験曳き前の五軒屋町に、珍しく彼は法被姿で自転車に乗って一人で来て、昨年度責任者や旧知の同級生と話し込んでいました。それを神社での話と一緒に、わたしはみんなに話しました。

中学生のときの話から倒れる2時間前の携帯での話まで、あちらこちらの町の若頭の話は、どれも彼およびその語り手のみの関係性ゆえ、どれも独特でかつだんじりの世界そのものの過剰さにあふれていました。

葬儀場からは十数台の車とマイクロバスが霊柩車に続きました。火葬場へはまっすぐ行かずに、大工町を経由しました。

大工町のだんじりが通りに出ていて、鳴物が囃したて、100人くらいの祭衣装の町の人が見送ってました。

映画よりも映画みたいな光景の中、マイクロバスに同乗している多くの人が泣いていました。

彼のことはいつまでも語られるでしょう。昔、大工町の若頭に、誰よりも祭をしてきれいに死んでいった男がいた、と。

大工町ほかが激突した、紀州街道貝源小門の民家の屋根や壁はまだ弁償修理されてなくて、ブルーシートが掛けられたままで、例年の祭の激しさを、ポカンと間抜けた感じで残しています。

9月1日の「三郷の寄合」から祭当日のことは、腰を据えてがんばってスグに書きます。よろしくお願いいたします。

 

8月30日(土)

沼町若頭と花交換会。

この祝儀交換会は去年は沼町、今年は五軒屋町と年替わりで行われている。今年はわが五軒屋町が当番。

始めたきっかけは、もうずいぶんと前のことで、今のオレたち若頭はしっかり覚えている者などいないに等しいが、本祭の夜、うちのだんじりが自町から出発しようとしている時に、沼町が交差点に入ってきて、大喧嘩になった。その仲直りの手打ちと、次の祭のトラブルを避けることから花を交換するようになったと聞いている。

前年の喧嘩は、しっかりと話をつけておかないと、事あるたびに紛争になる。まあそれが、まつりごとなのだけれども。

日程についてはいろいろあって、例年1回目の試験曳きが終わったその後、双方汗だくの祭衣装のままやっていたが、もしどこかが曳行で事故でもあったらやりにくいし、試験曳きの片付けその他でせわしない、ということで、夏前から若責協会議ほかで顔を合わすたびに沼町若頭筆頭と話をし、この日に決定している。だから、みっともないことは出来ない。

会場は五軒屋町会館1階。普段は青年団の詰所であるが、この日はとくにあけさせた。

開始2時間前の午後4時、ビールとチューハイの飲食店業務用のサーバーを設置、酒屋から樽とボンベが運ばれる。

これらの段取りと仕事はすべて会計の管轄である。

「ちょっと泡の出、ええか見ちゃる」とすでにコップに注いで、会計の数名が飲み始める。「チューハイは、あんばい出るか?」「いや、ビールの泡の調子ちょっと悪いんとちゃうか」…こういう時の昼下がりのビールは祭の最中並にうまい。

そうこうしてるうちに鮨屋から60人前の出前、仕出し屋から料理盛りが届く。予約してある王将の餃子20人前と、にしだの肉屋のコロッケ(うまいぞー)と串カツは、5時半に取りに行く。ウスターソースも忘れるなよ。

5時過ぎに自町メンバーがほぼ揃った。座布団を整え、箸と皿のセット、乾杯用のコップをテーブルに並べ始める。それからそのための冷え冷えの瓶ビールと栓抜きも用意する。

6時5分。沼町の若頭15名が到着。すぐさま主催者を代表して、30秒の乾杯の挨拶をする。

「さあ、飲んでや、食べてや」。こんな感じで、いよいよ今年の祭に突入だ。

 

8月24日(日)

祭礼町会連合会主催の「明るく・楽しい岸和田だんじり祭」啓発大会が浪切ホールで午前10時より行われる。

この啓発大会は以前、市民会館で行われていたのだが、昨年から出来たばかりのこのピカピカのホールで行われている。

祭礼4団体の約60名が会館に集合、そこからぞろぞろとカンカン場まで歩いていく。道すがら、大北町の一行と会う。「おぇーす」「こんにちは」と顔見知りに挨拶交換。

それにしてもすごい建物である。20メートルはあるかと思う大屋根、エントランスのロビーは総ガラス張りだし、吹き抜けもすごい。これは岸和田ではないみたいだ。

普段は松山千春のコンサートとかはたまた歌舞伎など、チケットS席7000円的公演が行われているが、今日はバリバリの岸和田である。

受付を済まして案内されたのは1階席だ。町ごとに席が分けられていて、「五軒屋町」と勘亭流の書体で席が表示されている。

「おーい、こっちや」と青年団から世話人さんまでを誘導して。おとなしく劇場椅子に座る。

式次第が書いてある4ページものの「大会宣言」の欄には「…中略…わが愛し、誇りでもあります町「岸和田」においても例外でなく、未成年者の飲酒・喫煙・ヒッタクリ・恐喝・万引き・覚せい剤常用・暴走族行為・集団によるイジメ等々枚挙にいとまがありません。わたしたちをはじめとする各祭礼団体の秩序・規制・規律は大変厳格で、歴史と伝統を重んじた行動と姿勢には自信と確信を持っております。が、その「だんじり祭」が、時として青少年の非行と結び付けられることは、心中誠に残念でなりません。…中略…」と書いてある。

うーん、「枚挙にいとまがない」て、少年犯罪のデパートみたいやないか。未成年者の覚せい剤常用って、ちょおっとあんまりちゃうか。

この啓発大会は、市長・警察署長・消防司令長・教育委員長・市産業部長など、十数人の「エライさん」が壇上に上がっている。

祭礼関係団体代表つまり青年団、若頭、曳行責任者、町会などの連合会、協議会のその年の会長など5〜6名も全員スーツ姿で壇上後列にいる。

そしてその会長の一人ずつが、そのエライさんとTシャツつっかけ履きが多い客席のわれわれ(60人×21町=約1200人)に、決議案あるいは決意表明を朗々とスピーチする。

わが若頭の責任者協議会会長のNは「暴力排除決議」である。

北新地のチーママみたいなスーツを着ている司会者が、終わる都度「この決議に賛成の方は拍手して下さい」とマイクで言う。

何だかわからないけどパチパチパチ。

「ありがとうございました。決議しました」と司会者。

そういえば岸和田市長は、オレたちが小学生の頃からずっと、共産党系の革新市長だったなあ。関係ないか。

 

8月17日(土)

朝9時からだんじり小屋集合でツツミ巻き(8月2日参照)。

前梃子係中心に左右総勢20人くらいの人数で、一巻きずつロープを引っ張っては絞め、木槌で整え、丁寧にツツミを作っていく。

次年度若頭筆頭のM雄は、副責任者兼前梃子責任者であるが、おそらく相棒のM人と同じく今年が最後の梃子持ちになる。その前梃子最年長者の2人が弟子である、下の前梃子たちと、筆頭のオレをおちょくる。

前梃子A「ひろきくん、『若頭でいてる間で、一回、梃子持たしてくれ』ゆうてたけど、いつ持つん」

オレ「いつでも、持っちゃるわい」

A「ほな、試験曳きの一発目の小門、持ちいな」

M人「手前まで来て、『あかん、こんなんやってられるかあ。代われ』ちゅうに決まっちゃある」

前梃子B「『おまえら、殺す気か。』ちゅうて逃げるんちゃうか」

オレ「そんな時はなあ、『腹、急に痛なってきた。下痢や』や」

絞めたばかりのツツミに前梃子を入れて、微妙な操作具合をみながらボケとツッコミで笑う。祭の段取りには、どんなときにも言葉のやりとりと笑いがある。

かと思えば、急に「おい、ちゃんと力、入れんかい」「あほか、何やってんや」という罵声が飛ぶ。そういう極端なところが岸和田だんじりの世界だ。

ツツミ巻きは約2時間足らずで終了する。

12時半には各団体の幹部がだんじり小屋前に集合。10台あまりの車に分乗して、泉佐野の犬鳴山に参拝する。

犬鳴山七宝滝寺。大阪府と和歌山県の境の深い渓谷にある、弘法大師も入山した倶利伽羅不動を本尊とする修験山伏の寺だ。

わが五軒屋町は、盆明けすぐの日曜日に町会と祭礼4団体の幹部がこの寺に参り、護摩を焚いてもらって地車安全曳行祈願する。

約1時間、曲がりくねった山間の道を揺られて駐車場に着く。そこから参拝道をハアハア言いながら、タオルで汗をぬぐいながら10分くらい登っていくと、「ぷお〜」という法螺貝の音が聞こえる。

「これを大ボラを吹く、ちゅうふうに言うんやなあ」「こら、そんなこと言うてたら、バチ当たるぞ」

いつでもどこでもあいかわらずの冗談を言いながら寺に着く。

真っ暗闇の本堂では、不気味な太鼓と呪文の声、それからパチパチと鳴りながら炎をあげて燃える護摩が、毎年のことであるが、ちょっとおどろおどろしい。

お酒を奉納し、売店で身代わりお守りを人数分買って縁台に供え、本堂に上がる。

読経(祈祷)が始まる。神妙に聞き、護摩の炎で炙られたお札とお守りを頂き、帰路につく。

ここ数年、若頭の幹部として、また20年くらい前は、青年団の幹部として町恒例のこの行事に参加しているが、何故、いつからうちの町は犬鳴山参拝をするようになったかの疑問は、今年も明らかにされないままだった。

 

 

8月16日(土)

午後1時。岸和田地車祭礼物故者慰霊法要が福祉センターで行われる。この法要は毎年、浜の漁師が休漁する盆の8月16日に行われている。

もともとこの法要は、大北町の福田志げさん個人が、だんじり祭で亡くなった人の供養にと各町を回りその人の身元を調べ、昭和27年に執り行ったのを年番が引き継いだとされる。

出席者は年番長以下、各町会長、曳行責任者、若頭責任者、後梃子組長、青年団長の祭礼団体の長、市長、警察署長、消防長、市議会議長、そして遺族の方々。われわれ祭礼関係者は、黒ネクタイに役職を明記した襷をかけて列席。

お坊さんが「明治○×年×○町において9月×日○×歳男子○×ナニガシ」と一人ずつ読み上げ、法要する。

聞いていると、わが五軒屋町も明治時代に死亡事故をしているのが確認できる。

このだんじり祭で、明治時代から34人の方が命を落としている。そして最も多く物故者を出している中北町の同級生であり若頭責任者であるHは、祭で祖父を亡くしている遺族でもあり、2回焼香した。

4時からは喜平で筋海町との祭礼各団体の責任者親睦会。

隣町の筋海町は、曳き出しをはじめ地車の出発の際に最初に出会う町で、必ずうちの町に先んじて入るが、その依頼としての礼を尽くすために、毎年五軒屋町祭礼総会に町会長と曳行責任者が挨拶に来られる。

今年はそれがこの31日に行われるのだが、その前に顔合わせ、という意味の親睦会だ。

両町の各責任者、同じ祭礼団体の同じ役同士前に座って、酒を酌み交わす。筋海町のNとは今年に入って若責協はじめ、何回酒を飲んだか数え切れない。

盆明け初めての週末にあたる今日は、祭礼関係者にとって多忙な日なので、2時間足らずの酒席だった。

このあとは献灯台の設置である。そのままほろ酔い状態で現場へ行くと、すでに足場を組み始めようとしている最中だった。

6時から開始予定だったが、段取りがいい。五段組の台枠に配線し、一つずつ電球を付ける。40人で3時間あまりの作業で約150個の提灯を取り付ける。

岸和田の街に各町の献灯台が点灯されると、祭本番がやってきたことを今さらのように実感する。

8月10日(日)

朝8時から喧しいばかりの蝉しぐれの中、わたしたちほかは参拝者も誰もいない岸城神社の境内で記念撮影。

宮三町においての本年度の曳行責任者、若頭筆頭、後梃子組長、青年団団長合計12名が正装で集合。写真は先日、宮本町が修理入庫の際、看板を当てて壊した(笑)ムラタ写真館だ。

三町の纏を用意、その前でまず三町全員集合の写真、町だけの写真、そして若頭なら若頭だけの所属別の写真と一人あたり3カット。

この記念撮影は毎年の恒例であるが、先日初めてそれを知った。

帰りの道すがら、堺町の青年団が献灯台を設置しているところに出くわし、じろじろ見られる。

やっぱり祭本番でもないのに法被を着て街を歩くのはちょっと恥ずかしい。

 

8月9日(土)

午後8時から若頭主催の第3回勉強会。この日のテーマは「鳴物と曳き方」。

平成10年にだんじりを新調して、このところ寄り合いの席で、あるいは酒席で、今のわが町の鳴物に対しての違和感についてよく話が出てきている。

「五軒屋町にふさわしいだんじり囃子とはどんなものか」。それは並足太鼓の鉦と小太鼓のテンポの速さとリズム、大太鼓の手数、笛のメロディライン、遣り回しの際の速さ、切り替えの回数…といった要素で表現されるもので、多岐に渡っているが、一度われわれ若頭、拾五人組の鳴物経験者OBでまとめて彼らに問題提起をしようということである。

鳴物のパートは青年団が担当している。したがってわれわれ若頭は、彼ら「下の者」に説教するという形になりがちであるが、それでは話にならない。いかに「ゆうて聞かせる」かが肝心なのである。

「先輩たちは過去の鳴物だ。オレたちはオレたちの考え方でやっている」「何もわかってないくせに生意気言うな」というやりとりになれば最悪なので、そこはしっかり考える。

今年、大工方責任者のKは昭和50年代後半から60年代にかけて、カンカン場で横転するまでの五軒屋町の「全盛時代」といわれていた頃のビデオを準備している。わたしと前梃子係のNは鳴物についての以下のようなレジュメをつくった。

●太鼓の速さ(リズムの種類)とは。

・イ歩き ロ並足 ハ駆け足、がだんじり囃子の楽譜にも分けられ記載されている。

これが七五三の叩き分けである。

●うまく(勇壮に迫力を持って)走るために。

・問題となるのは、ロ並足太鼓 ハ駆け足太鼓で、俗に言う「曳き出し」は並足であり、「きざみ」は駆け足(疾走)である。

・並足「曳き出し」が「走らない」と言う理由で、どんどん速くなり、駆け足「きざみ」に近くなると、区別がなくなり、メリハリがない。どんどん速くなるともうそれ以上はなくなるので、走る方も鳴物も追いつめることになる。またそういう叩き方、リズムは岸和田の演奏法ではない。

・まただんじりの美しさ、勇壮さ迫力を見た場合、大型の岸和田だんじりとくに五軒屋町にはそぐうものではない。

・太鼓も田舎のものよりも数段と大きいし、その重低音に魅力がある。それを十二分に引き出すことを心がける。

・太鼓、かけ声(前、後とも)がぴたっと合った時に、本来の岸和田だんじり祭らしい姿、ムードになる。

・だから並足「曳き出し」をいかにうまく叩くかの技術とセンスにかかっている。

・並足「曳き出し」は三種類ぐらいの速さで正確にメリハリを付けて叩き分ける。それは1だんじりが出発する際、2走った後のつなぎ、3走り直し、である。

・3の走り直しの際に、どんどん速くして「きざみ」に限りなく近くなるから、一定の速さで走らない。2で走るのが長ければ長いほど、いいムードだし、だんじり全体が大きく迫力があるように見える。

・「叩きなおし」は、だから並足「曳き出し」の一定のリズム、同じ速さ(堺町、南町のように)で走り直す(叩き直す)こと。ちょっと考えるとわかるが、2と3の速さが同じなら、長く走るはず。

・大太鼓の手は少なくすると、かけ声をかけやすく、チョイ取りもあわせやすい。追い太鼓はやりまわしの際だけにする。

・本当に走らせるなら「きざみ」で走る。ただ長く続かないのはあたりまえ。チョイ取りもあわせにくい。

●大太鼓の弾奏法について。

・岸和田の大太鼓は例を見ない。鏡の直径は3尺余りあり、それに関わらずさらに胴が鏡に比べて大きくて長い。したがって重低音に本質がある。

・太鼓正に以前、話を聞きに行った際、「倍音」の特徴を聞いた。それは岸和田の太鼓は「唄を歌える」ということである。

・音楽の楽譜で「ド」と1オクタープ上の「ド」が、タッチの強弱とブチの片手両手使いわけで、自由に鳴らせることができることに値打ちがある。

・その長所、魅力をよく認識すること。すなわち、「手は少なく」「強弱メリハリ」「両手片手打ち分け」を意識する。

・だから追い太鼓では全くダメであるし、それだけでは全く岸和田の大太鼓の良いところを出せない。言うなれば宝の持ち腐れである。

・裏打ちの技術習得。デン・デン太鼓ではない。デ・デーン、デッ・デ・デーン。「デーン」を意識して叩く。

ダイジェストをすればだいたい以上である。

KもNも祭礼においてのその役柄で、青年団、つまり「下の者」からすれば説得力満点の先輩方であるが反面「口うるさい若頭」の筆頭である。Nは「あいつらの太鼓の叩き方、色々考えてたら腹立ってきて、夜中寝られへん」とのことだったし、Kは「こないだ撞木(鉦を叩くバチ)を小屋の中にほったらかしにしてた。道具もだいじにせえへんような奴は、ハナからあかん」とボロクソだ。

こういう話の場合は、まず「相手が何を理解していないのか」を理解し、相手のわかりやすい言い方で話すことが大切である。そのとき「解った」つもりになっていても感覚的に身体で解っていないと本番ではダメだし、祭はその場その場で状況が違うので「こう叩け」「はい、そう叩きます」というわけにはいかない。

だから「曳き出しの大太鼓は、ロックと違ごてジャズでいかなあかん」「ダンダンダンダンのハウスはあかんぞ」みたいな言い方も連発だ。

若頭、拾五人組はもとより大勢みんなの前で、鳴物係の若い衆だけ矢面に立たせるのは、ちょっとかわいそうな気もするが仕方がない。

 

8月5日(火)

午後7時半から別所町にある料理屋の末松屋で宴会。

今年最後の若頭連絡ヲ議会の例会だ。ということは全員、これで最後。人生において最後の若責協の寄り合いである。

先月の例会で、もうこれ以上の懸案事項や議題はないので、今回の最終回はだんじり会館会議室でななく座敷で、ということが決定してあった。形式とかをあちらに追いやっての、その心配りがニクい。執行部に感謝だ

7時過ぎに末松屋着くと、1階のテーブル席ですでに浜の連中が生ビールと小鉢のアテで一杯飲っている。

「おー、江。今来たんか。今日はあっついやろ。あー、おばちゃん、こっちに生中ひとつやって」

浜の人間は、万事がこの調子である。時間がある限り、お代わりも連打連打である。

「おっ、もう時間やど」。ジョッキに残っているビールを一気に流し込み、2階の会場に上がる。執行部および天神のメンバーが早くも座敷についいている。

会長の筋海町のSの最後の乾杯の挨拶は「皆さん、本当にありがとうございました」の繰り返しだったが、本当に春の安全祈願祭以降、ほとんど毎週末に寄り合いをしていたという執行部三役こそ、本当にお疲れさま、であった。

