この記事は【無理のクマさん】連載3本中の3本目です。
 1本目は「シュレック氏との出会い」で http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/12/12_0852.html

 2本目は「クマの出没を地形で考える」で 
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/12/13_0759.html
よろしかったら、これらもお読みいただけると幸いです。

 インバウンド型と難民型

 前回までの現状認識の上で、クマ対策を考えてみました。報道を見ていると、
人里や農地に現れるクマには2つのタイプがあると思われます。仔熊などが好奇
心から人里に出てきたり、人間の食料の味を忘れられずに畑に現れたような連中
で、わざわざ積極的に山を下りてきた、いわばインバウンド型のクマです。
 おそらく人類が集落を作っ以来ずっとあった事で、ごく一部の人食い熊以外に
は、鈴やロケット花火による威嚇が十分通用しました。最近までは、街で捕まっ
たクマも人間を襲った場合以外は山に返すことが多く、駆除されることは希でし
た。
 ところが、ここ数年。個体数が増えすぎたため生存競争に破れて山を追い出さ
れた、いわば難民型のクマが激増しています。彼らは人間よりも他のクマの方が
よほど怖いので、普通の威嚇は効果がありません。なんとか人里で生き残ろうと
しますから、山に返してもすぐ降りてきます。
 難民型が増えたせいで、東北や北海道では、今では人里でみかけた段階で問答
無用で駆除になります。ただし、同じツキノワグマでも絶滅が心配される四国で
は保護に重点がおかれ、駆除は極力さけるられています。
 従って早急に議論すべきなのは、クマが急増したレッドゾーン内の難民型のク
マについて、「原則保護・例外駆除」という考え方が、どこまで通用するかにつ
いてです。最初に両極端な意見を見てみましょう。
 まず、「野生の熊なんか絶滅させてしまえばいい」という乱暴な意見がありま
す。レッドゾーン内の住人にとっては、確かな安全が永久に確保できる究極的解
決策と言えます。
 逆に、「かわいそうだから狩猟も駆除もやめろ。クマの出るような場所には住
まなければ良い」という極論もあります。確かに、愛くるしい小熊たちと、知り
あいでもない住人たちとを比較すれば、西日本や首都圏にはクマの味方をしたく
なる人も一定数いるでしょう。心情的には理解できる部分もあるのですが、こう
いうのは善悪よりも美意識(「カワイイ」も含む)を優先する一種のルッキズム
なのでしょう。
 美意識がやっかいなところは、善悪の判断や損得勘定さえも簡単に超越してし
まうとことです。「良い○○人も悪い○○人も殺してしまえ」などというのもこ
の一種でしょう。対応策は、「投票など何か政治的・社会的選択をするときに、
自分が何かのルッキズムにとらわれていないかチェックする習慣をもつこと」と、
「他人がルッキズムで暴走する可能性を常に考慮して、挑発に類することをしな
いこと」ぐらいしかありません。
 ある種のフェミニストなどがやりがちなことですが、上から目線の論理や倫理
でルッキズムを批判しても逆効果にしかなりません。善悪と美醜とは相互に独立
した価値なので、いくら誠実に議論しても(珍しいケースですが)、話が堂々巡
りしてお互いに釈然としない感覚だけが残りだちだからです。相手の美意識を尊
重した上で、「それにとらわれすぎると多くの不幸と分断を生み出すこと」を説
明し、妥協点を探すより仕方ないでしょう。
 たとえば、若い女性の部下だけをチヤホヤする男性上司には、彼の感性自体は
否定せず、「そうした振る舞いは、仕事の効率を下げ、その部下を含む多くのメ
ンバーを不愉快にする可能性が高い」ことを、冷静に説明していくのが上策でし
ょう。職場では効率を低下させることは悪ですから、この部分は合意できるはず
です。

ルッキズムは永遠に不滅です,村山恭平,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2024/10/20_1504.html

 ゴキブリ退治と絶滅論

 話がそれました。クマ対策について両極論の間には、いくつかの「現実的だ」
とされている意見があります。整理してみましょう。

1.一定数の個体を飼育し、残りの野生のクマは絶滅させる
2.人里や農地に現れたクマは駆除し、山では狩猟を行い個体数を減らす。
3.人里や農地に現れたクマは駆除するが、狩猟は行わない。
4.クマは一切殺さず、人間の側が逃げる。

