不眠日記・2000

 

12月29日

ぜ、ぜ、ぜ、ぜ、絶不調。さ、さ、さ、さ、最低最悪。

世紀末だねえ。この世も終わりかしらねえ。あ、終わるのは私だけかあ。

完全に胃をやられてしまったらしい。

ほぼ2日おきに、胃に激痛が走る。脂汗が出てくる。動けなくなり、生唾があがってくる。

日記に記したように23日の夜中というか、24日の未明に師匠宅にて七転八倒の胃痛を起こした。25日の夜にも、症状は軽かったが胃痛がつきまとった。

27日は、翌日の宴会のための午前中に買い物と仕込みを少ししようと(午後は用事があって日文研に行かねばならなかったので)、「イカリスーパー」開店同時に買い物に出かけた。買い物かごをカートに乗せてリストを見ながら歩いているうちに具合が悪くなってきた。はじめは「しくしく」と言いだし、次に「きりきり」と悲鳴を上げはじめ、カートに覆い被さるようにもたれかかって、とうとう動けなくなってきた。

携帯とは便利なモノである。仕込みは実家ですることにしていたので、脂汗を出しながら、ポケットから携帯を取り出し母に連絡して迎えに来てもらった。

少し治まったかと思うと激痛が走り、しばらくすると治まるという繰り返しである。

それでも仕込みを済ませ、昼に日文研に向かう。「朝から何も胃に入れていないのがいけないのかなあ」と思って、軽くご飯を食べたのがいけなかったのか、実家を出て5分と歩かぬうちに、胃が痛み出し、生唾があがってどうしようもなくなってきた。

しばらく休んで、やっと回復してから日文研に行った。

そんな事を繰り返し、毎日出歩いているもんだから、当然「身体さん」が激怒しているのである。すまない。でも、明日の宴会の後は「お節料理」で終わりだから許してくれ、と言い聞かせて一日を過ごした。

「身体さん」はこのように疲労しているのだから、ここ1週間ほどはお薬もよく効いて、4時間〜6時間も眠れる日が多い。睡眠時間が少ないときは「胃痛」によって眠りから引き出されてしまうときだけである。

28日は「先生方」がゲストの師匠宅にて行われる「大人の宴会」である。

私は全く、「仕出し屋」としてキッチンにいればいいのだ。

しかし、今世紀最後の宴会であるし、参加する方々の半数は、料理をお出しするのが初めてである。「ホストである内田師匠に恥をかかせてはいかん」と勝手に力が入る。いま私の持っているすべての技術を駆使してでも、舌の肥えた先生方に満足していただかねば、と何日も前から、あれこれ献立を考え、前日の夜には、物忘れが激しいので仕込みの順番など念入りにメモをしたりしていた。しかもこれが、楽しい。

27日の胃痛なんて、どこへやら。朝からノリノリで、料理を作る。味見をしては、「うまい」なぞのたもうてみる。ほっほっほ。気持ちがいい。何たって、材料費を考えずに、贅沢な素材を自分のこだわりで厳選して、好きなように料理できるのであるから、これほどの幸せはない。

しかも、懲りすぎて大荷物になってしまい、実家まで内田師匠に迎えに来ていただくという大胆なことまでやらかした。先生、お手数をおかけして申し訳ございませんでした。

会場となる内田師匠宅のキッチンにこもりながら、内心「ちょっと、作りすぎたかなあ。調子乗りすぎたかなあ。お口に合うかなあ」と少し不安を抱えながらも、次々と料理を出していく。

なんと、次々とお皿が空いて帰ってくるではないか。しかも「美味しい」というありがたいお言葉までも頂戴する。「美味しい」と言っていただけるのが一番嬉しい。料理人冥利に尽きるとでも言おうか。

そこまでは、良かった。こっちは楽しくて仕方ない上に、美味しいお酒にあずかることもできる。幸せー!など、だんだん酔っぱらって調子に乗りすぎてしまったのだろう。

「さあ、一応これで今日のお料理は終わり」という段階になって、末席に加えさせていただく。しばらくして、第一陣がお帰りになった。

しかし、だんだん酔いが回ってきている上、いまは3歩歩けば忘れる状態であるから、自分が何をしでかしたかよく分からないが、どうも「やばい」事をやらかしたらしい。

残りの方々と、さらに調子に乗りつつ呑んでいると、よく覚えていないが「師匠の逆鱗に触れる」ような事を言ったらしい。

いつもは非常に穏和な師匠に、思いっきり叱られた。すっかり萎縮してしまった私には、怒鳴られているような気分だったが、単に少し声が大きかっただけかもしれない。

しかし、怒鳴られるように叱責されたのは、初めてである。叱られてきたことは数限りないが、もっと静かな口調で諭すように言われてきた。よほどのことであったのだろう。

声を荒げて叱責することなぞ、滅多にないからである。

さっきまで笑い声に満ちていた宴席が、しーんと凍りついている。

私は何をやらかしたのだろう。ただ一つだけ分かっているのは、原因が私にあるということだけである。

言われていることがあまりにも「正論」過ぎて、何一つ反論できず、「仰る通りです」としか言いようがない。だが、こらえきれずにとうとう泣き出してしまった。

周りの先生方にも、私の軽率な行動で、楽しい宴席をぶちこわしてしまったことが申し訳ない。また、それまで宴会を楽しんでいはったと思われる内田師匠が、一番気分が悪いに決まっている。なんて事をしでかしたんだろう。ほんとうに私は極悪非道である。

もはや慈悲なし。絶望的な有様。私はただただ泣いているしかなかった。

確かに少しは「エクスキューズ」も試みたが、大正論の前では、それは自ら墓穴を掘る事にしかならない。そうしてますます事態は悪化。

内田先生並びにその場に居合わせてしまった先生方、誠に申し訳ございませんでした。

とにかく、帰りのタクシーでも泣き続ける有様。

分かっているのは自分が悪いと言うことだけである。自分に吐き気がしてきて、タナトスモードが強まる。

せっかくの皆さんの楽しい気持ちを害してしまった責任は大きいと思う。

そういえば、いつもはまめにメールのご返信をして下さる先生が、このところ一度も返信していただいていないことに気がついた。しかし、いつもご多忙な先生でいはるから、そんな暇などないのだろうと、勝手に思っていた。

だが、どうもそれも違うらしい。実はこれまで蓄積してきた小川の非道ぶりに、関わりたくなかったからかもしれない。そしてとうとう28日に、堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。もう、ほんとうに破門されるかもしれない。

しょっちゅう「今回で破門か?」など言ったり書いたりしているけれど、私がいまこの世で一番怖いのは、「内田師匠に見捨てられ、破門されること」である。不思議に思われるかもしれないが、これは心底真面目に思っていることである。

だったら、軽率なことや悪逆なことなどしなければいいのだが、お調子者の卑劣な奴ときているもんだから、無意識に行っていることが多い。全く手が着けられない「痴れもの」である。

20世紀を最後に、私も終わりかあ、など強烈な自己嫌悪モードに入り、睡眠時間も減ってしまった。気になって眠れないのである。

しかし、今日を含む残り3日間とも、すでに絶対にキャンセルできない用事が、動かせない予定が決まっている。

それは、今日から買い出しがはじまり、2日間にわたって作る「お節料理」である。

母が例年よりも調子が悪いので、私が抜けることは出来ない。(だって二人で作っているのだから)。そして、毎年、そのおせちを楽しみに新年を迎えてくれる祖父母などがいる。

そして、今日のお昼もやってしまった。

今日は、買い出しに「錦市場」まで出かける事になっており、まずは京都にて昼食をとった。昼食が終わり、さあ買い出しに行こうと店を出て、数歩も歩かぬうちに、胃に激痛が走り、その場に立ちつくしてしまった。脂汗が出て、生唾があがってきて苦しい。母には悪いが、よろよろになりながら近くの百貨店に入り、ベンチにて座って待っていてもらい、トイレに何とか辿り着く。胃が痛いので、吐き気とは別である。生唾だけがあがってくるのを出してみる。いっそのことならすべてを吐いてしまいたいと思うが、全くそうなってくれない。嘔吐感はゼロである。

だんだん貧血気味になってきて、トイレに籠城すること30分。漸く薬が効いてきたのか、落ち着きを取り戻してきた。

母には心配をかけた上に、30分も待たせてしまい、誠に申し訳ないことをした。

治れば、不思議なもので、全くケロリとなる。そして、買い物を済まし、母とは別れていっぺん家に帰り、明日の朝からの仕込みと買い出しのために、2日間のお泊まりの用意をしてから、実家へと向かう。

ただでさえ、自分が嫌で誰とも会いたくない状況であるのに、それが許されない状況にあるのは辛い。やっと両親が寝てくれて、リヴィングにて一人になれた。

押さえてきた胃痛が復活。医者に処方されている薬だけでは治らないので、市販の胃薬まで服用している。

明日から2日間は、私にとっては戦争である。

はあ、こんな状態で、私に21世紀は訪れるのだろうか。

いっそのこと、21世紀にはいると同時に、この世から消滅したいものである。

もはや生きる価値なし。

 

12月25日

メリー・クリスマス。

漸く落ち着いて、静かなクリスマスの朝を迎えることの出来た小川である。

何が、落ち着いたのかというと、昨晩は「七転八倒」の胃痛を起こし、真夜中に師匠の家で、大騒ぎを起こしていたからである。

内田先生、及び、合気道部の皆様、治癒にご協力誠にありがとうございました。

何の事やらさっぱり分からんと思われる方も多いので、少し状況を説明。

金曜日は、夕方になってはじめて少しばかりの食料を口にしたまま、主治医に従って、9時過ぎには薬を服用。すべての仕事を放棄して、寝る準備にはいる。11時過ぎには眠りに落ちたが、夜中の3時に覚醒。「これって、早寝、めっちゃ早起きやん」と思い、寝床からでないように転がっていたのだが、目は完全に覚めてしまい、頭はさえ、5時頃になっても全く眠くならない。翌日の予定は昼から。即ち午前中は寝ていてもいいのだ。そこで、「木曜には薬を服用してないから、言ってしまえば余っているわけだ。もう一回薬飲んで寝てみよう」とよこしまな考えがむくむくと沸き上がり、1晩にして2回も服用という暴挙に出た。空が白みはじめた頃、漸く眠気を感じて、再び睡眠。昼前に覚醒。合計すると、10時間近く眠っていたことになるのでないか?と大喜び。

よし、身体の震えも来たし、寒気もなくなった。

23日は「ダブル・忘年会」。別に参加する義務はないので、家で休んでいればいいものを、ついつい遊びたくて、両方に参加。

昼は「謡曲」の忘年会で、「しゃぶしゃぶ」。昨日ほとんど食べることが出来なかったために、久々の御馳走である。しかし、1人前づつ盛りつけられてしまっているので、あからさまに残すことも出来ず、多少「食べ過ぎ」てしまった。

一休みをして、18時半過ぎに「合気道部納会」が行われている内田師匠宅に乱入。昼に食べたものがまだ消化できず、おなかは全くすいていなかったので、ひたすら痛飲。

楽しいな、嬉しいな、と調子に乗ることこの上なし。この日にお泊まりした人は、翌日「師匠宅」の大掃除を手伝うことになっている。

私は、ちょっと予定が分からなかったので、家に帰るつもりをしていた。23時過ぎに、翌日がフリーになったことが判明。じゃあ、いつもお世話になっているので、大掃除を手伝いましょうという考えが頭をよぎり、さらに痛飲。夜中になって、さすがに少し胃も消化してきたようなので、残り物をつまみながら呑み、久しぶりに会う友人とじっくり話し込む(といってもこっちは酔っぱらっているので、かなりの暴言を吐いていた気がするのだが、よく覚えていない。)

そのうち、何となく「胃」のあたりが、気持ち悪いというか、痛みを覚える。「やば」と思って、席を外し、「トイレ」に行くが、腹痛ではなく胃痛である。トイレに座っても解決せず、かといって吐き気があるわけでもなく、どんどん胃が痛み出し、とうとう「脂汗」が出るまでの激痛に。

家に一人でいるときは、トイレや洗面所に籠城。一人「痛いよー」と転がり回っていたらいいのだが、今は14人ぐらいが集っている(残っている)場である上、他人様のお家である。そう一人勝手なことは他人様にご迷惑をかける。何とか、人目につかず転がり回れる場所はないかと、よろよろになりながら、内田師匠に「胃が痛くてどうしようもない」と訴え、とりあえず娘さんのお部屋で休ませていただくことにした。

しかし、転がっていてもちっとも痛みはおさまらず、立ってみたりしゃがんでみたり、横になったり、仰向けになったり、身体を丸くしてみたりと、いろいろ体勢をかえるが、にっちもさっちもいかない。そこへ、着替えをしに「誰もいないだろう」と思って突然後輩が入ってくる。

暗闇でうごめく物体。かなりビックリしていた。(ごめんね、驚かせて)。酔っぱらって寝てしまう(潰れる)人は、すでにあちらこちらに転がっているので驚かなかったと思うが、私の場合は転げ回っているのだから、そりゃ怪しいわ。

もう、人目についたのだから、しゃあない。それにみんなのいる部屋には鞄をおいてあり、そこに常備している薬があるはず。「大丈夫」って言いながら、リビングにふらふらになりながら、薬を飲みに行く。

そして、そのまま奥まっているキッチンに籠城。転げ回る。

心配してくれる後輩達に、「大丈夫。見世物小屋の「蛇女」だとでも思っていて」と、痛みに身をよじらせながら、床の上をくねくね動いている。怪しきものなり。

この日記でも、しょっちゅう「胃痛」に悩まされる、と書いているが、これがその実体である。そこで、師匠が一計を案じる。みんなは「合気道」の部員であり、いわゆる「気」を使う訓練をしている(と思う)。実際、丸くなった私の背中に手をあてていただいた内田師匠の手が、妙に暖かい。

「気」で治そう。ということに話が決まり、リビングのど真ん中に引きずり出され?8人近い部員に車座に囲まれ、私の胃にみんなが「手」をあてて「気」を送り込む。しかし、痛みでじっとしていられず、明らかに「胃」がびくびく動いて、体中痙攣に近い状態になっている。それで、手足を押さえられ、そばでいすに座っている「師匠」から、「もっと気を送って。小川さん息が浅すぎる。もっと深呼吸して、腹式呼吸を心がけて」と言葉が上から降ってくる。

なんか、幽体離脱ではないが、天井の方から自分が横たわり、円形状に皆さんに囲まれて押さえられている図が頭に浮かんでくる。これはかなり怪しい情景。そして、そばで悠然と座って指示を与える内田師匠。まるで「産婆さん」か「呪術師」のように思えてきた。

どれくらい時間が経ったのか分からぬが、効果が出てきたようで、胃痛がおさまる。

その後、師匠自ら、肩から背中からツボを押さえ、治療して下さる。そして、感想。

「小川君、君の身体は30の身体じゃないよ。婆の身体だよ。合気道した方がいいんじゃない?」

はあ、ごもっともかもしれませんが、今の私のどこにそんな時間がありますでしょう。

そういうわけで、23日は皆様にとっても、かなり奇怪な体験をしたことだと思う。

お世話になりました。

24日は、薬を服用していたにもかかわらず、3時間弱で覚醒。

みんながまだ寝ているので、とにかく起こさないように、キッチンの掃除に一人黙々ととりかかる。(キッチンが汚れているのは、個人的に嫌なのだ。家の中で私の最も愛する場所であるからである。)

午後にお家に帰ってからは、音楽をかけながらおとなしく身体を休ませていた。

明日から、なんだかんだと31日まで休みなし。予定はぎっしり詰まっているから。

今日も、朝から仕事を一つ。昼はアルバイト。夜は「ディナー」を食す予定。

へらら。ほんまに学習能力おまへんなあ。

12月22日

かたかたかたかた。

全身が震える、指先が震える、ぷるぷる、ぶるぶる。

寒気、肩こり、頭痛、きりりと胃痛もついてきちゃって、これって最悪やん。

えーっと、記憶があまりないのですが、昨日は結構、盛会だったような気がする。

うん、そうだ。めっちゃ余ると思っていた料理も、ほとんどきれいに皆さんに平らげていただいたし、ワインもたくさん空いていたし(ってわたしが一番飲んでたんか)、これで2000円はお得でしょ。なんて、自分をほめて記憶をたぐる。

まず、内田先生、メッセージ・ボードに怪しい書き込みをしてすみません。

書き込みをしたのはいいが、ほんとうにこっちが送信しているのか不安だったので、家に帰ってきて、メール・チェックした。12月17日分の日記をちゃんと送信していた。

久々の更新日記だったので、今からでも挿入して欲しいなあ。(折角書いてんもん。)

しかし、なぜこの事に気づいたかというと、それは今日、日文研にて自分の日記を読んでいたからであり、なぜ自分の書いた日記を読んでいたかというと、16日に発表してから、もう1週間が経とうとしているのに、その間に何をしたか全く記憶が飛んでいたからである。

「そうそう、日記があるやん」と思い、自分で書いたものを読んで記憶の糸を手繰り寄せて、「あ、せやった、せやった」と思い出してきたら、発表が終わった喜びの日記がないことまで思い出したのである。

で、話は元に戻るが、昨日はお料理を食べていただき、私はがんがん飲んで、ばりばり悪態をついて楽しく宴会していたにもかかわらず、なぜこのような最悪状態に陥ったのであろうか。

原因は分かっている。私自身がとてつもない大馬鹿者だからである。

16日の発表があまりにも、頭の中を占めていたために、全体的なヴィジョンが全く見えずに、「16日が終わったらね」と何も考えんと、「ほい、ほい」と約束を人としてしまい、結果、めっちゃ忙しい状態に陥ってしまっていたのである。そこへ、さらに睡眠不足が重なり、身体がかなり疲労していたらしい。

皆さんが洗い物などきれいにしてくれて帰ってから、食器をしまい(実家は膨大な食器の量である。なのでどこに何をなおしていいのか、皆さんは当然分からない。だから、洗っていただいた食器は机にとりあえず積み上げておいてもらっていたのだ)、最後のお片付けをした。よく覚えていないが、気づけば1時をとっくに過ぎていた。

今日、日文研に午前中に行ってしなければならないことがあったし、午後は今年最後の診察日なので、朝早めに行かないと仕事が片づかない。

そう思って、「はよ、帰って寝な」と思いつつも、まだ余っていたワインをさらに飲んでいたら、急激に眠気がおそってきた。これまで倒れることは何度もあっても、「睡魔」におそわれるのは久々の感覚である。

私は滅多に実家に泊まらず、夜中でも家に帰ることが多いが、この時は「薬なしで眠れるものなら、眠りたい」と激しく欲求し、とりあえず朝早く起きて家に帰ってから、用意をして日文研に行くことにし、6時に目覚ましを設定して泊めていただくことにした。

久しぶりに、私はそのまま酔いに任せて眠りに落ちることに成功した。

が、結果的にこれがいけなかったのである。睡眠に入って約3時間、5時頃に覚醒。

私はたっぷり3時間寝ていたのである。しかも薬に頼らず(アルコールには頼っていたけど)に。「う、嬉しい!」と喜び、今から薬を服用していたら用事も済まないので、そのまま、起きて家に帰る。あまりに天気がいいので、朝から洗濯をし、お風呂に入り、昨晩送ろうと思って出来なかったメールを送り、支度をして9時前に家を出た。

そこまでは快調だったのである。二日酔いもなかったし。

電車の中で本を読もうと片手に本を持って立ちながら読んでいたら、どうも具合が悪い。十三で乗り換えて、今度は座れたので、座りながら続きを読むが、やはり何かがおかしい。いつも暑い阪急電車の暖房が効いていないのか、薄ら寒い。そこで、気づいた。電車が揺れているのではなく、私の手が震えていることに。

寒気はますます強まり、とうとう読書をあきらめて身体を丸くして暖をとる。桂駅について降車しようと思ったら、膝ががくがく震えているので危ない。

「や、やばいかも。やっぱり昨日薬飲めへんかったしなあ。でも3時間は寝てたやん、おかしいなあ」と思いながらも、返却しなきゃいけないものはあるし、打ち出したいものはあるし(家のプリンターは壊れている)、資料科からの問い合わせに返事をしに行かなきゃいけないし、やらなきゃいけないことは山積みであるからそうも言ってられない。

診察時間に間に合うためには、15時5分のバスが最終リミットである。(その次は30分後までバスがない。全く不便なところである。)

10時半過ぎに日文研にたどり着いてから、私はばたばたと走り回りながら、用事を済ませていった。

「さあ、後はこれを打ち出して終わり。よし、余裕で間に合いそうだ」と思っていると、それまで動いていたのに、プリンター君が突然私を拒否する。「なんでえ」とプリンター君にあれこれ語りかけながら、何度もやるが全く反応なし。

ひええ、こんな大事なときに限ってなんでなん。他の院生達に援助を乞い、やってみたが駄目である。ちっとも言うことを聞いてくれない。

しかし、私はこんな事で時間をとられている場合ではないのである。よし、すっぱりとあきらめることにしょ。(何度も同じ事を繰り返しているので、ええ加減あきらめも良くなる。)

あとする事はっと、そうそう日文研の方のメール・チェック。ご返信しなければならないメールも来ているが、それほど余裕はないので、家に帰ってからしようとメモを取り、帰る用意をはじめる。

そこへ、院生室をノックし、「こんにちは」といいながら見知らぬ女性が入ってきた。

私は、ふっとし忘れていたコピーやさっき図書館に行ったのに一つ依頼を忘れていたことなど思い出して、ばたばたと一人駆けずり回っていた。(全身震えが来て、思考がちゃんと出来ていないために、効率が悪く、一度で済むことを何度もやっているのだ。)

さあ、帰ろうと院生室に戻ってきたら、さっきの女性を囲んで皆さんが歓談をしている。一人が私に声をかける。「あ、小川さん。この方はカウンセラーの方で・・・」と紹介してくれた。しかし、私には時間がないので、簡単に挨拶だけする。