この日は全員、飲む気満々。すさまじいペースと本数のビール瓶、焼酎の5合瓶が空いていく。丼鉢に山盛り入れてある焼酎用の梅干しのお代わりもしたくらいだ。

その席で、若頭として毎年「花を交わしている同じく」大手町の責任者のT、沼町のMくんと日程の打ち合わせ。沼町は30日(土)、大手町が31日(日)で決定。どちらも今年は、うちの町が当番年なので「御招待」という形になる。

会長のNが珍しく席を換わり換わり酒を注いで回る。返杯をする奴、「おー、やっと終わったのお」とねぎらう者、何やら町同士の話をするメンバー、さまざまだがとりあえずこれでおしまいだ。

こんなに和気藹々と酒を酌み交わし、話し、笑い…としているのだが、祭当日になると、その町、町で全く事情が違ってくる。何が起こるのかわからないし、町同士揉めることもあるかも知れない。

「行く時は、行かなしゃあない」である。

そんなだんじり祭の本質は、おそらくこのメンバーの全員が知りすぎるほど知っているのだと思う。

若頭はつらい。

 

8月3日(日)

 

宮三町の町会主催の懇親会が本年度当番町の宮本町で行われる。

参加者は各町の町会長、曳行責任者、世話人代表、若頭・後梃子・青年団の長の7名ずつ。

先週26日は、同じ場所で宮三町若頭の「花交換会」があったばかりだが、そちらが大広間での三町合同飲み会、といった趣だったのに比べ、町会の懇親会は全く感覚的に違う会合だ。

広間にはロの字型にテーブルが並べられ、パイプ椅子だが椅子もセットされている。

上座に三町の町会長、宮本町がそれに対する正面後ろ、上町と五軒屋町が左右の席である。そして「宮三町の謂われ」と書いてある小さな冊子が置かれている。

「一杯呑みと違ごて、これは食事会やな」と、隣の席に着いたいささか緊張気味の後梃子拾五人組の組長のKに囁く。おたがい去年の祭が終わり、筆頭と組長を引き継いでから、こいつとも何回こういう席で一緒に飲んだだろう。

豪華な幕の内弁当が配られる。長テーブルの幅いっぱい、B3サイズくらいあるすごい豪華な弁当だ。

司会は宮本町会の方で、会計さんあたりだろうか。まず宮本町会長紹介のあとのご挨拶。続いて岸和田市の郷土史家のタマタニ先生が紹介される。岸和田祭においての宮三町、つまり宮本町、上町、五軒屋町のなりたちから江戸時代、明治そして戦後まで、とても面白いお話しである。

とりわけ、わたしたちが小学校の時から社会の授業で習った「岸和田」の地名の由来は、南北朝時代「岸」の村に楠木正成の一族の和田高家が和泉国守護職として築城し「岸の和田」で岸和田、となった説が、このところの研究ではそうではなく、「岸のわんど(湾)」が変じで岸和田となった、という話はかなりのインパクトだった。

 

宮三町の旧岸和田村は、太閤検地にも記載されている江戸時代以前にすでに今の形になっていた。だから岡部藩が岸和田に入ってから造られた「町・浜」のほかの二郷よりはるかに歴史がある。

70歳くらいの町会長から20代の青年団団長まで、そんな郷土史家の先生の話に「ふむふむ」と頷きながら、真剣半分に聞いているスタンスはなかなか心地が良いものである。

そのあと乾杯。そして自己紹介がある。岸和田の祭礼関係者のこんな場の自己紹介は全員が全員「×町の今年×○責任者をやっています○×です。お願いしときます」という、これ以上短いものはないという自己紹介だ。

なぜなら同じ団体、例えば若頭なら若頭同士は絶対知らないということはないし、違う団体、例えば町会と青年団の場合などそれこそ祖父/孫の世代の差があって面識がない場合も、隣に座っている自町の青年団に「あれは誰や?」とその人となりを訊けばよいだけである。

それにしても、去年の筆頭には宮三町の町会の寄り合いがあると聞かされていたが、花の交換つまり祝儀のやりとりもない、こんな内容の会合とは想像もしなかった。

本当にいろいろあるもんである。そして町会長以外は一年だけの長なので、実際は昨年のことも知らないし、もちろん来年のことについてはわからない。こういうのが宮三町の町会懇親会で、今年のこれはたぶん宮本町々会の仕切り方、やり方なのであろうと憶測するだけである。

来年の当番は上町だ。そして町会長以外、ここに来ているメンバーの全員が入れかわる

 

8月2日(土)

わが五軒屋町若頭の寄り合い。祭礼準備のためのさまざまな段取り日程が決定していく。

その「段取り」は、若頭の責任管轄として、だんじり曳行のための車両としての本体の足回りを中心とした整備が主である。

まず、前梃子をセットするためのツツミ巻き。ツツミというのは、前梃子を据えるための造作で、コマにうまく前梃子がかませられるように台に取り付ける。

前梃子は曲がる際に前輪内側のコマに、檜の梃子をかませるもので、ブレーキ効果ときっかけをつくる。そして「前梃子係」は若頭の最重要パートである。

取り付けるといっても、3種の太さのロープを1巻きずつ巻き、それを10人ぐらいで「せーのー」でひっぱって絞め、木槌で叩いて整え、また巻き…と、大人数で行うほとんど伝統工芸的な作業だ。そしてこの「ツツミ」の構造や形状は町によって違う。

このツツミ巻きは8月16日に決定。

続いてコマ替え。だんじりのコマつまり車輪は、一年の祭で少なくとも2回交換する。コマは木コマなので適度な水分を含んでいないと割れるし、第一それ以外の材質だと摩擦係数が違うのでやり回しができない。何故そんなものが、いつから使われるようになったのかは誰も知らない。

直径2尺あまりの松材の中にドビ(ホイール)を入れ、その4つの対角線のボルトナットをコンプレッサーのレンチで締める。前輪2輪と後輪2輪はドビの形状が違うし、以前書いたことがあるが、それを取り付ける芯金(車軸)との接点つまり回転部分にその町独自の「最新の企業秘密」があるわけだ。

その前後の車輪と車軸のセットを、同じくコンプレッサーでジャッキアップした地車にセットアップする。ほとんどF1グランプリの世界だ。

このコマ替えは8月31日。その年初めてだんじりを曳行する試験曳きの9月7日の1週間前である。雨よ降るな。

この2つが毎年のだんじり本体の「段取り」の主なものだ。あとは「花寄せ」つまり御献灯設置を含めた寄付集め。

ここ数年は近年まれに見る不況で、件数も額も減ってきている。子どもの頃から「景気がよくても悪くても、だんじりの花は、昔から一緒」というそんなことを聞かされてきて、実際その通りだったが、どうもここ数年違ってきた。本当に前代未聞であり、なんだかイヤな時代だ。

 

8月1日(金)

編集部を6時過ぎに抜けて岸和田へ。平成15度若責協中央地区七町の月例会がある。

新年から続いたこの月例の寄り合いもこれで最終。8月に入ると各町内の寄り合いや祭の段取りが、それこそ毎日のようにあるので、各町の代表が寄ることは困難になってくる。

これで最後の会合なので、来年の引継ぎの意味も兼ねて、1町あたり正副責任者(今年と来年の責任者)2名、若頭連絡協議会の2名の計4名ずつが出席。結構、大きな会合だ。(といっても酒席であるが)

「皆さんご苦労さんでした。皆さんのおかげで運営はやりやすかったです。これ以降は、町に帰って忙しくされることと思いますが、今年はええ祭にしてください」

副会長の南町のWの乾杯の挨拶を聞きながら、祭がそこまでやってきていることを実感する。

そのあとに来年度責任者予定者と若連協のメンバーの自己紹介が加わる。来年すなわち9月16日以降は、われわれ今年の責任者に替わって、彼らが同じように寄り合いを重ね、同じように取り仕切るようになる。

この日の会合はちょっと贅沢に、堺町にある有名な千亀利寿司で宴会。一町二万円也、の会費が飲み過ぎでオーバーし3千円ずつ追加徴収したほかは、何ごともなく終了。

締めは宮本のK。天理大の応援団出身である。さすがの三本締めで、ピシリと締まる。

帰りに示し合わせて、本町の来年の責任者Hと同じくうちの来年の責任者のM雄の3人で、喜平で飲み直す。この2人も小中と同級生であるが、わたしとは一年ずれて若頭責任者をやる。

とりわけワイン主体の酒屋の大将である本町のHとわたしは、祭以外でも大阪キタや神戸でよく会っている。M雄とHは、社会人になってほとんど祭礼関連でしかクロスしていないが、わたしは「あいつとやったらやりやすい」という話を双方から聞いている。

M雄は来年、若責協執行部で会計に当たっている。これは町ごとの順番、つまり年回りである。そのあたりの協議会運営の話や浜地区の責任者はどの町が誰で、という話を極めてフランクに交換する。

3人とも明日は朝から仕事があるので、11時過ぎに切り上げて帰ることにする。はじめは実家に泊まろうと思っていたが、電車がまだある時間なので神戸に帰ることにする。

明日は夜8時から町内の寄り合いだ。

 

7月26日(土)

宮三町の若頭主催の花交換会が七時半から本年度当番町・宮本町の会館で行われる。
毎年持ち回りで、昨年はうちだった。

この懇親会は毎年恒例で、岸城神社の宮三町、すなわち宮本町、上町、五軒屋町の若頭と後梃子組の親睦と結束を図るということで行われている。

実際はそんな大層な理屈ではなく、「毎年やってるから、やってる」のに違いないのであるが、花(祝儀)の交換というのが、だんじり祭の社会では結構意味がある。

祝儀を交わすというのは、友誼関係町にあるということで、例えばT町とS町が「花を交わしている」関係としよう。その際に、T町がどこかの町と、町同士の喧嘩になったとする。その場合、T町はS町に助っ人を頼み、S町はそれに応えその喧嘩に加勢する、ということも極端な話、ありうるのだ。

花の「重さの度合い」はあるにせよ、いわば外交上の友好条約みたいなものである。

うちの五軒屋町若頭は、この宮本町・上町の若頭と大手町、沼町の若頭同士で毎年、花を交わしている。もうたいへん前の話だが、大手町とは潮かけの際の紛争、沼町とは夜間曳行の先行争いをした結果、その和解の印としての「花交換」だと伝えられる。

またわが町の場合、上部団体の世話人が大工町と花を交わしている関係がある、と同じ町でも団体ごと違うのでちょっと複雑で、この微妙さはシロウトにはわかりにくいと思う。

話を宮三町に戻すと、地車が本祭一五日に岸城神社に宮入するのは浜地区七町と中央地区七町の計一四町であるが、岸城神社の元々の氏子は旧岸和田村宮本町、上町、五軒屋町であり、この神社の例大祭が岸和田(村)祭である。

われわれの岸和田祭りの祭礼としての複雑で微妙なところは、この岸城神社の祭に地車の城入りが加わったところにある。

譜代大名の岸和田藩領主岡部氏・三代の時に、京都伏見稲荷を三の丸に勧請、その祭礼に城下町の庶民の参詣を許し、その時に車付きの屋台すなわち地車を曳いていった。これがだんじり祭の原点だ。

その地車の城入りの順番は江戸時代から続く「三郷の寄り合い」(毎年九月一日に行われる)のくじで決まる。

けれども城入りすなわち岸城神社の宮入りなので、宮三町は宮入の順番が「番外」という特権がある。宮三町はくじを引かないのだ。

若頭現幹部と顧問、相談役そして前梃子係の三名、大工方二名、拾五人組の幹部五名、計一五名で宮本町会館へ20分前に着く。

「五軒屋町さん、来ました」会館前で待機している宮本の参拾人組の若い衆がそう伝えると、宮本町若頭・参拾人組が総出で出迎えてくれる。

同じ筆頭のKに「おう、ちょっと早すぎたか。すまんのお」というと「いや、はよ上がってくれ」と席を勧められる。

上町はまだ来ていない。お構いなしに、ビールがじゃんじゃん注がれる。

「もう先に、飲も飲も」。こういうところが宮本町である。乾杯発声なんか関係ない。

注がれ注ぎ返し、2〜3杯やった頃に上町到着。

早速、宮本のKの当番町らしい腰が低くて気の利いた挨拶。乾杯発声は上町責任者。

和風のオードブル、にぎり寿司をばんばん食べ、本当に宴もたけなわとなった時を見計らい、花(祝儀)と清酒の交換。若頭筆頭同士、後梃子組長同士、三町巴で行われる。拍手。

締めの挨拶は、オレである。

だんじり祭はそれぞれの町の祭があり、そこに自分の祭がある。また浜には浜七町の、天神には天神の祭がある。けれども岸和田祭で岸城神社の宮三町の祭は、それらと意味が違う。という冒頭で、いきなり拍手を受けた。それを手で制し、ぺこりとお辞儀をして、「事故のない楽しい祭になるように祈念し、一本締めをさせていただきます」。

「よーぉ」シャン。

 

7月22日(土)

「岸和田地車祭礼 地車曳行に関する自主規制自主警備」。この祭礼年番の岸和田地車祭礼実施要項をもらえるのは、その年の町会長と各団体の責任者4名のみだ。これは一生の記念としても十分なシロモノである。

先日もすこしふれたがこの冊子は「平成一五年度祭礼に際し、年番は左記の六項目を重点指針とする」の「年番指針」に始まり。「曳行基本事項」「主要行事」はもちろん「地車のすれ違い・追越し」「纏の位置」「乗車人員」といった指示まで、印刷の級数でいえば50級くらいのデカイ楷書の文字で書いてある、A4判30ページくらいの堂々たる冊子である。

先日の勉強会でも町内のみんなに見せたが、会社に持っていって、弊社販売部長の中島くんに「これ、どや」と披露した。 彼はだんじりウォッチャーで岸和田人のよき理解者である。

彼は「ほほぅー」と熱心に頁をめくっていたが、「一、地車曳行に参加させてはならない者」の項をみて、感嘆していた。それは簡潔に表記してあり、以下に全文を掲載する。

一、地車曳行に参加させてはならない者
(ア)各町で定められた装束を着用していない者。
(イ)酒に酔った者。
(ウ)裸体者。(半裸体者も含む。)
(エ)暴力団名等を表示する者。
(オ)暴走等事故につながる行為をあおり、そそのかす者。

「裸体者、半裸体者ちゅうのは、入れ墨を見せるなということですか」 「まあ、そうとも読めるわなあ」

「暴力団名等を表示する者、を明記しているということは、いるからですねえ」
「参加したことがなかったらわざわ書けへんわなあ」

「これもすごいですねえ」と感激させた項目は以下である。

一、曳行停止規定
(ア)町相互間における暴力行為。
(イ)人身事故。
(ウ)警備に携わっている者に対する暴力行為。
(エ)自主規制に故意又は重大な違反行為。
(オ)重大な物損事故。

曳行停止というのは、年番自主規制のなかでの最も重い措置である。全く字ヅラ通りで、祭はそこで終わり。だんじりは曳くことができない。

今で言うところのこの曳行停止は江戸時代からもあったようで、天保3年の古文書にも「喧嘩口論候ものあれば、其ヵ所ヵ所壇尻以来差出候義、きっと御差留なされ候事」とある。

「町内の暴力行為や観客とか警備以外の人への暴力行為は、曳行停止やないんですねえ」
「そらそうやろ、書いてないもん(そんなん曳行停止になってたら、全部が曳行停止や、とは言えない)」

こらこら、祭礼関係者以外は関係ないから、あまり深読みはしないように。

 

7月20日(日)

平成20年度に新調が決定したばかりの北町の原木祭へ行く。

中央地区の若頭責任者6名は、午前8時に欄干橋前に集合。祝いの清酒6本を会場の岸和田信金駐車場に持っていく。

この北町(きたんまち)は現在の岸和田型地車の起源となる町である。

天明5年(1785)この町の油屋治兵衛が泉大津方面より大型地車を買い入れた。
その地車が今の岸和田祭のだんじりの原型になったと伝えられている。そして翌天明6年北町、北組大工・安右衛門方で、だんじりを新調。それを3〜4年曳いた後、町中大工が寄って、新たなだんじりを油屋治兵衛方で作る。その後、南・北組大工が一緒になって、だんじりを作る。

資料によればそう紹介されている。そして今回新調にかかる地車は、北町としては六代目になるそうだ。今曳行中の地車は大正6年新調、「明治の左甚五郎」こと櫻井義国彫刻によるだんじりである。

原木祭は、そのだんじりの材料となる欅(ケヤキ)の原木を披露し、神主がお祓いする。

町名が大書されたテントが設置された受付で、丁寧な挨拶を受け、記帳する。そして早速、原木を見せてもらう。

長さ3メートル、直径は一番太いところで1メートルは優にあるだろうか。大工仕事を請け負った植山工務店の棟梁で、わが五軒屋町の大工方のsが来ていたから「ごっつい木いやのお、どこのんや」と訊くと、「千葉の木いや。石原慎太郎の東京都知事賞、取ってるで。ええ色やで」との解答。ちなみにだんじりの材料に選ばれる欅は、九州の大分や宮崎産が多く、平成10年に新調完成したわが町の原木は大分県日田産に求めた。

その欅は売買が、競りではなく入札である。産地に「岸和田が買いに来ている」という噂が流れると、たちまち高騰するとの話もよく聞かれる。

北町の印半天姿の男でごった返す会場で、顔見知りの先輩方や同級生を捜し、しばし立ち話。そして長居は無用とばかりに切り上げて会場外へ出て、同じ若頭筆頭のMに帰る旨の挨拶をして失礼することとする。

こんな時はまっすぐ変えることがない。で、喫茶PMへ。ホットドッグとゆで卵つきのモーニングセットをみんなで食べ、わいわいと話をしながら、そう言えば一足先に帰った宮本町のKが「修理から帰ってくるんや。たまにはうちの町のだんじりも見てくれや」というとったなあ、と店を出て、まだ開店前のシャッターが下りている駅前商店街を上がる。

岸和田駅前の広場では、タイミングよくトレーラーからだんじりが下ろされていて、青年団が曳き綱をのばしている。後梃子もスタンバイしている。ここから約100メートルの自町のだんじり小屋へ曳いて帰るのだ。

「太鼓は積んでへんか?」「いや、積んでへん」Kは答える。よく見るとブレーキも外されたままだ。前正面の台に大工方のTほか、数人が乗る。

「いくぞ〜」。青年団の団長の声とともにだんじりがゆっくり動き出す。「そーりゃ、そーりゃ…」

われわれもそれについて歩く。「なんかシンキ臭いのぉー」「こんなんかぁ」。「口太鼓でも、せんとなあ」とはやしたてる。

そこは、調子モンの宮本町だ 「チンキチン、チンキチン」と前乗りの、その昔20年ほど前、絵に描いたやんちゃ坊主だったTほかが、だんじり囃子のリズムを大声ではやし立てる。