 軍事的な表現に直せば、1は全面戦争、2敵基地攻撃、3は専守防衛、4は撤
退戦ぐらいになりそうです。順に見ていきましょう。
 まず1の熊絶滅論は全く無意味。不可能だからです。うちの名物、北陸新幹線延
伸問題なんかでも見てきましたが、技術的に(実質)不可能なことを議論しはじ
めるのは、思考実験としては面白い(例.富士山は移動できるか?)かも知れま
せんが、政治や経済の場では時間の無駄でしかありません。
 クマ絶滅論はゴキブリ退治と全く同じ発想です。たとえば飲食店は、できれば
ゴキブリなど絶滅させてしまいたいのですが、ほとんどうまくいきません。いわ
ゆる三つ星フレンチの厨房でも深夜には......という実態がある一方、客の前に一
匹でも現れたら、店によっては致命傷になります。だから経営者には絶滅が悲願
なはずなのに成功例は皆無です。厨房を一度取り壊して作り直すのが唯一の方法
でしょう(半年もすれば元の木阿弥ですが)。
 クマで言えば山脈全体を焼く払うぐらいの話です。ヒグマを倒すために、北海
道の全ての山・森林・農地を一気に焼き尽くす......大量破壊兵器でも使わない限
り無理です。
 では、人海戦術で殲滅するというのはどうでしょうか。たとえばヒグマなら北
海道全体を完全包囲しなければなりません。山奥で悠然と暮らしている大型のヒ
クマが、身の危険を感じて大量に人里に向かいかねないからです。
 もちろん猟友会だけでは手が足りませんので、警察や自衛隊......まだまだ不足
します。米軍に加え、中ロ朝韓、ついでにASEANやらEU各国にも援軍を求めましょ
う。オール人類による北海道ヒグマとの戦い......考えるだけ無駄です。これに限
らず技術的に考えれば、絶滅論は現実的な話にはならないのです。環境保全や動
物愛護を持ち出すまでもありません。

弊害の多い狩猟

 では、2つめの「敵基地攻撃モデル」はどうか。今でも各地の猟友会は従来の
害獣駆除だけで手一杯でしょうから、陸上自衛隊にということになります。防衛
省関係者からは「銃剣で戦うぞ」とか、「攻撃ヘリから対戦車砲をぶっ放せ」み
ないなヨタ話(もちろん本気ではなく、何でもかでも自衛隊に押しつけることへ
の嫌味)が出ています。
 兵器とはあくまで人を殺したり建物や乗り物を壊したりするたの道具で、動物
相手には向きません。別途、必要な数の猟銃と十分な訓練が兵員には必要です。
やり過ぎて、「自衛隊は対クマ戦は強いが、普通の戦闘はすっかり忘れた」、な
どとならないか心配です。少なくとも猟銃に慣れ過ぎると、ライフル射撃の勘が
狂うのではないでしょうか。シュレック氏の話では随分体感が違うようです。東
京五輪の射撃の予選に出はったのですが、警察・自衛隊とは勝負にならなかった
そうです。
 もう一つ、仕留めた死骸はどう処理するのでしょう。山林や急斜面での運搬、
自衛隊に応援を求めるのならこの仕事が最適だと言われていますが、人数が足り
るとは思えません。300kgを越えるような個体は、平地でも運ぶのに4~5人がかり。
藪の中を時には数キロ運ぶ。かといって現場で解体すると、血の臭いに他の熊が
集まってきます。死骸や骨を現場に放置するなどもってのほかです。共食いとは
いえ、おいしくて栄養価の高い餌を与えて、クマたちに肉食化教育をすることに
なります。
 さらにもう一つ付け加えるならば、人里での駆除によって新鮮なクマ肉が大量
に出回る状況では、狩猟によるジビエビジネスには競争力がありません。公費に
よるガバメントハンターということになりますが、人工減少・少子高齢化・財政
悪化の三重苦が特に厳しい地方で、どれぐらい回せるのか心許ない話です。

 現状維持どころか後退戦

 結局、害獣駆除の考え方で「出てくるクマは、皆々倒せ」の対症療法しかなさ
そうです。3.の専守防衛の考え方ですが、このままでは現状維持すら相当難しそ
うです。東北・北海道地方の中小都市では、この問題が起こる前から急激な人工
減少に悩まされていました。徐々に耕作放棄地や廃墟が増え、周辺には柿・栗な
どがの果樹が収穫されることもなく放置されています。格好の環境です。食住環
境が良くなるのですから、狩猟で頭数調整をしないかぎり、レッドゾーンのクマ
は確実に増殖することになります。
 ところが狩猟や駆除を支える猟友会員は激減しています。免許をとり、自宅で
銃を厳重に管理し、危険をもろともせず、ひがな一日山野を駆け回り、ちょっと
した事故で前科がつく世界です。多くの若者が仕事はもちろん趣味としても、今
後狩猟を始めることはなさそうです。猟友会が弱体化すれば、狩猟どころか駆除
の数も減らさざるを得ません。
 防衛ラインがどんどん後退し、最終的には居住を断念する4.全面撤退になる集
落が、増えてくることになります。高齢化と人工減少による地域崩壊にクマが拍
車をかけたという事になりそうです。駆除も長い目で見れば時間稼ぎに過ぎず、
少子高齢化が進む日本人が繁殖意欲旺盛なクマに勝つことは、本質的に無理なの
ではないでしょうか。