ん?カウンセラーって・・・。思い出したぞ。

あれは10月に入り、漸く社会復帰を試みようと思っていた頃のことだった。

突然、事務連絡メールが送られてきた。

「院生へのメンタル・ヘルス相談員の設置」とか何とか書いてあり、月に1度かある曜日の午後、どこかの部屋にカウンセラーの人がいるから、何でも気軽に相談に行け、とのことであった。(そもそも日文研の所長は「河合隼雄」である。)

しかし、そのときには、既に私は不眠症、食欲不振、自律神経失調などでぶっ倒れ、体重も一夏で5〜6kgおちてしまい、久々に会う人ごとにびびられていた時であった。

「今更何ぬかしとんねん。遅いんじゃ、わぁれぇ。なめとったらあかんど、おんどりゃあ」と咆吼をかまし、「せやったら、授業料免除にせえや」と、怒りに駆られ、そのまま放念していたのであった。

「この人がそうでしたか。はあん。で、何で院生室におるん?」と思い、帰り支度をしながら、みんなとの会話を何気なく聞いていると、雇われてからいつも一人で部屋で待機しているのだが、誰一人として訪ねるものがないために、一体どんな院生がいるのかと、また面識があった方が来やすいだろうと言う配慮から訪ねて来はったらしい。

ああ、そうですか。私はこれから主治医のところへ行きますんで、じゃ失礼。など内心つぶやきながら、「お先に」と挨拶して帰る。(別にその先生には何の罪もないので、個人相手に非難がましくとられたら申し訳ない。)

もう寒くて寒くて、指先や足先は既に感覚を無くし、ぼろぼろになりながら診察室へ辿り着く。

案の定、怒られた。無茶な予定の組み方をして、自ら睡眠時間を減らす様なことをしていたからである。「早寝、遅起き」を心がけるようにと何度も暗示のように繰り返し注意された。「早寝、遅起き」「早寝、遅起き」「早寝、遅起き」・・・。

帰りの電車の中で、朝から何も口にしていないことに気づいた。折角、少し食べる量が増えてきたところなのに、これではまた元通りではないか。はあ、寝食を忘れていてはまだまだいかんな。

ということで、とりあえず胃にものを入れながら、日記を書いているのである。

まだ21時であるが、そろそろ薬飲んで寝ようかなあ。(眠れるかなあ。)

「わたしをどうにかしてくれ、わたしをなんとかしてくれ、わたしを、どうにか」

「空では鳥がないてるぜ、海では鯖がないでるぜ。どうにかなんとかなるだろう。どうにかなんとか」とバックで町蔵が歌ってるぜ。どうにかなるだろう。

12月20日

今日も忙しい一日だった。というのも、明日は「修論お疲れさま&忘年会」を実家にて開催する予定だからである。

だが、木曜日は女学院にて5時までバイト、それから急いで帰って皆様をお迎えせねばならない。ということは、当然、出来る限りの仕込みを今日しておくことにした。

昨日もブルーになるきっかけとなった常識だが、一体「コモン・センス」なんて、ほんとうに存在するのだろうか。時代が変われば変わるのは当然あるだろうし、時代に関係なく、異文化と接すれば当然そんなものは通じないだろう。しかし、今では、同世代でさえも、かなりずれが出てきているように思える。

どうも、私が思いこんでいる「コモン・センス」とその他の人たち(後輩から同世代、先生方まで年齢を問わず)とは、割合で考えるとマイノリティの方なのではないか?と疑問がわいてきた。それって、いわゆる社会の最大公約数として大勢の人が共有している幻想に乗り切れていない事になるのだろうか=即ち「落ちこぼれ」「外道」である。

じゃあ、一体いつの間にそういう基準ができてきて、いつのまに自分はその軌道から外れはじめたのだろう。

そう考え出したら、よく言われることだが「正常/異常」の境界線とは?というあらゆる二項対立で語られるような事柄について、じゃあ、自分はどうなんだという疑念がぐるぐると頭の中で回り始める。

私一人「なんだか情けなくて泣けてしまう、傷つくなあ」と思ったところで、少なくとも表面上は、大多数の人間がそんなことに気にもかけていないという状況に接すると、「じゃあ、私が異常なのか」と気がしてならない。

昨日は3時間しか眠れなかった(悔しいので、それから2時間ほどは意地でも転がっていたが)。そのためにどうも思考が「悪循環」モードになってきてるようだ。これではまずい。楽観モードに切り替えねば、と思いながら仕込みにかかる事にした。

家から、今の話題にのって「ビートルズ」のCDをいくつか持っていき、大音量でかけながら料理する。ん、なかなか楽しいぞ。家はマンションなので、余り大音量でかけるとご近所の迷惑となるので出来ない。しかし実家は一戸建てなので気にする必要がない。

明日のメニューは、リクエストですっかり定番化してしまった「手羽先の中に詰め物をした唐揚げ」「ビーフ・シチュー」「キムチチャーハン」「鶏モモと里芋と大根の炊いたん」「ショートパスタのクリームチーズあえ」「たことイカのマリネ」あとはサラダ(温野菜含む)や2〜3種類のチーズとクラッカーといったおつまみ系。

なんて統一性のない献立なんだろう。まあ、いいか。

ビーフ・シチューをつくるのは久しぶり(5年ぐらい作っていなかった気がする)。味見をしてみると結構美味しいではないか。前回、はじめて「ポトフ」を作ったのだが、美味しくできた。シチュー系での得意料理は、これまで「ボルシチ」だったのだが、結構どれもいけるやん。

「私ってもしかして天才かも」なぞ自分を褒め讃え、「ほっほっほ」と高笑いなんぞしてみる。よしよし、何となく「楽観」モードに切り替わってきそうだ。

パスタとサラダは明日作ることにして、それ以外のものは大体仕込みを終えたら、夜中の1時になっていた。今日は別の用事が入っていたので、仕込みにかかった時間が19時は過ぎていたのだから、しゃあないな。

発表や原稿は、どんなに早くからとりかかっていても、いいことであるが、悪いことになることは絶対有り得ない。しかし、料理の場合は違う。早めに仕込むほど、食材自体の質も落ちるし、やはりその場で出来立てのものが一番美味しいのは言うまでもない。

料理人として、皆様にまずいもの、質の落ちたものを出したくないために、出来るだけ仕込みはぎりぎりにしたいので、つい夜中までという結果になってしまうのだ。

みんな、満足してくれるかなあ。

今からうちに帰って、朝の9時にはバイトをはじめなければならないとすると、もう睡眠時間は4時間切るな、絶対。はあ、やはり毎日睡眠時間が減少してきている気がするのが辛い。

でも、まあ明日は宴会だから、ワインなど飲めるし、ええか。

 

12月19日

はあ、世の中ってなんでこんな複雑なんやろう。

って、人間一人一人クローンやないねんから、違って当たり前なんやけど。

昨晩は、恐ろしいことに目標宣言してしまったとおり、4時間で目が覚めた。余計なことはするもんではない。つくづく反省。(これでは、また睡眠時間が減少していくだけではないか)

今日は、バイトを交代したために、昨日と連続で働いた。前回、ダウンして、一度バイトを休んでしまっているので、この交代は、金銭面ではありがたい。「ほい、ほい」と受けて、今日も女学院へ。バイト終了後は、「謡曲」のお稽古にいく予定。

普段、私のバイトは月・木とほぼ週を半分あけてしていることになる。なので、連続して入ることは、バイト仲間同士、用事で「交代」をお願いしたとき以外ほとんど有り得ない。

昨日は、久々にお稽古ごとに夢中になっていて幸せだった。(それまでは、やはりどこかで発表のことが頭にひっかかっており、「気分転換」と言い聞かせて行っていたからだ。)

しかも、その後他の弟子達には申し訳ないことに、師匠とじっくり話をする機会にあずかりながら、「いやあ、稽古後のビールは美味いね」など、調子をこいていた。

しかし、連続してバイトにはいると、普段余り気にならないことが目についてくる。昨日の幸せ気分はどこへやら。なんか気分が重い。だが、「捨てる神あれば、拾う神あり」17時になって、片付けようとしているところへ、現れたのはなんと「内田師匠」。

内田先生の今日の予定は知らなかったが、とりあえず、お稽古場は御影なので、先生の帰り道。思わず「先生、今帰るところですか?車に乗せて行って下さい」と叫んでしまった。

というのも、女学院から駅まで、10〜15分は歩かねばならず、西北で乗り換えて御影で降りてから、下川師匠(謡曲の先生宅)のところまで、歩いて最低15分はかかる。重い荷物と寒さで、この時期通うのが結構辛い。もう、姿を見た途端、後光が射しているように見えた。「じゃあ、一緒に稽古に行きましょう」とさらに言っていただき、誠にありがたい。

話が支離滅裂だが、これまで発表がストレスの原因の一つになっていたのは事実だが、かなり追いつめられると、意識がそこへ集中するために他のことが余り気にならないと言うか、目につかない。しかし、一段落した今(といっても、1月10日締め切り原稿と、13日に発表を控えているためもう既に正月は無い状態なのだが)、今迄気が向かなかったことが気になってくる。昨日の至福の楽しさはどこへやら。

接客業は結構辛い。自分では「常識」と思っていたことが、どうも他の一部の人々には通用しないという事に引っかかりはじめたのだ。

私が持っている「公共」という観念と一部の学生(ほんの一部であると思うし、そう願いたい)とは、かなり距離があるようだ。たとえて言うなら、平気で使用した油取り紙を(つまりゴミを)座っていた席においていったり、みんなが共有するソフト(LDやDVD)に対する扱いが非常に雑であったり、辺り構わず大声で「携帯」で話をしたり・・・と、様々な予期せぬ行動を起こしてくれる。

しかし、彼女たち(というより彼女たちの両親と言うべきか)の学費のおかげで、私はここでバイトをさせていただいているのだから、また、映画を愛する私としては、一人でも多くの人に映画を楽しんでいただきたいという思いから、たとえ機械的な状態に陥ったとしても、「常に笑顔で」気持ちよく接していたい。だが、あまりのギャップが続くと、傷ついてしまうのだ。「何で、そんなこと出来んのん?」とでも言おうか。傷つくと言うより、自分の常識からしてあまりに情けなくて泣けてくるのだ。そして、そこで「自分の持っていた価値観=常識とは一体何か」と疑念も同時に沸き上がり、自分自身が分からなくなってくるのだ。

後光が射していた内田師匠の車に乗せていただいている間、気付けば、上記に述べたような愚痴を一人こぼし続けていた。先生、すみません。運転している横でぶつぶつ言いまして。

何気なく、TVをつけていたら、「シャーロック・ホームズ」の最終回をやっていた。別の用事と併行していたので、TV画面の映像よりも「ワトソン君」の語りに耳を傾ける形になっていたのだが、シャーロック・ホームズの最後の手紙とあわせて想像されたであろう映像が映される。そこだけを思わず見てしまい、なんだか知らないが泣けてきた。

まずい、泣きモードにスイッチが入ってしまったようだ。これをOFFにするのは結構手こずる。一人夜泣き(?)する阿呆がいた。

 

12月18日

土曜の夜は、6時間睡眠。大快挙!と喜んでいたが、昨晩は4時間半に減ってしまった。

なかなか思うとおりにはいかないものである。もう1〜2日、6時間睡眠が続いてくれたら、回復傾向の波にのれたかもしれないのだが・・・

しかし、最初の頃は主治医に「最低4時間寝たら合格。ただし、その後3時間は眠れなくても寝床で転がっていること」と言われていた。しかし、発表が迫るに連れ、不眠症状は悪化。薬の量は増える一方。「発表は、満足が行かない形になってもやってご覧なさい」とGOサインを出した主治医であるのだから、最近は「最低3〜4時間は眠るように」と随分合格ラインが下がった。

だから、4時間半は今の私には「大合格」であろう。

ただし、これから、またもやこのように睡眠時間が減っていっては困る。今日は、一体どれだけ眠れるのだろうか・・・(目標、最低4時間。)

今日は、「杖道」の今年(今世紀)最後のお稽古。言ってみれば「納会」であった。

実質上は、先週の土曜日(16日)がそうだったのだが、まだ授業の方も終了していないこともあり、どうせならもう1日稽古を、という成り行きである。

どんなに調子が悪くても、稽古には一応定期的に通っていたはずなのであるが、16日の発表のことでずっと頭が一杯だったし、終わったら終わったで、もう真っ白である。

何度もやっている「型」にも関わらず、遙か忘却の彼方へと飛び去っているようである。(まあ、元々曖昧な部分もたくさんあったことは事実だが、それにしても昨日の忘れ方は甚だしい。)

たまたま一緒に組んでいただいた内田先生に、「だいぶん間違っているよ」と指摘され、懇切丁寧に指導して下さる。「おお、そうであった。先週もそこは出来なくて、質問して集中的に稽古していたではないか」と漸く記憶の糸を辿り始めた頃には、稽古をはじめて1時間以上は経っていた。

早く、「無心」に「型」が出来るようになりたいものである。「次はどうだっけ」と考えると、動作は鈍くなるし、型本来から学ぶべき身体運用の稽古には、ほど遠いことこの上ない。私にとっては、何も考えずに型(というより手順)が出来てはじめて、細かい体捌き等に注意が向くようになる気がする。まあ、人それぞれだろうけど。

だが、まだ手順としての型自体がキッチリ出来ていないために、つい動作は遅くなるし、速くしようとすれば失敗、ごまかしとなり、全く無意味な時間となってしまう。

私の「謡曲」の師匠は、「舞」の型について、いつも「覚えなくてよろしい。ただ忘れないように」とおっしゃる。まことに名言だと思う。もう15年近くもその師匠についてきたのであるから、その事自体に疑問もなく、稽古をしてきたような気がするのだが、「杖」については、言ってしまえば「杖」ないし「木刀」を持った瞬間に、意識が「道具」へと向いてしまい、なかなか「舞」の時のようには行かない。(勿論、「舞」でも「扇」を持っているのは確かだが、杖道に比べてやってきている年数が違うので、今では「扇」に対して「道具」という感覚はない。身体の延長上にある感じである。)

折角、相通じる本質的なものがあるはずなのだから、上手くいかせたいと思うが、簡単には行かないものである。

んー、お稽古ごとはまことに奥の深いものである。(だから、はまってしまうのかも・・・)

話が前後するが、16日は実質上の「納会」であり、稽古後、鬼木師匠宅にて宴会が催されていた。昨日も書いたが、ありがたいお言葉により、私は発表&懇親会後に、体調的には極度の睡眠不足にも関わらず、そこへ乱入した不埒なやつである。

だが、当日になるまでは、どういう展開になるか分からなかったので、一応「参加できない」と、返事をしていた。すると誠に心優しい師匠は、「18日」も稽古があるから、良ければその後軽く「納会」を兼ねて飲みに行ってもいいですよ、とまで言うてくれてはっていたのだ。

まあ結果的には16日の宴会にも2時間も参加したので、先生もお忙しいだろうし、私はすっかりその事について忘れていた。しかし、稽古が終わると、師匠自ら「小川さん、今日どうします?どっか行きましょうか?」と覚えてくれてはり、お声をかけて下さる。誠に律儀でよい人である。

「でも16日の方にも参加できましたし、先生も忘年会シーズンでいろいろと大変でしょうから、いいです。お気遣い、ありがとうございました」とお断りをし、いつものように、内田先生に、鬼木先生共々西宮北口まで送っていただく。

切符購入の段階で、「本当に、もし良かったら、軽く飲みに行きませんか?」とまたお誘い下さる。もう一人、京都から稽古に通っている弟子がいたので、優柔不断の私は、彼に意見を求める。(鬼木先生と私は一駅違い。歩いても30〜40分、チャリなら15分ぐらいでいけるほどの距離で家は近い。)彼も私も一人暮らしなので、どうせ帰ったら食事をとらねばならないのも事実だし、「鬼木先生、お宅の方は大丈夫なんですか?」と伺うと、「いや全然構いません。じゃあ、軽く行きましょう」と、話が決まり、3人で近くの居酒屋へ。

普段、内田先生のお宅で宴会をさせていただいているときは、私はほとんどキッチンに籠城しているので、これほどの少人数で、じっくり鬼木先生の話を聞く機会は、考えてみれば少なかったことに気付いた。(ただし、キッチン籠城の件については、私自ら好んで籠城しているのであって、その時間は至福の時であるのも事実なのである。)

なんだか、非常に得した気分である。(みんな、ごめんね)

鬼木先生の話は、非常に面白いので、ついつい引き込まれてしまう。(といいながら、それに負けず劣らず喋っていたのは私の方なのだが。小菅さんは一人静かに話の聞き役に回っていた。ごめんなさい。)

おかげで、非常に有意義な今世紀最後の「杖道」の稽古と納会で終わらせていただいた。

感謝、感謝。

(私は、本当に師匠といい、知人といい、友といい、良い人たちに恵まれ、囲まれた環境にいると、またまた実感した1日でありました。ありがたいことである。)

今晩は、この気分の良さで「死んだように」眠れるといいなあ。(といいつつ、薬をしっかり服用している小川であった。)

 

12月17日

昨日、漸く発表が終わった。

内田先生を始め、鬼木先生、その他多くの人にご迷惑をおかけしたことを、この場を借りて深く陳謝したい。

どうしようもない不眠患者ですみませんでした。

とにかく「寝ない」「食べない」というのは、もっとも脳の働きを悪くすると言うことをつくづく実感した次第でありますです。みなさま、パニックに陥って、意味不明の言動、不審な行動により、多大なるご迷惑をおかけしてすみませんでした。

発表及び、懇親会が終わった後、さらに厚かましくも、杖道の「納会」が行われている鬼木先生宅に乱入。

「終わった解放感から、随分顔色が良くなっているよ」と指摘を受けたが、自分では、目の下のくま(熊)は放し飼い状態ですっかり居座ってしまっているし、12月に入ってからの状態悪化の影響から、鏡を見ても「そうですかあ」としか言いようがない。でも、やはり心がゆるんでいるのは、確か。ちょっとでもましになっているのならラッキー。

さあ、後は忘年会シーズンだ!!と、現金になっている自分もまた発見する。

昨日(16日)一番驚いたというか、逆に緊張をほぐしていただいて感謝していることがあった。

とにかく「まともに人前で話せるのか、え?お前」と自分に問いかける状態で会場に着いた私が最初に出会ったのが、お手伝いをしていただいた学生さんの一人。

会場一番乗りだったので、あちらも「発表者」だろうと思ったのであろう。「あ、今日発表させていただきます小川です」と挨拶すると、いきなり「ホームページ読んでます」と言われてしまった。

ん、待てよ。私は自分でホームページなんぞ開いてないぞ。何かの間違いか?と訝りながら、「もしかして、内田先生のホームページですか?」と聞いてみると「日記、毎回読んでます。お会いしたら絶対に言おうと思っていたんです。いやあ、こういう人だったんですね」といった反応。うーむ。やはり私のことらしい。

増田先生の講演の時は、告知されているものと同じホームページに載せていただいているのだから、ある程度は覚悟していた。しかし、「小川です。初めまして」というと、「あ、眠れない人」と、即座に言われて、ちょっとびびった。が、まさか映像学会関係ではないだろうと油断していたのだ。

あー、びっくりした。でも、思わぬ出来事のおかげで、緊張感がほぐれたのは確か。感謝してますよ。ほんまに。

長い間更新していなかったので、話が飛ぶが、そう、増田先生の講演会後の懇親会に参加した方々、とくに葉柳先生、増田先生、寝不足の上、久々の酒宴なもので、よく覚えていないのですが、何か私は失礼なことを申し上げたり、したのではないかと非常に不安です。

気を悪くされることがありましたら、遅ればせながら、皆々様に、この場を借りてお詫びいたします。申し訳ございませんでした。

って、冒頭から謝りっぱなしじゃないか。そんなら、はじめからそういう行動に出なきゃいいのに、全く始末の悪い奴でござんす。すみませんねえ、性悪女で。

ということで、鬼木先生宅に乱入後、一番ご迷惑をおかけした内田師匠にまず報告を兼ねて挨拶をする。(その前に、鬼木先生、「今からでも良かったら来てください」とお言葉をかけていただき、大変ありがとうございました。)「今日は、眠れるよ」と予言していただいた。

予言通り、久々の大快挙。6時間も眠れました。ありがとうございます。

しかし、懇親会で食べたものは、やはりかなり緊張していたためか、夜中に腹痛を起こして、おなかをこわしてしまった。正直というか情けないというか・・・

今日は、またもや無法者の私は、テクストを一字も読まないまま、難波江先生のところで行われている読書会に乱入。みなさん、英語のテクストを読んで行われている中、一人邦訳のテクスト(しかも内田師匠の研究室より借り出したもの)を持ち込み、担当者の発表を聞きながら、その場で読むという暴挙ぶりを発揮。

どうも、すみませんでした。

ただでさえ、私の脳味噌ではついていけないところへ、みなさんのテクストは「英語」ときている。だからって原文のフランス語があれば、コメントできるかって言うとそれもできない私は、邦訳に頼って、その場の思いつきで馬鹿な質問を連発。

こんな私に付き合って下さいました皆様、及び難波江先生に感謝。

発表が終わり、ちょっと元気が出た小川の更新日記でした。

しかし、振り返ってみると、つくづくあこぎなやっちゃなあ。海より深く反省(ふ、古い・・・)。

                                                                                                                                                  12月14日

予想以上に日記を読まれていることに気付いた。だから、更新しなきゃと思うのだが、文章が書けるほど余裕も元気も思考もない。

平均睡眠時間が2時間ぐらいになってもう1週間以上になる気がする。最近、人よりも起きている時間が長いから、昨日のことがもう一週間以上前のような錯覚を起こす。かといって、発表原稿を書いていると、気がつくと朝になっているのだから、非常に時間がたつのが早く感じられる。ようは、もう感覚がおかしくなっておるのだ。

 

12日の増田先生の講演は、その後の懇親会も含めて、非常に楽しかった記憶はあるのだが、よく覚えていない。ただ、懇親会において、あまりにも寝ていなかったために、だんだんと躁状態に入っていっていることに気付き始めた。これは非常にやばい傾向である。と思ったら、家に帰って、しばらくしたら倒れた。酔っぱらってこけたのではない。動けないのである。しかし、こんなところで倒れていては、凍死してしまう。それぐらい寒かったのだが、這ってでも動けない。まだ原稿を書かねばならない。翌日の予定もある。頭はフル回転しているのだが、心底からだが冷え切って感覚が無くなるまで動けなかった。「凍死もいいかなあ。でも、家の中で凍死ってかなりあほやん」と考えている。近くに時計がなかったので、どれくらいたったのかよく分からない。漸く這ってこたつにたどり着いた。普通に歩いていたら4〜5歩の距離である。寒さと寝不足と酔いで、全身が震えている。とりあえず薬を飲むが、布団にまではようたどり着けず、何とかこたつの電源を入れ、体を温める。

お、動けるようになってきた。いや、動いてる場合やない。寝なあかんのんや。そう思うが、薬がなかなか効いてくれない。漸く眠りに落ちて、なんとか3時間。最近にしてはよく寝ていた方だと感心しながら、日文研へ。

会う人に「調子悪そうだね」といわれる。わかってるがな。

はあ、昨日は1時間弱しか眠れていない。今はバイト中なのだが、朝から手が震えて上手く字が書けない。

自分がどうやって動いているのか、不思議である。

こんな状態では、風邪を引いてもおかしくないのだが、代わりに師匠が風邪を引いて倒れた。世の中不思議である。(まあ、ずっとご多忙でいはったから、先生も無理がたたったのであろう。そんなときに、こんな弟子が迷惑をかけて、まことに申し訳ない。)

なんか、追いつめられているせいか、感覚が気持ち悪い。どんどんと、気が狂うていくのを、客観的に見ているような気がする。また、ときたま異常に鋭敏になっている気もする。昼休みに、発表で使用したいビデオの箇所を探していた。まずは『斬る』の1シーンである。早送りをさせて、このあたりかな、と止めて久しぶりに雷蔵の顔を拝む。この映画を見るのは3回目だが、もう2年以上は見ていない。にもかかわらず、ほとんど、ドンぴしゃで近い場面で停止させていた。次は『東海道四谷怪談』である。これは2シーンのどちらにしようか迷っているのだが、いずれにせよ、結構近いシーンで停止させている自分が怖い。

明日、編集しようと思っている箇所は、1時間の昼休みの間に、大体頭出しが出来た。

でも、全身は震え、なんだかふわふわした気がする。自分が歩いている感じすらへんなのだ。

これは、本当に私の身体か?そんなものがそこに存在しているのか?