「おい、おい、走る気か」「お、宮本、走るぞ」。だんじりが走る。こちらも後について駆け足。

さあ、どうする。だんじり小屋は、左へ細い道を曲がらないと…大工方が寄せようと左に合図する。後梃子がちょい取る。

ああああー。ガッチャン! ムラタ写真館の看板にそのまま激突した。

「やってくれるわ、さすが宮本」「原木祭なんか、もう飛んでもうたのぉ」「いやいや、エエもん見せてもろた」

こういうところが宮本の宮本たるゆえんである。またこういうハプニングがあると、その話が2倍にも3倍に増幅されて伝わるのが岸和田だ。

 

7月19日(土)

五軒屋町の会館で第2回のだんじり勉強会。

今夜は五軒屋町のだんじりの歴史とだんじりの構造について。

筋海町から「だんじり博士」と異名を取る泉田祐志さんがゲスト。彼はオレの2つ下で、幼なじみだ。子どもの頃から「爺」と呼ばれていた、そういう人格者だ。

前回に引き続き、ざっと100人の世代を越えた、わが五軒屋町の愛すべきだんじり野郎が集合。

まず主催の若頭を代表してオレの挨拶。

昨日の合同路線説明会で持って帰ってきたばかりの祭礼年番の「岸和田地車祭礼実施要項」を見せる。

「みんなこれを見てくれ、これは今年の祭の憲法や。その3番目の項目見出しをこれから読み上げる。ええか。」

「一、各町の地車の由来並びに彫り物・飾り物等の宣伝に努め、また伝承の地車囃子を正しく演奏のこと。」

「こう書いてある。それで自分とこの町のだんじりの彫り物とか大工仕事とか形の特徴とか知らな、なにがええんか、どこが秀でてるか宣伝でけへんやろ。だからよく聞くように」と調子がいい。

最後に「ええ、今晩は皆さんご承知のだんじり研究家で、その博学と語り口は岸和田一、ということは日本一、ということは世界一の泉田さんに来ていただいてます」と紹介すると「いよ、世界一!」との声がかかった。

ちなみにこの日の話のネタは、泉田さん原稿のこんな感じで岸和田だんじり祭振興会のHPや地元商店街の瓦版的PR誌に出ている。ライブ説法の方がずっと面白いけど、紹介しよう。

 

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土呂幕一本勝負 その弐 
文/泉田祐志(地車研究)

 

五軒屋町 土呂幕正面 槍摺乃鎧(やりずりのよろい)

平成10年新調 彫物師・岸田恭司

●土呂幕を鑑賞する

 岸和田型地車の土呂幕は、ほかの地域の山車や屋台などでは、堂宮用語と同じく「胴羽目(どうはめ)彫刻」と呼ばれているが、知るところでは岸和田独特の部分名称のように思われる。
 では何故、「土呂幕(どろまく)」と呼称されるようになったのか。
 口伝によると、その組み込まれる位置が土台の上にあって地面に近く、かつての道路などでは砂埃があがる、さらに岸和田地車祭は下駄祭と異名がある通り、雨天の季節とも重なり、したがって泥や水がかかりやすい。したがって大切な彫物をそれらから守るために泥除け幕がかけられていたことから、土呂幕となったといわれている。
 よって「胴羽目彫刻」と呼ばず、「土呂幕」と呼称するのがよろしかろう。
 土呂幕はだんじりの中でも見送りと並び、最も見応えのある箇所である。子どもの頃にはその身長ゆえ、一番視線の合うところであり、それ故深く印象に残っている箇所である。
 もちろん地車のなかを見ても、彫刻面積が広く、真に迫力のある題材・図案の彫物が彫られ、彫物師の腕の見せ所でもある。とくに正面土呂幕は、その地車の彫物棟梁が自ら彫刻する部分であり、彫刻そのものの意匠に工夫を凝らすだけのみならず、他町と違うもの、個性のあるものをと題材を考えてある。よってじっくり鑑賞していただきたいものである。
 岸和田地車の彫刻には、ご覧の通り、主に騎馬による武者合戦の図柄が多く、勇ましい作品がまことに多い。全国数ある屋台、山車の中でも馬乗り武者がこれほど多く彫刻されているものは珍しく、岸和田ならではである。これは岸和田の地車祭の勇壮さと相俟って、よく気風をあらわしているといえる。
 また彫物を見る際には、色々な方向・角度から見ることができるが、やはり目線は同じ高さから正面より見るのがよろしく、そのように彫物師の方も彫られている。

●槍摺乃鎧 図柄説明

 それでは昨年ご紹介した南町に続き、今回は平成10年8月に新調された五軒屋町の地車の土呂幕正面を紹介しましょう。

 豊家を滅ぼさんとする家康の老獪なる策により、東西手切れとなり徳川豊臣は対決の時を迎える。
 時は慶長一九年(1614)、大坂冬之陣十一月二十一日のこと、家康は見廻りのため住吉の本陣を出発した。家康を亡きものとせん眞田幸村は、忍びの者の知らせを受け、伏兵をして家康の行列を待ち伏せ、短筒にて一発発射し、家康の命はこと切れた。
 されどこれは家康にあらず、出発前に神号の旗が折れたことによりて家康の名代をしていた米倉和泉守であった。
 これを見し家康はぶるぶると身を震わせ、住吉の本陣へ引き返さんと、前内裏島まで来ると「我こそは後藤又兵衛なり」と槍を捻りて突きいってきた。逃げる家康またも「我こそは長門守木村重成なり、家康殿の白髪首貰い受けたし」と打ちこまれ、続きて眞田大助も討ちこんできた。
 このことに家康の旗本衆は総崩れとなり、家康、馬に鞭当て素早く逃げ落ちた。そこへ後藤又兵衛面倒なりと槍を投げかければ、見事家康の馬の尻に命中す。堪らず馬はのけぞりて、家康はどぅと下へ転げ落つ。ここに旗本大久保彦左衛門さっと走り寄りて、家康を小脇に抱えよし葦の中へと逃げ込んだ。そして家康は腐った大木の水溜まりは落ち込んだ。
 そこへ幸村自ら来たりて家康を探し、よし葦の中へと三度まで槍を突き入れ家康の鎧をかすめるも、徳川旗本の岩渕主税駆けつけて、幸村は出丸と引き返すこととなり、家康は一命をとりとめるのである。この鎧は後世「槍摺乃鎧」として、徳川家の家宝となったのである。

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●岸和田型地車の特徴

 今回は岸和田型地車のなりたちについて思いを馳せたいと思う。皆様方は岸和田型地車の姿見をご覧になったとき、何とも美しいという感じがおこるまいか?私は全国津々浦々に沢山のだんじりや屋台・山車がある中で欲目を含めて岸和田型地車の姿見の美しさは天下一品であると思う。誠に美しい。この地車のなりたちについて今回は話しを進めたいと思うのである。

 今、残る文献を繙くと天明五年(1785年)に岸和田北町の油問屋治兵衛さんが泉大津より古だんじりを借りて曳こうとするも大きすぎて御城の門を通れず、急遽、杉丸太の柱に仕替えて屋根を下げ曳行したといわれ、これが今のだんじりの初めであるという。それまでは城の門をくぐれる簡単なものであったことが推察できるのである。文献にはこれ以前に担いだんじり(かこい檀尻)があったことも記されている。

 

 ところで、だんじり祭の発端は定かではなく、地車は一般に、「二尺五寸の車付引檀尻にて太鼓打一人乗り云々」とあり、長持ちに車を付けたようなもので、その上で俄芸・神楽や鳴物などをしたのだといわれ、これを城入りもして殿様の前でこれを披露したともいわれる。

 天明五年までは比較的簡単なものであったといえる。しかし明くる六年、銀三百匁にて北町が地車を新造し、この年より地車新造の願いが見受けられ、祭礼の行事録の文献も記述に多く残るのである。

 さて、立派で大きな地車新調に際し、必ずクリアせねばならぬことがある。それは、城門を通らねばならぬこと、いわゆる城入りをするということである。(このことは全国の祭の中でも珍しく特異な祭の要素である。) このことをクリアする方法として考案されたのが屋根の上げ下げが容易にできるカラクリ地車の作事であった。岸和田型地車の美しい容姿を決定づけるカギとなる要素である。屋根の上げ下げをさせるため、それまでは土台から屋根までが通り柱であったものを途中で縁を切り丸柱と筒柱とに分けたのである。丸柱はいわゆる四本柱で外から見える柱であり赤引幕のまかれるところである。この柱を上下させるために土台から立つ柱を大きく木取り、土台にどっしりと立て、内側に溝をついて丸柱を立て、ずれぬように下は角のままとし、上は丸められたのである。上が丸められたのは思うに屋根の上下時に少しでも摩擦を柔らげるためであろうと思う。そして筒柱の名称であるが、筒のような丸い柱を上下できる溝のつかれた柱、あるいは丸柱をつつみこむように支える柱ということで付いた名前であると確信する。この筒柱は存在は各地の山車・地車・屋台にはなく岸和田型地車独特である。このことが岸和田型地車の容姿を美しく決定づける根本なのである。

 皆様、コーラの瓶をご存知か? この瓶の製作にはこんな話しがある。瓶の姿を女性の美しい姿をイメージして作られたというのである。岸和田型地車もこの容姿と類似する。大阪型・住吉型・堺型などの上地車は土台から上までが通り柱でありズンドウでありくびれがない。しかし岸和田型は丸柱が中に入ったことによりくびれが生じ柱の外側に向かって沢山の枡が組み上げられ豪華で美しい姿となったのである。その根本が筒柱の存在であり岸和田型の大きな特徴として取り上げられるべきことである。岸和田型の特徴である筒柱の誕生、それは遠因として城入りがあったことも確かな事実である。皆様方は如何お考えか? 地車好者の間で色々と話しのねたになるのも面白いと思うのである。

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編集者のオレは、何としても、幼なじみの彼の研究書を上梓し「各町の地車の由来並びに彫り物・飾り物等の宣伝に努め」たいものである。

 

7月18日(金)

だんじり会館にて合同路線説明会。

午後7時からだが、わが五軒屋町は自町会館に6時15分集合、そこから歩いて岸和田城堀端のだんじり会館へ。

年番長主催のこの会合は、三郷の寄り合いと並び、祭礼前の行事としてもっとも重要なものだ。 メンバーは年番および全21町の町会長、世話人会から曳行責任者と交渉責任者、そして若頭、拾五人組、青年団の長(責任者)。

本年度祭礼のだんじり曳行のすべてのコースと時間が告知され、さらに岸和田だんじり祭の「自主運営・自主規制・自主警備」の三大原則の徹底遂行・実施確認が、年番以下すべての町の町会、祭礼関係者、および市、警察、消防、市民病院の責任者間で行われる会合だ。

開会30分前に着くとすでに年番が揃いのTシャツ姿で揃っている。記帳するように言われ、全員が交代で名前を書き、会場へ入るとこれまたすでに3割くらいの町か待っていた。

一町に一つ、町名の札がある5人がけの長テーブルに座る。今年の年番指針から祭礼実施要項、地車曳行上の遵守事項まで書かれた30ページの冊子や曳行コースが書かれてある地図など、資料のセットが用意されている。

壁際の席には、腕章をしたプレス、TVおよびスチール・カメラマンもいる。

前後ろのテーブルにいる顔見知りの若頭や諸先輩方を見つけてはわいわいと話の後、開会時間ほぼ10分前に年番総務の室谷さんからの開会の辞。「年番組織が始まって今年は201年目にあたる」と手短に挨拶。拍手が沸く。

続いて主催者代表挨拶。平成15年度年番長槌谷さんだ。4月の安全祈願祭の挨拶の言葉が記憶に残っている。

頑なに旧いものを守ること、反対に制度疲労の改革といったものが岸和田だんじり祭の歴史と伝統そのもので、それを次代に継承することがわれわれの務めだ、という締まった挨拶。万雷の拍手。

来賓代表の挨拶は岸和田市助役、岸和田警察署長、祭礼町会会長だ。

警察署長は、年番や若連協の皆さんと会合を重ねてきたが、この祭はみなさんだけの力で万全の警備ができると確信している。われわれや機動隊は、主役のみなさんの縁の下の力持ちに徹する、という大人な挨拶で拍手喝采。

町会会長は、だんじりには事故がつきものだ、 わたしはきれいごと言うつもりはない、けれども事故をなくす方向性は絶対取るべしだ。めいっぱいこの祭をやって、男をみがいてほしい、と来賓代表のトリとしてふさわしい言葉でこれまた拍手。

そして副年番長より大きな地図を掲示しての今年の曳行コース解説。警察署交通課長による道路使用許可申請書の交付についての説明。警備課長は今年度の警備の方針(どんな内容だったか忘れた)に「今年岸和田祭の警備担当になって、だんじり好きのわたしはほんとうにわくわくしている」と余談も加わり拍手を受けた。

続いて、消防本部司令長からの救急車の出動と乗車人数についてのお願い、市民病院の看護師は、ここ数年の祭礼で増えている熱中症の予防と救急時の対応についての説明が付け加えられた。

わたしたちはこれから、早速これらを各自町の各祭礼団体に持ち帰って、寄り合いで全員に説明・協議する。

さあ、今年の祭が始まる。

 

7月15日(火)

青空が覗いてきた。夏が来た。

涼しくて風が心地よいが、これから真夏の猛暑がやってくる。

けれどもなんだかすでに夏の終わりの予感がするのは、その夏の終わりに祭があるからだ。

だんじり祭は9月14・15日。あと2カ月を切った。

それまでいろんな行事や寄り合いや段取りがあり、やっと待ちに待った祭が来るのだけれど、9月第1週の試験曳きでだんじりが走ると、今度はもう祭の終わりが見える。

それはいつ頃からだろうか、多分、青年団から拾五人組に上がり後梃子に回って、だんじりを後ろからしか見なくなった頃からだ。仲間も法被の着こなしがうまくなり、はちまきがキリリと結べるようになるのもこのころだと思う。

岸和田では20代後半に青年団から拾五人組に上がる。祭礼団体最初のいわば、進学のようなものであり、一歩大人に近づく。

拾五人組(町により、十人組、三十人組と呼び名が変わる)つまり後梃子は、遣り回しはじめ、方向転換の際の極めて重要ポジションだ。

だんじりの後ろ中央に取り付けられた長さ約3メートル直径30センチの樫の棒に、左右4本どんす(ロープ)が張られる。それを約30人の十五人組がコントロールする。

だんじりは正直だ。全員の息が合うこととパワーがなければ曲がらない。

梃子尻(最後尾)の「かがみ」の「肩入れ」はとりわけ屈強な者が担当。また「どんす持ち」は遠心力で振り飛ばされて怪我が多いため、遣り回しの角では「キャッチマン」が受け止める。

後梃子をざっと説明すればこんな感じだが、重要な点は、綱元を引いていたりだんじりに乗って鳴物をしていたポジション、つまりそれまで見物客の海を二つに押し割り、前から曳いていた位置から、いきなりだんじりの後に回る点だ。

岸和田城下の道、とりわけだんじり1台がやっと通れる紀州街道は「チョイ取り」つまり微妙な方向修正が多い。

どんす持ちは注意深く小屋根の大工方の団扇の合図に注目し、かけ声を合わせ、「せーの」で力を振り絞る。

一発で決まり、その極度の緊張感のあと訪れる、高揚感とリラックス感が交じっただんじり祭ならではの快感。

その時に初めて後ろから見ることになるだんじりの姿は、それまで見たことのない姿でちょっと哀愁がある。とりわけ曳き出しの朝、フルスピードで街に出てゆくだんじりを自分たちで操りながらそれ自体を見る後姿はたまらないものだ。

この日のために一年がある、と実感する瞬間だ。

拾五人組の最後の年が近づくと、だんじりの後部、小屋根下に乗ることになる。進行方向の後ろ向き、拾五人組全体をナナメに見下ろしながら、その時全く見たことのない「別の光景」が見える。

「光景が見える」というより、「自分が風景つまり祭の中にいる」ことが見える。

紀州街道沿いの「御祭禮」の提灯をあげたシコロ造りの家、戸を開け放った黒壁の商家、客が見ている和洋折衷の薬屋の二階の窓、並ぶテキヤの屋台と子連れ客。

そしてだんじりを追う世話人や子供の手を引く奥さん連中、後から「ケツを追って走ってくる他町の纏、そのだんじりの動きと太鼓の音、左右に分かれた見物客…それらすべてが「わたし」を見つめているのだ。

動くだんじりに後ろ向きに乗り、生まれて初めて俯瞰で見る何ものでもない地車祭礼の光景だ。

その年が終わると若頭に上がり、まただんじりの前側がポジションになる。
年齢でいうと30代半ばにさしかかっている。

今年、44歳のオレは若頭筆頭をしているが、この拾五人組の約10年間、とりわけ若頭に上がる前くらいの年の祭がいちばんいとおしい。

けれどもこの「年に一度の大祭」は、終わって初めてそれがどんな祭だったかがわかる。というよりもこうして見てみると若頭に上がって初めて、自分がどんなときに祭の何をしていたのかが解ったことが多い。

祭にしろ何でもそうだが、「そういうこと」に気づくのはいつも事後的で、同時にもうそこには戻ることができないことを知る。

だからその祭の時間に、その視点をずらして微分し投影してみると、それは去年の祭から今年1年どう生きたかといった生き方の吟味になり、至らぬところは多いにせよ、そこに自分の人生の愛着がある。

 

7月13日(日)

中北町の入魂式があるので朝6時過ぎに起きて、歯をみがき顔を洗って出る。

寺町の西方寺の前から昭和大通りに出て、貝源〜カンカン場を見ると、すごい群衆だ。

何千人、ひょっとして万かもしれない。入魂式はいつもそうだが、祭と違ってその当町以外の旧市の人間が、それを見られるから本当に「どこからこれだけの人が来るのだろう」という見物人になる。

それでも構わず貝源の方へ歩いていこうとすると、去年の曳行責任者のKさんに呼び止められた。

「ヒロキ、あかんあかん。貝源もカンカン場ももう行かれへん。いっぱいや。ここで見い」と言われたのでそうすることにする。

訊くと、中北のだんじりはすでに貝源を曲がって欄干橋を直進して、堺町のS字の方へ行った、とのことだ。 町会長以下連名でわが五軒屋町に届いた「地車修理完了に伴う入魂式挙行のご挨拶」には、6時40分からが曳行時間になっていたのに、やっぱりというか本当に中北らしい。