 撤退論を考える

 私の提案です。まず、猟友会にしろガバメントハンターにしろ、狩猟のような
効率の悪いことはせずに駆除に徹することです。そして市町村ごとに、市街地な
ど確実に駆除を行うゾーンと周辺農地など可能な限り駆除を行うゾーン、そして
それらの周辺に位置する中間ゾーン、さらに放置する山林ゾーンに分けて管理す
ることです。
 必要なのは、最初に駆除の能力を見積もって、その範囲内でゾーンを決めるこ
とです。猟友会側で最大守れるエリアを指定してもらい、「守るべきエリアでは
なく、守れる大きさのエリア」ということになります。その範囲に限定しないと、
「うちの村も」とか「私の畑も」という正当かつ切実な要望が止めどなく集まり
ます。全てを受け入れてゾーニングをすると駆除の手が回らなくなり、隙をつか
れて市街地にまでクマが侵入してくることになりかねません。
 そうなると余計に街の活力の低下と住民の流出がおこり、市町村単位でコミュ
ニティーの維持が難しくなり、駆除に避ける人員も手薄になり、クマの出没が増
えます。さらに住民が流出するという悪循環に陥り、役場と住民票を残して市町
村が消滅するということになりかねません。
 逆に強引な政治力の行使か民主的な熟議(と言う名の強引な政治力の行使)か
は知りませんが、クマの侵入を防止できるゾーニングが完成した市町村は、近隣
からの住民も流入し、しばらくの間はコミュニティーを維持できます。けれども、
我が国の平均的な出生率を大きく越えるベビーブームがその街で10年以上続か
ないと、容赦なく人口減少と少子高齢化が進行して、一度持ちこたえた街も衰退、
消滅の途をたどることになります。
 つまり、限界集落の限界をクマのパワーが破ってしまったということです。さ
らに猪・鹿・猿など他の害獣が増え農産物などの被害も増えます。疲弊した地方
都市は、一度でも地震・風水害・山火事などで、コミュニティーに大きなダメー
ジを与えられると、そこから回復する余力があまりにも少なく、ちょっとしたこ
とでも致命傷になってしまうのです。
 なんとも気の滅入る話ですが、現実から目を逸らした政策は長期的にはかえっ
て状況を悪くします。たとえば、警察・自衛隊などの人員に過剰なリスクや負担
をかければ、本来の業務の空洞化、士気の低下、就職希望者の激減、などという
形で、時間稼ぎの成果を大きく上回る弊害が発生します。
 勝ち目のないことを受け入れながら知恵をしぼって撤退する......気勢の上がら
ないプロジェクト(「プロジェクトX」の題材には最も不適)、もしかしたら日
本人には最も苦手なことなのかもしれません。長屋の隅にころがっている3年前
のあの本が、行政をあずかる人たちの教科書になる日も遠くないでしょう。

 撤退論――歴史のパラダイム転換にむけて,内田樹編,https://www.shobunsha.co.jp/?p=7075

 この記事は【無理のクマさん】連載3本中の2本目です。
 1本目は「シュレック氏との出会い」で http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/12/12_0852.html
よろしかったら、こちらからお読みください。