なんか、『ドグラ・マグラ』に流れるノイズのような感じが拡がっている。

これが狂気に向かう淵なのかなあ。

12月4日

べりべり、ばりばり、くちゅくちゅ、ピキッ、カチャ。

ふに〜。なんか、ようやく少し人間らしくなってきたみたい。

文章も書けそうかな。頭はまだうにゅうにゅしてるけど…

ということで、日記も復帰してみようっと。

11月末にして、とうとう人間をやめてしまった。虫になってしまった。

いやあ、びっくりしたね。ほんまに。

11月30日の夜中に大パニックに陥って、何がなんだか分からなくなった。翌日は、師匠が発表しはるので、それを拝聴しに行く予定であったため、なんとか間に合うように、用意しようと顔を洗いに鏡を見ると…

「ひえー!!誰これ?」というぐらいびびった。「一夜にして形相が変わる」とはこのことなり。

目はくぼみ、頬はげっそりこけて、目の下にはくまが出来ており、おまけに泣きすぎたせいで、下瞼のちょうど涙腺のあるあたりはどす黒い赤紫色になって腫れている。

自分の顔というのは、毎日鏡で見ているのだから、余り変化に気づかないのが普通である。人に「なんかやつれてない?」とか「目の下にくま出来てるよ」など指摘されて、改めて鏡を見直したりして、「そうかなあ」と思うのが普通であると思う。

しかし、今回は違った。一昔前なら、絶対「これ、そこのお方。そなたには死相があらわれておる」なぞ、高僧らしき人に呼び止められていただろう。

頭痛、肩こり、寒気はもちろんのこと、全身がたがた震えがきている。とりあえず、発表の寸前に教室の一番後ろにすべり込み、小さくなって、なるべく人と顔を会わさないようにし、発表が終わるなり、風のように素早く師匠の研究室に行く。(私が聞きに来ていたことにも、先生は気づかなかったらしい。)

メモを取るにも手が震えて書けない。先生に話しかけても、声が震えている。惨々たる有様。

発表のご相談に伺ったのはいいが、昨日よりも状態悪化。思考機能停止寸前。痴呆状態。

それでも、震える声で、何も進んでいないが、昨日少しばかり考えたこと、どういう風に話を展開するかなど、レジュメにもならず、単なる箇条書きのような構成(骨組み)を見せながら、説明するが、自分でもさっき言ったことすら覚えていないぐらいの混乱ぶり。同じ言葉は繰り返すは、論理は飛躍するはで、頭の中と同じ状態=カオスである。

にもかかわらず、誠にありがたいことに、3時間近くも、このような呆けものに付き合ってくださり(今の状態を知っているから、特別サービスであったのであろう)、カオスに少しづつ分節を入れ、秩序立てる方向へとご指導くださる。

それを、朦朧とする頭と震える手で、メモしていき、何とか整理できそうな気がしてきた。

本当にありがたい師匠様である。(甘えている自分が情けないが、もう人間ではなくなっているどころか、寝食という「生物」の基本行為すらも満足に出来なくなってきてる状態だったので、反省なぞしている余裕もない。)

主治医のところに行こうかと思っていたが、「ストレスの原因ははっきりしているので、それよりもすぐ帰って、まだ頭の動いているうちに今のことを整理して目鼻を付けなさい」とまで言うてくれはる。それもそうである。間をおくと、本当に機能が停止しそうであるし、なにせ震える手でメモっているのだから、覚えているうちにまとまりをつけておかないと後で判読不能という可能性も大である。

仰せの通りに従い、すぐにパソコンの前に座り、震える指先でキーボードを叩きながら、限界までとにかくまとめていく。まだまだ仕上がらないが、一応、構成の全体がなんとか形を取り、自分が今調べるべきポイントなどがだいたい掴めてきた気がする。とりあえず、もう身体も脳も悲鳴を上げているので、一休憩。15時頃に帰ってきたのだが、気づけば外は真っ暗。もう20時になっていた。

「よく頑張ったよね」と自分を誉めてあげ(本当は師匠のおかげなのだが)、リラックスと冷えた体を温めるために、お風呂にはいる。ここのところあまり寝ていないので、ここで死んだように眠って頭すっきり、リフレッシュになればいいのだが、そうは問屋がおろさない。眠気なんて起こらない。お風呂からでて体重計に乗ると、なんと一夜にして2kgも減っているではないか。そりゃ、面相も変わるわ。

さて、次に私のすべきことは、まず「食べる」ことであろう。今日も朝から何も口にしていなかった(出来る状態ではなかった)。べつにおなかも空かないので気づかない。しかし、寝て栄養をとらないと、脳が働かないのは常識である。そこで、とりあえず簡単なものを作り、食す。しかし、もうパソコンに向かう気力もなし。

そういえば、一昨日は薬の量を半分に減らしていたし、昨晩はパニックのため飲んだかすら定かではなかった。(でも数えたら、飲んでいなかったことが判明。だから全然眠れてもいなかっただろう。)

今日は、処方されている最大限の量(実はいつも服用している定量)を服用し、とにかく食べたから、次には少しでも寝る努力をする。人間にいきなり復帰するのは難しいので、まずは「生き物」として、寝たり食べたり出来るようにならねば。

おっ。薬を減らしたり飲まなかったりしていた分、元の量に戻しても結構利いた。6時間も寝ていたではないか!う、うれしい。顔色もましになっている。しかし、まだまだ人間に戻れない。この週末は、お家でゆっくりしながら、少しづつ煮詰めていけばいいものを、頭が全くまわらないので、一休みさせることにした。思いついたらすぐメモるという程度にとどめた。とにかく、何も考えずに、気分転換になること、すなわち「お稽古」に行く。楽しい。

土曜日は、こうして体をうんと動かしている割には、4時間睡眠。でも合格。

日曜日は、本当は何も予定がなかったのだが… 

実に生きにくい世の中である。12月より、保険の負担が増えたのである。通院中の身としては、大きな痛手である。しかも、何かと物入りの師走でもある。ゆっくりしていればいいものを、祖父母孝行をかねてアルバイトをしていた。

まず、祖母を入院先の病院まで車でつれていき、一緒にお見舞いを兼ねる。祖母は一人でタクシーで行くよりも、寂しくないし、私も10日ちかくも祖父の見舞いに行っていない(というそれどころではなかった)。祖父は喜ぶし、祖母は「タクシー代」といって、普段タクシーで行くときにかかる料金をアルバイト料としてくれる。せこい話だが、やはりありがたい。

2時間ほどいてから、夕方にまた別の一陣が来るので、先に帰り、次のせこいバイトをする。

「プリントごっこ」なる原始的な方法で、年賀状を多色刷りをするのである。多色刷りを印刷屋に発注すると結構高くつく。そこで、印刷屋の正規値段よりはお安く、出来上がりを見て値踏みしてもらい、印刷代としてまたまたバイト料をいただくのである。祖父母、父、母の分をしているとほぼ1日が潰れてしまった(途中病院に見舞いに行っていたし)。しかし、何も頭を使わずに出来るので、今の私の思考能力ほぼ停止程度には、もってこいのバイトである。(さて、今年はいくらに値踏みされるやら。)しかも、一応お金をいただくとはいえ、社会のルーティンに組み込まれて、落ちこぼれていないようなと気もする。すなわち、自分の存在感への一つの目安である。

家でやるとスペースがないので、車も使用することだし、実家にて、家から何枚かCDを持っていき、気兼ねすることなく大音量出かけながら、のびのびと一人で作業をしていた。夕方(17時頃かなあ)、母から電話。「急用が入ったので、帰りが遅くなるが、夕飯はどうするのか?」と聞いてくる。「まだまだ作業が終わりそうにないので、勝手にしてくれ」と返事すると、「またかけ直す」というので、「へえ」といって電話を切る。見舞いに行って、祖母と一緒に病院のレストランで昼食をきっちり食べたので、全然おなかが空いてなかった。

漸く、後5枚で終わり、というところで電話が鳴る。母からである。「どんな様子?」と聞くから、「もうすぐ終わる」「ご飯は食べたの?」「いや、まだやけど」「だったら今から帰るから一緒に食べよう」「分かりました」がちゃ。ふと時計を見ると20時をとっくに過ぎているではないか。全然気づかんかった。片づけていると、帰ってきはった。しかし母曰く、「うちには食べるものがない」とのこと。(父が今週末は帰ってこなかったし、普段母は家に1人でいる祖母と一緒に夕食を食べているために、買い物をしていないそうである。)

時間はもうすぐ21時。もう選択肢はあまりないので、行きつけのお寿司やさんなら遅くても空いてるからと、そこへ二人で出かけ、お寿司をおごってもらった。今日は、昼も夜もきっちり食べて(まるで餌を与えられているようだが)、なんかだいぶん生き物らしくなってきたぞ。ふっふっふ。

しかし、家に戻ってから、ばたばたしていたら、気づけば夜中の2時半(まあ、家に戻った時間自体既に23時半過ぎていたのだから仕方ないか)。月曜日はバイトであるから、もう寝なくてはいけない。あわてて薬を服用し、布団に潜り込む。寝つけなくても、とにかく無理に目をつぶって、なるべく何も考えんようにする。目覚ましは7時にセット。

にもかかわらず、5時半には目覚めてしまった。すぐ寝ついたとしても3時間。でもすぐに寝ついていないのは自分が一番良く知っている。ということは、長く見積もっても2時間半。

なんでやねん。毎日睡眠時間減って行ってるやないのん。しくしく。

うー、頭痛。気持ちわる。しかし、そんなことをのたもうている余裕などないのである。

でも、週末は、あまり自分を追いつめず(本当は尻に火がついているのだが)、一応虫さんから動物さんレベルぐらいにまで復帰してきた。餌も与えていただき、体重も何とか戻ってきた。顔色も悪くない、と自分では思う。さあ、人間の皮をきて、服を着て、全身武装して、いざ出勤。

先週の木曜とは、だいぶ違う。同じ機械的な対応ではあるのだが、前回は、人間失格途中の対応。今回は人間化へ向けてのリハビリを兼ねた対応。社会に復帰するには、まずその社会の成因になるためには、その制度を知り、ある程度使いこなさなければならない。「なるほどこういう風に対応して、こういう人間たちがいて、こう振る舞えば、普通に見えるのだな」と確認作業のようにバイトをする。

バイト終了後は、またまた無心に「お稽古」して身体を動かす。

よし、今日は誰にも怪しまれず、1日を人間と認知されて過ごしたようだ。

しかし、肝心のことを今から取り組まなければならない。睡眠時間の減少が、それと関連しているとしたらイヤだなあ。今日は眠れるかなあ。金曜の6時間が寝溜めになっていつまで持つだろう…

はあ、今週1週間もつのかなあ。一抹の不安が残る週の始まりであった。

 

11月30日

11月最終日にして瀕死。絶望。奈落の底へ真っ逆様。

どこまで行ったら底に着くのだろう…

 昨晩は、やはり薬を飲まずにいられず、とりあえず睡眠剤と誘眠剤の半分はやめて、精神安定剤(抗鬱剤作用あり)と誘眠剤を服用し、2時間半ほど無理矢理に寝てみる。

今朝は、寒気、肩こり、時折起こる頭痛を抱えながらご出勤。途中何度も引き返したくなり、たどり着いてからも、「調子が悪いので帰らせて下さい」といおうかと何度も思った。

とにかく、もう人間の皮をかぶっている状態に片足つっこんでいる。

しかし、貸出業務のためカウンター内に座っている私が、暗ーくしかも泣いていたりすると、学生さんたちは利用しにくいだろうと思い(そもそも利用したくないよ、怪しすぎて)、仕事に就いてからは、お客さんである学生さんたちにはあくまでも笑顔で、丁寧に対応することに努める。このギャップがきついのかもしれん。

しかし、もうすでにコミュニケーション能力低下。機械的な対応は何とか出来たが、数々の失態。しかも、昼休みに会った師匠にまで、大変失礼な失言をしてしまった。まさに失言である。もう破門されるかも…と内心思いながらも、舌の根も乾かぬ内に「次回の発表の相談のためにお時間を割いて欲しい」とさらに哀願、懇願。

明日の午後に、時間を割いていただけるとのありがたいお言葉。誠に懐の大きい、温かい師匠様様である。これまでどれだけの不義理を働いてきたことか…

私にとっては、一生の中で一番いい出会いであったが、師匠にとっては一生の中で最悪の汚点だと思う。誠に申し訳ない。

もう私は、まわりに迷惑をかけることしかできない存在である。それは世の中の「害悪」であり、従って存在価値はない。ぐるぐるそういう問いが頭を駆けめぐりながら、仕事を続けるが、目頭が熱くなってきて非常にやばい。

この後、今日は「読書会」の予定でもある。大丈夫か?と案じていたら、電話がかかり、一人しか来ないからもう今日は「中止」と連絡が入る。半ばホッとし、半ば「せっかくこんな状態でも、帰らずに行こうと思って頑張っていた私は?」という悲しさもあり。

帰途、とうとう泣き出してしまった。必死であふれてくる涙をこらえるのであるが、電車の中で一筋、二筋とあふれてきてしまう。窓側を向いて立ち、そっと拭ってまわりに怪しまれぬよう自分では振る舞っていたが、絶対怪しい人であったに違いない。

しかも、あんまり涙をこらえすぎると、頭痛がしてくる。

とにかく予定より早く帰ることが出来たわけだから、明日時間を割いていただけることになったのだし、今日少し注意されたところに気をつけて、出来る限り仕上げて持っていきたいと思い、コンピューターの前に座る。

午後に、考え直して手直ししたものを打ち込みながら、構成自体をもう一度考え直そうとするのだが、なんせ、涙が流れ、鼻は垂れ、画面がよく見えない。思考能力も既に兎・鶏以下。

とりあえず、骨組みを立て、引用したい文を探すために「覚書」として、これまで講演会等々で書き留めていた事項(殴り書きしたわずかなメモではなく、結構きちんとした形で、いつの講演会で、誰が何を話したかなどまとめたものや、ゼミのような場で発表した際に、いろいろ指摘されたこと、すなわち今後の問題点などをきっちり分けて入力してあったもの)を、開けようとすると、中身がない。

えーっ!!と思って、マイ・コンピューターの方からアクセスすると、エラーが出て開けないと言う。先週の土曜日に、保存段階でフリーズし、無理矢理に強制終了して、走って帰ったが結局バスに乗り遅れたときに使用して以来、開けていなかったので、気づかなかった。これは、ハードディスクの方にも保存してあったので、現状況に陥るとも思ってもみなかったので、他のFDには保存していなかった。1枚あればいいだろう、と思ってしまっていた。そのハードは…今初期化しているノート・パソコンである。

すなわち、絶望的なありさま。やってられんわ。

すでにメモなど存在せず、初期化する際にも、これはもうFDに保存してあるからと、確信があったために避難させなかったのだ。

誰か私を初期化してくれんかなあ。いや、初期化するのは犯された方のハード(ソフト?)の被害を受けた側であるから、私は生きる価値のない「癌」「害毒」「悪逆非道」であるため、ウィルス側である。そうだ、誰か「ワクチン」となって退治してくれ。

頭、真っ白。もう、あかん。再起不能。パニック。地獄。げぼぼ。

思わずスターリンをかけ、「お前はもう死んだ。虫になったらよろしく」など一緒に絶叫してみる。すなわち狂うてしもうたのだ。

「あたまの中がからっぽだよ

 ぼく甘えているのかな かんだかうそをついているみたいだ

 ぼく死んじゃったのかな だれが殺してくれたんだろうね

 静かだなぁ 海の底 静かだなぁなにもない」(@ジャックス)

 

誰か成仏させて。

 

11月29日

 

日文研にて、またもや惨敗。苦しきことのみ多かりし。

今日は、ノート・パソコンをかついで、内田先生より頂いたワクチンの場所のメールが受信したのを確認した上で、情報科に飛び込んだ。

私のデーターベースのアルバイトも情報科の管轄内であるため、アルバイトに使っているコンピューター(計3台)の調子が悪いときに、いつも連絡する担当の人がいたので、「あの、ウィルスに感染したみたいなので、持ってきたのですが…」と声をかける。

3週間ほど前に、院生室の共有コンピューターの1台もやられたばかりである。

一応、やはり一緒に感染した人にそのウィルスに関するデータを見せてもらい、それをメモっていたものを見せ、また、内田先生から頂いたワクチンバンクのアドレスも見せ、「すごくコンピューターに弱くて、どう対処していいのかわからないのですが、教えてもらえませんか?」と聞く。情報科の方は、顔も知っていることもあるが、みんな非常に親切である。コンピューター関係の問題は全てそこに集中するのであるから、この手の質問やお願いなどしょっちゅうなのであろう。

まず、メモを見せて、なんか「MTX」というものらしいのですが、というと、

「えー!マトリックスに感染しちゃったの?」と驚かれた。違う意味で驚いたのは、こっちの方。「マトリックス」って言うんですか、とまたまたコンピューターを全く知らないことが丸わかりの言葉をつぶやいてしまった。

「それねえ、今一番悪質で広がってるやつだから、ちょっと大変かな」といわはる。

一応、専門部署であるので、常に新しいウィルスが発見されたら、情報が更新されるようなシステムもあるらしいし、ワクチンバンクのことも見せて、「知り合いはこれで駆除できたそうなんですが」とメールを見せる。

皆さんそれぞれお仕事がある中、突然やっかいな持ち込み。しかし、なかなか駆除できない。その上、あちらこちらから仕事の呼び出しもかかる。そこで「いつものデーターベースのところでアルバイトしていますので、連絡を下さい」といって、一応お任せする。それがお昼であった。しかし、一向に連絡は来ず、はっと気がつくと17時前。その部屋も基本的には17時までだし、それよりも図書館が閉まってしまう。中断して、資料取り寄せのお願いをしたり、返却するものをしたりしたが、あっという間に17時過ぎて、とりたかったコピーも出来ず(その前にコピーした記事の載っている雑誌を探すひまもなかった)、本も探せず借りられなかった情報科に戻ると、「全然駄目」とのこと。初期化する以外手がないので、最初に一緒に入っていた再インストール用のディスクを持ってきてくれないか、といわれた。初めにこのノート・パソコンが届いたときに、箱に大量に入っていた冊子やCD-ROMやFDなどは、よくわからないので、まとめて本棚の隅に置いてあった。しかし、どれを指しているのかも分からず、とりあえず院生室に戻って全部持ってくる。

初期化にあたりデータが消えるので、保存に必要なものは一応保存しておくように言われる。FDまではウィルスはついてこないだろうと言うことだったので、言われたようにする。それから、プロバイダーを変更したばかりだったので、「一応家に古いデスクトップがあるのですが、このメールを家の方で見る(使う)ためには、どこをどう接続したらいいのですか?」とまた馬鹿な質問をすると、丁寧にシュミレーションつきで教えていただき、必要事項を書き込んで帰った。とにかく今日中は無理と言うことが分かり、次回来るのが来週の水曜日なので、「お預かりしていただき、初期化してなおしていただく」ことになった。

はあ、先週末より、ずっとコンピューターに振り回されて、何一つ仕事がはかどらない。ようやく院生室に戻ると、18時半を過ぎている。また朝から何も食べていないことに気づき、お茶を入れて一息つきながら、先輩が差し入れてくれたパンを一つ食す。もう19時。とにかく、今日やろうと思っていたことが何一つ出来ていないので、せめて一つや二つぐらいはして帰ろうと決意する。なんせ、長い時間をかけてここまで通ってきたのであるから、何もせずに変えるにはあまりに辛い。まずは他大学より借りている本の返却日が迫っているので、必要箇所をコピーする。

最近のコピー機さんは賢くて、両面でも片面でもまずメモリーしてくれて、もう原稿がありませんというボタンを押すと、まとめてコピーを紙にうつしてでてくる。読みとりの時間も早いし、全部を排出完了までの間、ほったからしておいて別のこともできるので、時間的に効率がよい。