そうこうしてるうちにカンカン場に纏が入ったのが見える。

「来た来た、おーー、おおーーー」

上手い。

続いてゆっくりの太鼓で貝源に差しかかる。太鼓が変わる、だんじりが加速する、大工方が跳ぶ、綱元が入る、だんじりが曲がる、抜ける。

「おーーーーー」

これまた早い。

結局、町発表の挨拶状にはカンカン場〜貝源を2回曲がることが記されていたのに、都合5回、いや6回か。

あげくの果ては、「船津橋でもう1周行く行けへんでかちゃかちゃっと揉めて、一旦行きかけたのをUターンして、疎開道を逆行して帰った」と、カンカン場方面から見物して帰ってきた世話人のYさんが、歩きながら教えてくれる。

警備の警察も年番もあきれるというか「中北やし、しゃあない」状態らしい

Kさんと昨年拾五人組に上がったばかりのその息子のSと立ち話をしつつ、そろそろ退きあげるかぁ、と思った瞬間、駅方面の人混みが、サーと退いた。

×××ちゃんである。

この人は中場利一氏の小説でおなじみのカオルちゃんのモデルと目されるお方である。

彼は、岸和田旧市のだんじり関係者の間ではここ20年くらいの最大の有名人である。

そして、今日×××ちゃんを見た、あそこに×××ちゃんがいる、というだけで岸和田の街ではかなりのニュースなのである。

「メディアの人」ではなく「街の人」である彼は、ジャイアンツの清原和博よりもコシノ姉妹よりも、「そこにいる」ということの存在における影響力はダントツに大きい。

Kさんが「×××や、×××来たぞ」と小声でわたしに言う。

「ホンマですねえ」。何が本当なのか分からないが、昔からこういう時はそう返事することが多い。

話は飛ぶが、昔から、何らかの理由で有名人になっている(指名手配とかが多いです)岸和田出身者は、祭の日に張っとけば必ず帰ってくるから捕まえられる、という話をよく聞かされたし、今なお語られる。

刑事が「武士の情けや、祭中はやめといたろ」とずっとその有名人の横に付き、終わりかけに逮捕した、という美談もある。

「中北もようけ見たし、×××も見たし、帰ります。ほな」と家に帰って二度寝する。

9時きっかりに起きて、だんじり小屋へ。奇数月第2日曜恒例のだんじりの掃除だ。

行くと、青年団の鳴物係の若い衆も来ていて、太鼓を叩こうとしているのだが遠慮しているようなので、「オマエら早よ、演らんかい」とせかす。

わが町の鳴物は、昨年からの課題だ。若頭の鳴物経験者で現前梃子のTと大工方責任者のKと一緒に、もっとああしろこう叩け、調子早すぎる、手が多い、せやけどあいつら聞いてないど…と、やいやい言いつけて、そしてついに「よっしゃ、いっぺん叩いちゃる」。

梯子を上がってだんじりに乗り、メガネを取り、腕時計を外し、手本を見せようと叩くが、5分で息切れがして「おい、もう代わってくれ」。

青年団の頃、鳴物責任者をしていたオレは、いい年をこいて、毎年必ずどっかで一度は大太鼓を叩く。それが拾五人組の時代からずっと仲間うちでの名物だし、今日みたいな場面では、いつもあおられる。

けれども自分では、力は落ちたが、腕とセンスではまだまだ若いやつに負けてはいない、と今年も叩いていてそう思う。

 

7月12日(土)

午後8時。若頭の寄り合い。今夜はどういうわけか出席者が少ない。

昨年の町会祭礼会計の報告、だんじり保険の名簿作成、会費積立金徴収、そして世話人さんからもらった公式行事の日程を発表して、友誼町との花交換の日どり調整ほか。

その後、いつものようにNさんの「喜平」へ約10人で。

穴子の付け焼き、シタビラメの煮付けがたまらん。Nさんの奥さんが「こないだの町会長の時のボトル、まだ残ってるから」と半分以上残ってるいいちこの一升瓶と氷をもってきてくれたので、めいめいセルフで水割りやウーロン割りにしてバカスカ飲む。

その席で、前年筆頭で大工方相談役のYさんから、新しい大工方希望者が一名出て、若頭としてはそれを内諾することの提案があった。うれしい話だ。後継者に悩まないうちの町は、ほんとうに層が厚い。

帰りにおあいそしてもらったら「一人千円でええわ」とNさん。これには、涙チョチョ切れる。

さらに岸和田駅まで出てタクシーを拾って和泉大宮まで、中学の同級生がやってるというスナックに飲みに行く。残ったメンバーは前梃子責任者で来年の筆頭のM雄とその弟で前梃子係をやっているKちゃんだ。、

店に行くと大北町の昨年の若頭筆頭のKと今年の筆頭Aが、若い衆を4〜5人連れて飲んでいた。あ、そうか、ここの同級生のママは大北町に住んでいるのだ。

KもAもM雄も,そしてオレも同級生で仲がいい。そしてこうして一緒に飲めるのも、まぎれもなく祭だけの縁だ。ママを巻き込んで、ワイワイとだんじりの話題を大声で喋り、中学校の頃のことを話し、冗談を言っては笑い、ブランデーの水割りを飲みまくる。カラオケは歌わない。

だからほかの客もだいたいオレらが祭礼関係者だと分かっている。

2時前になり帰ろうとタクシーを呼んでもらって、乗り込んだその時、仰天した。なんと平成11年度の年番長のSさんがドライバーだった。

「あ、Sさん、こんばんは。お久しぶりです。五軒屋の江です。マルエの方の(屋号で言わないと従兄弟と間違われる)。今年若頭の筆頭さしてもろてます。ちょっと寄り合いの帰りに…」

寄り合いの帰りに和泉大宮まで行くか、…酔いがさめてしまった。これはちょっと、何というか…。

「おお、そうなんですか。頑張ってますなあ」

「Sさんにこないして、飲んだ帰りに送ってもろたら、バチ当たりますわ。えらいすんません。走って帰ろかなあ…」

「わたし、元々タクシーの運転手やから、気にせんといて。マルエさんやったら西方寺の前でええですか」

「ええですか、って…やめてください。ハイ結構です」

西方寺の前に着き、「ありがとうございました」と深々と礼をして、クルマが行き過ぎたのを確認するや逃げるように走って家まで帰った。

 

7月9日(水)

町会長が一席設けてくれた。

メンバーは世話人会からは年番、曳行責任者、副責任者。青年団団長、拾五人組組長と同じく、そしてわたし若頭筆頭。 そして次年度の「長」予定者各3名。

これといって議題はない。ただお酒を飲んで、うまいものを食って、わいわいと祭の話するだけ。

その場で今年から、宵宮14日の午前曳行の時間帯にパレード曳行が行われることが決定したと世話人さんから知らされる。

9時45分岸和田駅前スタートか。うちの町はパレードのコース上にあるので、それまでにだんじりを動かさなければならない。

順番は9月1日に行われる江戸時代から続く「三郷の寄り合い」の際、宮入順を決めるクジと同様に抽選で決められる。この寄り合いには市長・警察署長も出席する。

ちなみに岸和田三郷、というのは「村・町・浜」。現在は「中央・浜・天神」3地区である。大阪城下も大坂三郷で「北・南・天満」だ。

続いて、祭礼までの公式会議や行事の日程の再確認も。

7月18日(金)合同路線説明会

8月3日(日)宮三町懇親会

8月10日(日)宮三町祭礼5団体責任者会

8月16日(土)地車物故者法要

8月17日(日)犬鳴山参拝

8月24日(日)祭礼啓発大会

8月31日(日)五軒屋町第一回総会

9月1日(月)三郷の寄り合い

9月12日(金)五軒屋町第二回総会

これが公式行事で、最優先で日程が組まれる。その間をぬって、友誼町との花の交換/挨拶、花寄せ、献灯台設置、ツツミ巻きやコマ替えなどだんじり本体の準備…といろいろな寄り合いをし、ひとつずつ段取りをしなければならない。

これから2カ月、そんな感じだ。仕事なんてホンマやってられない。

 

7月4日(金)

本日午後8時からの中央地区若頭責任者の月例懇親会は、宮本町・上町・五軒屋町・北町・堺町・本町・南町の本年度若頭責任者(筆頭)と来年度予定者の計14名。

南海電車に乗って岸和田に向かっていると、宮本町の筆頭のKからケータイ。

「泉大津や、もうすぐ着く」というと「何してんな、先に乾杯しとくぞ」とのこと。

おい、まだ7時40分やないか。けれども揃ったところで「カンパーイ」というのが岸和田流だ。遅れてくるやつが悪い(といっても遅れていないが)。

岸和田駅で待ってもらっていた籔内画伯から、粗品のバスタオルのプリントアウトとそのデータが入っているMOを受け取り、タオルを染めてくれるスポーツショップ・ロブに速攻ほおり込み、ダッシュで会場の居酒屋・らんかんへ。

「おいヒロキくんこっちや」と堺町のMさんが手招き。宮本のKが「駆けつけ三杯じゃ」。

「オマエらもう鍋やってるんか。造り、もうほとんどないやないか」というより早いか、「江。はよ、カツオ食うてまえ。すき焼き、もう肉いけるど」でバクバク。

二階堂の水割りを何杯もお代わりし、生卵の追加をもらい、幹部から5万円ずつ計50万円徴収した宮本町の会計の話と、ヤクザ対策の話で盛り上がる。

こうなるとそっちの話に花が咲く。

堺町のMさんは、かれこれ10年前の「20年に一回の大喧嘩」の寸前、堺町がその当事者町間に挟まれるかたちで数10分曳行した時の貴重(?)な話。

前後当事者町からの「どいてくれ」「悪いけどそのままで」と全く2つに別れる要求。

先行のだんじりが交差点を右に回る。後続せずに左に曲がって2台の間から抜けると「さあ、どうぞやってください」といわんばかりの事態になり、そうなれば本来まったく堺町には関係がないのだけれど、「後が大変」であるという、これはとても微妙な話だ。

テーブル中がMさんの話をごくりと唾を飲み込みながら聞いた後は、結局、喧嘩をしても何も得るものがないし他町にも多大な迷惑がかかる、というところに落ち着く。

来月1日、最終の懇親会は、責任者正副2名に加え、若頭連絡協議会の本部詰めの2名、計28名で行われる。

 

7月2日(水)

人を介して、旅行作家協会(間違えてたらすいません)のAさんという方から電話があった。

中部地方のとある都市の行政関係ご一行が「祭を通じて町おこしを」ということで、だんじり祭を見物しに岸和田に行くのだが、その夜に、私にだんじり祭をレクチャーして欲しい、とのことである。

当然、今年はなおさらだんじりから一時も離れられない、ということでお断りしたが、「ああー、わかっとぉれへんなあ」というのが正直なところである。

「祭で町(村)おこしを」というのはよくあるパターンで、その祭が大はロックコンサートであったり、小は餅つき大会であったりするわけであるが、その参考例として岸和田だんじり祭、というのはちょおっと違う気がする。

何回も言うが、プロデューサーがいて企画書を書き、ディレクターが台本をひねり、舞台装置やPAをイベント会社に、警備会社も清掃業者も…というのと対称にあるのが、岸和田だんじり祭なのである。

費用面ではスポンサーというものがないし、全部町民や参加者祭礼団体、しいていうなら近くの店屋さんや飲食店の寄付(これを「花」という)でまかなわれる。

今年もそろそろその「花寄せ」の準備が始まる。

午後からは曽根崎の料理屋で、井筒和幸監督と対談。

8月2日から始まるデイリースポーツの連載対談企画だ。

井筒監督とはもうかれこれ6〜7年前のことになるが、「岸和田少年愚連隊」のロケ撮影で、ご協力したことがあったのだが、どういう風の吹き回しか対談相手にご指名がかかり、ちょっと光栄だ。

対談は井筒さん8・江2の割合でほとんど聞き役に徹する。8月に封切られる新作映画「ゲロッパ」の話がそのほとんど。 よく喋ることについては自他共に認める江には、こんなことはまれだし、だんじり話もチョチョッとさわりだけ。

そういえば副編集長からもそう指摘されたことがあるが、ここ数ヶ月あまり祭の話をしなくなっている。

もちろんそれは岸和田の祭礼関係者以外の人間だけであり、逆に岸和田の彼らとは祭の話以外はしないようになってきている。

そしてこれだけの密度の高い祭の話を集中的にすることも、もう少ないだろう。

 

6月30日(月)

中央地区(宮本町、上町、五軒屋町、北町、堺町、本町、南町)若頭責任者の月例懇親会もそろそろ終盤、あと2回を残すだけだ。

今週4日に行われるそれは、各町本年度と来年度予定者の2名ずつ、計14名の飲み会となる。一足早い、来年度の引き継ぎのための顔合わせである。

また町会からは本年度の祭礼行事の予定表が出た。

7月18日に開催される全町の年番、町会長、四団体責任者による「合同路線説明会」を皮切りに、「宮三町懇親会」、江戸時代から続く「三郷の寄り合い」、宵宮曳き出し前の午前三時半からの「地車曳行安全祈願」までおおよそ10行事。

これに町内や若頭の寄り合い、さらに「花を交換している町(友誼町)」との交換会などなどが加わってくる。

わたしが筆頭をやると内定してからもうかれこれ3年になり、もちろん昨年の今頃も、来年筆頭になると…とその忙しさと重責感を予想しないことがなかったのだが、ここだけの話、もう早く終わってほしい、という気持ちもちらりと出る。

先日、昨年度の責任者のyさんにその辺の心境をちょこっと伝えると、

「そんな時期や。そやけど、あっちゅう間に祭、くるぞ」とにっこりの後、「祭来たら、あとは周りのもんが、みんなやってくれる。何もせんでもええ、お前はお前の祭にしたらいい」と言ってくれたが、本当にそうなんだろうかと思う。

昨年の祭はわが五軒屋町としては本当に「ええ祭」だった。事故もなく、揉め事もなく、青年団はよく走り、後梃子はよく曲げた。

16日の落策の日、次年度の責任者のわたしほか新幹部紹介時のyさんの「えびす顔」を思い出す。

プレッシャーが重い。

筋海町の同級生のkから電話があった。kのお姉さんの子供さんがわたしと同じ大学の4回生ということで、先輩からの就職のアドバイスを、とのことだったが、当然同じ同級生の八百屋のNの話になり、

「あいつ、会長ようやってる。しっかりしてる」とほめたら、

「Nも今年、筆頭して、若責協(責任者協議会)の会長に当たって、はじめはオロオロしてたみたいやけど、このごろ町内の寄り合いでも、風格ちゅうんかなあ、そんなものが出てきた」と言う。

6月も今日で終わる。祭まであと2カ月あまり、仕事もすべてひっくるめて、丁寧にやっていかねばならない。

 

6月21日(土)

「どこなぁ」

前梃子責任者のMから携帯電話が入る。岸和田のだんじり野郎からの電話はいつもこんな調子だ。「もしもし」すらない場合が多い。

岸和田のだんじり男たちは、声が大きいし、ほんとにあきれるほどよく喋るヤツばかりだが、お互いガキの頃から相手を知りつくしている電話の会話は次のような感じだ。

「どこなぁ」

「分かってる、今から編集部出る」

「喜平でいてる」

「6時40分ぐらいに着く」

「よっしゃ」

「ほな」(ブチ)

この通りの短い電話の後で、心斎橋から地下鉄で一駅、南海なんば駅へ。そこから関空急行に乗って岸和田駅へ25分。喜平へは歩いて1分だ。

若頭、拾五人組、青年団合同の五軒屋町のだんじりの歴史、そして宮三町の謂われについての勉強会が午後8時からある。その講師がMであり、編集者のオレはそれのいろいろな資料収集、整理を手伝っているのだ。

まず幕末に描かれた岸和田城下地図の複製。これは上杉流軍学士として藩に仕えてきた高林家の地図だ。その頃の五軒屋町と今も全く変わっていないのが驚きだ。

そして楠木正成の家臣・和田高家が建武年間に城を築いた頃から、天正年間に小出氏が今の岸和田城に入り、江戸時代、明治大正と、わが五軒屋町がどう形成されてきたのかの歴史。

氏神である岸城神社との歴史的関係性に、だんじりの「岸城神社宮入」とそもそもの岸和田祭発祥である「岸和田城入り」の微妙なねじれについて。

それらを文章にまとめたものの確認を生ビールを飲みながらする。

50枚分のコピーを取り、一足早く町会館へ。

来た、来た、来た、来た。合計90名。

ピアスをしている茶髪のワル、「和歌山から今、帰ってきました」という日焼けした顔をしているサーファー、ちょっと会わないうちにどこから見ても堂々たるおっさんになってる拾五人組、だんじりを語らせると止まらない面々…。

拾五人組会計からビールの差し入れ、若頭も焼酎やおつまみの乾きものをどんどん出す。

すでに半分出来上がってるMは上機嫌だ。

それでは、ということで主催の若頭を代表してオレの挨拶。「宮三町としての歴史を分からんと、例えば何でうちだけ提灯を吊して 宮入するのか、とかの根拠を聞かれて説明出来ない。だからお集まり頂いた」と1分足らずの挨拶をする。

「中学の帰り、野田町に照山ってあったん覚えてるか。浜のヤツはよう、あそこで喧嘩してたし、シンナー吸うてて捕まったヤツもおるやろ。あれが歴史上で一番旧い岸和田城やったんや」

Mは冒頭10秒でいきなり爆笑を取る。

昔からそうだが、Mは話がうまい。そしてどこで調べたんだろうというほどネタが豊富だ。オレはそれに舌を巻かされるのと同時に、若頭として下の者に本当に「いい顔」ができた。

1時間あまりのMの大演説とオレの余談の後、「またやろう」ということで次回の日程発表。その後、拾五人組の幹部も誘い再び喜平へ行って痛飲。いい夜だった。

明日は午後6時から、五軒屋町4団体責任者会議がある。

 

6月17日(火)

内田先生のゼミに行き(仕事はサボった)、そこから矢のようなすばやさで岸和田に帰る(仕事は忘れた)。

若頭責任者協議会の第6回総会が7時半からだんじり会館で行われるからだ。

昨年10月に各町の前年の若頭責任者から引き継いだこの会合も、残すところあと1回。8月になれば、それぞれの単町のさまざまな寄り合いが増える、だから協議会は7月をもって終了。そしていよいよ祭本番を迎えることになる。

今年の責任者協議会は昭和33年生まれの同級生が21町のうち9人を占めている。

そういう関係で、ほとんど和やかにスムーズに事が運ばれてきた。

いつも通り小気味の良い大工町の議長のMさんが、会議を半時間で終了させ、そこからほぼ全員が居酒屋へ。

会長の筋海町のNによる乾杯音頭時の文句にも「皆様方のおかげを持ちまして、あと1回を残すばかりとなり…」というのが入る。

本来は8月の総会予定もあったが、それを「総会打ち上げ」に振り替えて省略した。

こういうところが岸和田である。

どんな小さな懸案事項でも寄り合いを開き、顔を合わせて話し合う。けれどももう議案事項として何もないことが確認されると、会合が即座に懇親会、つまり酒席に早変わりする。