 シュレック氏との経験をもとに、今年(2025年)の大事件になりましたクマの
大量出没とその対策について考えてみました。
 まず、出没の場所ですが、北海道と東北地方が大部分で、それに北関東甲信越
と北陸・北近畿(滋賀・京都)と続きます。クマが激増しているこのエリアをレ
ッドゾーンと呼ぶことにしましょう。
 国内で他に生息が確認されているのは紀伊半島・中国・四国ですが、人との遭
遇が少なく人的被害もごく少数です。また、九州では絶滅が確認されています。
クマの存在密度は山林の深さに関係しているように思います。私なりに整理すれ
ば、「クマは山脈に連なる地域で増える」ということになります。
 少し解説をしましょう。山の多い場所は次のいずれかです。山脈・山地・連山
です。学問的な定義ではないのですが、こう整理して覚えておくと便利です。山
脈とは大地のシワです。急な斜面と尖った峰筋が一直線に細長く続きます。川も
それと平行に走り支流はあまり発達しません。
 大雑把に言えば、下から河川敷・農地(村落・市街)・里山・山林・峰の順に
川と平行にそれぞれが細長く並ぶことになり、自動的にクマと人とのゾーニング
ができている環境と言えます。山林も農地も長々と続くので、移動するときクマ
も人も相手のテリトリーを通る必要がありません。
 こうした地形が出来やすい典型的な(小学校の教科書にあるような)大山脈は、
国内に5本しかありません。すなわち、日高(北海道)、奥羽(東北)、木曽・
飛騨・赤石(中部)で、全てレッドゾーンのほぼ中心に位置しています。
 次に、山地ですが、そのほとんどは山脈のなれのはてで、風化によって山が削
られて低くなり、川や谷筋が発達してネットワーク状になったものです。さらに
風化が進んで凸凹がすり減って、頂上に平地が残るのっぺりした広大な台地が出
来ることがあります。これを高地と言います。傾斜が緩いので集落や農地が峰の
すぐ近くにまで広がっています(棚田や段々畑など)。杉・檜の植林も古くから
盛んに行われており、自然林が少なく熊の餌になるトングリ類はあまり落ちてい
ません。近くの山脈にある本格的な山林と行き来できるような場所(たとえば夕
張山地、阿武隈山地、関東山地)以外では、今のところクマの急増は見られてい
ません。
 連山というのはあまり聞かない言葉ですが、狭い地域に同時多発した兄弟火山
のグループを言い、多くの場合、一つ一つの山々は独立しています。また、火山
の大部分は火山灰や溶岩だけでできていますから、水はけが良すぎる上に土がや
せていてドングリなる木はあまり生えておらず、標高が高くても火山はクマにと
って魅力のある山ではありません。たとえば富士山の裾野にもクマはいますが、
個体数も少なく被害の報告はあまり聞きません。

 九州では絶滅したクマが四国にはいる理由

 国内各地での地形とクマとの関係を見てみましょう。
 九州は意外なほど大規模な山林の少ないところです。標高1800m以上の高山の
大部分は、屋久島内か九重連山かにあり、いずれも火山です。それ以外でも雲仙
・阿蘇・霧島・桜島と九州の高山はほとんどが孤立した火山で、しかも爆発噴火
型やカルデラが多く、富士山のような巨大な山はありません。山脈状の地形は熊
本・宮崎間に少しあるだけで、そこにも1700m越えの峰はありません。東京都内
にすらこれらより高い山は10座以上あります。
 九州ではかなりの山中にまで耕地が広がり植林も盛んです。人工林では餌にな
るドングリ類が極端に少なく、人間から隠れられる場所もあまりません。おそら
くそのためでしょう、戦前のうちに野生のクマは絶滅しています。
 一方、四国には、西日本最高峰の石鎚山をはじめ1900m越えの山だけでも、
4座もあります。活火山はひとつもなく山脈状の地形で多く広葉樹林が発達して
います。もちろん、ドングリを落とす広葉樹の原生林も潤沢に残っています。
 だから、本州のツキノワグマとは何世紀にもわたって行き来がないはずなのに、
今でも四国の中心部には数十匹の集団が残っているということです。この数なら
突然の餌不足もおこりにくく、食い詰めて人里に降りてくる個体も皆無でしょう。
そのため、今のところ熊鈴などの普通の対応で十分で、むしろ絶滅が心配されて
います。
 では本州のツキノワグマの分布はどうなのでしょうか。本州全体は地続きなの
で、すべての集団に交流の可能性がありますが、現在のところ数十の集団に分か
れているようです。ちなみに淡路島や佐渡島などの離島には、野生のクマは一頭
もいません。
 本州の各地域を簡単に具体例を見ていきましょう。
 まず、確実に孤立していると思われる小集団が紀伊半島にいます。本州で唯一、
太平洋ベルト地帯の南側にいる数100頭規模の集団で、四国と同様こちらも今のと
ころ大きな被害が出るほどの急増はおこっていないようです。
 次に、山口県・広島県西部・島根県西部からなる中国地方西部、こちらの集団
も頭数の推計は発表されていませんが、今のところあまり大きな被害は出ていま
せん。このエリアでは、今年(2025年)に入って目撃数が減少していることも報
告されています。
 西南日本にある以上三地域のクマたちは、今のところあまり問題になっていま
せん。さて、残りの青森から島根東部までつながる広大な地域をレッドゾーンと
一括りにして扱ってよいかどうか、私には判断がつきかねていますが、細かい分
析をしたところで意味はあまり無いでしょう。大部分が過疎地で山脈・山地の割
合も高いので、今後、熊の数が増えていけばクマの移動と交流がおこり、地域全
体が一体化してしまう可能性が高いからです。
 以上まとめると、国内のツキノワグマの集団は、小さい順に、「四国」「紀伊
半島」「中国地方西部」そして「北陸・関東・東北にまたがるレッドゾーン」の
4つにあるということです。このうち、個体数が激増していて今大問題になったの
はレッドゾーンだけです。言い方を変えれば、「太平洋ベルト地帯の北側の過疎
地」それも人口減少と高齢化が激しい場所ばかりです。耕作放棄地や収穫されな
い果樹が増加していそうなエリアでもあります。
 ではもうひとつのクマであるヒグマはどうかなのか、実質的に北海道全域が1つ
のエリアです。かなりの頭数が札幌にまで出没しているのですから、北海道本島
内にはヒグマの来ない場所はないと考えられます。一方、利尻島や礼文島などの
離島や、北方領土のうち歯舞諸島・色丹島にはいないとのことなので、北海道本
島全体をレッドゾーンに追加しました。