しかし、30枚ほどしたところで、突然「用紙のサイズが読みとれないからC(クリアー)ボタンを押せ」と言うてくる。何で、今までしてたやん。同じ本やん。と思いながらも全く動かないので、指示に従ってCボタンをおす。「コピーできます」と表示がでたので、やれやれとスタートを押すと、また同じエラーメッセージがでる。

「もう」と思いながら、Cボタンをおすと、今度は「用紙サイズを設定しろ」と言ってくる。はいはい、とA4の所のボタンを押して、スタートを押すと、一枚だけぺら〜とコピーがでてくる。「ん?」と不審に思うと、メモリーまでクリアーされてしまっていたのだ。

コピー機は廊下にあるため、足先からしんしんと冷えて寒い上に、さっきまでの時間は何やったんた、と思いながらまた最初からやり直し。

もうだめだ。メール・チェックをして2枚だけ打ち出しをして帰ろうと決意。しかし、ウィルス感染が起こったために、そのコンピューターではメールが使えない。

「新たに設定せよ」といって受け付けてくれない。唯一使えるEPSONがあったので、それを立ち上げようとするが、全く起動しない。最初にウィルススキャンがかかる設定になっているようだが、その途中でとまってしまうのだ。結局何度再起動させても強制終了させても埒が上がらず、あきらめる。別のコンピューターにて打ち出しをしようとするが、今度はプリンター君が動かない。

いったい、私が何をしたというのだ。

ようやく、別のプリンターで打ち出している間、ふっとみるとメールのための新しい設定マニュアルのようなコピーが、張り付けてある。まだ院生室に残っていた同僚に、「これって、このとおりしたらメールチェックできるかな?」と聞いてみると、やったことないから分からないけれど、試しに一緒にやってみようということになるが、全然うまくいかない。気づけば21時半過ぎている。次に間に合うバスは、っと時刻表を見ると22時0分。それで帰ったら、私は0時前に帰宅だな、と溜息をつき、それだけ日文研にいたにもかかわらず、今日も何もできなかったと、持ってきたものをまた持って帰る羽目に。

ウィルス騒ぎ以来、完全に振り回されて、何一つ事が進まんやないか。悪循環。

されども、捨てる神あらば拾う神あり。とぼとぼバス停に向かおうと帰る準備をして廊下を歩いていると、桂周辺にすんで「自動車」通学している同僚が、もう帰るから駅まで送ってくれるという。ありがたや。バスだと30分だが、車で直接に駅に向かうと15前後である。おかげさまで、23時過ぎに帰ることが出来た。誠にありがたいことである。

家に帰ったとたん、もう何もかも嫌になり、涙が止まらなくなってしまった。

なんで、こんなにうまくいかんのか。どうしていいのかもう分からない。

体も完全に冷え切って、足先などは感覚を失っている。とりあえずお風呂を入れて暖まろうと思い、そのあいだに、今日教えてもらった設定をしてみる。接続はする。小さい長方形の画面に、「接続」という文字と「接続時間」という文字がでて、時間が秒刻みでカウントする。しかし、一行にアウトルックも受信トレイもインターネットも起動しない。

これじゃ、電話代取られるだけで意味ないやん。あかんやん、全然。

そこで、メールアドレス変更のお知らせを出したばかりの人に、またお詫びのメールで一週間ほどそのアドレスも使えないことを送信する。

気づけば2時過ぎている。もちろん夕飯も食べていないし、お風呂にもまだ入っていない。あわててお風呂に入り、「別にお腹空いてへんけど、やはり何か口に入れた方がええかなあ」と湯船につかりながら、考える。

今から何か食べて、薬飲むと、通常だと効いてくるのが2時間後ぐらいだから、明日のバイトのことを考えると、3時間寝られるかどうかも不安であるし、何よりも不安なのは、薬が効きすぎて、起きられなかった時のことである。

今日は減らすかそれとも飲まない方がいいかなあ。

きっと眠れないだろうなあ。でも、その分出来なかった事柄をすまそうかな。

明日は、寝不足と疲労で死んでるだろうなあ。どうせならほんまに永眠してくれてもかめへんねんけど。

なんか、どうでもようなってきたわ。存在するのもめんどくさ。

 

11月28日

今日は、うちの実家で宴会である。留学生の歓迎会だ。しかし、「洋もの」というリクエストも来ているので、和ものと洋ものを両方作ることにした。

ご出資して頂いたおかげで、さらにメニューを増やすという、食べる人のことを全く考慮しない暴挙に出た。そのために、数々の品が余ってしまった。皆、食べ過ぎでお腹こわしたらごめんね。

しかも、いつもの宴会よりも人数も少なく、遠慮しているのか、結構皆さん帰るのが早かった。いつもなら、終電ぎりぎりまでダラダラと際限なく飲み食いつづけている「場」になれていたため、ちょっと肩透かしを食らった気分。

参加していただいた皆さん、お口に合いましたでしょうか?

それから、今回は急に日程が決まったために、「残念ながら欠席」というお返事を多くの方にいただいた。そして、皆が皆示し合わしたかのように、「12月の忘年会にはぜひ参加しますので、よろしくお願いします」という文章が添えられている。

ということは、もう恒例行事と化してしまっていたことになるのか。

いいですよ。料理は私の「リハビリ」であり「快楽」ですから、「修論お疲れ様&忘年会」をやりましょう。

ただし、今の私は「場」と「料理」を提供することは出来るが、企画立案、取り纏め、連絡等に余力はないので、「宴会」希望者は誰かまた連絡係をお願いします。

うー、結構1日料理をしていたので、疲れているはずであるにもかかわらず、2時になっても3時になっても眠れない。結局4時間。でもまあ、合格。

明日は日文研にて、「ウィルス」駆除をお願いする予定である。

あくまでも人に頼りきる小川であった。

 

11月27日

あー、よく分からない1日が今日も過ぎてしまった。

今日は2週間ぶりのお稽古。身体の使い方を忘れてしまったのであろうか、完全に「手」だけで使ったりしているために、身体のあちこちが痛い。身体全体で動けば、そんな偏った力の入り方はしないはずである。それが出来なかったため手から顔から痣だらけである。しかし、これは結構気持ちの良い痣である。(断っておくが私はマゾではない。)自分の身体意識を更に高めるためのいい目安となるからである。

今日は、運良く自分よりもレヴェルがはるかに高い人と組んで稽古したおかげで、いろいろ厳しく自分の身体へ注意がいった。これは、結構痛いけれど快感である。(しかし、こちらのレベルが低すぎて、相手に対してもかなり負傷をおわしてしまった気がする。決して恨みではない。単に身体がついていかず、失敗しただけである。この場を借りて深くお詫びを申し上げたい。)

おまけに、鬼木師匠直々に、詳しい指導を受ける。誠にラッキーである。(だけど、脇のあばら骨に杖が入った(突かれた)ときだけは、痛かった。痩せて以来、あばら骨が浮いてきてしまっているので、以前のように保護してくれる脂肪がめっきり落ちてしまったからであろう。しかも、自分の身体運用にのみ集中していたために、相手にこの辺りを突かれるという意識が全く無防備であったから、なおさらである。)

うーん、誠に奥の深い世界である。これははまる。

このところ、ずっと肩すかしを食らったような、調子っぱずれな日々が続いていたので、こういうお稽古事は結構、転換のいい機会になるものである。(なってくれるといいのだが…)

明日は、久しぶりの宴席である。留学生の歓迎会も兼ねている。しかも(半ば脅迫して迫ったのが実状であるが)、内田師匠、及び上野先生から、自腹をきってご援助まで頂いた。みんな良かったね。これで安くうまいもんを飲み放題、食べ放題出来るよ。みんなで感謝しましょうね。いい人ばかりで、本当に幸せである。ありがとうございました。

留学生、及び現院生達に満足いただけるよう、魂心込めてお料理を提供させていただきます。お口に合うといいのですが…

自分自身の一番大事なことは、全く停滞しているが、まあ気分転換と言うことでいいか。これで、また気分が上昇してくれるといいのだが…

今日も皆様、ありがとう。今日1日生きながらえたことに謝謝。

 

11月26日

あー、もうなんだか、訳が分からなくなってきた。

一応、よく分かりもしないくせにe-mailなぞ使うているもんだから、とうとう巷で良く耳にする「ウィルス」なるものに、巻き込まれたらしい。

どうしていいのか分からないが、自分から自分へと送ってみたり、2〜3人でお互い確認のためのメールを送ってみたりと昨日の夜からしているのだが、勝手に「添付ファイル」がついてしまうらしい。しかも中身は何もない。

大体からして「コンピューター」なるものの仕組みが全く分かっていない。e-mailも使用してはいるが、その仕組みは勿論謎。いつでも誰かにセットアップしてもらい、完全に使用出来る状態になって「はい、どうぞ」ということで、ただ書き込んでいるだけなのである。だから、私のコンピューターさんはe-mail使用時以外はただの「ワープロ」くんと変わりはない。拡張機能なんて知らないし、もともとプログラミングされている様々な機能も全く使ったことがない。

というわけで、「ウィルス」というのはどうも悪いやつらしい。どうにかせな!と大パニックに陥った。そして朝からよく分からないが、e-mailを通して感染するらしいから、まわりに迷惑をかけてはいけないと思い、プロバイダーとの契約を解約した。

したのはいいが、次に別のプロバイダーと契約しない限り、メールが使えないことに気づき、またパニック。うわっ、どないしょう。どうやって安いプロバイダーを見つけて、契約し、メールが使えるようになるかが分からないのだ。それで、あちらこちらをクリックしたりしていたが、一向に見当がつかず、時間は過ぎるばかり。

今日は「cafeopal」に兄に会いに行くことになっていた。奨学金のための連帯保証人として、兄の実筆のサインと判が必要であったからである。電話で予定を聞くと、遅出だから8時半か9時頃に出勤するという。どうせ、京都に行くのであるから、このところ日々の浮き沈みの激しさに、多少辟易していた私は、気晴らしに「映画」を観ようと思っていた。

京都でなくても映画は勿論見られる。私が見に行こうとしていたのは「京都文化博物館」というところであった。そこは週末(金土・日月)のみ2本(1日に13時半と17時に2回上映する)映画を専用ホールで上映している。常設の展示展も見られて入場料500円前後だったと思う。しかも結構「時代劇映画」が多いので、私はよく利用して、会員になっている。年会費を払って会員になると、常設展と映画は「ただ」になる。また、cafe opalへも歩いていける距離であるから、河原町方面へ行くついでに「映画」を見る事が多い。17時からのだと19時頃に終わるので、それからぷらぷら散策しながら行けば、時間的にもちょうどいいだろうと思っていた。

17時のに間に合おうと思えば、15時半過ぎには家を出ないと間に合わない。しかし、朝からのパニックで何もせずまま、時間は刻々と迫ってきている。そこで、私は気づいた。あそこの店に行けば、常連の誰かはコンピューターに詳しい人が必ず一人はいるに違いない。現にオパールのサイトを管理している人も良く来ている。運が良ければ、何か分かるかも知れない。そこでノートパソコンをかつぎ、映画を観て、オパールへ向かう。

行けば、まだ常連客の姿はあまり見えない。とりあえず、兄にサインと判をもらい、「ウィルス」なるものに感染したらしいが、どうしていいのか分からない。誰か詳しい人はいないか、などパソコンをとりだして、嘆き訴える。そのうち、良く兄夫婦にいちびられている常連の一人であり、週末は店まで手伝ってくれている人が来た。そこで「コンピューター詳しいですか?」と聞いてみる。店でしか会ったことなかったので知らなかったが、実は彼はコンピューターの会社に勤めていることが判明。ラッキー!!

いろいろと見てもらうが、あまりにも私が何も理解していないことに半ばあきれられつつも、面倒を見てくれる。そして、朝からパニックでいろいろ触ってしまったことが逆効果であったといわれてしまった。そのままの状態なら、もう少しなんとか出来るかも知れないけれど、と言われながらも、なにやらごそごそ触っている。そこへ、オパールサイトの管理人も登場。ますますラッキー!!彼とは話したことはないが、兄夫婦に聞いていたので顔は知っている。カウンターで私のノートパソコンをめぐってなにやらやっているのを見て、当然興味を示してくる。

またもや、「かくかくしかじかのことがありまして、すっかり困じ果てている」と訴えると、丁寧に応対して、いろいろ見てくれ、二人揃って今後のアドバイスして下さる。誠にありがたい。管理人さんは「マック・ユーザー」であるため、「ウィンドウズはよう分からん」と言いつつも、いろいろと状況を説明していただいた。馬鹿な私でも、少しだけ仕組みが分かり、そして朝から自分がどこをどう触ったかも分からないという愚劣な行為をしたのがいけなかったことを悟った。「こういう時は、何もせずそのまま専門のところかよく分かっている人のところに持っていくべきなんですね」と感謝の意を述べつつ反省の言葉も述べると、管理人さん曰く「いや、多少そうやって痛い目にあった方が覚えていいよ」と誠に正論をつかれてしまった。

皆さんありがとうございました。お騒がせして大変申し訳ございませんでした。

お兄ちゃん、営業妨害してごめんね。

ということで、結局終電で京都帰り、今日も何も出来ずに過ぎていくのであった。はあ。

 

11月25日

斬死。

まさに気づかぬうちに、「斬り捨てごめん!」と後ろからざっぱり斬られたようである。

あまりに切れが良かったので、すぐに痛みは感じない。気づけば奈落の底。

 

「もうあかん。とうとうあほうとなてしもうた。くるうてしもうた。」

 

一体、わたしが何をしたというのだ。

確かに先週末は調子に乗りすぎた。おかげで一週間かけて漸く昨日の段階まで回復したばかりではないか。それでも、胃が痛くなったりしていたので、まだ何もしていないはずである。なんでや?

 

町田康モード(@『実録・外道の条件』)で、自分を卑下し反省してみる。

確かに何もしていないわけではありません。お調子者のええ加減野郎でした。悪さもしてきました。だから、「お天道様」に顔を向けることが出来なくなり、不眠症という「夜」起きる状態になり、お昼間はお家を出たくなくなるようになったのかも知れません。わたくしが、すべて悪うございました。

うーむ。やはり納得がいかん。なんかちょっとちゃう気がする。

 

やはり「磁場」が悪いのか?

 

昨日は、結局寝付けたのが4時頃。8時過ぎに電話で目が覚める。「母」からである。

先日、台湾に行く話をしていたら、その時には聞かなかったが、ちょうど「謡曲」の「新年会」の予定をしていた日が重なっていたらしい。そこで下川先生と相談して、新たなる候補日を2日ほど設定し、皆さんの予定を急いで聞いてまわっているとのこと。(母は、社中の中で「幹事」さん役なのである。)急いでいるので、内田先生に予定を聞いて、出来れば今日中に折り返し電話をしてくるように、とのことである。

内田先生とは同じ師匠に師事しているのである。

急いでいるとはいえ、何も朝の8時からかけてくることもないやろう。(携帯もあるし。)

でもまあ、4時間は寝ていたことになる。よし合格。(主治医には、連続4時間睡眠が合格ラインと言われている。)

しかし、さすがに8時には師匠の家に電話なんてようせん。最低でも10時かな、と思い、それまでまた寝転がればいいものを、胃がもたれていたので薬を飲んだり、今日すべきことや、兎に角思いつくことを片っ端からメモ書きしたりなどしていたら、気がつけば10時過ぎになっていた。

 

何にも大したことはその間にした覚えはない。最近気づいたのだが、不眠症がきつくなってから、脳の働きが悪くなるだけでなく、動作も緩慢になっているようである。確かに、いつもと同じ時間に出ても、電車に目の前で乗り遅れることも多くなった。はあ、なんかますますやばい感じ。

 

とりあえず、お電話をして予定を聞き、折り返し母に連絡を取り、「日文研」に行く。

今日は「共同研究会」で、井上先生が発表をされるので、それを聴きにいく事もあったが、この前から瞬間すれ違っただけで、まともにお話ししていないので、一応「近況報告」などを兼ねてお話をしなければと思っていたからである。今日を逃せば、次にいつ会えるか分からないし…

研究会自体は14時に開始だが、井上先生の発表は16時10分からである。他の発表者には大変失礼だが、井上先生のだけを聞きに(会いに)行くことにし、山のように溜まったことを、メモ書きをチェックしながら、院生室にて少しづつ片付けていこうと思っていた。

なのに、またもやコンピューター君達が「フリーズ」してくれるので、ちっとも捗らない。他にも院生室で使用している人たちがいるのに…「何で私が使うと止まんの。何が嫌なん。なんか、あんたらに気にいらん事したか?え?」など、内心呟いてみる。

気づけば、もう15時過ぎ。朝から何も食べていないことに気づく。山の中でまわりに何もないため、ストックしてある「いんすたんと・らーめん」しか食料はない。「胃に悪そうかな。せやけどまた何にも食べへんよりはましか」と思って、胃薬服用の上、食す。

結局、ほとんど何もできないまま16時になったので、セミナー室へ行くと、まだ、前の人の質疑応答が続いている。入るとすぐ井上先生と眼があったので、軽く会釈する。5分もせずうちに終わり、10分の休憩にはいる。これは「ラッキー」と、その間に井上先生にちょっとお時間をさいていただく。

 

「あの、5月に草稿を出すのはもう絶対無理なので、4年卒業は出来ませんので、もう少し延期することになりましたので、よろしくお願いします。」

「あ、そうですか。」

「実は、この夏に倒れまして、8・9月と自宅療養と言いますか、ずっとふせっていたので、何も進んでいないのです。」

「そういえば、ちょっと痩せはりましたね。」

「ええ。これでも2kgほど回復してきたのですが、夏前よりはまだ5kgは痩せていまして…まあ、今はぼちぼち回復してきている感じです。」

「失礼ですが、病気は…聞いてもええですか。」

「あ、はい。大きく言ってしまえば鬱病と言いますか。それが原因で不眠症がきつくなりまして、自律神経失調や、あと胃腸もやられて、一時期まともに食もとれなくて、それで痩せたんです。」

「はあ、そうでしたか。なんか僕には、鬱病とは全く無縁やと思ってましたので。勝手にそんなイメージがあったというか…」(全く無縁やと、と聞いたとき、一瞬井上先生ご自身が無縁というのかと思っていたら、私のことだった。そこで、)

「そうなんです。自分でもびっくりしてしまって。ははは。」

「で、今は大丈夫なんですか」

「まあなんとか、徐々に回復傾向にあるとは思うのですが、調子悪くなってから実はもう半年になりますので、もしこのような状態が続くようなら、先の話ですが、休学もちょっと考える可能性もあります。」

「わかりました。またその時はその時で、とりあえず4年よりは延期ということですね。薬とかは?」

「今も通院して、薬も飲んでます。薬なしになるまで回復できればいいんですが、やはりあまり眠れなくて食べられないと脳が鈍くなるというか、副作用もあるのか、ぼーっとして、物忘れも激しくなってしまって、誠に情けない状態なんです。」

「大変ですね。確かに寝不足とかの時は、脳の働きが悪なりますからね。ましになってきはったってことは薬は少しでも減って行ってはるんですか」

「いや、実はどんどん増えていっている状態で…」

「…」

「あ、それから、話は変わるんですが、先生、個件(個人研究費)余ってはりませんか?ちょっとビデオの購入をもう少ししたいのですが…」

「今年はまだ30万ほど余ってるはずですから、井上の名でどんどん使うて下さい。やはり、有効に使わんともったないからね。」

「すみません。じゃあ、よろしくお願いします。お世話になります。」

「いや、何もしてへんから、サインや個件ぐらいならいつでも言うて下さい」

 

いい先生である。(確かに全くほったらかしであるのは事実であるが、基本的に、他の先生達が批判をされると、必ずフォローも入れてくれはるし、可愛がってもらっていると思う。といっても、ほとんど顔を合わすことも会話を交わすことも少ないのだが。)

しかし、やはり私のイメージは先生にとっても「鬱」とはほど遠かったのか。そういえば、母もショック受けてたしなあ。「元気で、ぎゃははといつも笑っている豪快な」イメージだったんだろう。確かに自分でもそうやって物語作って来ちゃったから仕方がない。

 

今も現にそうである。あまりにも周りがよい人たちばかりなので、みんな心底心配してくれる。顔を合わせる度に「体調はどう?」「今日は顔色良いね」など声をかけて下さるので、以前にも書いたが、対外的には「もう回復してきてます、大丈夫ですよ、皆さん」とついついテンションをあげてしまうのだ。そして、その調整具合が自分では、全く分かっていないから、いつまでたっても迷走することになる。

「回復傾向」と口にした途端、前回会ったときよりも元気に振る舞う、という事を無意識にしているらしい。そこで、一人になると突然どーんと落ちるのだ。分かってはいても、調整できないものは出来ない。

 

井上先生の発表は面白かった。(来春頃には出版されることであろう。)終わってからの懇親会は失礼し、院生室に帰って、さっきとは別のコンピューターにて、19時19分のバスに間に合うまで、作業をする。

何故そのバスかというと、「塚口駅」に帰り着いたとき、21時まで営業のダイエーにぎりぎり駆け込めるための最終のバスだからである。今週は、なんだかんだと家で食べることも少なく、祝日はパニックで食も忘れていたので、冷蔵庫が空っぽに近い。(調味料で埋まっている有様)。そこで、夕食用に買い物をしたかったからである。

もうそろそろ帰らなきゃ、と思いFDに保存しようとしたら、エラーが出てフリーズしてしまった。「ひえー」と思うが、全く動かない。強制終了もなかなか出来ない。結局、その時打ち込んだものはすべて、ぱあ。とほほ。

おまけに、バスの時間が迫ってきている。なんとか、強制終了させて、走って帰る。

今日は土曜日なので、バス停から一番遠い門しか開いていない。しかも皮肉なことに院生室はその門から一番遠くに離れた奥にある。日文研の中を走り抜け、バス停に向けて私は、一人暗闇の中を走り続けた。

が、わずかの差でバスが出ていってしまった。(時計を見るとジャストのはずである。途中のバス停でだれも乗客がなかったので、少し早めに来てしまったようだ。だからバスは嫌いである。)