こんな感じの祭礼の準備や寄り合いを通じて、岸和田の男たちの身体に刻み込まれる「前倒し」の体質は、ディープサウス大阪の「イラチな気質」とよく混同されるが、少し違う。

それは何が起こるか分からないだんじり祭に対し、「今年も自分の祭をやる」事のかけがえなさを知っているからである。

何ごとにおいても常に先回りをして、あらかじめ予測可能な俯瞰的立ち位置をキープしておかないと、その年の祭礼が台無しになってしまい、また1年待たなければならない、という単純な真理。

それは昔からのさまざまな約束事と、今年決めた約束事を一つずつ読み上げ、確認することにほかならない。

この岸和田だんじり祭の歴史や伝統といった本質は、ほとんどそのようなものだと思う。けれども今年の祭がどんな祭になるのかは、見当もつかない。

去年の祭、つまり過去は取り戻すことが出来ないし、未来は約束できないことが多すぎる。

だからこそ祭をめいっぱいやる、つまり今をよく生きるしかないのだと思う。

 

6月15日(日)

平成15年度若頭責任者と16年度責任者予定者の合同懇親会が、りんくうタウン全日空ゲートタワーホテルの52階で午後2時から開かれる。

40歳過ぎのだんじり男の塊みたいなヤカラばかりが40名あまり。南海電車の岸和田駅から同じ電車に乗りあわせて、約10分がやがやと移動するさまは、いくらだんじりの地元とはいえ、他の乗客からすれば異常だろうなあ、と思いながらゲートタワーホテルに到着。

その奇妙なNG感は外国人ビジネスマン客がいるロビーに入るや、一層きわだったのであるが「祭の会合やから、しゃあないやんけ」だった。

宴会、いやパーティーは、セルフサービスのバーベキュー主体の、なかなか今っぽい「イケてる」企画内容だ。

会場中ほどにはスタンドマイクが用意され、まず本年度若頭責任者協議会会長からの挨拶。

幼なじみで隣町の筋海町のNだが、去年からもう数十回はあっただろう、すっかり板に付いたものだ。八百屋の大将とは思えない、というより八百屋のだみ声の挨拶もいいもんだ。

挨拶が終わり、司会の庶務の大北町のHより「今日はセルフサービスに男ばっかりというのもナンですから、パーティーコンパニオンを呼んでます」とアナウンス。

「おおー、ええやないか」「気がきいとる」という声が同時多発で上がる。

司会すかさず「けれども、おさわりは厳禁です。あくまでも会話だけ、キャバクラではありません」と笑いを取った。

続いて、乾杯の挨拶は次年度の責任者。乾杯発声の後、昼ビールをごくり、そして拍手。

その直後に、白い立て襟ジャケットに黒のベルベットのロングスカートをはいた長身のコンパニオンがずらずらと入ってくると、「ゴォー」という声とも唸りともつかない響きが上がった。

今から思い出すと爆笑ものである。

「君はどこからきたの」

「ハイ、堺の方です。えーと、ワインいかがですか」

始めはだいたいこんなところである。けれどもこれはレセプションではない。岸和田各町の若頭のカシラばかりの祭礼関係の宴会である。メンバーはそこいらのサラリーマンなどではない。ラテン大阪の代表選手なのだ。

よく食べるし、よく飲む。そして思ったことは、大きな声で、はっきり話す。要するにいわば(だんじり大学の)学年代表ばかりなのだ。

「それはそうと、このパーティー、何の会合だか知ってるんか」

「いえ、なにか岸和田の地元の…」

「そやねん、実はこの坊さんの檀家の会合や」

スキンヘッズの会長のNの頭を指さして言ったのは本町の若頭だ。

「あのお方は、魚の専門家で、よそに行けば博士クラスや」

と、次年度大工町責任者の網元を紹介してるのは宮本町だ。

こら誰や、携帯電話の番号を「5千円出すから」と聞こうとしているヤツは。

ここからは、もう書けない。うー、頭が割れそうだ。

 

6月14日(土)

芯金(車軸)とドビ(ホイール)の見積もりを、だんじり大工・植山工務店の若社長(棟梁)がわざわざ会館にもってきてくれるので、前梃子責任者の二人と寄り合いの時間より30分早く行く。

「遣り回し」があらゆる原点にある地車曳行においての足回りはとても重要だ。

基本的にコマ(車輪。伝統的に松材を使用)、芯金(通常は鉄)とドビ(合金製)、それを台に固定する猫木という組み合わせであるが、台とコマの間隔の「あざ」が何分(・ではない)取るのがいい、雨だからちょっと少ない目に…、さらに芯金メッキ加工にスラスト導入、やれドビはベアリング入りだモスター(JRの貨車に使用されているセラミック製軸受け)だ、グリスはモリブデン入りで…と、だんじり工学は今やF1顔負けのハイテク時代である。

ちなみにうちの町も、平成10年の新調時には、平常時や雨天時に使う前後オイルレス加工のドビとノーマル芯金のAセット、および企業秘密のハイスピード仕様前輪ドビのBセットの2種類を使い分けていた。

けれども平成12年度の13日試験曳きの遣り回しの際、Bセットでだんじりが浮いた。

元々80年足らず曳いていただんじりを新調する絶対的動機となったのは、確か、昭和64年度の曳き出しのカンカン場での遣り回し時の横転事故だった。

だから「横転のないように」という設計で台を一回り大きくし(トレッドが広くなる)新調した(はずだ)。

それが(まあ、新調したてのだんじりは「芯が出ている」(ひずんでいない)状態もあり、スピードが予想よりも出やすいのであるが)、何とカンカン場の遣り回しで20センチばかり浮いて横転しかかった。

おまけに揺り戻しで、今度はインに浮いた。本当に若頭全員が息を呑み、その後ぞっとした。それで以後わが五軒屋町としては、Bセットの使用を止めた。

この通常の逆の「こけ方」が最悪のケースで、去年のとある町の痛ましい死亡事故は、揺り戻しでインに横転し、アウトに転倒しないようにイン側に重石としてだんじり腰回りに「たかっている」若頭が下敷きになった。(わたしもポジションが腰回りの「たかり」なので人ごとではない)

けれども、どうもAセットでは、これは重い。

この状態ではちょっと苦しい祭になる、ということで昨今だんじりF1界で採用が増えているメッキ加工芯金を採用したのだ。昨年のことだ。

メッキは摩擦を少なくするための加工なのであるが、本当に鏡のような表面である。

「これはツルツルや、よう回るぞ」

小躍りと「ヤバいなあ」のアンビバレントに苛まれたのであるが、いざ祭本番曳行を迎えてみると、今の五軒屋町の馬力具合には、なかなかマッチしている。

ということで、予備のセットとしてメッキ芯金とオイルレスドビをもう1セット新調しようというものである。

その後、午後8時過ぎから町内若頭の寄り合い。決定事項は御献灯提灯および寄付の粗品の図案と落策(らくさく)の会場について。

粗品は五軒屋町だんじりの彫刻を紹介する、特製バスタオルだ。毎年題材とデザインを替えている、こだわりの品である。

彫刻の地元在住の籔内博画伯の手による墨絵がメインにデザインされ、そのテーマと添えられる英訳文は以下の通り。

五軒屋町だんじりの正面・大連子の彫刻は、木村長門守重成の初陣である。

これは大坂冬の陣(1614)鴫野口の合戦に佐竹義宣を迎え撃った重成の勝ち戦の有名な一場面であり、家臣の大井何右衛門を救おうと敵中に単騎とって返し、深手を受けて倒れていた大井を自分の馬に抱きせ、救出するその勇壮な姿を、精巧かつ複雑な構図で再現している。

 

The sculpture on the front side, "OORENJI" of GOKENYA DANJIRI depicts the first battle of Shigenori Kimura-Nagatonokami. It is very famous scene of Shigenori's triumph.

When he fought against Yoshinobu Satake at the battle of Shiginoguchi, in winter of 1614 at Osaka. In order to save Kaemon Ooi, he has flung back to the enemy's fort, alone.

And carried deeply wounded Ooi onto his horse, and his courageous action is shown on this equisite and remarakble strcuture.

 

以前、作家・中場利一を大喜びさせた例の平成15年度バージョンで完全オリジナル。1万円以上の御寄付か御献灯提灯一張り二万円也で粗品としてどなたにも入手可能なので、お気軽に五軒屋町若頭にどうぞ。ko@lmaga.co.jpでも受付。

 

6月7日(土)

朝8時半に起きて内田先生の公開講座に行く。

昨日はリナックスカフェの社長・平川克美さん(6日のHP参照)のシンポジウムを扇町インキュベーションプラザへ聞きに行った。

ビジネスのシーンで儲かる/儲からない、勝ち組/負け組の2分法で分けるのは知性のないことだし、ビジネスモデルとかいう言い方はもうこの時代にそぐう言葉遣いではない。

そういう趣旨のご発言で、どうやってこれから儲けてやろうと企図するIT関連の参加者を驚かせていたが、いつもいつも内田先生のHPで平川さんが何を言ってるかを興味深くチェックしているぼくは「ふむふむ」と頷いていた。

その後の交流パーティでご挨拶をして「内田先生と同じこと、おっしゃてましたねえ」と感想を申し上げたら、「あいつが書いていることは、全部私との合作みたいなもの」と言われて、大笑いした。

さて、内田先生の公開講座は、有事法制の話題から、戦争解決にしろ、やられたからやり返すという同罪刑法(反坐法)ではコミュニケーションが前へ進まない、つねに時間軸を加えて物事を俯瞰することだ、という話からアメリカの終焉と続き、武道の話になったところで大脱線。

いったい何をやらかすかわからない、これから何を話すのか予想もつかないこと、それがすなわち「リスクを取る」ことであり、人を引きつけることの要諦だ、というあたりで大いに笑いをとって、その後はデタラメさにドライブがかかった。

「デタラメに話す、デタラメに書く」というのは「それでは、デタラメとは何か?」

という根元的な問いに到達する、なかなか深いテーマである。

また「年収の多寡を人の見る場合の物差しにするのは、とてもはしたないことである」という部分で、昨日のシンポジウムのことを思い出した。

内田/平川の対談があれば、これは絶対面白そう。どなたか企画して頂けないだろうか。

帰りに同じ聴講生のクラスメートのカゲウラくん大迫くんほかと門戸厄神のたこ焼き屋さんでかき氷を食べた。

彼らはレモンとオレンジにアイスクリームのトッピングを注文したが、ぼくはミルク金時白玉入りだ。交換して一口食べた彼らは「これ、うまいっすねえ」と感激したようなので「かき氷は本来、和の食べ物だから当たり前やろ」と説明しておいた。

西宮北口で両君と別れていったん編集部に出て、岸和田へ。

夜7時半からは、平成15年度の単町の最高責任者である曳行責任者との合同会議だ。

 

6月5日(木)

泉州地方特有の乾いた猛暑の中、黒のスーツを着て葬儀に参列する。

中之濱町の若頭・寺田二郎くんの葬式である。

だんじり祭でしかつながっていない、そして祭に法被姿でしか顔を見なくなった、多分もう別々の社会で全く違う道を歩いて行っている同世代の仲間たちがいる。

300人あまりいるだろうか、黒服で勢揃いしている。

彼とは同級生だった。中学生の頃からアイビーな感じの服が似合っていた彼は、頭が良くてスポーツ万能、話もおもろかったし、麻雀も強かった。

岸和田の浜(地区)の男らしく陽気で何ごとも旺盛で、よくアメリカや東南アジアを旅していた。

どうしてこんなことになってしまったのか。

イカナゴ漁の解禁の2日後、泉州沖で獲ったイカナゴをそのまま岩屋の水産会社へ揚げる途中、明石海峡で漁船から落ちて行方不明になって3カ月あまり。

それから今日まで、10数年続けたサラリーマンを辞めて友人の船で漁師をするようになった彼についての話を近しい友人から何度も聞かされ、ぼくはその2日前に一緒に飲んでたことを何度も話した。

おととい、その彼の遺体が関空沖まで流れ着いたのを岡田の漁師があげた。

それは奇蹟的らしい。「帰りたかったんやろなあ」と同じ中之濱若頭のKが言う。

約2年前、職場で所謂リストラをするということになった時、「おれは独り者やし嫁さんも子供もいないから、ええから、会社辞めて漁師でもなるわ。他のもんは生活大変やろ」と自分から退社した。

昨年の夏、沼町だんじりの新調の式典では隣の席だった。漁師は日銭が入るから気楽だ、月10万あれば楽勝で、酒も飲める。スーツでなくユニクロを着ればいいし、と遺影の通りの日焼けした顔で笑っていたのを記憶している。

今まで行った外国でどこがよかったかと訊かれて、ぼくは「ナポリ。南イタリアや」と答えたら、「おれもお前も独身やし、イタリアのべっぴんさんでも一緒に捜しに行こか」とにっこり、けれども本気みたいだった。

「明日から、イカナゴや。神戸にもって行くんや。高く売れるから」

「へえ、なるほど。大阪はイカナゴの釘煮なんかないからなあ」

「今度、神戸のお前とこ行くわ。明日朝4時半や。そろそろ帰るわ」

という会話は事故に遭う2日前だ。あれからぼくはイカナゴの釘煮を食べなくなった。

葬儀会館から仕事に戻ろうと、岸和田から南海電車に乗ってなんばに着く。

なんばシティのユニクロに寄って1900円のブルーのシャツを買った。

 

 

 

6月1日(日)

午前9時前。Uさんからの携帯で起こされる。

「YとKとクルマで直接行くから、よろしく」とのことだ。このあたりが、Uさんの律儀なところである。Uさんは、何かにつけてオレの相談相手になってくれる 一昨年の若頭筆頭だ。それにしても、どうか飲酒運転に気をつけてほしいところだ。

あちゃ、これは何としたことか、二日酔いである(当たり前じゃ)。実家の冷蔵庫をあけて、ペットボトルのポカリスウェットをコップ1杯、さらにトマトジュースを缶からそのまま飲んで、集合場所の会館へ。

その道すがら「ああ、ぴやクン(オレの向こう三軒両隣、隣組だけの幼少の頃のあだ名である。とほっ)。帰ってきてるんかいな、今日はなんかあるん?」

「あ、おはようございます。4団体のバーベキューですわ」

「そやけどエエおっちゃんになって」

お向かいの江戸末期から続くO陶器店のおかみさんである。Oさん家はオレより1つ下の長女を含め年の近い三人姉弟だが、全員もうかれこれ20年も前にこの五軒屋町を出ていってしまっている。

会館前に着くと最大の団体である青年団が揃っている。年少の青年団はこういう場合、一番集合時間が早い。

2台のバスに分乗して会場の二色浜(貝塚市)のバーベキュー所へ。本年度曳行責任者(世話人)の乾杯のあと、牛肉・焼きおにぎり・鶏の手羽・するめの順番で、酒はビール・チュウハイ・ウーロンハイの順にガンガンといく。

前梃子のTが自分たちだけで隠し持ってきた(前日にわざわざ買ってきた。えらい!)難波のホルモン店の特製タレとキムチがうまい。

世話人の参与をしている10歳年上の兄とはこのところあまり話さないが、世話人の席に青年団長、拾五人組長、そしてオレと呼び出され、長老たち(といっても元気な50代のおやじばかりだが)からビールを進められまた青年団長が焼酎の水割りをつくって返杯しながら、宮三町の歴史と誇りについて説教をかまされる。

そしてその席で「兄貴はなあ、今年お前が責任者するから、エライ気ぃ遣こてるぞ」と町会会計のH印刷の社長から胸にちくっとくることを言われた。

中締めは若頭、つまりオレだ。

「あと3カ月、横着をせず丁寧に寄り合いと段取りを重ね、年に一度の祭礼を事故なく、揉め事なく、楽しかったなあと言えるものにしよう」と挨拶の後、「お手を拝借、よぉー」で一本締め。

決まった。大きな拍手を受け、気分がいい。 

 

5月31日(土)

午前11時から、明日のバーベキューの打ち合わせを町内の喫茶店・PMで行う。

このバーベキュー大会は、平成10年に約80年ぶりにだんじりを新調した際に、町会から青年団まで、全員で「何かやろう」ということで開かれ、恒例になっている。高校生以上最高年齢は60余歳、男ばかり、総勢200人参加の町内上げての超弩級野外どんちゃん騒ぎである。

台風の影響がまだ残っていて、雨がぱらついている。が、明日は何とか持ち直すだろう、ということでもちろん決行である。

あらかじめ青年団が炭ほかの燃料係、拾五人組が肉、野菜などの食料と食器、若頭はビール、酎ハイはじめとする飲み物および氷と分担が決まっている。

アイスコーヒーを飲み、あれこれメモを確認しながら、貸し切りで2台予約してある南海バス、それから会場ゴミの始末の確認を携帯電話で行う。

その後、昼食を矢崎鮨のにぎり定食とラガー中瓶ですませて編集部へ。

それから再び岸和田へ。7時30分から若頭責任者協議会中央地区七町の月一恒例の会合があるからだ。

2月から7月まで月1回、第1土曜開催のこの寄り合いも今夜を含めてあと2回。いよいよ祭が近づいてきている。

今回はわたくし、五軒屋町若頭が幹事。ミーツでもおなじみの泉州地元料理の割烹・喜平が会場だ。

「頼んどきます」「解ってる」と若頭先輩の店主のN氏には、1カ月前から予約している。

南海の急行に乗って難波から岸和田駅まで20分あまり。午後7時10分に到着、喜平までは駅から歩いて1分と45秒という距離だ。

タバコを自動販売機で買って喜平にはいると、何と、本町以外の全部の町の若頭がもうすでに揃っていて、突き出しに生ビールで一杯飲っているではないか。

宮本若頭K「遅いやないか、幹事。罰金じゃ」

「おお、すまんすまん。おっ、もう出来上がってるンか。早すぎるぞ。追加料金もらおか」

こんな感じでうち解けるのも、ずっと会合を重ねてきたからだ。小学校からの同級生のKとは、3月の例会でちょっと口論になって、一級上の堺町のMさん、本町のSさんに「江くんもKちゃんも、エエ加減もうやめとけや」と注意されている。えらいすんません。

最後になる次回7月5日は、正副2名つまり各町の今年と来年の筆頭2名、合計14名出席を決定して「さあ、次に流れろか」。

こういう場合は、宴会させれば天下無双、岸和田で右に出る者おらず、の宮本町。「江、エエから付いてこい。こっからはオレが幹事や」

その後は、酒とカラオケだけが人生か?と実人生の深淵を垣間見る泥沼状態である。

午前2時前に千鳥足で帰り道、また喜平で引き戸を開けて片付け中の店主・N氏から「おう、ひろき。今日はお疲れさんや。まあ飲んでいけ。ちょうど店のもん帰らせて、相手おれへんから淋しかったとこや」と呼び止められ、焼酎を水で割って痛飲。