 クマ出没マップ,汎用投稿システム Sharp9110,https://public.sharp9110.com/view/allposts/bear

熊出没データを解析してみた(1/3) 熊の出没,おぴ, https://ops-system.net/blog/archives/473

 生き物通信21,大西尚樹,https://www.ffpri.go.jp/thk/research/publication/ffpri/documents/kikanffpri-19_26-27.pdf

 同時に急増したことの謎

 ところで、ヒグマとツキノワグマとはクマの中ではかなり遠い種類(混血はし
ない)なのに、同時期に出没が急増したのはなぜなのでしょう。ドングリの豊作
と凶作の周期が短くなり、この10年ほどはほぼ一年ごとに豊凶を繰り返している
ことが原因のようです。豊作の年に出生数が増加し、翌年の凶作で人里に出没し
た。これまでのように3~4年に一度だけ豊作があるのなら、豊作の時に一時的に
個体数が増えても、翌年から2~3年の間に淘汰されるので、急増は起こりにくい。
という説が有力です。
 よくできた話ですが、なぜ豊凶の周期ができるのでしょう。これは豊作のあと
は「種子の生産のために消費する樹体内の養分を回復させる」まで凶作が続くが、
近年の温暖化で回復までの年数が短縮した」という説明がなされることが多いの
ですが、では、気候も日照時間も違う場所に生えている膨大な数のドングリの木
が、北海道から山陰までのレッドゾーン内で、なぜ一斉に豊作になるのか不明で
す。有効な熊対策をするためには、今後ぜひこの部分を解明しておく必要があり
そうです。

近年、クマ被害が急増している理由 気候変動による影響は?,ウェザーニュー
ス,https://weathernews.jp/news/202511/050146/

 ただし、根本的には日本ではヒトが減っているため、一時的なクマの急増を押
し返せなくなっているということが大きな要因です。実は、こうした現象は2年
前に予言されていました。

「これまでは里山が野生の力を押し戻して、『ここから先は人間の領域だ』と宣
言していたのですが、里山が過疎化で痩せ細ってきて、野生を押し戻す力が弱ま
っている。都市部に熊や猪や鹿が入り込んできて、街中で人的被害が出るという
ことも遠からず起きると僕は予測しています。」

内田樹「人口減の日本は〈都市集中〉に舵を切った」そこまでして資本主義の延
命を図らなければならないのか?,婦人公論.JP,https://fujinkoron.jp/articles/-/7703?page=2

 大きな構造の中で考えなければならない話なのですが、現状の対策は、「とり
あえず人里に出てきたクマや人間に危害を加えたクマを駆除する」ということに
徹しています。電気柵やロケット花火などを使っての追い返しも行われています
が、やはり駆除が対策の中心です。このあと(特に来春の冬眠開けや再来年に予
想されるドングリの凶作時)どうするのか。さらに、これから最低数十年は続く
と言われる人口減少下で、どうしていけばいいのでしょうか。