久しぶりに走り続けたので、息が上がってしまい、呼吸が苦しい。走ったその瞬間はあつかったが、今の山の夜は寒い。あっという間にからだが冷える。しかも次のバスは20分後。ベンチに「ぜえぜえ」しながら、呆然と座り込む。

捻挫を夏にして以来、滅多に走ることなどなかったので、息が苦しい。脳に酸素が行かないのか、ぼうっとしてくるし、耳鳴りもする。おまけに寒い。昨日も日文研内を走り回っていたし、その後嵐山をよく歩いた。冷えてきたこともあって、捻挫したところがじんじん痛んできた気がする。

 

何のために私は走ったんや。何のためにぎりぎりまで作業してたんや。

ほとんど明かりのない暗いバス停のベンチで一人泣けてきた。ぽろぽろ。頭痛も伴う。

おまけに、やっと来たバスで「バス酔い」して気分が悪くなった。勿論、駅に帰り着いたときには「ダイエー」も閉まってしまった。

家にあるのは、「いんすたんと・らーめん」「レトルト・カレー」「ツナ缶」「素スパゲッティー」「梅干し」「塩昆布」である。なんかどれも胃に悪そう。昼間はラーメンだったので、とりあえず「カレー」にした。

 

結果、胃痛で苦しんでいる。最悪な一日。今日は一体何だったんだろう。何が起こったんだろう。

 

11月24日

「人生山あり谷あり」というが、私の場合は「1週間」あるいは「毎日(日々)」山あり谷ありであるような気がする。

 

今日は、「谷から山・山から谷」であった。でも山の時間が長かったので、久々に落ち着いている方である。なんだか今日は少し眠れそうな気もする。ふっふっふ。

 

FD騒ぎ以来、昨晩も3時過ぎても眠れず、明日は朝10時から「日文研」で、同期の発表があるし、その後は「お楽しみイベント」が控えているから、ちゃんと寝ておきたいのだが、焦れば焦るほど眠れない。12時前には、服用しているからそろそろ効いてきても良さそうなのに…

結局、10時に間に合うように家を出るためには、3時間半程しか眠れなかった。それも、全く熟睡なんてレベルではない。しかし、昨日1日何も手つかずだったので、やるべき事がますます山積みになっているし、とにかく頭痛を抱えながらも起きる。

胃腸薬を服用し、家を出る。日文研の入口に到着したのは10時ちょうど。そこから、発表の行われるセミナー室へ行く途中に、図書室の入口がある。少し遅れることになるが、兎に角まず図書室のカウンターへ直行。あまりの勢いで走り込んできたので、お姉さんがびっくりしている。(きっとこわい顔もしていたのであろう。)

「すみません。FDの落とし物が届いていませんか?」と聞くと、すぐに「これですか」と出してくれるが、残念ながら私のではない。更に詰め寄るように「紺色のスケルトンタイプで、シールも何も貼ってないやつなんですけど、この他にありませんか?」と問いかける。「ちょっと待って下さい」と言いながら奥の事務室へ一度行き、手ぶらで戻ってきて、なにやらカウンターの下辺りをごそごそ探している。そして「タオル地のハンカチ」の入ったビニール袋をおもむろに手渡され、「これですか?」と聞かれる。混乱状態の私は「FD」って言うてるのに何でハンカチなん?と内心思いながらも、よく見ると、ハンカチの間に紺色のものがちらりと覗いている。「お!」と開けてみると、あったー!!あな、嬉しや。良かった、良かった。これで一安心である。さい先良さそうだ。

一応、申し訳なさそうに「このハンカチは違うんですが、FDは私のです。ありがとうございました。お手数おかけしました」と言い、セミナー室に向かって、風のように走り去る私。

さぞや、「うぬ、不審な奴」と思われたことでしょう。すみませんでした。

 

ばたばた走ってセミナー室に行くと、ちょうど始まるところになんとか間に合った。

FDが見つかった嬉しさで、緊張がかなり解けてきたのか、今日はまともに質問などもしているようだ。(自分で思っているだけかも知れないけれど。)よしよし。

しかし、この研究会はいつも「長い」。10時始まりだが、ひどい時だと13時半になっても終わらないときもある。発表者は毎回1人にもかかわらず…。発表を聞き終え、みんなで感想や質問などを言い合っているうちに、腹痛がしてきて気分が悪くなってきた。あまり寝てない上に、朝から走ったからだろう。途中、席を外してトイレに行き、うがいしたり、水を飲んだりしてリフレッシュする。戻っても、まだまだ議論は続く。12時半になって、漸く終わった。

 

この後は14時半に集合して「お楽しみイベント」でお出かけするのであるから、それまでには2時間しか時間がない。

「お楽しみイベント」とは、「嵐山に紅葉狩り」に行くのである。しかも「懐石」の夕食付きで。しかもただの紅葉狩りではなく、普段は一般公開していない「藤原定家」縁の「厭離庵」というところを特別拝観させていただけるのである。

 

そういうわけで、胃腸の調子があまり良くない私は、「夕食」に備え、お昼は「みかん」でも1個食べてすまそうと思いながら、2時間の間に出来る限りすべきことをしようと、日文研の中を一人走り回る。あっと言う間に時間が来てしまい、気が付けば何も食べる暇もなかった。

まあ、夜は「御馳走」だからいいや。別にお腹も空いていないし。

 

14時半になったので、出発する。今回のこの企画は、データーベース作りのアルバイトでお世話になっている先生が主催してはる「共同研究会」の一環として、せっかく嵐山が近いので「エクスカーション」をしようと立てられたものであった。

しかし、突如メンバーたちが、都合がつかなくなったとキャンセルをしだし、特別に拝観をお願いしているし、懇親会のための夕食も予約を入れてあるので、あまり人数が減ると困ることになる。そこで、太っ腹な先生が、懇親会費(夕食代)は学生だから、おごってあげようと言うてくれはり、人数の穴埋めとして動員されたのだ。

何とまあ、「ラッキー」な事でありませう。紅葉狩りも今年は始めてである。うれし。

 

去年まで、女学院の大学院に講師で来てはった早川先生がご同行して案内をして下さる。(「厭離庵」も早川先生の関係で入れて頂けたのである。)早川先生は嵐山に住んではるから、いろいろと名所旧跡にも、裏道にも詳しい。

まずは謡曲「小督」の塚に行く。私が「謡曲」を習っていることがそこで何気なく話題になったら、どんどん縁の場所を教えて下さる。(例えば、実際そこの場所までは行かなかったが、少し先の方を指さして「あそこに琴ききの橋(と言うてはったと思うが、私の記憶力の悪さから間違っていたら申し訳ない)というのがあって、源仲國が、琴の音を聞きつけたと言われているところ」と教えて下さったりする。)

また、いろいろ回り道をして、紅葉の綺麗なスポットや、春にはどの辺りがいいかとか、夏に歩くと緑が鬱そうとして風情ある涼しさが味わえる小道なども教えて下さる。

「大河内山荘」の入口のすぐ側にある小さな塚のあたりで、ご同行していた初対面の初老の先生とお話をする。大きな非常に枝ぶりのよい木があったので、その先生が「僕が子どもの頃だったら、ここで「ターザン」ごっこするけどなあ」と言わはったのが、会話のきっかけ。「僕のターザンは初代のワイズミューラーだけどね。ははは」と言われたので、思わず「私、深夜放送で見ました。他の「ターザン」も見ましたけど、ワイズミューラーのが一番好きです。いいですよね」と答えてしまい、しばし先生の昔のエピソードなどを聞かせていただく。そうこうする内に「厭離庵」へ。

 

苔むして、いろいろな植物が生えている。四季折々さぞ1年中楽しめることであろう。こじんまりとしているが、非常に趣のあるいいお庭である。なんか心が和む。椿も何種類もあり、蕾がまんまるとふくらみ始めていて、「雪の中、この椿が咲いている光景っていいだろうなあ」と想像してみる。夕方になってきてかなり寒かったのであるが、それを忘れて、庭や定家塚、茶室などをしみじみと眺め入り、古の頃に想いを馳せる。とても静寂とした情緒深い時間であった。

 

だんだん日も暮れてきたので、お礼を言って「厭離庵」を後にし、大通りに戻ると、さっきまでは、まさに「別の時空間」にいたような気がした。

観光客が溢れかえっている「野々宮神社」などガイドブックに載っている観光名所は、ほとんど素通りして、裏道などを通りつつ夕食を予約してある「渡月亭」へ向かう。「勝新太郎」が昔住んでいた家を教えていただいた。

途中、とてもお高くて行ったことももちろんなかったし、最近潰れてしまったかの有名な「嵐山吉兆」の場所を聞くと、ちょうど前を通るというので、少しのぞき見てみる。お庭など非常に手入れしてあり、さぞや庭を眺めての食事は気持ちいいだろうなあ、と思ってみたりする。(雷蔵が愛用していたのだ。)

よく見ると「吉兆」の名前が残っている。尋ねてみると、やはりあまりにも有名なので、名前は残して中身はどこかが買い取って営業しているとのことであった。

                                                           夕食時になって、さっき少し会話した初老の先生に改めてご挨拶をすると、もう定年退職されているが、「人類学」では大変高名な偉い先生であり、日文研の設立メンバーでもあった方だとか(自然科学系の方である)。非常にお話が面白い先生である。しかし、そんな偉い先生といきなり話したのが「ターザン」とは、私もかなり怪しいやつである。

自己紹介をしていると、「殺陣」から「武術」へと話が広がり、子どもの頃、その先生は「剣道」と「弓道」をされていた(ご本人は親父にやらされたと言うてはったが)とか。そして、ご先祖をたどると武田信玄に仕えていた武家であったらしく、小さい頃には様々は武具が(主に弓術関係)家にあったそうである。今回主催の先生は「弓道」をされてはる。「何か、残ってませんか?」と乗り出して聞いてはったが、戦後にお兄さまが売ってしまわれて今はないとか。残念そうだった。

 

そんなこんなで、「なんか、調子ええやん」とすっかり気分も良くなって、美味しいお食事もほとんど残さず食べ、機嫌良く帰途へつく。帰りの京都線でも、久々に眠気を感じ、せっかく眠れそうになったら十三で着いてしまった。乗り換えるうちに、また目が覚めてきてしまった。残念。

先生方、今日は誠にありがとうございました。小川は、復帰路線に乗れそうな気がしてきました。

 

ここまでは良かった。が、帰宅して1時間ほどたった今、やはり「食べ過ぎ」たのだろう。胃が「きゅるきゅる」泣き出して、文句を言い出した。消化している音だけではない。だってしくしく痛み始めているから。悲しい。せっかくあんなに気分良かったのに…。

「また、調子乗るなよ。ほどほどにせえよ」という身体さんの警告か?!

 

 

11月23日

寝付きも目覚めも最低。

多めに薬を飲んだので、ゆっくり寝て頭をすっきりさせ、今日1日気持ちをリフレッシュして、もう一度FDを探し、なければ、今手元にある資料でとりあえず、少しでも仕事をしようと思っていた。

しかし、FDを無くした事への不安がよほど強烈であったのであろう。夜中に何度も目が覚め、その間に見ている夢は、FDが全く見つからず大混乱に陥っている自分や、発表で大失敗し大勢の人に批判、罵倒を受けている姿などなど、うなされ、かつかなりリアルな感覚が身体に残るというものであった。時間的には6時間は寝ていたはずなのに…寝た気がしない。

当然、朝からひどい下腹部痛と頭痛に悩まされる。お外はあんなに秋晴れなのに、私の中は「ストーム」「吹雪」状態。再起不能か?え、おい。

しかし、これ以上家を探しても無駄なものは無駄である。「兎に角、今自分が出来ることから着手しよう」と言い聞かせてみる。しかし、昨日は久しぶりに昼食・夕食としっかり食べたため、「まだ消化できません」と胃が訴えてきている。そこで、とりあえず、「カフェ・オ・レ」なんぞ作って、マグカップ一杯に注ぎ、胃薬を服用した後、だらだら飲みながら、未練がましく、もう一度家中を探してみる。やはりない。呼んでも返事もなし。

骨格がかたまった原稿の書きかけや、レジュメなどは他にもハードディスクや、別のFDにもコピーをとっておくのであるが、今回のは、本当に「メモ」程度。この度の発表に向けて、あまりにも物忘れが激しいために、頭に浮かんだ時点で、手で書くより早いしというより、後で判読が可能だし、レジュメや原稿に使用するのに楽なので、打ち込んでいたものが結構多い。

この前からの、身辺整理のために汚い判読困難なメモもこのFDに整理していた。(当然、手書きメモはもう無い)。そのため、内容的には1行という程度のものといった希薄なものであるため、こんな事態になろうとは思いもよらず、他にコピーがないのである。

そんな大したことないものだし、自分で「必要」と思ったことであるのだから、従来なら自分が考えていることなのだから、すぐ思い出して修復出来そうに思われるだろう。確かにそれは正論であるが、今の私の思考能力と記憶力は、「兎」以下なのでなかなかそうも行かないのである。だから、たかがメモ程度で「大パニック」に陥るのである。

とりあえず、明日の日文研と内田師匠の返答に希望を託し、その事はおいておくことにし、読書などしてみる。しかし、トイレに行く、電話がかかってくる、お茶を飲むなど、中断が入り、続きを読もうとすると、全くそれまで読んできたはずの内容が分からないのである。困った。「FD」の事があまりにも頭にこびりついて、何時間経っても「字面」を目で追うだけで内容が頭に達していないようである。それで、また戻って読み直し。

「さっきまでの時間を返してくれ」と持っていき様のない気持ちをもてあそびながら、結局読書は不可能と判断に達する。

日文研は非常に不便なところにあるため、施設内に、客員や留学生、あるいは共同研究員の短期宿泊のための施設がある。だから、「祝日」とはいえ、留学生である院生の誰かは必ず「院生室」を利用に来ているだろう思い、居ても立ってもいられなくなり、お昼過ぎ、(2時か3時頃だったと思うが)、電話を入れてみる。案の定、同期の留学生が電話に出てくれたので、「こういうFDが置きさられていないか、あるいは、Windows系のコンピューターのまわりに放置されるか入ったままになっていないかを確かめてもらう。2回も探してもらったが、生憎「どこにも見当たらない」という悲しいお返事。

これは、もう明日、自分の机のまわりか、アルバイトをしている部屋並びに図書館を探し回らなければならない。

結局、このことが気になって、一日何も出来ずにすんでしまった。

時間の無駄。罰当たるな、こりゃ。

 

11月22日

やはり最悪な悪循環に、完全に巻き込まれてしまっている。

今日は、無事に料理教室にも行き、アルバイトも少しした上、河合先生の講義も聴けた。ここまでは順調であった。(河合先生は本当にお話上手である。日文研での公開講座は、やはり学術的、専門的な題名からして、200人は収容できるホールも半分埋まればいい方なのだが、河合先生の時は補助席も出され、まさに満員。「大入り袋」が出るほどの反響ぶりだった。さすが。)

しかし、その後がいかん。調子が良さそうで、全然あかんかった。

頼んでいた本も来たし、返却するビデオもし、次々と「今日すべきこと」と書いたメモにチェックを入れながら、順調に済ませているように一見見えた。

(物忘れが激しい上、最近は薬のせいもあって、いちいちメモしておかないと不安で仕方がない。そのメモさえ忘れたり、無くしたりすることもしょっちゅうであるのだから、あまり役に立たないときもある。)

しかし、本日しようと思っていたことの中で、一番重要なことと思っていたこと、すなわちFDに覚書のように入れていたことを打ち出そうとしたが、6枚入りのいつも使用しているケースにそのFDが入っていないことに気が付いた。

家のプリンターが壊れて以来、「打ち出し」はいつも日文研か、バイトに行ったついでに「内田研究室」のをお借りしてする事にしているので、それ以外に持ち出すケースはあり得ない。

明日は祝日でお休みのため、ゆっくり家で発表のための原稿を書くために、今まで覚書のようなことを打ち込んでいたものを打ち出そうと思っていたのだが、肝心のFDが無い。院生室での共有のコンピューターで、各自がFDを入れ忘れたまま帰ってしまうケースは結構多く、私もよくやる。しかし、次回行ったときには、必ずコンピューターの近く(モニターの横など)に取り出され、目に付くように放置されているので、「やっぱりここに忘れてたんか」で、事は無事に済む。しかし、今日は院生室のどこを見ても見当たらない。

今の私の状態からして、「きっと家に忘れてきたのだろう」と思い、その事はあきらめて、他にコピーをとったりする。

そこへ後輩の面倒見の非常によい先輩が来て、「やっと顔色も見た目も元気そうになってきたから、今日は一緒に御飯を食べに行こう」と誘って下さる。

昨日、胃がものを受け付けない状態であったので(今日のお昼は無事過ごしたが)一応、断りを入れるが、他に一緒に行く同僚みんなに、「久しぶりだし、明日は祝日だし、栄養つけて元気にならなきゃ」と言われ、好意のかたまりでかなり強引に誘われ、「まあ、確かに一人家に帰っても疲れて大したものも作らず、あるいは面倒くさくて何も食べずに終わらす可能性も高い」と思い、とうとうお誘いを受けることにした。

「無理せず、食べられるだけ食べたらいいからね」という皆様の愛溢れるお言葉に、さきほどのFDの件は「家に帰ったら何とかなるだろう」と思いをさらに強め、考えるのをやめることにした。

しかし、今日中にここでせねばならぬ事があるので、今すぐ出ることは無理で「30分〜1時間」はしないと帰れないと更に断りを入れてみるが、「いつまででも待っていてあげるから、終わったら一緒に行こう」というまたまたさらなる温かいお言葉。涙が出るほど嬉しい。(本当に私はよい人たちに恵まれていると実感。感謝感激。)

そこで、急いで様々なることをするのだが、そういうときに限って、コンピューターはフリーズし、プリンターは紙詰まりを起こし、コピー機は「エラー」信号を出す有様。おろおろうろうろする私を見かねた先輩・同僚に助けられ、なんとか最低限のことを済ませたときには、はじめに言った時間とは大違い。すでに1時間半も過ぎていた。

「極悪人」とでも「非道」とでも好きに呼んで下さい。皆様、さぞお腹が空かれていたことでしょう。ごめんなさい。

そうして、一緒に御飯を食べ、家に帰ったのだが、家中探しても、FDはどこにも見当たらない。先程までの「本当に良い人たちに囲まれた幸せな時間と気持ち」は、一挙に吹き飛び、自分の忘却力への不安と嫌悪で、だんだん気が狂いそうになってくる。

わずか1DKのちいさな部屋であるし、この前から「死にたい」モードで引き出しの隅から整理をしてあるので、これだけ探してないと言うことは、もう絶望的である。

とりあえず、内田師匠に「研究室に次回行った時に辺りを見ていただけないか」という、懇願的、錯乱的メールを送りつけ(電話するには時間が遅いし、自宅にしても意味がないので)、明後日の金曜日には日文研に行くので、もう一度そこで探し直すことにしよう、と自分に言い聞かせ、なんとか落ち着かせようと努力。

これ以上考えていると、発狂しそうだ。とりあえず、少し多めに薬を服用。

「人間失格」寸前。人格崩壊。絶望。

 

11月21日

「どんどんどんどん、どんどんどん底」

今朝も絶不調この上なし。つ、つらい。

先週末の「ゴーゴーゴー!イエイエイエイ!」はどこへやら。またもや陥没。ぼてっ。

今日はお昼前に、兵庫医大に入院している祖父の見舞いを兼ねて祖母を車で連れていくことになっていた。塚口からだと阪神沿線沿いに行くには、「タクシー」を除けば「バス」か「今津」経由で遠回りするしかない。車だとよほど道が渋滞していない限り20〜30分で十分行ける。普段は母などが送り迎えをしているのだが、生憎今日は用事が入って誰もいない。そういうときは、大体私が実家へ車を取りに行き、祖母を拾って病院に行き、祖父の見舞いをして帰るパターンとなる。

昨日、私が調子悪くなり稽古を休んだ上に、約束していた食事も祖母の家に食べに行かなかったので、ただでさえ「祖父」の心配をしている祖母は、更に私の心配までして「調子が悪いのならタクシーで行くからいいよ」とまで言ってくれる。しかし、昨日「祖父」は全く元気がなかったということも聞いていたし、ここで「じゃあ、私も調子が悪いから、ごめんやけど一人で行って」なんて事は口が裂けても言えない。祖母が心配して負担が大きくなるのは明らかであるから。

「良い孫」は結構大変なのである。しかし、「大丈夫よ〜!」と言って迎えに行き、少しの時間でも一緒についてあげることは、祖母にとって精神的にやはり「心強い」と感じる効果がある。また、一瞬とはいえ、一人個室で入院して寂しい思いをしている祖父にしても、「孫」が顔を見せると、嬉しいせいもあってか現金なもので「元気」づけられるらしい。だから「良い孫」というのは、なかなか有効な働きをもつものなのである。

ということで、私はこの「良い孫」役を降りるつもりは毛頭ない。たとえ自分が辛くても。

まさに「義理と人情」により、そんな事はようせんのである。しゃあない。そんな性分に育って(すり込まれて)しまったんやから。

それにそんなに悪いことばかりではなく、感謝され、可愛がられ、良いこともたくさんあるのも事実だしね。世の中そんなもんなんやろう。

そういうことで、今朝は9時〜10時頃までは家でゆっくり出来る(寝ていられる)。

しかし、車を運転するのであるから「薬」が残っているのはちょっと危険であるという気もする。

昨日、少量ながら夕食をちゃんと食べる機会にラッキーにもあずかり、9時過ぎには帰宅していた。けれども、やらなきゃならんことは「山積み」であるから、気づけば11時半。

明日のことを考えて、新しいお薬は1錠だけにしておき、よく眠れるようにとその時点でいつもの薬と一緒に服用する。大体薬が効いてくるまで、今までの経験では最低2時間はかかる。(私の主治医は5〜6時間後に効くこともしょっちゅうだから、2〜3時間後に効き始めるのは全然普通と言われた。)

服用後も、発表の準備をしたりして12時半頃まで、いろいろばたばたしていたのだが、やはり起きあがっているよりも、寝転がっている方が効きやすいかも知れないとも思い、「ベッドサイドリーディング」用の本を持って床にはいる。読んでいるうちに眠れるであろうと思っていたし、やはり心の隅では「病院に見舞いに行く途中で、自動車事故で病院に運ばれるなんて洒落にならんしな」という気持ちがあった。