 

5月28日(水)

20日(火)、23日(金)、24日(土)と寄り合い連発。1週間に3日、祭直前みたいである。

こんなに寄り合いが連発だと、「またか、煩わしいなあ」というより、えーいもうとことん行ってやるぞ、という気分になる。

そして、その出席者も決めごとも毎回違うので、頭がこんがらがってしまいそうだ。

23日の寄り合いは、五軒屋町地車保存会役員総会で予算案始め、議題はふんだんだったが、だんじり倉庫の鍵がほとんど破損しかかっている、なぜそうなったのか、それをいつ誰がどのようなかたちでどうするか、で1時間あまり議論した。

ところで昨日は久々に、京都・錦市場の漬物屋であり、日本でただ一人の酒場ライター(酒場馬鹿)のバッキー井上と彼が率いるエディーズの連中、そして西成の紙媒体主体の業界人こーじくんなどなどと北新地で飲んだ。

仕事を離れての北新地はほんとにご無沙汰で、なんだか前とちょっと違うな、といった心的情動性になったのは、ここ最近は会合ことに酒席といえば岸和田で、それ以外だと会社の近所あるいはゴスペルとかの家近でしか飲んだりしなくなっているからだと、彼らと酒を飲んで騒いでいて気づいた。

このところ電話もほとんどが、岸和田の若頭責任者協議会の同人からか、五軒屋町の祭礼関係者になってきている。

そして何でかは分からないないけれど、一人でいるときに、曳き出し夜明け前のお祓い神事とか雨が降っている宮入とか、あるいはあまり考えたくないのだけれど事故の場面だとか、これまでの祭の際の典型、つまり特別に経験した出来事の記憶みたいなイマジネーションが、歩いていても電車に乗っていても、ご飯を食べていてそれがうまかろうがまずかろうが関係なく、間断的に湧いてくる。

正直にいうとそれは実感的には「湧いてくる」というより、「襲ってくる」という感じだ。

その数え切れない祭のシーンの断片。

祭それ自体は、神事をはじめ毎年同じ時間に同じことをやっているのだが、その年、その時々、その場面、その瞬間…で全然違うし、そこで起こるどのような些細な出来事も抜き差しならない因果や意味を持っていることを、岸和田の祭人間たちはその祭を通じて知っている。

それは、ほとんどカラダで学んできた、といえものだ。そしてわたしは考えてみると、数え切れないほど祭をやってきたはずだし、今年は若頭の筆頭をやっている。

けれどもその祭について経験しているほんのちょっとしたことが解らない。

その「解らないこと」がそれこそ数え切れないほどあって、いま祭礼に向かって直面しているほんの一場面の「意味のようなもの」も同様に解らない。

例えば、うちが大手町の浜(もう30年ぐらい前に浜は埋め立てられたが)で潮かけをして、宮本が中之濱でしていることなど、それがどうしてそうなったのかは解らない。

たしか国立民族学博物館の梅棹忠夫先生が「祭は歴史的事件を冷凍し、永久保存をしたものである」というようなことをおっしゃっていたが、だんじり博士といわれる知人や世話人の参与さんに聞いても「なんでか、知らん」、そのようなことが、いつか将来解ることもあるだろうか。

 

5月10日(土)

毎月恒例の町内の若頭の寄り合いがある。

若頭の寄り合いは7月まで毎月第2土曜で、ほぼ決まっているが、ほかの団体はまちまちである。けれどもこの夜は、青年団、拾五人組、世話人会とも寄り合いが重なった。そのせいで、会館は1階2階とも満室・満員御礼。

8時前に会館に行くと、「こんばんわ」「ご苦労さんです」と下の団体、つまり青年団、拾五人組の者からの元気のいい挨拶が連発で、気分がいい。

久々の「こんばんわ」には「元気でやってるか」、昨日に続きの「ご苦労さんです」には「きょうも頑張ってるなあ」といった具合に応答し、個人的な話がある場合は「ちょっと、ヒロキ(私の名前、ちなみに五軒屋町は江姓が多い)さんいいですか」から話が始まる。

その回数が多くなると「祭も近い」ということであり、盆が過ぎ、町内でだんじり囃子の練習の音が聞こえ、寄り合いの頻度が増える。

祭がすぐになり、いろいろの事情で直前に久々に寄り合いに来た者や、普段顔を見ない他町の知り合いに会った場合は「祭やのお」「ほんまや、祭や」というほとんど「それだけ」のコミュニケーションが岸和田男の挨拶になる。

祭まであと4カ月、まだまだだ。そして明日、奇数月第二日曜恒例のだんじりの掃除である。

 

5月9日(金)

五軒屋町だんじり保存会の今年の役員の名簿提出とその決定のための寄り合いが8時から会館で行われる。

保存会は町会長を会長に、4団体の責任者が副会長、それに幹事が各団体3名、会計監査が各1名で構成されている。

祭の役は、その年で変わるため、町会長以外は毎年総入れ替えになる。ちなみにわたしは去年は幹事で、今年は副会長である。

保存会はだんじり本体の修理その他のために、各団体で積み立てたお金をプールしておく基金のようなもので、例えばだんじりをぶつけて破損した際などに、それをどうするのか、大修理するべしなのか補修ですませるのかなどを協議し、それに応じてお金を充てる。

万一、屋根を飛ばしてしまうといった激しい衝突事故の場合は、長年積み立てたお金が一発で消えてしまい、足りなければまた臨時に徴収する、といったこともしばしばある。

だんじりにはコマや梃子といった消耗品、夜間曳行の際の100個を越す提灯、太鼓のバチといったいろいろなパーツやゴミの処理のための費用も発生するが、それは毎年の「曳き雑用(ひきぞよう)」から捻出する。こちらの方は、その年々の「祭礼会計」ということになり、これは町会が世話人会に委託している。

このあたりの運営や会計まで関わってくると、本当の意味での祭礼のエキスパートである。

お金に関わる煩雑極まりないこれらの仕事は、正直誰もやりたくない。けれどもこういうことは誰かがやらなくてはならないものだし、岸和田の場合は各町の各団体で、ほんとうに淡々と引き継がれている。

それらは当然のこととして「できる者がやる」というかたちで引き受けているのだが、その代償は「それをしない者」からの信頼とレスペクトだけだ。 それよりも逆に、大工方には向いてないけど会計ならできる、というようなベクトルが先に働くのである。

この非相称的だけれども債務のキャッチボールようなやりとりは、だんじり祭をやっていく上の基本中の基本で、祭やってきた者には重要で不可欠な感覚だ。

それはここ数年になってよく言われるところの「ボランティア」といった耳障りのいい言葉などで表されるようなものとは少し違う。

 

5月5日(祝)

五軒屋町祭礼四団体、すなわち世話人、若頭、拾五人組、青年団のそれぞれの長(責任者)と年番の五人の寄り合いがあった。

ゴールデンウイークの連休中だが、一昨日の3日は中央地区若頭責任者協議会7町の会合、と忙しい。

議題は14日宵宮のパレード曳行の時間を昼から朝に繰り上げることについてであり、これは先月の第3回年番会議によって出された協議案件だ。

そのペラ一の用紙には理由がびっしり書かれている。その2で「曳きだしとパレードのイベントを午前中に集中する事で、14日の午後の曳行時間帯の面取りが拡大され、だんじり祭の新たな充実感と開放感が創出できる」とある。

パレード曳行は昭和38年にから行われている行事のひとつだが、「パレード」という名前の通り、イベント的側面が強い。だからではないが、わが町の場合「年番に一任」ということになった。

これについては各町さまざまな事情や思惑があり、例えばS町の場合など、丁度14日の曳き出し後に「潮かけ」の神事を行っている。だから「反対」という立場だ。

昨日、S町若頭責任者のNと電話で話をしたが、彼は「もし朝からになったら、パレードのくじ順が真ん中とかになったら、潮かけゆっくりでけへん。困った」と言っていた。

うちの町の場合は、はっきりいって「どうでもいいこと」である。けれども、やはりこういう場合は電話とかではなく直接「顔を合わせて」の話し合いになる。

とくに四団体の寄り合いの場合は、おおよそ10歳ずつくらい世代が離れているので、考え方の違いが顕著に出てきたりして、なかなか興味深い。

だんじり本体に関して、曳行コースに関して、鳴り物のお囃子に関して、法被の着方に関して…。そんな時、必ず「オレらの頃は…」ということになるのだが、それが各世代世代で微妙に違ったり同じだったりするところに祭の話のおもしろさと奥行きがある。

7時からおおよそ4時間。話しっぱなし、飲みっぱなしのぶっ続けで「そろそろお開きに」ということになり、曳行責任者(世話人責任者)から「もう一軒、うどんでも食べに行こう」というお誘いがあるが、明日からまた多忙な日常なので、お断りして家に帰った。

 

5月1日(木)

おとなりのページ「そこが問題で内科医?」のドクター佐藤から、「お仕事帰りに今日○○のお店行くよー。と教えていただければ、ひょこひょこと出ていきますので、是非おしえてください」というごきげん極まりないメールが入ってきたので、「それでは家の近所のバー・ゴスペルで」とお返事。

けれども地下鉄御堂筋線で梅田までくるようなので、「そのまま、難波まで乗ってください」とケータイして、急遽、神戸から大阪ミナミに変更した。

ナイスガイの若き医師は、いつ会っても爽やかである。

数年前に岩手から阪大に来た彼はミーツの熱烈な読者で、内田先生の連載を読んで「世界観が変わった」とのことで、夜ごと夜ごと街レヴィの連中が酒を飲んで「あ〜でもない、こ〜でもない」とやっていた神戸のジャック・メイヨールに全くの「一見(いちげん)」でやってきた。

神戸・北野のこのワインバーは、哲学するソムリエ・橘真氏の店であるが、現在三宮に移転準備中でクローズ。そんなわけでこのところ、佐藤くんと「どこに行こう」と酒場ジプシーをしていた。

先週は内田ゼミの帰りにウッキーの先導により、総勢約10人でがやがやと西宮北口の居酒屋で、手当たり次第につまみを食べ、チュウハイのでかいグラスを何杯もお代わりした後、3人で三宮へ。ゴスペルでバーボンを飲んだ後は、うちの家で「朝までだんじり生ビデオ鑑賞」だった。

「それではここで」ということで、10時半に御堂筋線D階段で待ち合わせて「バー・ウイスキー」へ。途中「ここがかやくめしの…」と大黒を案内。歩きながら「ほお、ここなんですか。池波正太郎とミーツで読んで、一度行きたいと思ってました」と佐藤くん。そのまままっすぐバー・ウイスキーへ。

このバーは、大阪いや関西を代表するオーセンティックなスタッグ・バーだ。そしてここのとびきりうまい水割りやカクテルをつくってくれるバーテンダーさんは、毎年、「試験曳きの日に」見に行くなかなかのだんじり通だ。

「もう仕事半分、だんじり半分とちがいますのん」に「いや、まだ、4割くらいですわ」と答えた後は、もうだんじりの世界に突入(この日はお客が少なくてよかった)。とりわけ今夜は、だんじりの本当のスターは、華やかで一番目立っている大工方よりも、前梃子(まえてこ)だとのことを説明する。

「梃子持ち」という称号で若い者から特別にレスぺクトされている前梃子係は、曲がる際に前輪内側のコマに檜の梃子をかませ、ブレーキ効果ときっかけをつくる、やり回しの花形。別名「花梃子」と呼び名もらしいこのパートはまた、だんじりの各受け持ちの中でも最も重要でかつ危険なパートだ。

前梃子係は左右一名ずつ一組で、うちの町なら現在五組いる。その「あ・うん」の呼吸が崩れると、相棒をそれこそ死に追いやってしまう。それゆえ、幼なじみやいとこ同士といったとりわけ気心の知れたコンビがひと組で梃子を持つことが多い。

そんな説明の後、「その左右コンビ同士は他のコンビの誰かとは組まないし、彼ら2人の師匠は同じく左右のひと組のコンビ、つまり左の師匠と右の師匠はコンビを組んでいて、右のその弟子は左のその弟子とコンビを組む、という仕方で師弟関係が出来ている」という神髄の話になる。

「師匠について、習う」「弟子を受け入れ、伝授する」がダブルで交差し、そして「相棒をつくり、コンビを組む」という関係性が同時に構造化されているのだ。

街レヴィ武闘派の佐藤くんはさすがにそこのところで、目を輝かし、唸っていた。「師はその師にどのように仕え、習ったか、ですね」。

まったく、その通りであります。ちなみに本年のわが五軒屋町の前梃子責任者の二人は、「梃子を持って」かれこれ15年。どちらもわたしと同級生で、片割れのM男はわたしの後を受け、平成一六年度の若頭筆頭(責任者)就任が決まっている。

その彼ら二人に「そろそろ、前梃子係から引退を」という役目は、来年の祭礼までに若頭筆頭のわたしがやらなければならない。 

 

4月19日(土)

 

明日行われる予定だった若頭連絡協議会主催の親善スポーツ大会が中止になった。

例年の決定事項として、前日午後5時発表の降水確率50%以上なら中止、ということになっているが、それよりずっと早い正午過ぎに南町の若責協の副会長であるWより連絡があった。「回復の見込みがないし、執行部で協議の結果、早めに中止を決定した」との携帯電話だ。

こういうところがだんじりの街らしい。

さっそく各町の責任者は連絡網で中止のむねを個人に伝えるのだが、それはいいとして、各町でソフトボールの試合の後、宴会や食事会(飲み会?)の段取りをしている。というより「適当に昼前に負けて、一杯飲も」という、それが目的の町も多い。

うちの町なら今年の場合、料理屋に注文してあるおでん50人前と焼きそば、肉屋に注文してあるコロッケ、串カツ。そしてビールや焼酎などの飲み物。その準備をあらかじめしている。野外バーベキュー、といった町も多いし、どこかの飲食店に予約してしてあるとこもあるし、町同士合同で宴会をするところもある。

それをキャンセルあるいは予定変更しなくてはならないから、幹事・会計は結構大変である。もっともうちの場合は昨年など、ソフトボールがあるなしにかかわらず、「飲み会だけは同じ」ということだったが。

とりあえず、若頭責任者協議会の執行部は、当初からの「決定事項」だった「中止決定の時刻」を「変更決定」して、「中止決定」を「決定」したのである。

われわれ単町の役員幹部にすれば、その中止決定が早ければ早い段階ほど、なにかと段取りが助かるのである。しかしながら、このソフトボール(その後の飲み会だけの人もいる)を楽しみにしている全町ほとんどの若頭にすれば、もし急に晴れるようなことがあれば、これはただごとでは済まない。

けれどもなのかだからかも知れないが、どの町の若頭も「降水確率の5時発表がまだ出ていないではないのか。それは当初の決定事項ではないのか」なんて3学期の学級委員や会社の総務部長的に(すいません)、原則を振り回すトロいことは言わない。明日の場合、誰が見ても雨に決まっている、午前発表の降水確率でも明らかなのである。

だんじり祭礼の組織にいると、「部間のコミュニケーションを良くしよう」「報・連・相が基本」とかではない、何か違った「話やものごとの決め方・進め方」が身に付いてくる。

それは組織の上に立つ者が何か=とりわけ祭礼というものを運営する時、「責任をとる」ではなく「責任をまっとうする」というところに常に軸足を置かないと、何一つ前へ進まないことを熟知しているからである。

もともとどの祭でもそうなのだろうが、普段できないことが祭礼日においては許される。その日だけは、好きな時に、好きなことがやれる。それが祭というものの重要な側面である。

岸和田のだんじり祭の場合は、その2日だけ町の宝物であるだんじりに金綱や赤幕や幟で化粧をする。それを出して、大小太鼓、鉦、笛といった鳴り物をフルボリュームで演奏し、とにかく派手に疾走し急転回し、そのあまり、時には家の軒を壊したりする(ほんま、すいません)。

「うちが先や」と割り込んで纏を入れ、その結果の大喧嘩(反省しきりです)。夜には大酒をくらい、ご馳走をたらふく食べ、宴会で大いに歌い踊る。

そして岸和田旧市の21町といえば、それこそ21の国家があるように、それぞれ歴史も土地柄も気質も「似ているところがあるが違う」し、上記の「まつりごと」のやり方は全然違う。

自分ところがそんな「うちの祭をやる」。歴史的にも各町がずっとそんな祭をやってきたから、当然、お互いによその町のやり方がわからない。だから紛糾することがある。

祭のシロウトはそこがわからないから、しばしば顰蹙を買う。

けれども、そんな祭の際に、自分の町がされてイヤなことは何か、ということは、歳をとるのと同じように年々祭を重ねることによって解ってくる。同じ町で、同じ祭をやってきたはずの個人の場合に置き換えても同じだ。

だから、そこに話し合う余地がある。そのためにこうしてわれわれが寄り合いに出て、話し合いを繰り返している(飲んでるだけという時も多いが)。

ヤクザはてんでそこを無視するから、いつでも嫌われる。

「筋を通す」などということは、多くの場合どうしょうもなくつまらん原則で、 他者にとっては理不尽極まりない行為だと思う。

 

4月7日(月)

中之濱町の若頭のKが「中之濱町地車五十年誌」を届けてくれた。

Kは以前にも書いたが、三代続く度胸千両系男稼業の家に生まれた典型的な「浜」のだんじり男だ。

昨年の秋に中之濱町内で編集が進んでいることを聞き、新年の若頭責任者協議会の寄り合いの時に「一冊、頼む」と代金一万二千円也をことづけていたのだが、刷り上がるやいなや、「おい、江。できたから今日、持っていっちゃる」と電話があった。このあたりの直截的な気質が胸に小気味いい。

中之濱町のだんじりは昭和26年新調。現在、岸和田で曳行中の地車の中でも、さらに文化文政期からざっと200台くらい現存する「岸和田型だんじり」の中でも最高傑作のだんじりである。

大工は天野藤一・天野喜三郎、彫師は木下舜次郎。 とくに彫り師、木下舜次郎の傑作と言われている。

岸和田のだんじり人間たちが親しみをこめて"舜さん”と呼ぶ木下舜次郎師は、明治43年生まれ、昭和47年9月19日没。二代目黒田正勝の門下で、現在活躍中の彫物師はほぼ師の流れを汲む。 また天野藤一師は当町、中之濱の大工棟梁で、初めてのだんじり製作が自町のこの地車で、いわゆる「出世だんじり」になっている。興味ある方はhttp://www.geocities.jp/kirizuma2000/ 「だんじりの部屋」で中之濱町地車の彫り物、彫刻師の系譜ほかご覧いただける。

その50年誌は副題に「天下泰平」というタイトルが付いている。総ベルベットクロス貼り、金箔エンボス加工の極上装丁。中之濱町地車の全体から彫刻細部に至るまでを写真と説明文で解説するアルバムスタイルであるが、他所のそれとはちょっと違う。