 ある日。冬の朝。ドアを開けると生臭い風。ポーチのタイルには薄赤い水滴が
飛び散っています。出所はドアノブにかけられたコンビニのレジ袋。中には何や
ら内臓めいたものが入っています。今もし、こんな猟奇じみたことがおこれば、
即110番通報です。でも、30年前の田舎暮らしは呑気なものでした。
 「ごちそうさん。でも、驚いたで」
 「朝5時やったから、起こしたら悪いと思ってな。大物の猪がかかったから、し
ぇんしぇ(先生)にお裾分けや。けど、生で食べたらあかんで......虫わくで」
 電話の相手は知り合いの猟師さん、猪が専門ですが鹿やアナグマも仕留めます。
オフシーズンには副業の建物解体をしておられます。なにしろ、ちょっとした木
造家屋をバール一本で解体してしまうお方で、うちの家族はシュレックさんと呼
んでいました。
 思えば不思議な御縁でした。知り合ったきっかけは、わが四女が空き地に繋が
れた2頭の若い紀州犬に、ちょっかいを出したことです。大型犬に目がない私も
参入し、このワンコたちと親子で遊ぶのが保育園帰りの日課になりました。その
うち、シュレック氏から「そんなに好きなら、ときどき散歩に連れて行ってくれ
へんか」「餌やっておいて」などと頼まれ、娘共々お世話を手伝うことになりま
した。
 二頭は兄妹で、訓練中の猟犬でした。人間でもよくある話ですが、兄貴(ヨシ
オ)は臆病で、猪を見ると震え上がってしまい、シュレック氏の足下から離れ
ようとしないそうです。妹(グー)の方は出来が良く、猟の手伝いのようなこと
を、半分仔犬のころからやっていました。ただ、彼らも猟期以外は普通のワンコ
なので、シュレック邸の横の空き地に繋がれていて、私たちに出会ったわけです。
 お世話のお礼は、様々な山の幸でした。松茸もありました。猪レバーも玄関先
に吊されるたわけです。ヨシオとグーは、その後わが家で引き取り15年にわた
って付き合うことになるのですが、その話はまたいつか機会があれば書くことに
しましょう。

 淡路島遠征

 夏のある日、シュレック氏から電話です。「しぇんしぇ(先生)。明日、淡路
島に行かへんか」「はあ、淡路ですか?」「そや。鹿狩りや。夏鹿は脂が乗って
てうまいで」「仕留めたやつを、トラックまで運ぶの手伝ってくれ」
 暑い盛りは禁猟なのですが、農業被害が深刻とのことで、季節はずれの駆除の
仕事が、はるばる紀伊水道を渡ってシュレック氏にまで回ってきた訳です。弟子
たちは皆仕事があって行けそうもないので、夏期休暇中の教員(当時は暇でした)
の私が指名されたわけです。現場は洲本や鳴門のリゾートホテルに近く、新鮮な
ジビエを持ち込めば結構な収益があるとのことです。でも、鹿を仕留めて私に運
ばせるより、私を仕留めて鹿に運ばせたほうがよほど効率的でしょう。さすがに
固辞いたしました。
 後日聞いたところ、仕方なく鹿の耳だけを切り取って駆除完了の証拠として役
所に持っていったとのこと、それ以外の部位(ほぼ全身)は現場に放置。狐狸や
トンビの御馳走になったのでしょう。
 ジビエというものは、仕留めた瞬間に危険な野獣から鮮度管理の難しい巨大な
食材になります。すぐに作業場に運ぶか、逆に食肉加工業者を現場に待機させて
おき、最低でも血抜きっだけはしておかないと、臭くて使い物にならないそうで
す。そのため、輸送手段がない現場では、もったいないけど放置は仕方ありませ
ん。
 こういう話をすると、「食べないなんて、命の大切さが分かっていない」とか
おっしゃる方がいますが、そんなに命に拘るのなら、狩猟なんかやめるべきです。
肉食もやめましょう。ついでに生きること自体やめませんか。人間、いや全ての
動物は他の命を犠牲にすることで自分の命をつないでいます。けれどもその命も
いずれ消えていきます。生きること自体が残酷で身勝手で、かつ無駄なことなの
です。
 「いただいた命」なんて言い方、鳥肌モノです。あなたは猪に「お命頂戴しま
す」と頼んで承認されましたか。一方的に殺した相手に謙譲語を使って、何か意
味のあることをした気になる......感動ポルノにもならない、贖罪自慰。「あなた
の命をいただいてよろしいでしょうか」。黙っていきなり「いただく」のもあり
です。
 繰り返しになりますが、私たちが生きること自体が残酷で身勝手で、かつ無駄
なことなのです。そのことを自覚して、ときに自己嫌悪に陥り、ときに誤魔化し、
ときに開き直りながら生きる。結局それしかないわけですから、あまり見苦しい
ことや、はた迷惑なことはやめておきましょう。