だけど、全然眠れない。そしてとうとう夜中の3時頃、胃痛と吐き気に襲われてどうしようもなくなってきた。そこで、あきらめてもう1錠薬を飲み足す。今が3時だから10時までなら7時間はあるし、何とかなるだろうと思ったからである。

本も読むのもやめて、真っ暗にして目をつぶって眠る努力をする。時間はよく分からないが(結構いらいらしていたから1時間ぐらいはたっていたかも知れないが)、漸く眠りに落ちた。

8時前に、胃痛で目が覚める。気持ちが悪い。

でもまあ4時間ぐらいは眠れていたのであろう。とにかく10時までは転がっていようと決心するが、あまりに胃がしくしく泣くので、処方されている「胃薬」と緑茶を軽く一杯飲んで、また寝床へ潜り込む。

しかし、気分はますます悪くなり、とうとう強烈な吐き気に襲われ、苦しい咳を繰り返す。寝ころんでなどいられず、トイレや洗面所あたりをうろうろしたり、座り込んだり、まさに七転八倒の有様。

昨日はあまり量を食べていない上に、胃薬もちゃんと飲んでいるから、胃は空っぽのはずである。吐き気がきつく吐きたいのはやまやまだが、吐くものがないのだ。そして、とうとう、さっき服用したお茶と胃薬と胃酸をあげる始末。気分悪いことこの上なし。

「嘔吐」という行為は、経験のある方なら分かると思うが、結構腹筋を使う。腹筋だけではない、全身にすごい力が入る。おまけに鼻からも出てくるので、鼻の奥が痛いし、涙は出てくるし、頭痛を伴い、貧血気味となって、その場に崩れ落ちる。そして10時半頃まで、そのまま倒れる。どん底。冒頭に書いた文句が頭の中でぐるぐると渦巻く。

実はこれは木下恵介が監督した「死闘の伝説」という映画のBGMである。

話は変わるが、木下恵介監督作品の音楽を、実弟である音楽家・木下忠司が担当することが多い。木下忠司の音楽には結構独特というか、面白いというか、印象深いものがいくつかある。「どんどんどんどん、どんどんどん底」というこのフレーズの繰り返しが単調なリズムにのって流れるこのBGMは作品に異様な雰囲気を与え、私の中ではかなり強烈な印象として残っていたので、ちょうど思い出したのであろう。

楽しい曲には、「破れ太鼓」がある。これも木下恵介が監督したコメディであり、木下忠司自身も出演していて、ピアノを弾きながら賑やかに歌うのである。この映画はおすすめ。(そういえば「喜びも悲しみも幾年月」の音楽(曲)も結構印象に残っている。)

映画の話になると元気なのだが、まあ、今朝はそういうわけでどん底だった。

しかし、状態を「普通強」ぐらいに設定し、上記の通り、祖母を迎えに行き病院へ。

お昼前に行った理由は、祖父が一人で昼食をとるのが寂しいだろうと言うことと、栄養をつけさせるために「鰻」を持っていってあげたいという祖母の心遣いからである。

「肺炎」「風邪」に対して一番必要なのは、「栄養」と「睡眠」である。(今の私にそんな事言う権利はないが…)一人きりの食事はやはりあまり食が進まない。だから、病院の昼食に間に合うようにしていくことにしたのである。

「良い孫」効果は抜群であり、横で話しかけ、差し入れの鰻を添えて、祖母と両側を囲んでの食事は楽しかったらしい。祖父は以前「胃」を全摘しているので、元々あまり量は食べられない。だから、たくさん残っているように見えても、普段からどれくらい食べられるか知っている私たちにとっては、今日の昼食はよく食べた方である(食べ過ぎかも知れないぐらい)。機嫌も顔色も結構よく、祖母曰く「昨日とは大違い」。祖父の昼食が終わったので、祖母と二人で病院の食堂に昼食を食べに行く。

今朝がそんな状態であるのだから、勿論何も胃に入れたくないのであるが、だからといって、祖母一人食堂に行かせ、自分はさっさと帰ることはさすがに出来ない。これも「おつとめ」である。昼食を食べたら私は帰ることにして、とりあえず食堂へ。祖母は、私が「痩せた」事を大変気にかけている。だから「サラダ」や「パン」など軽食ですまそうとすると、心配するのは目に見えているし、痩せる前からでも一緒に食事するときには(どの孫に対してもそうだが)好意的に「もっと食べなさい」とどんどん勧めてくれる。

祖母は「お蕎麦」と「ミニ丼」のセットを頼むので、同じぐらいの量のものは一応頼まなければならないと思う。しかし、脂っこい洋食系は食べたくないし、困じ果ててしまった。「日替わりランチ」というのがあり、今日は秋刀魚の塩焼きに味噌汁付きだとか。「焼き魚」ならまだましだろうと、それを注文。御飯は大抵多いので残しても怪しまれないから、とにかく秋刀魚を食べる。祖母は「一人」で食べなくてすむことや、今日の祖父がよく食べて昨日よりも大分調子がよいことに喜び、「なおちゃんがいてくれて、本当に良かった」と何度も繰り返してくれる。涙が出るほどその言葉は嬉しいのだが、その反面、胃は悲鳴を上げている。まるで「顔で笑って、心で泣いて」状態のようだ。

病室に戻って、祖父に「今日は用事があるから、先に帰るね」と挨拶して(祖母は夕方まで付きそう、いつものことだ)、帰途につく。実家に車を返したら、「運転」という緊張からの解放も重なってか、また気分が悪くなり少量もどす。胃薬を服用。はあ、なさけな。

明日は朝から「たん熊」さんの料理教室であり、午後は「日文研」にて河合隼雄先生の講演を聴きに行く予定。はたして、実行できるんやろか?(かなり不安…)

 

明日は、明日の風が吹く。ぴゅー。

 

11月20日

「3歩、歩いてくりかえす」

はあ、何でこんなに学習能力がないんだろう。箕面や日光の「猿」の方がずっと学習能力が高い上に、学習したことをフル活用して狡猾になっていっているよ。

今の私は「猿」以下。「3歩」歩いては振り返り、忘れてしまう「鶏」状態。とほほ。

土曜の夜、新しい薬を更に2錠にふやして飲んだおかげで、6時間の快眠。おまけに起きてはいたが、その後2時間ほど布団の中でゴロゴロして、音楽なんぞ聞いていた。快調この上なし。「ほっほっほ」と内心高笑いなんぞしてみた。イエイ!

金曜の夜以来、どんどん快復!新しい薬の効き目はばっちし。「ええ調子やん。いけるいける。ゴーゴーゴー」など調子をこいたのがまずかった。(いつもそうである。ちょっと調子がよくなると、がんがん図に乗って、その後思いっきりフィード・バック。「人間やめますか」状態になる。本当に学習せんなあ。「どあほ」とは我が事なり。)

日曜日の夜に会った友は、大学時代のアルバイト仲間である。

今は出来る限り確約はせず、いつでもキャンセルできるようにほのめかしていることがほとんど。(実は私はよほどのことがない限り「ドタキャン」が出来ない。「NOと言えない日本人」なのである。)

しかし、彼女ら(3人で会った)と会うのは3〜4年ぶりであるし、なにせ1人は「ドイツ」転勤であるから、金曜の夜にお誘いがあったのだが、病院から帰って癒されていたのもあって、つい「OK」をしてしまった。

彼女たちのいいところは、「院生」とか「大企業勤め」といった肩書きのバイアスをかけて人に接しないところである。だから、気分的には結構お気楽なメンバーなのである。

彼女たちと一緒にバイトをしていたのは、「電話の代行業」であった。

私が大学の時は「バブル」の最盛期であった。いろいろな企業が営業日及び営業時間外の対応のために、「電話受付の代行業」の会社に依頼をしていることが多かった。例えば「損保」とか「旅行社」とか、曜日時間に関係なく、お客さんから電話がかかってくる(事故とか申し込みとか)事に対して、24時間無休状態で対応できるように「代行業」がそれをひきうける。その手の会社が儲かり始めていた時期であった。(「代行」に依頼しておくと、自社の社員達は無理な残業や休日出勤をしなくてすむからである。儲かっていたときだからね。)

私がアルバイト雑誌でみつけて面接に行ったとき、ちょうど新たな顧客(会社)からの依頼があって、新たにそのためのプロジェクト・チームを立ち上げるための応募であった。大学に入ってすぐ(といっても留学から帰ってきてすぐだったので、大学1年の夏だった)、立ち上げメンバーとして即採用された。そして、大学卒業するまで3年半、土日祝、お盆、年末年始と働いた。(他にも勿論いくつかのバイトもしていた。本当によく働いていた。)

別に代行業は今でもあるので、問題ないと思うので書いてしまうが、その新しいプロジェクトの依頼会社は「近畿コカ・コーラ・ボトリング」である。紙コップの自販機をおいている会社や百貨店、遊園地が主な対象であるが、自販機には大抵「故障などの際はこちらへご連絡下さい」といったシールが貼ってあると思う。(店が買い上げた自販機は別である。)いわゆる「苦情処理センター」の代行であり、平日は各担当の営業所につながるところを、土日祝と言った休みの間、代行するのである。その会社の方針で、苦情の対応には女性の方が応対に柔らかくて好印象で良いだろうと言うことで(どんな論理でそう決まったかは不明だが)、メンバーは女性ばかりであった。

最初は西天満の近くにある、汚い狭いビルがオフィスであり、ブースに区切られたところで電話を受け、京阪神の各営業所の担当である外回りの人にポケベル(まだ携帯の時代ではなかった)に連絡を入れ、コールバックしてきた営業の人に「どこどこで、こんな苦情が入っています」と連絡するという仕事であった。

こちらから勧誘の電話をかけて、アポイントを取る仕事ではないので、気は楽であるし、電話がかかってこなければ、本など読んでいても大丈夫であったから恵まれたバイトであった。働いて半年もしないうちに、顧客が次々と増えて今のオフィスでは場所がなくなってきたのであろう。OBP(大阪ビジネスパークの略だったっけ)の新しい綺麗な大きなビルに移転し、オフィスも拡大し、それぞれのプロジェクトごとに部屋を区切り、メンバーも増えた。以前のブースではなく、一部屋に大きなテーブルを囲むように電話が配置されたので、手渡しで苦情のメモが渡され、即座に地域を判断し、営業マンに連絡が取れるというように、仕事環境もずっとよくなった。おかげで京阪神の地理にも強くなった。

また机を囲んでいるので、暇なときはよくおしゃべりもして、非常にみんな仲がよかった。バブル最盛期とあって、よほど儲かっていたのか、時給は鰻登りであったし、1時間早く出勤すると早朝手当はつくし、残業すると残業手当も出た。年末年始やお盆にはもちろん、時給以外の手当がついた。おまけに、急な仕事(夜中に不定期に行われるテレフォン・ショッピングの受付)の斡旋もあり、それはそれで日給という形で稼げた。

今のアルバイト環境(情報誌で見る限り全体的に)から比べると、天国のような時代であった。さすが「バブル」である。

そういうわけで、私は土日祝は一日中働きまくり、稼ぎまくって貯金していたのである。だから、ここまで(引っ越しや授業料など含めて)親のすねをあまりかじらずに進学できたのである。(今から思うと本当にリッチであったし、貯金額も多かった上に利率も良かったから尚更である。今はほとんど使い果たしてしまった。悲しい。)

しかし、大学4年の時に「バブル」は崩壊した。どんどん代行を依頼していた企業が、自社の社員に無理をさせて経費を削減するために撤退し始めた。私が卒業する3月には、「コーラ」も撤退が決定し、そのプロジェクト・チームは消滅した。他のチームへ一応斡旋の話はあったが、時給ががた落ちであった。そこで私はそのバイトをやめたのであるが、その時に仲良くなった仲間とは、一緒に働いていたときはもちろんのこと、やめてからもしょっちゅう飲みに行ったりして良く集まって遊んでいた。しかし、そのうち結婚や就職、転職等々の各自の事情により、だんだん回数は減り、最近では年始のご挨拶程度ぐらいの接触になっていたのである。

懐かしさもあるし、少人数であることもあって、なかなかほっこりとした会食であった。久しぶりですごく楽しかったことは事実である。調子にもばりばりに乗っていたし。

しかし、あまりにも久しぶりであったため、会った二人の記憶にあるのは、元気でよく飲みよく食べ、良く騒いでいた元気いっぱいの時の若い私の像である。(まあ、それはおたがいさまなんだけど。)しかも留学から帰りたてであったので、結構太っていたときでもある。やはり、会った瞬間「むっちゃ痩せたんちゃうん」と言われてしまった。

話がそれるが、スウェーデンに留学していた1年間に私は、出発前より12〜13kg太って帰国した。それでも帰国前に少しダイエットしたのだから、最高15kgは太っていたと思う。皮肉なことにその1年の間に兄が9kg近く痩せていた。帰国1日目に遠目に兄の姿を認め、手を振った私を見て、あまりの変貌ぶり(太りぶり)に兄は「誰や?」と妹とは認識できなかったという苦い思い出がある。(かなり屈辱的である。)

帰国したのは7月の初旬。北欧であるスウェーデンでは真夏に近い。極寒の冬を過ごした後、しっかり脂肪を全身にまとっていた私は、向こうの気候に馴れてしまい、25度ぐらいでタンクトップに短パンという真夏の格好をみんなと同じようにしていた。(今では考えられない。)帰国すれば、日本はこれから酷暑に向かう時期である。あまりの暑さに汗を人一倍かき、食生活も変わったし食欲も暑さのために落ちたので、7・8月で一気に7〜8kg何の努力もせずに苦労なく痩せた。それでも以前よりは5kg程太っていたのであるから、アルバイトを始めた頃は、ころころとした丸顔の小太りの女の子であった。その時に比べれば、最低でも10kg程は痩せているのだから、驚くのは当たり前である。

何故そんなに太ったのかについては、今では5つぐらい要因が思いつく。

1. 食生活の違いである。チーズを毎日食べていたし、サラダ油なるものを使わず、何でもかんでもバターを使っていたので、必然的に日本にいるときよりも1日の摂取カロリーが高かった。

2. ケーキや菓子パンなどのお菓子の類が美味しかった。

あまり知られていないと思うが、スウェーデン人は「お茶する」のが大好きである。「カフェ」というと、何となくフランスやイタリアを連想しがちだが、スウェーデンはまさに「カフェ文化」である。一日のうち何度も「お茶する」(この前、何気なく「友達とお茶していて」と話していたら、祖母に怪訝そうな顔で聞き返された。祖母にとって「お茶する=茶道をたしなむ」であったからである。そういえば、喫茶店に行く・カフェにお茶を飲みに行く、という意味で「お茶する」という言い方が定着したのはいつ頃なんだろう。結構最近のような気がする)。スウェーデン語にはまさにそういう意味での「お茶する」(コーヒー類も含む)という単語が名詞でも動詞でもある。「カフェに行く」といった文章でなく、一語であるのである。

学校には食堂以外にカフェのコーナーがあったし、帰りには必ず町のセルフ・サービスの安いカフェでたむろっていた。そこでケーキや菓子パンをほぼ毎日のように食べていたのである。

3. ヨーロッパ人は(なんてくくり方をすると異論のある方もおられると思うが、赦して いただきたい)大体食事の時間が長い。みんな喋りながらゆっくりと食べる。それに比べ、日本人は概して食べるのが速い。おまけにスウェーデン語なぞ知らずに留学したものだから、言語の障壁があって会話に参加することもできない。だから、一人黙々と食べていたので、つい食べ過ぎる結果になる。

4. 小さい田舎町にステイしていたために、「留学生」としていろいろ歓迎された。しょっちゅう歓迎パーティーがあり、またクラスメートの個々の内輪でやる小さなパーティーでも、留学生だからという理由だけで招待された。そして、「どんどん遠慮なく食べてね」という機会が多かった。必然的によく食べることになる。

5. 上記のことと重なるが、ストレスによる過食がある。

留学生の中ではあまり変わらない人と、ストレスによる拒食と過食の3パターンに大まかに分かれる。拒食症になってしまったら、それこそ深刻事態で、たいていの場合「強制送還」という形で留学途中で帰国になる。だから、過食のほうが健康的ではある。私の聞いた中で最高は22kg太った人がいるらしい。10kg前後は結構「過食」パターンでは普通である。

今の姿を、スウェーデンのホスト・ファミリーやクラスメートなど知り合いが見たら、びっくり仰天するであろう。(断っておくが、私は拒食症では決してない。単に弱っているだけである。)

横道に話がそれすぎた。

まあそういう友と調子に乗って、飲んでいたし、みんなで取り分けて食べるのだから、あまり食べて無くても気付かないかな、と高をくくっていたら、「小川ちゃん、全然たべてへんやん」とチェックが入る。「え、食べてるよー」とごまかしては見たが、最近のペースでは考えられないぐらい食べる結果となった。(多分、それで普通の人ぐらいだと思うのだが)。食べない(食べられない)分、良く喋り、よく飲むと行った行動で時間を相手に合わせることになる。必然的に「食べ過ぎ・飲み過ぎ」に陥っていた。

その時は楽しくて気づかなかったが、家に帰ってホッと力が抜けると酔いががんとまわったのであろう。日曜日はすごく寒かったので、帰りに身体が冷え切ってしまっていたために、酔っぱらってのお風呂は良くないが、とりあえず体を温めたいと思って湯船にお湯をはる。途中様子を見に行くと、酔っぱらいのぼけのせいで、大元のガスの電源を入れるのを忘れていた。半分ぐらい溜まっていたのは「冷水」であった。ガーン。大ショック。

もう11時半を過ぎている。翌日は朝からバイトであるから、薬が効いてくる時間から換算しても、これから水を抜いてお湯をはりなおしてから薬を飲むと、最悪な事態(2時間ぐらいしか眠られない)になりそうである。しかし、主治医には「薬を飲んでから風呂には入るな」と厳命されている。(「死にたいなあ」と思うときにはいつもこの言葉を思い出し、実行したい気にかられるのだが、全裸でしかも溺死といえばぶよぶよになっていそうなので、あまりの醜態をさらすのはやはり嫌なので、結局思いとどまる。)

そこで、もう薬を飲んで、朝早く起きて寒いけどシャワーを浴びることにして、眠る努力をする。酔っているにもかかわらず、寝つけない。

土曜日からの祖父の入院騒ぎと、極端なはしゃぎようにより、身体が緊張しすぎているのであろう。それなら、先にシャワーをあびときゃよかったとも思うが、今更寝床から起き上がって、眠くなっても嫌なので、じっと我慢する。結局3時頃まで眠れず、朝にシャワーを浴びるために7時前に目覚ましをセットしていたが、胃痛・腹痛・頭痛により、目覚ましより早く目が覚める。

また、睡眠時間3時間に戻ってしまった。しかも最悪最低状態である。

何度このようなことを繰り返したことか、と反省してみても気分が良くなるはずはない。「あほ」と呟いても状況は変わらない。ふらふらの状態でとりあえずシャワーを浴び、バイトに行く準備をし、温かい緑茶を飲み、胃薬を服用。全然効果なし。ますますだるくなり、動けない上に吐き気までしてくる始末。

はじめは「二日酔い」かなと思い、処方されている胃薬以外に二日酔いにも効くとかいてある市販の胃腸薬を飲むが、全く効果なし。這うようにしてバイトに行き、対外的に普通のモードになんとか合わせる。しかし、すでに左手がかすかに痺れて震えている。

今日は、人も少なかったので仕事としては楽な方だったのが唯一の救いである。昼になっても状態は復帰しない。おまけに寒気までしてくる。どうも単なる「二日酔い」ではなさそうだ。

「お昼を食べるとまた気持ち悪さが増すかなあ」と思い、昼休みの途中まで薬とお茶だけを飲んでいたのだが、もし「二日酔い」なら食べた方がいいかも知れないとも思い、無理してでも軽く食べてみる。一応、胃痛・腹痛の方は現状維持ができて悪化はしなかった。

だが、やばいことに午後になってから、左胸の辺りが痛み出した。

私はこれまでに何度か、健康診断の心電図でひっかっかている。今年は無事クリアーしたが、去年は引っかかり、再検査だった。病名は忘れたが、いわゆる「不整脈」をたまに起こすのである。再検査でもまたひっかかり、「ホルダー」式の心電図をはかる機械を身体につけられ、1日の行動を事細かに(トイレや食事、階段を上る、走るなど)記入する用紙を渡され、1日の心電図を取られた。結果、不整脈を起こる回数が、想像よりはるかに少ないため、今は心配するほどではないが、その1日計った記録の中で一度だけ2回連続して結構大きな不整脈の記録が出ているので、これがちょっと気になるとのこと。このような不整脈が続くと危険であると脅された。気になることがあれば検査に来るようにとも言われていた。

左胸の当たりといえば、ちょうど「心の臓」あたりではないか?としくしく痛む胸を押さえながら、思考はどんどん悪い方に働いていく。

「調子に乗りすぎました。もうしません。身体さんごめんなさい」とひたすら陳謝して、まっすぐお家に帰って(稽古に行くはずであったが断り、その帰りに、祖父が入院して負担が重くなっている祖母の家で一緒に母と夕食を食べる事にしていたが、それも断った)、おとなしく音楽を聴きながらだらだらする。

漸く、身体さんも赦してくれたらしい。胸の痛みも消え、寒気も消えて落ち着いた。

偶然、別の用事で電話をした知り合いが、「夕食がまだだったら一緒に食べないか」と誘ってくれる。全然食欲もなくなっていたので、柿でも剥いて夕食代わりにしようと思っていたところだったので、「あまり調子よくないので、食欲無いんだけど」と言うと、「食べられるだけ食べたらいいから、栄養のあるものを少量でも取った方がいいよ」と更に心配して誘ってくれる。確かに正論である。身体も落ち着いてきたので、1時間半後に待ち合わせ、とりあえず「柿1個」よりはバランスよく食べることが出来た。まことに有り難い次第である。(しかし、全然反省せず、少量とはいえまたアルコールも一緒に摂取する。せやからいつまでたってもなおらへんのや。ぼけ。)

良い人に囲まれて本当に小川は幸せ者である。

しかし、本人が誠にふてえ愚劣野郎なために、こんな悪循環を彷徨う結果となるのである。いつになったら学習するんだろう…って自分自身の問題。「ええ加減に学習せんかい!あほんだら」など一人対話するうつけ者がここにあり。うくく。

 

11月17日

今日は、主治医のところへ行って来たので、今は結構リラックスしている。

しかし、間が悪いのは相変わらず。「なんでえ!」とショックを受けることも多し。

まずは御礼。

内田師匠、並びにお兄さま。眠るためのアドヴァイスをいろいろありがとうございます。

「型」から入るのは、結構、性にあっているので、実行をしてみようと思います。

でも、その前に「泣き」モードはずっとかなりきつい状態ですので、内田師匠の「泣き寝入り」作戦は自然と実行していますね。(といっても寝られず、体力のみ消化しているようですが。)

顔が緊張していると、身体も緊張しているとは、誠に実感いたします。

本当に、よい人たちに囲まれて小川は幸せ者です。Merci Beaucoup!!