前文にあるリードには

脈々と流れ続く岸和田の地車の歴史の中で、50有余年もの伝統ある地車を戦災で消失したのは、唯一中之濱町だけである。

地車を持たぬ町の悲哀を身にしみて感じた町民はやがて、衣食住もままならぬ中での日掛け十円を二年間に渡って続け、ついには地車の新調を成し得たのである。

とある。

タイトル「天下泰平」はこの町の纏や法被はじめ至る所に意匠化されている軍配団扇のことで、その昔、城内で開かれた御前相撲でこの町の志形屋権七が優勝、殿様より下賜された軍配がその由来になっている。

「日掛け十円」の話は以下の通り。

…この有名な十円貯金を可能にしたのは、中之濱が漁師町であったからだとされている。つまり、漁師は漁に出さえすれば日銭が入ったからだ。前日に十円出し、例えすっからかんになったとしても、翌朝の漁に出て捕った魚を魚市場に持っていけばお金になり、またその日の十円が払えたというのである。

この中之濱町、通称「なかんば(中ノ場)」とはどういう場所か。

戦後まもなくまで、現在の幼稚園の位置に岸和田唯一の魚市場があり、町は早朝より近郊の町や村から、魚屋、仲買人が集まり、威勢のいい競り声や、大八車、リヤカーの音で目が覚めるという活気に満ちあふれた漁師町だった。皆が貧乏であったが、素朴で人が良く、よくけんかもするが人情味のあふれる住みよい町であった。

圧巻は「若い衆への五つの提言」である。

「●二つ、内輪もめをしないようにすること

中之濱町は浜気質で気が荒く、けんかの多い町だ。内輪もめもよくした。魚市場の跡地での大げんかや、青年団が駅前に地車を放ったまま帰り、それを世話人が夜に曳いて帰ったという話もある。町内で力を合わせて地車を曳き、みんなで祭を楽しもう。内輪もめをしてはいけない。

「●四つ、責任ある祭をすること

祭の雰囲気が好きなだけの人は、地車はどうでもいい人。本当に地車が好きな人は地車を大切にし、祭に責任を持つだろう。若くても、年がいっていても、祭に責任を持たなければならない。無責任な祭になってはいけない

カバンに入れてずしりと重いこの一冊を岸和田の実家から持ち帰ったその日一日、わたしは確かに「浜のだんじり」の中にいた。

 

4月6日(日)

快晴。

岸和田祭礼若頭責任者協議会主催の神事「 岸和田祭礼安全祈願祭」が浪切神社で行われる。

集合は8時半、受付開始9時30分、開式・神事開始は10時である。岸和田旧市21町の平成15年度若頭責任者(筆頭)と来年の責任者の42名がその運営の一切を仕切る。

3張りのテントと紅白の幕、それに21町の纏を設置するための赤毛氈、挨拶祝辞のための舞台、受付などなどを設置する。すべて責任者自分たちの手で段取りをし、しつらえる。

だんじり囃子演奏用の大太鼓、小太鼓、鉦が設置されるや、だんじり囃子が始まる。

こちらは 沼町青年団に依頼している。

招待客の受付が始まる。年番はじめ祭礼関係諸団体は正装にタスキ掛け。各町の町会長や行政関係の方々のスーツ姿に混じり警察署長と消防長の制服が目立っていてなんだかかっこいい。

玉串奉奠は各町法被の正装にタスキ掛けの若頭正副、後梃子組長正副、青年団長正副の6名で、順番は14年度パレード籤順。来賓にそろってお辞儀をし、神殿にはいつも通り、二礼の後、パンパンで一礼。

神事の後は式典で、来賓の祝辞だ。地車祭町会連合会の会長、ついで祭礼年番長、その後岸和田市長の順で祝辞がある。

こんな場での祝辞は、来客は普通あまり聞いていないものだが、町会連合会の会長と年番長の祝辞は、祭礼関係者の全員がしっかり聞いている。

町会連合会の会長は紙屋町の山本さん。NHKハイビジョンの「日本の祭」でも解説者をされていた。

「だんじり祭はイベントではない、ほんものの祭礼である。だから事故もつきまとうものだが、自主運営、自主規制、自主警備の鉄則を貫いている限り、伝統や歴史は残る」という矍鑠とした内容で、拍手喝采。

続いて今年の年番長の挨拶。

その前に、年番という制度について簡単に説明する。

年番は その年の祭の最高責任機関だ。こと岸和田旧市の祭礼に関しては市長や警察署長、町会長よりも権限があるといわれる。というのも各町の曳行コースや遵守事項の取り決め、はたまた町同士の揉め事や紛争の解決まで「年番には絶対逆らわれない」存在だからだ。

もともと年番長1名・副年番長2名・総務1名・会計1名・庶務1名だったが、現在では各町輪番制で最高責任者の年番長以下約30名を選出している。年番は9月14・15日の祭が終わると翌日から引き継ぎが始まり、翌年の祭までの1年間その重責を果たすわけだが、その立場にある間は「仕事もまともにできない」と言われるぐらいの忙しさだ。

そしてその歴史は 享和3年 (1803)にさかのぼる。昭和49年に年番長をつとめられた宮本福太郎さんの「だんぢり雑考」によると彼自身、第126代目 だそうで、それならもう150代を超える勘定になる。また天保3年の古文書には「喧嘩口論候ものあれば、其ヵ所ヵ所壇尻以来差出候義、きっと御差留なされ候事」とある。今で言うところの曳行停止である。

今年の年番長は南町の槌谷さん。町会長もされているという方だ。

われわれ若頭責任者協議会の平成15年度会長は筋海町のNで、オレとは幼稚園からの幼なじみの八百屋の倅である。今年同じく若頭の責任者をすることになり、彼が事あるごとに言う「今年の年番長はええ」というコメントのそのわけはその挨拶で解った。

「だんじり祭は過剰さと解放感にその本質があります」といきなりガツンときた。そして「それを体を張って動かしているのが、本日の安全祈願祭を運営する若頭で、文字通り祭においては全体の若い者カシラ、あなた方で、われわれ年番も一番の信頼をおいている。だから言いたいことがあれば年番に対しても、腹の中に留めておかずに、話を持ってきて欲しい」

腹の中に留めておくな、か。こんな挨拶は聞いたことがない。オレは感激した。

Nは後の鏡割りの酒席で「な、ええやろ。一番はじめの祭礼役員代表の顔合わせの時に、ワイを若頭のなかの今年のドンやし、これからサシで話をしたってくれ、て警察署長に言うてくれた」と付け加えた。

岸和田市長代理の助役さんの挨拶は「市長からのメッセージです」とメモを出すところから始まったが、その内容は岸和田市にとって、だんじりはいまや日本を代表する祭で、宝物だ。だから大切にして欲しい、というものだった。

今日ここにきている21町の祭礼団体の長の、誰がだんじり祭を粗末に扱ったというのか。

 

3月31日(月)

午前10時から神戸女学院研究科聴講生の面談に行かなくては、ということで8時半に起きるが、昨日は(というより今日早朝)SOUND MEETS 放送の後、トアロードのゴスペルでささやかながら打ち上げ、ということになった。帰り際にKISS-FMの田中部長がポケットマネー(?)の封筒を持たせてくれたのだ。

ありがたい。そうなると、雪が降ろうが槍が降ろうが、いくら内田先生の大事な面接の前の夜であろうが、この酒の席は当然、断われない。 男、若頭のつらいところである。

まずはビールにグラスワインという感じで始まったのだけれど、階上にある在日韓式料理「キム」からナムルの盛り合わせや蒸し豚や炒め物がどっさり持ってきてくれたので、日本酒、マッコリ‥‥となってしまって、帰ったら4時だった。

阪急電車に乗って西宮北口から門戸厄神へ。そっから女学院までは徒歩10分くらいなのだが、これがちょっとはずかしい。

いい年こいたおっさんが、何を好き好んで女子大生ばっかりのところへ行かなあかんねん。歩きながら「なんちゅうエライことやってしもたんやろ、オレは」と考えてしまう。

キャンパスに向かう女子大生の群れからわざと外れるように歩き、それでもちらちらと後をふり返り女学院に着く。この女子大の守衛さんはいつもにこにこと感じがよくて、以前内田先生の研究室に打ち合わせに行った時などは、「すいませーん、内田先生の研究室はその右でーす」と50mも後から大声をかけてくれた。

ポジティブシンキングの若頭はそんな時「ああ、オレのこと気にしてくれてんだ。それは有難いことで」と感謝する。「おっさん、おっさん、そっち違う。女の子に用事ないのにいらんことせんといてや」と言われているとは決して思わない。

隣のページでコラムを書いている街レヴィの佐藤くんに、今着いた、とケータイを入れ、指定の集合場所に歩いていくと、同じ面接の面々がOL風の事務の人に「こちらです」と先導されていたので、黙って着いていく。

それにしても、立て看も落書きも、空き缶も吸い殻だって何一つ落ちていない、何てきれいな大学なんだろう。まるでリゾートホテルみたいだ。

渋い会議室みたいな部屋に通されると、すでに数人が来られていて、その中の初老の方からいきなり「江さんですか、だんじりの」と声をかけられた。こうなると、ごきげん度ヒートアップである。みんなうち解けてわいわいと話す。

散歩でも、と佐藤くんと外に出ようとすると、同じように阪大の院生の子が「たばこ吸いたいっすねえ」とくるので、「おっ、あっちのベンチのところで」といってこそこそと隠れてタバコに火をつけた。

なんだか中学生みたいですよねえ、と笑いながら、それでも吸い殻を丁寧に消してゴミ箱に入れて戻る。

それにしてもアルファベット順に待っているのだが、一人15分として最後のワタナベさんまで一体何時になるのだろうとぶつぶつ。「それやったら時間指定してくれたら」とか「仕事、さぼってきているのにヤバイっすねえ」となって、元気のいい若い女性のメンバーから「江さん言って下さいよ」と言われたので「よっしゃ、まかしとけ」。

順番がきたので面接室へ。二日酔いというより、まだ酔っている状態のぱんぱんの顔と、ここ数日の酒と刺激の摂りすぎによる吹き出物をめがねで隠して部屋に入ると、内田先生とエクゼクティブクラスのホテルの古豪コシェルジュのような先生がいらっしゃって「お忙しいところ、お待たせしてしまってすいません」と天使の微笑みを頂いた。

オレはもうさっきのことなどすっかり忘れて、何を聞かれたのか何を話したのかもついでに忘れて、気がつけば阪急電車に乗っていた。許してほしい、みなさん。

 

3月30日(日)

4月15日発売のミーツ別冊「京都本」の色校で、昨日、今日と休日出勤をしている。

雑誌出版社の場合、土日は公演やイべント取材その他があって、結構忙しいことが多いのだが、いちおう一般の企業と同じように、弊社でも土曜・日曜が休日だ。

わたしは断言するが、決して「だんじり祭」だけではない。仕事も人一倍、熱心なのである。

この「京都本」は、4月・5月・6月と連続して出る三都市本の一発目である。ミーツは正式誌名が「ミーツ・リージョナル」とあるように、「リージョナル」つまり読者を京阪神にしぼった街の雑誌で、ほとんどそれ以外では売れていない。というか、売ろうとしても全然売れない。

けれどもどうしたことか、この三都市本は全国、とくに首都圏でもすごく売れて、八重洲ブックセンターでは昨年のガイド書部門で長く1位をキープし、東京都内のコンビニでも並んでいる「儲けカシラ」の増刊だ。

今年は昨年度版に比べ、町家や祇園祭、能や狂言といった古典芸能に多くのページを割いている。

京都については、城下町の岸和田的人間、それも町内にだんじりを持っているいわゆる「旧市」で育った者にとっては、「町家とかが、何で珍しいねン」であるし、懐石を食べることやお茶屋遊びというものなどは、「ややこしい」「肩凝って、かなわん」とは思いはすれ、正味のところ行きたいともあまり思わない。そういうところの京都にあこがれる、ということはない。

色校を見ている。ページは祇園祭のところだ。

「おーい、村瀬(チーフデスクです)、祇園祭のとこに大きく『日本三大祭りのひとつ』って書いてあるけど、誰が決めたんや」

村瀬「確かに三大祭りって言われてますよ」

江「ほな、ほかの二つはなんや」

村瀬「天神祭と、もう一つ‥‥」(また、祭の話か、かなわないなあ)あるいは(からんでるバヤイじゃないでしょ、この忙しい時に)

江「だんじり、とはちゃうわな」

村瀬「ねぶただったんじゃ‥‥。でも江さんは、だんじりしか、祭と思ってないですもんねえ」(やっぱりきたか)

江「ちゃうちゃう。諏訪の御柱も江戸の深川の神輿もすごい祭や」

村瀬は若手の有能な編集者で、わたしは信頼しきってる。だから、今日のところは、このへんで許しといたろ(@池乃めだか)。

「日本三大祭り」ではないが、ここ数年夏になるとJR西日本の車内刷り広告などでよく目にするのが、「関西三大祭り」とか大書してあるポスターで「祇園祭」「天神祭」「神戸まつり」(ここだけ「まつり」ね)とあり、そんな時、わたしは腰をぬかしそうになる。

関西三大祭り、ってかあ。

まあ、だんじりを永年やっている者からすると「うちのだんじりと比べられるのが、はなから我慢ならん」であるが、そこは雑誌編集の仕事の身、「読者とともに」でいこう。

けれども岸和田の祭関係者たちは常々、大阪でだんじり祭と並び称される天神祭について、「ギャルみこし、て、アレは見ている方が恥ずかしいで」と公言、いや広言してはばからない。

神輿をかつぐために局や新聞社を集めて女の子の審査シーンを公開するのも、「まつり」のメインにサンバチームをリオから呼んでくるのも勝手だ。伝統や宗教をうんぬん言ってるのでもない。要は「祭」と「イベント」とは一緒にすんな、ということである。

関西でいうとPLの花火や御堂筋パレード、ひらかたの大菊人形はイベントで、東大寺の二月堂のお水取り、今宮戎の十日戎、四天王寺のどやどやは祭である。これは祭に対しての重要な認識だと思う。

もう少し言うと、プロデューサーとか企画書とか、スポンサーだとかいう類の語句的なにおいが少しでもすると「なんだかなあ」である。

このところ京都の街場の店を取材し編集していると、「町家再生」「元お茶屋の」「カフェ感覚の京料理」といったことを主張する感じの店が増えてきた。その「感じ」が「ギャルみこし」とどうも似ているような気がするのだ。

まあ、街は確かに「それ」があるから面白い、のであるが。

休日出勤のあと、KISS-FM神戸でわがミーツ誌が誌面連動でやっている音楽番組、SOUND MEETSの最終回の放送があるので、大阪からがらがらの日曜深夜の快速に乗って元町まで行く。

番組は午前0時から1時まで。2年と半年続いたこの番組は、ふだんは収録したものを流しているのだが、最後なので、ナマで行こうということになって、ポートタワーにあるKISS-FMのスタジオ室に11時くらいに集合。

リリパットアーミーの女優さんでナレーションをしてもらっている藤田幸恵さん、そしてボサノバユニットla bossa(CD買ってあげてね)主宰でディレクターのヒロチカーノくん、ミーツの音楽評論でもおなじみの選曲家の大倉カイリくんが揃って、スタジオモニターでいい音を聞いていた。

隣のスタジオでも同じように最終回のナマ放送が行われていて、40歳くらいのちょっとだけおばさんが入った感じのパーソナリティーが、長いエンディングで「それではまたどこかで、お会いしましょう」とナレーションを入れていた。

こちらのスタッフもリハーサルの音を落として、彼女の声を聴いている。

時間がきたら、あっけなく終わるというのはとても美しい。その瞬間、とり戻せない時間とともに言葉が終わる。それがすごくよかった。その番組はジャズの番組でベタだと思っていたが、ちょっと聞き惚れてしまった。

さあ、今度はこっちの番で、あと1時間で同じようにフェイドアウトしていく。

スタジオ外の打ち合わせスペースで、シャンパンを抜いて静かに紙コップで乾杯しているのが、こちらのスタジオのドアのガラス越しに見える。

うちの番組は、オープニングからエンディングまで音を繋ぎっぱなしなので、オンエアー中だがスタジオの外に出て、ビールをもらって彼らの中に入るのでもなく静かに飲んでいた。

「サウンドミーツ、うちのディレクター連中みんなファンで、みんな凄いって言ってました」とメガネをかけた局の女性ディレクターが言ってくれる。ここ数日は新年度改編で最終回を迎える番組ばかりとのことだ。

オンエアーのモニターを聞きながら、すっかり3月最終日へと日付が変わり、もう彼らと僕らだけになってしまった寂しいFM局を過ごす。

SOUND MEETSは、最終回でも相変わらずミディアム・テンポのラテンばかりだが、あと残り3曲くらいのところでシャーデーのラヴァーズ・ロックが選曲され、電波にのる。

スタジオ内では誰からともなく「ちょっともう少しボリューム上げられへんかな」といって、モニターのデカイ音で、お別れのしんみりを思いきり楽しんだ。

出会いもいいけれど、別れもいい。始まりはあらかじめもう終わりを含んでいて、そういうところは祭によく似ている。

シャーデーの You are the one  The one I swim to in a storm Like a loversrock という歌詞のフレーズが、一日明けた今も鳴っている。

 

3月18日(火)

それにしてもどうして「張る」とか「握る」とかばっかりなのだろうと思う。

7時半からだんじり会館で、若頭責任者協議会の定例会があったのだが、議題は4月20日に行われる親善スポーツ大会の抽選会である。このソフトボール大会は、祭以外にふだんからの各単町の若頭同士の親交を深める、という趣旨でずっと昔からやっている。

確か記憶では4〜5年前、始球式で市長の投げたボールを打ち返した町があったし、警察署長の挨拶では「どうかこのあと、岸和田署でまた会うことのないようにぃ」という気の利いたセリフなんかがあったりする、「スポーツを介して親睦をはかる」祭礼旧市21町恒例のイヴェントである。

雨天中止。これにも伝説がある。

昔、浜地区で同じような大会があり、雨天になった。けれどもせっかく集まったんだから(後で宴会の用意がしてある)体育館で綱引きをしようということになった。決勝戦で「何をしても勝たなあかん」あの中北町と、漁師の数では岸和田一の大工町が決勝戦に進出した。

おーえす、おーえす、とあった後、さすが漁師軍団、大工町優勢。

決着がつく、と思った瞬間に、中北町は「せーの、離せ!」と綱を離した。どうしても普通では負けたくないからだ。

大工町の選手は全員尻餅「なんちゅうことをさらすねん」で大乱闘。「子供、嫁さん見てる前でビール瓶が飛び交い、血の雨が降った」とのこと。そんな話を大工町の若頭の大先輩から聞いた。