 駆除と狩猟は別物

 シュレック氏からは他にも猟についての面白い話をたくさん聞きました。山に
入ったら、まず目標とする大物を決めて、そやつの行動パターンを調べます。専
門用語でストーキングと呼ぶそうです。そして罠を仕掛けるか犬と猟銃で仕留め
るかなどと作戦をたてます。ときには、ストーキングだけで何日もかかるそうで
す。
 特に狙いをしぼらずに歩き回って、出会った猪を撃つということもあるのです
が、日によっては一頭もかからないこともあり、まあ中級品が2~3頭獲れれば
上出来とのことです。
 これを最低でも2~3名一組で行うので猪猟はとても採算が悪く、自他とも認
める泉州一の鉄砲打ちのシュレック氏でも、これだけで生活することは不可能で
す。だから、日本国内の猟師さんはほぼ全てアマチュアであり、基本的に趣味の
集まりである猟友会が地域を害獣から守っているのです。
 最近の狩猟では、近くに建物や道路などがあるため銃が使えないこともありま
す。罠が使えれば一番楽なのですが、お目当ての猪がかかるとは限りません。ア
ナグマやタヌキが入っていることもよくあり、何かが捕まっている間には罠は機
能しません。結局、野原で犬に追いかけさせ、人犬団体が集団で襲いかかり猪が
動けなくなったところで、シュレック氏がナイフでトドメを刺すという、縄文時
代となんら変わらない手法になります。
 犬たちも無事では済みません。死に物狂いの反撃を受け、牙で腹を割かれたり、
跳ね飛ばされて大木や岩に激突したり、泥沼に押さえ込まれて溺れたりで、チー
ムシュレックでは猟犬のシーズン戦死率が50%越えのことがあり、例年犬を貸
し出している紀州犬保存会の会長さんをあきれさせたこともあります。
 シュレック氏は、自分の犬を殺した猪(大物が多い)は「絶対に忘れずに敵を
とる」と息巻いていましたが、どう考えても相手の猪の方が正当防衛です。でも、
犬好きの私もこちらに同調してしまうのですから、みんな身勝手なものです。案
外、絶対に猪を追わなかった我がヨシオが一番、正しくマトモだったのかも知れ
ません。

 本当は恐ろしい害獣駆除

 農作物被害の防止などで、街や里山に現れた猪を殺すことを害獣駆除と言いま
す。ジビエの入手はオマケみたいなもので、あくまで目的は殺すことです。場所
は主に里山や村落なので道路網も発達していて、猟師の移動、罠の輸送、処分後
の運搬。どれひとつとっても、山中での狩りとはえらい違いです。狩猟がアウェー
ゲームなら駆除はホームゲームです。
 けれども、害獣駆除には狩猟にない残酷さがあります。たとえば食肉目的の狩
りでわざわざ瓜坊(イノシシの子供)を狙うことはありませんが、害獣駆除では、
どんな幼獣でも罠にかかったら容赦なく処分することになります。
 以前、罠にかかった瓜坊に授乳している母猪を、ナイフの一撃で仕留めて喜ん
でいるシュレック氏を見たことがあります。子供の方は連れて帰って少し育てて
から、若い猟犬の練習台にするそうです。瓜坊と仔犬、最初はじゃれ合っている
ようですが、犬の方は育つにつれて野生に目覚め、少しずつ攻撃がエスカレート
して最後は殺してしまうそうです。理不尽なイジメや仲間内での暴力を容認する
ことで、野蛮さを引き出していく......なんだか、旧日本軍の新兵教育みたいです。
 我がヨシオ君は、いくら瓜坊をけしかけられても野生に目覚めることはなく、
逃げてばかりだったそうです。シュレック氏の話では、何匹かに一匹こういう
「出来損ない」がいるとのことですが、これが遺伝によるものなら紀州犬はよほ
ど人間より上等のDNAをお持ちだということになります。攻撃性が一斉に発火する
集団では、負け戦はしばしば全滅を意味します。実は、全体の士気を下げ統制を
乱す個体は、出来損ないどころかその種にとって貴重な存在なのです。
 話がそれました。害獣駆除は狩猟とは比べものにならないぐらい、安全で効率
の良い仕事です。深山に分け入って獲物を探したり分析したりする必要は全く無
く、農地や里山でウロウロしていたり罠にかかったやつを仕留めれば良いのです
から。今問題になっているヒグマやツキノワグマでは、この差は猪よりさらに大
きくなりまするでしょう。重量も危険性も桁違いだからです。