ということで、顔の話で思い出した。

今の私は、以前の私が対外的に他人と接触していたときと同じように振る舞うのに、結構体力を使い緊張している。一緒に会っている人には、以前とあまり変化もなく感じてもらい「結構元気になったね」とさえ言われている。言われなくては困る。

だって、以前のように振る舞っているのだから。これで「調子が悪そう」と言われた日にゃあ、「はあ、なんでこんなにあかんたれなんやろう」とますます自己嫌悪に陥るだけなのは目に見えているからだ。

8月・9月は人間のふりをしていたが、ほとんど引きこもりに近い生活を行っていた。

10月に入り、「社会復帰宣言」をしてみたものの、気がつけば11月。全く復帰できていない。一応外出の回数が増えたぐらいである。そして緊張度は当然ながら高まり、結果、薬の量が増えた。

11月にはいると、復帰できない自分にますます焦り、実はどんどん睡眠時間が減ってきてしまった。そして、外出すれば、以前よりも元気いっぱいに振る舞ってしまうのだ。あまりにも落ち込んだので、ずっとやってきた常態の「元気の良さ」度合いが分からなくなってきてしまっている。だから9月頃に会った人から見れば、「めっちゃ元気になったやん」状態になってしまっているのかも知れない。その辺りの調整が自分でも分からない。

しかし、主治医のもとに通うときは、また別である。自分一人で家で泣いている状態、緊張をかなりゆるめた状態になる。(そのために通っているのだから)。

いつも診察室に入り、顔を合わせて挨拶すると「どうですか」「眠れてますか」と言った言葉が第一声であることがほとんどである。

今日はちがった。入って来る私の顔を見るなり、「大波にのまれてゆらゆらしている感じですか」と言われてしまった。よほどひどい顔をしていたのであろう。「はい。大波に呑み込まれてどん底です」と思わず答えてしまった。

今日は病院に行く前は日文研に行っていた。その時に会った人たちからは、「前より元気そうになってきたね」と言われていたのである。「顔」と「緊張」はまさに直結しているなあ、と思った。(さすがに師匠のお兄さま。鋭いご指摘です。)

アドヴァイスをいろいろ皆様から頂いておりますが、結局、今日からまた少し薬を増やすことで話が落ち着いた。寝られるかどうか楽しみである。

そんなわけで、通院しただけの甲斐があって、家に帰ってから「村八分」(CD化されたのを知って、懐具合も顧みず思わず買うてしもうた)を聞きながら、「やっぱりかっこいいなあ」とリラックスに心懸け、今日の自分の情けなさを赦してあげていた。

そして、気づけばもう11時。考えてみれば朝から紅茶を1杯飲んだだけである(胃薬は食前用なので、ちゃんと1日3回服用している。)やはり一日胃にものを入れないのはよくないので、野菜をスープにしたものをつくり、食べながらこれを書いている。今のところ胃痛も起きず、順調。ふっふっふ。

今朝は10時から日文研にて、敬愛する先輩が研究会(ゼミみたいなものである)にて発表することになっていた。しかし、日文研までは2時間近くかかる遠さである。朝なのでまだ乗り継ぎがいい方だが、8時半前には家を出なければならない。昨晩までは行く気満々で、いつもよりも早めに薬を服用した。(効いてくるまで時間が結構かかるから。)

だけどなかなか眠れない。夜中3時頃になって漸く眠気を感じはじめ、眠りに落ちることが出来たのだが、5時過ぎに胃痛・腹痛で起きてしまった。目覚ましは7時にかけてある。

とにかく7時までは転がっていようと決心して寝る努力をする。一応うつらうつらするのだが、10分ごとぐらいに目が覚め、その間にはすさまじいほどリアルな夢を見ている。寝た気がしないどころか、体がどんどんだるくなる。頭痛も激しい。目は覚めていたものの動けなかった。結局、時間には家をよう出んかった。無念。

だったら家で午後の診察時間まで休んでいたらいいものだが、そうもいかなかった。

一昨日久しぶりに(半年近いと思う)指導教官である井上章一先生と一瞬会った。ちょうど先生が帰ろうとしているところを廊下ですれ違ったのである。書類のサイン等用事があったので、「次はいつ来てはりますか?」とお伺いする。「明日」と言わはったが、私は女学院にてバイトのために来ない。「明日は来られないので、次は?」とさらにお伺いすると、「多分、金曜日も来ます」ということで、一応金曜日にお願いすることにした。その時点の予定では朝から行っているはずだったからである。

井上先生は大変御多忙な方である。だから日文研にいつ来てはるのかはよく分からない。その上、私自身が日文研に行く回数がめっきり減ってしまったので、全く顔を合わせなくなってしまった。しかも、先生はe-mailをしはらないどころか、ワープロさえ使用されない。あれだけ本を次々と出版してはるが、全部手書き原稿なのである。そのため、自宅にお電話する以外、連絡の取りようがない。(しかしこれはなかなか出来ない。)急がない件なら、郵便物等のために設置された「メールボックス」にメッセージを入れておくと、院生用の「メールボックス」にお返事が帰ってくるという誠に原始的な方法でコンタクトを取っているのである。

なので、発表に間に合わなくとも日文研には行かねばならない。私が言い出したことだから。今日の診察時間に間に合うように考慮すると3時過ぎのバスで帰らねばならない。(その次のバスは3時40分頃であり、これでは間に合わない。)しかし、2時半頃になっても、まだ日文研には来やはらへん。「多分」て言うてはったからなあと思い、「サインに関しては「メールボックス」に入れておいてくれたらしておきます」とのことだったので、先生へのメモ書きをし、書類を揃え、バスの時間ぎりぎりに院生室を出て「メールボックス」に入れて帰ろうと駆け足で帰途に向かったら、井上先生に出会った。

そこで、「今メールボックスに入れようとしていたのですけれど、これがこの前言っていたものです」と手渡す。「なんか書くもの持ってはったら今すぐしますけど」といつものまったり口調で言うてくれはるのだが、こっちはバスの時間がある。「すみません。ちょっとバスの時間があって余裕がありませんので、いつでもいいですので院生用のボックスにほおり込んでくれはりますか?」と口早にお願いする。誠に失礼千万な輩である。

「分かりました」と承諾してくれはるのにつけあがり、「また今度、ちょっとお時間をさいてくれはりますか?では、失礼します。」と捨てぜりふのように言って、足早に立ち去る私。悪逆非道である。(井上先生、ごめんなさい。)

そうして、病院でさんざん泣き言を言い、睡眠時間が減った原因を自己分析したものを話し(この行為自体が軽症である証拠)、薬を少しきつくしてもらい(といってももともとすごく弱い薬しか服用していないので、大したことはない)、家に帰って一息つく。

しかし、それで一日は平和に終わってくれなかった。

メールをチェックすると、12月に発表することになっている研究会(支部会)の日程がやっと分かった。

がーん。「16日の土曜日」である。

私は勝手に第1か第2土曜日と想定していた。日程的には想定より一週間延びた分、原稿が出来上がっていないので助かることは助かる。しかし、この日はダブルブッキング状態で、非常に悩んでいた日である。

実はこの日は私が習っている謡曲の先生が「能」を演じられる日である。また、杖の稽古納めの日でもある。杖のお稽古は通常なら14時からであり、能は13時始まりで、先生の出番が最後だとしても2時半か3時頃であろう。

「稽古納めのあと宴会をするので、そちらだけでも参加しても構いませんよ」と誠に有り難いお言葉を杖の師匠から頂く。というのも、下川先生(私の謡曲の師匠)が、「能」をされるのは年に2回か3回である。機会が少ないのでこちらを優先することにしていた。

しかし、発表は14時からである。どう考えても全部の予定が重なっている。

もう選択の余地は全くない。私は発表者なのであるから。

よりによって16日。全く間の悪いことこの上なし。「もうだめだ」(@町田康)

もし、能に興味がある方がいらっしゃったら、是非ご一報を。

場所は神戸の長田神社のそばにある「上田能楽堂」です。チケットは3枚余っていますので、差し上げます。(社中の使命として年の初めに、チケットは購入するのである。)

もったいないので、その日フリーで、「能を見たこと無いけど金を払ってまではねえ」という方がいはりましたら、この機会に一度鑑賞してみて下さい。「ただ」ですよ。

日記を始めて以来、一番ハイテンションである。今回はあまり人に暗さを感染せずにすんだことであろう。ブルーにも一応濃淡があるのである。

まことに饒舌。たまにはこんな日があってもいいだろう。(一寸先は闇だからね。)

今日は眠れるかなあ。わくわく。

 

11月18日

はあ、快調?に一日を過ごせば、必ずフィードバックが来る。

昨日は、お薬をふやして初日である。4時間眠ることが出来た。上出来。天晴れ。

だけど、間が悪いのは相変わらず。はあ。

今日は、気分転換に髪の毛を切りに行った。

午前中は謡曲のお稽古である。師匠に能を鑑賞できなくなったことをわびる。その後、母と二人で三宮に出る。神戸は久しぶり。

母は、私と父や親戚の間に挟まれて、誠に気の毒である。しかも、これまでのストレスと、年齢のせいもあって、「甲状腺」を患っており、今日は「花隈」にある専門の病院で、14時半に予約が入っていた。それで、私も便乗して三宮に出て、「カット」に行くことにした。(もう10年近く同じ人に切ってもらっているので、贅沢かもしれんが、美容師は変えられない。)

午前中に稽古を二人ともすませ、三宮に出る。すると、母が言うには、「誕生日過ぎてしまったけれど、夜御飯にどこかで御馳走してあげる」とのことである。

母は診察後、大阪(梅田周辺)にて友達が能を舞うので見に行く予定だとか。そのあと御飯をまた一緒に食べようと言う誠に有り難い申し出。とりあえず、携帯で連絡を取り合って決めることにして、お昼は「夜の御馳走」のために控えめに、ラーメンですます。

髪の毛を切りに4ヶ月ぶりに行き、いつも担当してくれている美容師さんには、第一声めに「痩せた?」と言われてしまった。「ちょっとこの夏ダウンしていて…」というと、「大丈夫?ダイエット成功かと思った。でもそんなに病的な顔って感じじゃないけど、痩せたことが強調されるから、カットも気をつけないとね。どうする?」とのこと。さすがに長年切ってもらっていることもある。私としては、あまりにも「痩せた痩せた」と言われるのも気を使うので、「あまり目立たないように、ボブ調にして下さい」といって、あとは任せっきりである。いつもそんな感じで任せっきりだが、出来上がりが不満足のことは一度もない。私の頭の形や髪の毛の癖をよくよく知り抜いて、カットして下さるので、誠に有り難い。

久しぶりに神戸に出たことや、昨日ちょっと眠れるようになったこと、今日はなんだか御馳走にありつけそう、など、結構余裕をかましてみる。(ははは、調子ええやん。)

「痩せた」いう件に関しては簡単に説明すると、8月に激痩し、少し戻ったが、9月に入ってまた減り、10月に入り更に減少。もちろん、途中途中2kg前後戻ったりしたりしているのではあるのだが、やはりそう簡単には行かなかった。結果、今は6月初旬に健康診断したときよりも5kg前後は落ちてしまった。これでも最低時よりは2kgほど戻ってきてまし(回復)になりつつある。

カットが終わり、ちょうど店を出た途端、母から携帯に電話。「約束より早いなあ。なんだろう」と思ってみると、「祖父が肺炎で入院し、今自分も診察が終わったので、直行するので夕食はキャンセル」という内容。実は、祖父は一昨日39度の熱を出したらしいが、次の日には熱が下がったので、「一安心」といっていたらしい。近所に通う医者が様子を見ましょうと言ったことも「一安心」の原因である。

だが、祖父は90歳という高齢であり、風邪や肺炎は「命取り」である。さすがの私も、自分の状態よりも、祖父をそしてそれに付き添いしんどい思いをする祖母を優先してしまう。あわてて、病院を聞き直行する。思ったよりも顔色もよく、祖父も予想外に孫が現れたのが嬉しかったのか、受け答えもはっきりして想像していたよりも元気そうである。

ちょっと安心して、主治医の説明を祖母と大叔母と一緒に聞き、高齢者の「肺炎」の危険性を聞き、最低でも2週間、ざっと見積もって3週間はかかりそうなことが判明する。祖父は今年の夏に2回入院しているので、今年で3回目である。まあ、90歳なのだから当然身体にがたも来るであろう。すっかり弱気になって「みんなに迷惑ばかりかける」という祖父に、「いま、急激に冷え込んで風邪が流行っているから(これは本当)、「歳」には関係ないよ」と励ましてみる。

「夕食の御馳走」は、キャンセルになったが、実は祖父に少し感謝している。

というのもここ数日、一日一食乃至、わずかの量でかろうじて2食しか食べられなかったために、昼(12時半頃)にラーメンを食べたのが、病院から戻ってきた19時の時点で、まだ全然消化できておらず、胃にもたれ、全くお腹が空いていなかったからである。

この状態では折角の「御馳走」も、あまり食べられんだろうなあ、と思っていたから。

一緒に帰ってきた祖母は「お蕎麦が食べたい」というので、家の近所のお蕎麦屋さんに行くことに。品数は少ないながら「一品料理」、すなわち酒のあてなるメニューもあるので、これなら少量をゆっくり食べていたら、まわりにあまり気を使わせずに、こちらの胃の負担も調整できる。助かった。

もちろん私が心から心配しているのは事実である。身内や友達が病気をすれば、みんなそうであろう。しかし心配をするということは、結構疲労感を伴うものである。(看病疲れって言いますもんね。)

だから、現在あまり調子のよくない私にとっては、高齢の祖父母の前で、祖父母のイメージするように「明るく活発で、祖父母思いの良い孫」というキャラクターを引き受けるのは、いつも以上に疲労感を伴ってしまう。祖父母には、近くに住んでいる分小さい頃からずいぶん可愛がられてきている。いまやかなり高齢に達した二人には、誠に失礼な言い方だが、いつ「冥土の土産」になってしまうか分からない。そのために余計に、祖父母には心配をかけたくない。その辺りのジレンマはどうしようもない。

今回私が眠れなくなり始めたのは、6月あたりであった。どんどん睡眠時間が減っていき、自己嫌悪モードがきつくなっていく。内田師匠には、「鬱の典型パターンだよ。病院に行きなさい」と言われていた。そこで、日程を調整して行こうかなと思った矢先、祖父の第一回目の入院騒ぎが起こった。(結局1ヶ月近く入院していたと思う。)その騒ぎに巻き込まれて、自分の事を後回しにしてしまった。症状は悪化していっているにもかかわらず。

それほど、私にとっては大事な祖父母であり、尊敬している人たちなのである。

なもんだから、今回でもそうだが、学生という比較的身軽に時間調整が出来る身分である私は、病院も遠くないので、出来る限り時間を割いて、顔を見せに行くようにしている。

自分の作り上げた、「良い子・孫」の物語は根深いものである。

「疲れ」で思い出した。

これを読んだ人たちの中で、「あ、これは私のことではないか」と思う人々に誤解の内容に断っておきたい。

私が、その場で非常に楽しんでおり、その後も「あのときは楽しかったねえ」とまた思い出して語ったりしているときは、心底楽しんでいるのである。これは紛れもない事実である。ただ、日記を読むと、その様な日を過ごした翌日に「どん底の状況悪化」が書き連ねてあることもある。しかし、それは決して一緒に過ごして下さった方とは一切関係のないことなのである。「無理をさせていたのか…」とは決して思わないで頂きたい。(だから、これからも一緒に遊んでやってください。)

誰だって楽しく夕食や宴会などをして、ついつい飲み過ぎて翌日に壮絶な二日酔いで倒れることもあるだろうし、つい食べ過ぎてしまい、後で胃にもたれてくることもあるだろう。また、朝から1日ショッピングや遊園地など外出して、思いっきり体を動かして楽しい一日を過ごした日でも、身体にはやはり疲労感を感じるだろう。だから「あー楽しかった」の裏には「でも、ちょっと疲れちゃった」という感じがあると思う。

もちろん、「全く今日は嫌な一日やった。あーあ、本当にしんどくてやってられんわ」という疲れもある。だから大まかに言って、「疲れ」には2種類あると私は思っている。

で、まだまだ復帰できていない私には、「楽しい疲れ」の場合でも、人一倍身体がきつくなることがあるのだ。言ってみれば、「精神」さんは心底「たのしいな。うれしいな。しあわせー!」と過ごしている裏で、「身体」さんは「こら、ほどほどにせんかい。ええ加減にせんといてまうど」と悲痛な叫びをあげている。それを無視して、調子に乗って「楽しさ」を優先してしまうと、次の日にひどいフィードバック、すなわち「身体」さんの逆襲にあってしまうのである。

さあ、明日は昼過ぎに見舞いに行って、夜は「ドイツ」に転勤する友とごく内輪の夕食である。朝はゆっくり眠られるので、ふやしてもらった薬(1錠〜2錠まで、自分で調整するように言われている)を2錠のんで、ゆっくり眠られるか挑戦。眠れたらいいなあ。

 

11月16日

一昨日、やっと6時間寝られたと思って喜んでいたら、また3時間しか眠れなくなってしまった。

今日も朝から、胃痛で目が覚め(まあ、前の晩の夜中に始めて食事をする状態なのだから当たり前だろう)、とても朝御飯なんて食べられる状態でない。なんとか「栄養」と思い、牛乳たっぷりのミルクティーを飲む。これが仇となり、なんとかバイトに向かったが、吐き気がしてきて頭もくらくら。

まあ、なんとか今日一日を無事にそれでも過ごしたから、私って偉い。

とうとう今日で三十路になってしまった。よくここまで生きながらえたもんだとも思う。

12月に発表があるのだが、ちっとも原稿が進まない。特に今週はあまり眠れないためか、発表への焦りが募るばかりで、実状は頭痛に悩まされ、脳の働きが悪くなるためか、前日に読んで、ふせんまでつけているのに、内容を全く覚えていず、結局また読み直しという、何とも効率の悪い状態に陥っている。

ということで、私が記憶違いなり、忘れていたりしても責めないで頂きたい。もともと記憶力が悪い上に、薬の副作用なのである。(案外意識的に忘れていたりして…)。

もともと低気圧が来ると、頭痛がする。そのせいだろうか、今日も頭が痛いし、腰痛までしている。まるで老人のようだ。

今日はバイトの後に気晴らしに映画を見に行こうと思っていた。その映画とは成瀬巳喜男監督、原作が林芙美子の「放浪記」である。しかし、朝からあまりにも調子が悪いので、こんな時に「放浪記」は逆効果ではないか?と思いとどまってしまい、結局家に帰る。

「タナトス」モードが働き、またもや、いろいろな整理を始めてしまう。今は取りためたビデオのチェックをしている。そして、画面をうつろに眺めながら、突然泣き出してしまった。困ったものである。

ビデオの音声は消して、町蔵をBGMに聴いている。

「もう駄目だ。私はもう駄目だ」という歌詞に同感し、「あなたは一生そのまま」という歌詞にぐっときてしまい、「どうにか何とかなるだろう」と一緒にうたいながら踊ってみる。あほらし。

そこで、気分を変えて、「INU」を久しぶりに聴く。「ええ加減にせんと気い狂て死ぬ」という歌詞にはまってしまい、「気い狂て死にたいなあ」と思い出す。もはや慈悲なし。絶望的な有様。

「三十にして」倒れる。無念。惨死。

 

11月15日

身体ぶるぶる、頭がんがん、心さむざむ、懐凍結。かろうじて人間に留まりけり。

 

おかしいな。昨日は久しぶりによく寝たはずなのに…といっても10時間とかではない。6時間である。ここ1週間ほど薬を服用しているにもかかわらず、平均2〜3時間しか眠れなかった。何でだろう。同じように薬を服用しているのに。でも6時間は久々の快挙。これ以上無理すると、また倒れてしまうので、午前中はゆっくりだらだら過ごすことにし、午後に「日文研」に通う。

1週間ぶりであるが、学校のまわりの街路樹はすでに紅葉し、今日の雨で散り始めている。

くわっ、寒い。

 

調子を崩してしまって以来、「日文研」は私にとっては「磁場が悪い」つまり「鬼門」である。あそこに行ってスムーズにやるべき事が出来上がったことがない。

しかし、今日は人が少なかったので、あまりあちこちで人に捕まることなく、割と一人でマイペースに過ごしてきたつもりである。しかしそれは見せかけであり、やはりあちらこちらで支障が来し始めた。

バイトをし、借りていたビデオを返却し、新たに貸出をしてもらい、17時で図書館が閉まっても、ネットで検索も資料の取り寄せの注文もできるし、雑誌記事の検索も出来るはずである。

今、院生室には、共有のコンピューターが6台ある。そのうちの二台を立ち上げて、別の用事でばたばたし、院生室に戻ってきたら一台は「真っ赤な画面で「ウィルス感染」とかいう警告がでている。「何でえ」と思いつつ、とりあえず終了させる。隣の、一番最近導入された方で、ネット検索をする。いくらやっても「アプリケーションが起動しません」とエラーが出来アクセスできない。