さてくじ引き抽選の結果。中北と宮本町が当たった。

早速、宮本のkに中北のAっつんが「5万円でにぎろか」。

K「かんにんしてくれよ、もうはじめから、払わなあかん。今日ビール1杯おごるから」

Aっつん「何ゆうてんねん。そしたらハンデつけたる。2点や」

他町の責任者が、やいやいはやし立てる。

調子に乗るAっつん。「町で5万。オレとオマエ個人で5万。これでいこ」

「ところで宮本、去年何位やったんや」

K「3位や」

Aっつん「なにい、エライ強いやないかおまえとこ。ハンデはやめや」

K「えへへ、実はオレとこは、遣り回しはあかんけど、ソフトは強いんや」

と何かにつけ、こんな調子だ。

うちの町は1回戦は筋海町と。

責任者のNに「おまえとこ、勝ちにくるんか」

「いや、毎年昼までに負けて、焼肉ちゅう段取りや」

「ほなうち、どうしようかなあ」

何かが賭けられ、張られないと、試合をやるインセンティブがないのである。

とくに中北町は遣り回しの早さだけでなく、「金がかかるとどうしようもなく強い」ということでも知られている町である。

中北はすでにバッティングセンターでの自主トレに入り、これからの毎日曜日には練習が始まるらしい。

 

3月8日(土)

毎月1回の町内若頭の寄り合いが7時半からある。その会場のわが「五軒屋町会館」は、だんじり新調に先がけて平成10年に建て替えている。

岸和田の旧市にはだんじりを持っている関係か、どの町にも会館があり、そこで寄り合いが開かれている。その会合内容はほとんど祭礼についての段取りほかの打ち合わせだが、時には葬式に使われたり、変わったところでは、小学生の絵の展覧会に使われたりすることもある。

盆が過ぎ、祭り前になると、祭礼4団体(青年団、拾五人組、若頭、世話人)それぞれが、それぞれの部屋でそれこそ毎日のように寄り合いをやる。

この日は若頭の寄り合いだけだったので、いつも青年団が使っている1階の大広間で開く。

大広間には長さ3メートルの「御祭禮」と金糸で大書した旗や町名を書いた幟、それに宮入用のふきちり、赤幕や金綱などが収納されている箱も置かれている。大人が10人入れるくらいの デカさの、別注でこしらえた 桐製の箱である。

ふと見てみると、その近くに株札の「八」が一枚落ちているではないか。

年末の夜警のときの札博打の一枚やな。(オレらもようやったなあ…、まだやってるんか、ほんまに、しゃあない…)

また、折りたたみの畳机が入れてある棚の横には、ジャージやショルダーバッグが残っている。

こうなると若頭は怒らねばならない。団長に早速、携帯電話を入れる。

「オマエら、年末に・火の用心・するのもエエけど、散らかしたもん、ちゃんと片づけんとあかん。じゅんじゅん(岸和田で昔からやってる2枚式オイチョカブのことをこう呼ぶ)やるのもエエけど、札落として帰ったらあかん。それともイカサマでもやったんか」

10分くらいして、会計の塩谷くんと副団長の二人が会館に飛んできた。「エライすいません。すぐ片づけさせてもらいます」。

こういうところが岸和田の若い衆のいいところだ。こちらも「ごくろうさん、まあ缶やけどビールでも飲んでいけや」となる。

明朝は午前9時から、だんじりの掃除である。

 

3月7日(金)

午後8時から中央地区若頭責任者の月例会があるので、午後7時前に編集部を抜け出て岸和田へ帰る。

ミーツ編集部は定時が午前11時半から午後8時半なので、これはまぎれもない早退である。

岸和田のだんじり野郎が、祭当日に仕事が休めなくて会社をやめる、という話は岸和田のそこら辺にごろごろ転がっている。とくにここ数年は、会社側も「この時勢にだんじりで休むような類の人間ならいらん」と、一番カチンとくることを言ってしまって、「分かりました、そんな会社なら辞めます」となるケースが後を絶たない。

わたしの場合も多分にもれず、だんじり祭当日とその前後の1日、約1週間は必ず会社を休んでいるが、新入社員の頃は上司に理解してもらうまで苦労した記憶がある。

「祭ごときで会社を休むとはどういう了見なのか」ということは岸和田の人間の場合全く逆で「会社ごときでどうして祭に出られないのか」である。

婚礼や葬礼と同じように祭礼があって、それが名古屋みたいに婚礼が派手なところありますよねえ、岸和田は祭礼という儀礼が重要な街なんです。どうか理解してやってください。 ちなみに岸和田市立の小中学校は祭礼と試験曳きの3日間は「休み」です(正確には9月15日は敬老の日で国民の祝日だ)。

そんな公式の祭礼行事としては一番近いスケジュールのもので、4月6日(日)、浪切神社にて安全曳行祈願祭がある。年番はじめ岸和田市長、警察署長ほか、そして各町の祭礼団体の長が出席しての神事だ。

各町そのポスターの配布についての話ひとしきり。

本格的に春が来ると、秋祭は駆け足でやってくる。

 

 

 

3月5日(水)

何の前触れもなく「いきなり」とはこういうことをいうのだろうと驚いた。

だんじりの一番の腕と度胸の見せ所は「遣り回し(やりまわし)」にあるのは周知の通りだが、それは「鰯の群が一気に方向転換するように」(@甲野善紀&内田樹)城下町の交差点をいきなり90度に曲がるというところにつきる。

 

その遣り回しのような「いきなり」を「いきなり」見せつけられた。以下のメールを書き終わって送信し、このHP「内田樹の研究室」をのぞいたらもうすでにその「いきなり」が終わっていたのである。「うーん、後の祭りか」と笑ってしまった。

 

その展開の一部始終は、ご紹介しないが、以下のメールは2003/03/05 15:46に送信した。なお「内田樹の研究室」の更新は、ご覧の通りWednesday, 05-Mar-2003 15:13:40 JST。

To: "Uchida Tatsuru" <fwgh5997@mb.infoweb.ne.jp>

Subject: 江です。

内田先生。

「だんじり日記」は関電さん、博報堂さんと弊社とでやっている「関西どっとコム」という、地域ポータルサイト(エルマガのスケジュール情報やミーツのグルメ情報とか満載です)で、「何か強力なページは作れないのか」ということで、年末から「ミーツの編集長日記」はどうか、とかやっていて、もちろんそれは街的ではないのでやんぴしましたが、冗談のように「だんじりなら最強や」とわたしと土屋/塩飽で出てきたアイデアです。

 

それならちょっと書いてみるか、ということで、実際そのたびにマジに書いて2人に見てもらってたのですが、あんまり内容が分かりにくくキッツイとのことで(どこがやねん)、とうとう1ヶ月間ほったらかしにされています(こらあキミら、おれはこれでも編集部長やぞ)。

 

ですので、もし「内田樹の研究室」で9月16日までの期間限定(どこかで聞きましたね)で連載可能なら、渡りに舟、喜んで書かせていただきます。

 

「芥川賞ならお断り、ノーベル文学賞なら貰ってやってもいい」という勢いでいきたいっす。何しろ実録ものですから。

 

木曜日から新連載、ということですが、元旦の分から掲載していただきたいと思います。

何しろ実録ですから(しつこいなあ)、ちょっと固有名詞その他デリケートなところをチェックしたいのですが、入稿はいかがいたしましょう。方法をお教えください。

 

だんじり祭は何があるか分かりませんので、とくに8月盆すぎ〜本番はとてつもないことが起こりやすく、そうなったときは、いきなり連載終了、となる可能性をお含み置きください。

先生の抜群のセンスで、バチッと前口上&タイトルネーミング、お願いいたします。

江 弘毅

 

…………………………………………………………………………………

というわけで、木曜日を待たずに、すでに「いきなり」連載が始まってしまって「いた」。まるで宵宮6時の曳き出しに必ずフライングするうちの町みたいだ。こうなったら根性をきめるしかない。

そして今週の若頭はいそがしい。

中央地区若頭責任者の月例会が8日(金)午後8時。本町幹事で「季乃陣」。五軒屋町若頭月例の「寄り合い」が9日(土)午後7時半。奇数月第2日曜恒例のだんじり掃除が10日(日)午前9時。

 

2月16日(日)

町内祭礼四団体の親睦会。各団体本年責任者と副責任者二名が出席。青年団から世話人まで世代を越えて仲良く酒を飲む。

健康ランドの岸和田リバティにて二時集合、先に温泉に入って宴会場で鮨と鍋。

酒はビール、その後もっぱら焼酎のウーロン割かロック。

 

2月1日(土)

 

中央地区(宮本町、上町、五軒屋町、北町、堺町、本町、南町)若頭責任者の月例会。

といってもほとんど飲み食いの寄り合いだが、話すうちにまったく違った祭のやり方を各町はしてるのがわかったりしてとても面白い。

 

北町の「いさみ鮨」でてっちりメイン、プラスにぎり(ここの鮨はうまいがやっぱりこんな会はてっちりである)。

いさみ鮨は10年くらい前はオレの家のある中央商店街にあって、オレら商売人の家の子は小学校の遠足の時にここのちらしを朝に取りに行って弁当にした。ふだんは給食なので、弁当を作る必要はないが、遠足の時だけ弁当がいるのだ。けれども商売で忙しいから(じゃまくさいから)親は弁当を作らない。 同じクラスで同じちらしは3〜4人はいたと思う。

 

「中学校の時、弁当になって、オレとこは昨日の晩、買おてきた肉屋のコロッケかかまぼこばっかりやった」

ひとしきりそんな話で盛り上がり(全員が小学校の同級生と1級上か下)、「ここの鮨はうまかった」「そやけど晩は岸和田一、高かったんとちゃうか」と幹事の北町をほめる。

まだ商店街が自転車で通ると怒られた頃、冷凍食品とかレトルトとかほか弁なんかなかった時代だ。

 

今日の祭の話題はおおむね宮本町へのイケズ半分、冗談半分の話。この町は宮入番外一番で知られるが「酒を飲ませたら岸和田一」「試験曳きの晩にビチけて(泥酔して)しもて、起きたら14日の昼やった、ちゅうヤツもおる」「一時出発やのに出てきたらもう15分やった、おかげで後のうちの町とその後の北町、大もめや」

 

こんな話がオッケーで気軽にできるのも、相手が宮本ということもあるし、筆頭のkの性格を子どもの頃からよく知りつくしているからだ。けれども本番になれば冗談では済まない。それはみんな諒解している。

 

ビール焼酎と飲んで鮨もいろいろ喰うてしてるうちに、筋海町のNとTが来た。この町は中央ではなく天神だが、ここだけ中学の校区が一緒なので合流することが多い。

加えてNは年回りで平成15年度若頭責任者協議会の会長である。

 

三月の幹事は本町。さてどこでやるのか楽しみである。

そして18日には若責協の定例会、22日は五軒屋町の寄り合い。祭までまだ七カ月なのに寄り合いばかりだ。

 

 

1月25日(土)

 

新年に入って初めての寄り合いが7時半からある。

編集部のあるミナミから岸和田に帰る際、春木に途中下車して中場利一の仕事場に寄る。

去年の祭の御寄付の粗品用にと、凝りに凝り、こだわりにこだわり尽くして作った、若頭特製バスタオルを届けるためである。

 

この大きなバスタオルは、五軒屋町だんじり見送り脇障子の彫り物、賤ヶ岳合戦「秀吉、本陣に乱入する佐久間玄蕃正盛を睨む」を地元の画家・籔内博氏に墨絵で描いてもらったのを大きく入れ、「平成14年度五軒屋町若頭」と大書し、さらに町紋と岸城神社の紋(木瓜/橘)を入れてある。彫り物場面の物語は英訳し、上手くデザインしてある。その文面は次の通り。

 

Within the DANJIRI of GOKENYAMACHI resides the sculpture of Miokuri parts depicting Battle of Shizugatake from TAIKOKI 1583.

The most memorable scene is left side of Wakishoji where HIDEYOSI TOYOTOMI looks directly into GENBA SAKUMA'S eyes.

 

わっしょれ〜 状態の中場利一は「今度の矢沢永吉のコンサートに、肩から掛けて行ってこましちゃる」と昂奮、その姿を鏡で確認して、「オレは五軒屋の江じゃ!て言うて入っていっちゃる」。

 

ミーツ連載中の「話はわっしょれ〜」(本の雑誌社より単行本化されたばかり、買ってあげてね)の中でも彼はしばしば書いているように、よそに行って自分は「ミーツの編集長の江や」と言うようなヤツである。

 

「チュンバくん。それだけはやめてくれ。冗談ではすめへん」

「ほたら春木の風呂屋へ持っていく」

「あかんあかん。春木南に喧嘩売ってるみたいや」

 

まったく40ヅラを下げているというのに、やんちゃ坊主みたいな作家である。

 

1月14日(火)

 

昨日の通夜は祝日だったので仕事に関係なかったが、平日の列席はサラリーマンで仕事場が岸和田ではないような者にとってなかなか大変だ。

まあ今年1年のお役目なので、出張とか以外は必ず堂々と仕事をさぼって行くようにしている。

 

素供養を遺族から若頭宛に頂き、こちらからは線香一箱をお供え物として持っていく。

これがずっと続く決まりであり、素供養を頂いた諸団体はその名前で町内数カ所の掲示板に掲示する。

 

代表焼香が町会長、老人会長、婦人会長、子供会長、世話人代表、青年団団長、若頭筆頭、十五人組組長の順で呼ばれる。

一般の人より早く、名前を呼ばれて焼香するのは、何だか偉くなったようで気分がいい。

しかしながら「若頭御代表 江 弘毅さま」とマイクで呼ばれるわけだが、岸和田以外の人が聴いたら、ヤクザ関係か何かと思われないか。子どもの頃からの疑問ではある。

 

 

1月12日(日)

 

奇数月第2日曜は若頭幹部と前梃子係によるだんじりの掃除の日。

午前8時半。昨夜の若責協新年会二次会三次会の酒が、おもっきり残っていて、二日酔いというより「まだ酔っている」といった方が正確な状態である。それでもだんじり倉庫の鍵を預かっている関係でいち早く倉庫に駆けつける。

 

掃除はだんじりを包むようにかぶせてあるシートを外し、屋根から順番に下へ、桝合、桝組、舞台、腰回りとコンプレッサー(このところ各町コマ替え時ジャッキアップ用に備えてある)でエアーを吹き、建築現場で使う業務用の吸塵機(掃除機の親玉みたいなヤツ)で吸い取る。

 

掃除、と一口に言っても祭準備には重要な会合で、だんじりの各パーツ、たとえば松良の彫り物が欠けているとか、ハシゴのネジが緩んでるとか、台にひびが入ってるとか、すべてにおいて祭に向けてのだんじりの再点検である。

だから若頭以外、拾五人組、青年団の幹部諸君もだんじり倉庫に集まる。おのおのが昨年の祭で破損した箇所や問題を感じるところを現物を前に実地検分して話し合う。

 

その後はいつも通り、喫茶店である。副責任者、会計の5人、そして大工方のカワと前梃子の数人。今年の鳴物について「堺町はどうで、並松はああで」となったあと「うちはあかん。いっぺんパチッて言うたれ。言うこと聞けへんかったら、殴らなしゃあない」

 

鉢巻のデザイン替えの話、旅行の話(新年会をやめる代わりに1泊旅行に決定している、毎月積み立て3千円)しばしのあと「ほな解散。次の寄り合い、25日やど」

 

実家で昼メシを食って、久々に家に帰れることにちょっとホッとして、快速でぐっすり眠って元町着。そのタイミングを見計らったように携帯が鳴った。

 

数時間前まで一緒にいた前梃子のタイゾーからで、瞬間的に「これはなんかあったな」。

何と今年の曳行責任者のNさんのお父さんが亡くなったとのこと。「えらいこっちゃ」。

肉親を亡くした年は、だんじりにさわれないという不文律があるからだ。

曳行責任者つまり祭のその年の最高責任者がだんじりに乗れない、というのは考えられない。

どうするのだろう。

 

家につくと、世話人交渉責任者のヨッタン(この人は青年団の団長、前梃子責任者、若頭筆頭を歴任したミスター五軒屋町である)から電話があり、明日の通夜、明後日の告別式の時間を知らされる。

 

若頭の仲間あるいは祭礼関係者の家の葬儀には、幹部全員集合である。

数えてみると今年(つまり9月16日から)に入ってもう3回。ほんとに忙しい。

 

1月1日(祝)

午前10時から元旦恒例のだんじりの前での新年会。余所の街の人からは「ほんまにようやるわ(アホか)」の声多し、だが岸和田はそうなんだから仕方がない。

 

ただ、だんじりを出し、その前に簡単なテーブルをしつらえて、四団体(世話人、若頭、拾五人組、青年団)の代表および有志で酒を飲む、という行事だが、今年は約80人の参加。

 

よくもまあ元旦の朝に…という感じだが、ミーツにもよく登場の泉州・地元料理の「喜平」に頼んであったおでん、これでもか、とアサリが入ったの味噌汁。

誰や、「去年は伊勢エビ入りやったのに」とぶちくさ言うてるヤツは。

 

それらを食べて、卓上ガスコンロで燗をする酒の味は格別だ。

その段取りは、われわれ若頭はテーブルと飲み物が担当。大晦日の日に実家の店に商店街組合から借りてきた折り畳みのテーブルを用意、そして会計に缶ビール5ケース、酒5本、するめやおかきなど簡単な乾きもののアテ、コンロとやかんを手配させている。

 

新年早々下手を打って、世話人さんから説教、という「とほほ」な事態は若頭としては何としても避けたいので、旧年中に会計と念入りに打ち合わせと確認をしての準備。

 

9時半にいくとすでにだんじり倉庫前ではもう10人程度集合している。今年は鳴物係が太鼓をセットしてだんじり囃子を演奏する。これもそのために旧年中に近隣の家に「元旦早々すいませんけど」と了承していただいてのこと。段取りは省略するな、は祭関係行事の鉄則である。

 

何回も言ってるが、この段取りや寄り合いを「楽しい」と思えるかどうかが、祭当日に来る「単にお祭り好き」人種と、だんじりの醍醐味を知る人間の違いである。要は祭ということを通じてのコミュニケーションの水準が違うことだ。

 

何と昨年新調したばかりの沼町が、元旦早々だんじりを曳いてるとのことで「ほんまかあ、何考えてんねん」というより早いか、その様子が旧国道26号線越しに遠くちらっと見える。太鼓も聞こえる。

俗に言う「ぬすっと曳き」でこれはもちろん警察の取り締まりの対象だ。

 

曳行責任者の新年の挨拶、そして若頭筆頭のオレが乾杯の挨拶。

おでんのスジいけるぞ。オマエら若い衆もっと酒飲め。ビールがええんか。鳴物太鼓叩け。…それから記念撮影。

 

なにい、沼が警察に通報されて、そのポリついでにうちにも来た、ってか。

「毎年やってる」「だんじりは曳けへん」ゆうてはよ帰ってもらえ。ほんまに新年早々やることないんか(こちらもそうに違いない)。 

以下続く。