そこで、次のコンピューターに手を出すが、それは途中で完全にフリーズ。また他のを立ち上げるが、こっちはネットすらつながらない。私はこんな事に時間をとられている場合ではない。やることは山積みなのであるが、いかんせんコンピューター君たちに動いてもらわなければ仕事が捗らないのである。

結局院生室のコンピューターの大半をフリーズさせ、訳の分からぬ状況に追い込まれてしまった。何度しても同じである。そうこうしている内に時間は過ぎ、19時半となっている。

 

気がつけば、朝から緑茶1杯と日文研で紅茶を2杯飲んだだけで、何も食べていないことに気がついた。結局やりたいことの半分しか出来ず、身体は震えてくるし、頭はくらくらしてくるし、体調が悪いのか、寒さで震えているのかよく分からず、逃げ帰るように「日文研」を後にした。

結局、なんとか食物をいれたのは、夜0時字ごろになってしまった。

 

21時半に家にたどり着き、マンションの入り口に私が向かうと、すぐ上にある蛍光灯が突然消えた。「へっ」と思いながら鍵を探しているがちっともつかない。漸く暗闇の中鍵を探り出し、鍵を開けて部屋に入ろうとした瞬間電気がついた。

「電気君、私はあなたに何か悪いことでもしたかね?」と呟きつつお家にはいる。

まず、お風呂を入れて体を温めることにした。以前は寝る前(冬場は特に)はいることも多かったのだが、(飲んでいるときは危ないので、次の朝にすることも多い)。

私はお風呂好きである。当然ながら温泉も大好きである。いつも1時間近く入っているし、早くても(シャワーは別)30分は入っている。

そこで、主治医には「服用後にお風呂に入らないように厳命されている」のである。

また、たまに「空腹感」なるものを感じると、先に御飯を食べてから、お風呂に入っていたいた時期もあったが、それをすると、消化しきれないものが負担となり、とんでもなき吐き気に襲われ、貧血を起こすことは何度も経験済みなので、避けている、

 

そうすると、どんどん寝る時間が遅くなり、悪循環思考に陥ることは免れない。

うぐー、どうにかならんのかなあ…

 

 

11月13日

しまった。奈落の底コースを選択したら、案の定、手が震えてきた。ふう。

身体が疲労してくると、様々な形で悲鳴を上げて訴えてくる。

「眠らせてくれえ!」と訴えかけ死んだように爆睡と言うのが一番一般的なのではないであろうか。しかし、不眠症気味の私には、その手が効かない。そこで、身体全体がだるくなったり、頭痛や腰痛、胃痛など内臓さんたちが痛み出したり、あるいはリンパ腺が腫れてきたりして訴える。これも、ごく普通であろう(多分)。それでも、身体さんの声に耳を傾けないと、だんだん強硬手段に出てくる。

身体に震えが来るのである。足や指先などに何となく痺れるような感じが広がり始め、文字を書こうとすると手が震える。膝ががくがくする、そんなときに誰かと喋ると明らかに声が震えている。まるで「アル中」のようである。

今日は、手の震えパターンである。今も指先に痺れるような感覚を抱きながら、キーボードを叩いている。

この震えでも無視していると、次は倒れるのである。しかし頭は冴えきって眠れない。だが指先一つ動かせない状態に陥る。これは結構怖い体験である。この経験については、いつか詳しく触れることにしよう。(だって、書き始めると長いんだもん。)

ということで、まだ今日は軽症の方である。

しかし、昨日も2時間半ほどしか眠れなかった。今日は朝からアルバイトなので、「なるべくぎりぎりまで眠れたらなあ」と思い、7時半に目覚まし時計を書けるが、6時前に目が覚めてしまった。

アルバイトの後は「杖道」のお稽古である。前回土曜日に行かなかったので、今日は楽しく稽古をすることが出来た。だから、結構調子が良くなっているはずである。

しかし、何故「震え」が来るのか?それを説明するには、この週末からの流れがあり、そのためには、まず私のバック・グラウンドを語らなければ話が進まない。

日記を始めて最初に書こうとして、頓挫。2日目もまたもや挫折。日曜日は書き込める状態では全くなかった。3度目の正直と言うことで、今日はもう少し詳しい自己紹介、すなわち自己を振り返ってみようと思う。

 

といいつつも、ちょっと話がそれるが、土曜の夜中に「タナトス」君にみいられてしまって「死にたい」モード復帰のことは書いたとおりである。私はこのモードにはいるといつも同じ事をしてしまう。

「たつ鳥跡を濁さず」というが、この部屋の主(私)がいついなくなって、誰かによって開けられたときに恥ずかしくないように、身辺整理をのような事を始めるのである。まるで大掃除のように部屋中を片付けたり、引き出しの中のごちゃごちゃを綺麗にまとめ、要らないものを捨て、人に借りているものは借りている人がすぐ分かるように一カ所にまとめ、すぐ返せるように用意をするなど、いろいろし始めるのである。

日曜日の大半は、例えば兄に借りていたGS(何故かGS)のCDをテープにダビングしたり、大掃除・洗濯をしたり、物忘れが激しいので手当たり次第殴り書きをしたメモを(自分でも読めないぐらい汚い字のものが多い)FDに区分けして整理し、汚いメモは捨てていったりしていたのである。途中意味もなく涙が出てきたり、かと言えば録音しているCDにあわせて、「スパイダース」や「テンプターズ」を一緒に歌って踊ってみたりしながら。

しかし、大穴はその夜に来た。

 

話を元に戻そう。まず恥ずかしながら、告白である。

私は「お嬢さん」である。(きゃー。言うてしもた。恥ずかし…)

私は裕福な家庭に生まれた。両親や近くにいる祖父母の愛を一心に受けて、のびのび育ったのである。そして、物心ついたときには、当時の新興高級住宅地「塚口」にある今の実家にいて、引っ越しもしたことなくずっと同じところで育ってきた。

そして、市立の小学校に通い、そのころ1クラス40人〜50人くらいであった気がするのだが、1学年6クラスという結構人数の多い小学校の中、阪神間の「私立への中学受験戦争」に巻き込まれ、私立に進学するのは、毎年5人前後ぐらいであった。私もその中の一人である。(当然小学校の成績は良かった。)

そうして、中学より、阪神間では名高いお嬢様学校「神戸女学院」に進学し、高3の時には1年間「スウェーデン」に留学し、大学まで女学院というぬくぬく「温室育ち」の環境で我が儘いっぱい好き勝手し放題で育ってきたのである。

(そのつけが今まわってきたのであろう。)

 

私の父は、「ぼんぼん」の典型である。父方の家をたどれば、「船場」の商人であった。今は株式会社として、東京に本社がある親族企業である。父は4男であり、祖父母にしては遅い子どもだったので、特に甘やかされて育った。祖父は父が若いときになくなり、それもあってか祖母はますます父を甘やかして可愛がっていたらしい。

この祖母は7〜8年前に亡くなったのであるが、孫の中では一番年下であった私も、ずいぶんと可愛がってもらった記憶がある。祖母の家に遊びに行くと、そこで話される言葉は「船場ことば」であり、誰か来客があると、祖母は「ごりょんはん」と呼ばれていた。小さい頃は良く意味が分からなかったが、今から思えば『細雪』の世界である。私も3〜4世代前に生まれていたら、「いとはん」であったのだ。

父が小さい頃には、家に書生がいたらしい。また、乳母のように父にかかりっきりのお手伝いさんがいる中で育ち、「甲南ボーイ」として最新の車に凝ったり、とにかく「舶来もの」好きであった(今もそういう気がする)。就職も親族会社に入らず、外資系の大企業に入り、そのままエリートとして駆け抜けてきた人であった。

私が生まれたのは、1970年大阪万博の年であり、その頃のサラリーマンたちは馬車馬のように働いていたように思う。当然ながら、幼い私が起きた頃には、父はすでに出勤しておらず、夜中に帰ってくるために先に寝てしまっている。週末は接待ゴルフなどでほとんど家にいず、私の記憶の中に父の影は薄い。もちろん父は私たち兄妹を、過剰なほど愛してくれてはいたのだが、いかんせん接触がなさ過ぎた。父がまだ私たち兄妹が起きている時間に帰ってきたり、週末家にいることが少しずつ増えてきたとき、何を思ったのか突然にこれまであまり顔を会わさなかった時間分を取り返そうがごとく「子ども」へ接触を試みたときには、もう私が高校2年ぐらいの時であった。

 

「BARに灯ともる頃」というマルチェロ・マストロヤンニが出演している映画を御覧になった方はいるであろうか。あれは「父」と「息子」の話であるが、私には何となく心にひっかかる映画であった。マルチェロ・マストロヤンニ演じる「父」は、兵役で暫く離れていた「息子」に会いに行くが、勝手に自らの欲望を投影させて作り上げてしまった息子の像が彼の中には確固としてあり、自分が「絶対に息子が喜ぶであろう」という勘違いの下に、用意する壮大な計画やプレゼントに対して、息子にはありがた迷惑な側面を隠しきれない。そこで、とまどいながらもポツポツと会話を試みようとする親子の姿が描かれている映画である。

 

これは、接触の少なかった私の父が、完全に作り上げてきたイメージと、現実の私とのギャップを共感させた。十代半ばならもっとストレートに反抗もできたであろう。が、ちょうどその頃「留学」という体験をし、言葉の通じない世界で、これまでどんなに両親が私を守ってきてくれていたのであろうと感謝の気持ちがしみじみと沸いてきた。その事もあってか、あからさまなる衝突を避け、なんだかんだといろいろな危機を回避し、抑圧し、ごまかしながら過ごしてきたのである。

そうして今では、どんどん年老いていく両親の姿、どんどん弱っていく祖父母(母方)の姿を見ると、さすがに片っ端からないがしろに出来ない自分のもどかしさがあり、そしてすでに大きな溝が出来てしまっていることもまた事実である。

しかも、父は自分がエリートでずっと思うとおりやってきたものであるから、自分とは別の人種がいると言うことに気付かないと言うより、配慮がない。無意識的に切り捨ててしまっているかのように見える。(意識的だと腹も立つが、どうも自覚がない分、困ったおじさんとしか言いようがない。)

コミュニケーションを過剰にとりたがり、それに私が応じたところで、こちらの話には耳を傾けず、父の枠組みを押しつけられ、都合が悪くなれば「忘れた」とか「そんな話は聞いてない」とか「もう寝る」などいって、いつも私は言いたいことは伝わらず、一方的に父の言いたいことのみを聞かされるだけであった。娘を愛する感情だけは「ひしひし」と伝わるが、父はこれをコミュニケーションだと思っているのだろうか?

こうして私と父の間には根深い「核」(「壁」でも「溝」でもいいのだが)が形成されてしまったのである。

 

さて、母方の方であるが、今、祖父90歳、祖母87歳、このまえの11/3は、正真正銘の結婚65周年記念日であった。母方は父の家庭とは正反対である。戦時中「技術者」として兵役に召集されなかった祖父は、戦後、常陸の方から大阪へ流れてきて、一代で会社を築いた人であり、3人いる息子の誰一人として自分の会社に入れなかった。「親族会社」というものに信用がなかったからだときいたことがる。

母は5人兄妹であり、「祖父のモットー」は家族、兄妹、親戚みな仲良くせねばならない、というものであった。

おかげでは母方の親戚は、なんだかんだと高齢の祖父母を気遣って、しょっちゅう集まってくる。本当に兄妹仲良く、まだ一番上の従姉が学生をしていた頃は、今以上によく集まり兄弟のように従兄弟たちとも良く一緒に遊んだ。

あまりにもみんな良い人たちなので、ついそこにいると、私も「良い子」モードに合わせてしまい、とても「いい人」を演じてしまうようになっていた。

 

そうして、父の理想像や親戚、祖父母の欲望が作り上げたイメージと、これまでそれが「普通の私」と思い込んで振る舞ってきたものと、実はどこかでそうではないと言う自分との「ずれ」が今頃になって大きくひずみがでてきたのである。

両親や祖父母、親戚たちと顔を合わすこと事態は、皆さんおおらかな人なので、一見、何一つ喧嘩の様なこともなく、笑いに包まれた和やかな会食(時間)のように見える。

しかし、今の私には、これまで通り「良い子」「良い孫」を演じるためにかなりの努力を必要とする羽目になった。(これまでは、無意識にそう接してきたので、演じているなぞ思いもよらなかった…)

 

そこで日曜日に戻るのだが、一日、身辺整理をしながらゆっくりしていた私のうちへ、母から懇願の電話があり(夏以来、症状がひどくなってからは父を避けていたのである)、近くのいきつけの寿司屋へ両親と御飯を食べに行くことになった。

やはり、あまり食も進まず、「百年の孤独」という焼酎のロックと、酎ハイという飲み物をがんがん飲んで、自分を胡麻かし、気を紛らわしていた。しかし、家に帰ると疲労困憊。あれだけ飲んだにもかかわらず、結局よく眠れなかったのである。

 

そして、今も気がつけばもう朝の5時前。3時ぐらいに薬が効いてきたのか眠気を感じ、あわてて、すべての事柄を中止して、布団に入ってみたのだが、寝付けない。漸く眠りに落ちたのはいいが、4時半前に胃痛・腹痛により目が覚めてしまい、それからどう頑張っても寝られない。「寝よう」「寝よう」という焦りがますます目をさえさせ、いらいらとしてきてしまう。

あきらめて起きて、書きかけていた日記を再び書き始め、一応話に一区切り付けた。

でも、今日は書きすぎたので(と言うより、胃痛・腹痛がするので)、終わり。

(もう一度布団に戻って、「眠れなくてもとにかく転がっていることが大事だ」という主治医の言葉に従うことにする。)

 

11月11日

1並びの日。そんなことは何にも関係ない。

昨日は、体調悪く(っていまもいいとは言えないんだけど)、初日にして、一番大事なことを書き損じていた事に気付いた。

 

ここに展開されるのは、小川順子の勝手な言いぐさであって、すべての文責は小川にあります。「なにぬかしとるんじゃ、あほんだら」など思われましても、場を提供して下さる内田師匠には何一つ関係ないことでございますので、直接小川の方に言って下さい。

義理堅い時代劇映画を愛好する身の上、ごく当たり前のことですが、一応この点に御確認をさせていただきます。

 

今日は、私にとって一つの選択を迫られる日であった。というのも、修士から共に道を歩んできた同期の院生が学会(全国大会)での発表の日であった。そして、私にとっては、「杖道」のお稽古日でもあった。(夜は親しくさせていただいている方々との夕食(宴会?)があった。)

この夜の予定だけは何があっても参加は決まっている。というのも、私にとって今一番の癒しが「料理」をすることであるから。ここで言う「料理」とは、他人に作ってあげるという意味に限定される。実際、今私は胃腸を激しく痛めたらしく、固形物を入れると「胃がしくしく痛む」事はしょっちゅうである。そもそもそれ以前の健康であったときから、自分のために作ることには全く興味を示したことがなかった。他人に作る「料理」は私にとって、もう一つの「リハビリ」でもあり、最近「割烹おがわ」から「押し売り仕出し屋おがわ」と変名しなければいけないと反省しているのである。(際限なく作り続けるからね。みんなごめんよ。)

 

で「料理」は午前中の内に仕込みを済ませていたので問題ないので置いておいて、選択の問題であるが、同期の発表を聴きにいくと、必ずやそこには自分との比較が起こり、必然的に「焦り」が生じ、またもや精神的打撃は免れないことは目に見えている。「杖」のお稽古に行けば、うまく使えない自分の身体を認識するもどかしさはあれども、ただ師匠について稽古にいそしんでいればいいので、ストレスは発生するどころか、うまくゆけば発散できる場である。

頭痛の中ずいぶん迷って、私は前者を選択することにした。もう奈落の底に落ちるのであれば、とことん落ちてみてもいいかなと言う気からである。しかし、一人でそう決めても実行が危ういので、一緒に行っていただく人に連絡して、待ち合わせまで用意周到にした。これで、逃げ場がなくなったわけである。そこまで追いつめなければ、私は何もできない状態である。まあ、その後にお楽しみの宴会があるのである、何とかなるであろうと言う気持ちからそうしたのである。

 果たして結果は、やはり予想通りであった。

同期は立派に発表をすまし(緊張は伝わってきたが)、端から見ても好意的の受け入れ方をされていた。さすがである。同行して下さった方に、「良い勉強になりました」と話しながらも、焦りは隠せない。「私にはあそこまで出来るのか?」「まともに質疑応答に対応できるのか?」など自問はつきない。しかし、時間が宴会まであまりないので、とりあえず保留にして宴会に参加する。

親しくしていただいている方々は本当に良い方達で、気持ちが和む。お酒も一人がんがん飲む。町蔵の熱いファンの語りに耳を傾けていただき、サイン会の写真を見せて自慢し?、すっかり気分はゴー。(しかも帰りは送っていただいた。私は幸せ者である。)

朝から仕込みの味見ぐらいしか胃に入らなかったので、気分のいいときに乗じて調子に乗って食べてみる。すごく楽しい時間を過ごして帰ってきた。それは紛れもない事実である。

 が、しかし、どこかで抑圧した「焦り」が回帰してきたのであろう。「このまま薬飲んで寝よう」と思っていた私の気分に少しづつ暗雲が立ちこめ始め、ちっとも眠くならず。みんなと楽しく食べたはずの食事も、胃にもたれ始め、気分がちと悪くなりつつある。頭痛がどんどんきつくなり、なんかかゆいなと思っていたら、「じんましん」がではじめていた。

はあ、こんな些細なことでつまづいていては、先は思いやられるばかり。

気分転換に、どんとの曲を書けてみるが、逆効果。

どんとは何故死んでしまったのであろう?私もどんとと一緒に「憧れの地」に行きたいなあ、という思いが募るばかりで、「死にたい」モード復帰。意味もなく涙が流れる有様。

今日を一緒に楽しく過ごさせていただいた皆様。小川は心から感謝しております。

しかし、あかんたれの宿命でしょうか、あれほど愚痴ったりして楽しい時間を過ごしたにもかかわらず、状態は復帰できませんでした。すみません。

どんとを聞きながら、私の中では別の曲のワンフレーズが聞こえてくる。

「眠りたい!!」(@「365」スターリン)

今日もまた、これまでの過去をたどり気力も体力もありません。

このきまった箇所に起こる偏頭痛って、誰かに「五寸釘」打ち込まれているのかしら。

あな、恐ろしや。

 

 

11月10日

満身創痍の負傷の弟子こと不肖の弟子・小川順子です。

たびたび内田師匠のホームページにお邪魔させて頂いております。

突然ですが、皆さんは一度は「死にたい」と思ったことがありませんか?

私は今まさに「死にたい」モードの真っ直中にいます。しかも結構Deep Zoneを彷徨ってます。私の頭の中では、「おまえは生きる価値がない、おまえは生きる価値がない、おまえは生きる価値がない」と町蔵の声がぐるぐると回っている状態。

「いきなり何を訳のわからん事を言うてるんや。頭おかしいんやないか?」とお思いのことでしょう。いやあ、ごもっとも、ごもっとも。

私がいかなる経緯でここに書き込みを始める事になったのか。また、いかなる経緯で上記のようなことを言い出す状態に陥ったのか、これからご説明いたします。単に私自身が、「痴れ者」であるだけではなく、一応他にも複雑に絡み合った長〜い、深〜い背景がございます(多分)。

と言うことで、まずは自己紹介。

私は現在、「日文研」なるところに寄生させていただいておる一大学院生です。私の所属する大学は博士後期課程のみしか存在しないと言う変わった大学院大学であり、それぞれ専攻の学生は日本各地の専門の研究所に預けられると言うシステムをとっているので、一般的な大学のように一カ所にキャンパスという建物がどーんと構えてるわけではありません。(本部である事務局とそこには小さなキャンパスらしきものも一応あるにはありますが。)そういうわけで、今私が通っているのは、京都の山の中にある「日文研」なるところであります。(とはいえ、今はほとんど行ける状態にありませんが…。)

それから、ただいま私は通院中であり、薬物服用中の身の上であります。主治医には「大きく言えば鬱病。細かく言えば神経症的鬱状態」と診断されております。そうして、それが起因となって様々なる症状(不眠症、自律神経失調症、頭痛など)に、悩まされて毎日を過ごしている有様。いきなり「死にたい」モードと書き始めてしまったのも、みなこれが起因なり。

とはいえ、私は本当に重い「鬱病」「不眠症」の方々に比べると、「鼻くそ」ぐらい軽症な方です。「私なんぞに、そんなこと言われたかないね」ときっとそういう方々は怒りを感じるでしょう。平にご容赦を。その上、これでもかなり回復してきている状態なのです。

そこで、ここに書き込みを始めることとなった経緯を簡単に記します。

症状のひどかった時は、私は人間の皮をかぶった「原生動物」でありまして、「思考」と言う事は出来ずただ転がっていただけでした。こうやって思考しながら現状を言語化し、ぶつぶつ愚痴ると言うことが出来るようになったのが、回復の一歩でありまして、その愚痴メールを不肖の弟子は、主治医まで紹介して下さった師匠に送りつけ始めたのでした。

師匠はそこで提案して下さりました。こうやって言語化し、文章化することは、私の「社会復帰へのリハビリ」になるのではないか。これをホームページに掲載して「リハビリ」してみないかと。誠に懐の大きいあったかい有り難い師匠様であります。

そんなこんなで、小川はこれから「リハビリ」と称して、浮き沈みの非常に激しい毎日を、断続的に書き込みすることになりました。

今でもいつ「原生動物」に戻るか分かりませんし、支離滅裂な破綻した文章になることでありましょう。しかし、何故かくなる事態に陥ってしまったのか、ゆっくりこれまでを振り返り自分の位置を確認していく作業を、この場を借りてさせていただきます。

とここまで書いた時点で、今日は力つきてしまいました。

今日は診察日。今まで主治医の顔を見ると「ほっ」として、結構癒されて帰ってくるのですが、通院し始めて今回初めて、さらに気分が沈んで、帰り道に「死にたい」と思いだし、帰ってからも「生きる価値なし、さりとて死ぬる価値もなし」とぐるぐる瞑想(迷走)。

胃はしくしく痛むし、頭はがんがん痛むし、最悪状態なので、思考停止。