「殺すぞぉー」ドスのきいた体育教師の声が、体育館に響きわたりました。開
口一番これですか。「ええか、これから村山先生の講演があるから、静かに聞く
ように。わずか15分や。これしきのことに耐えられんようでは、どんな現場も
務まらんぞ」......忍耐力鍛錬のために、全校生徒は私の話を聞かされるのでしょ
うか。「もうひとつ。三年生男子、くれぐれも去年のようなことがないように。
危険極まりないし、だいいち先生に失礼やろ。」......何があったんです。「しつ
こいようやけど、死んでもしゃべるな。その代わりな。15分を1秒でも過ぎる
ようなことがあったら、わしの出番や」......過ぎません過ぎません。カジュアル
に「殺す」の「死ぬ」のが出てくる修羅場で、何をどうしゃべったのか覚えてい
ませんが、10分ほどで切り上げ、逃げるようにして職員室に駆け込みました。
 もう30年以上前の話ですが、当時は教育現場でそれもかなり公式の場で「殺
す」とか「死ぬ」とかの言葉が使われていました。もちろん、ただの比喩だとい
うことが全員にわかっているのですから、誰も問題にもしませんでした。
 それから数年後、娘たちが通った地域の小学校で自分の研究の一環として、ゲー
ム機を使った自習用のネットワークシステムを開設しました。メーカーから機材
を無料提供されての結構本格的なやつです。結構人気が出て、放課後、私の作っ
た拙い計算ゲームにまで、何人かのマニアまで生まれました。
 ある日、下校時間にマニア君のひとりが、続きやりたいからマシンを「持って
帰っていいか」と、いたずらっぽい顔をして言うので、「殺すで。家では家のこ
とをしとき」と軽くたしなめると、「やっぱりそうですよね」と頭をかきながら
帰って行きました。
 片付けを終わって帰ろうとすると、たまたま横にいた教頭先生から「殺す」は
やめてくださいね。と深刻な顔でわざわざ注意されて驚いたことがありました。
もちろん、誰にも殺意なんかあるわけないですし、冗談以前の軽口だということ
も明白、言われた子供も傷つくどころか意にも介してなさそうでした。ちなみに
その子は何事もなく翌日もやってきました。
 確かに品のない表現だったことは認めますが、どう考えても暴力的な話ではな
く、誰も傷つかず、しかも真意(この場合は、「学校の備品を持ち帰ったらだめ
でしょ」)はちゃんと伝わっているのです。それを、命の大切さと絡めた文脈で
批判するような文化が発生しだしたようです。文脈を無視して、死とか殺とかの
文字がはいる表現は全部だめだというのなら、「死にそうに忙しい」とか「黙殺
する」とか「併殺打」とかもいけないのでしょうか。

言葉尻の言葉尻を捉える方法

 BS朝日の報道番組「激論!クロスファイア」が終了しました。報道によれば、
「高市早苗氏の選択的夫婦別姓に対する否定的な姿勢について、ゲストの辻元清
美氏、福島瑞穂氏が批判。その後、田原氏が『あんな奴は死んでしまえと言えば
いい』と発言した」のが原因のようです。メディアによっては「大暴言」とか
「モラル逸脱」とまで言われて批判されていますが、本当にそうなのでしょうか。

BS朝日「激論!クロスファイア」終了を発表 田原総一朗氏の発言「モラル逸脱」
 番組責任者ら懲戒処分,スポニチ,https://www.sankei.com/article/20251024-KGVSIC3IY5HAFBQU4HTXUNZUPA/

 言葉尻を捉えるという表現があります。多義的な言葉をわざと発言者とは別の
意味に解釈したり、比喩であることを無視したりして、意図的な誤解に基づいて
発言者を批判することぐらいでしょうか。
 例を挙げましょう。「言葉尻という表現はセクハラだからやめてよ」というや
つです。こういうときに「尻といっても、あなたの両足の間にある薄汚い穴の周
辺の事じゃなくて、言語解釈上の妥当性の話をしているのです。だから、この議
論にあなたの醜く歪んだ性感覚や陳腐で貧しい美意識を持ち込まないでください」
なんてやると、本格的な暴言になりますから、穏当に「揚げ足取り」と言い直し
ておきましょう。細かいニュアンスは違いますが仕方ありません。
 言葉尻を捉えることや揚げ足取りは、きわめて生産性の低い行為です。よくて
ただの時間の無駄。たいていの場合は、やったほうが顰蹙を買います。唯一効能
があるとすれば、相手のペースで議論が進みそうなときに、話の腰を折って流れ
を変えられることですが、これはボクシングで言えばクリンチのようなもので、
よほどうまくやらないと、論破の先送りにしかなりません。それどころか、せっ
かくのチャンスを逃すこともあります。
 有名な高市自民党新総裁の「就任スピーチ」で、「(自民党議員には)馬車馬
のように働いていただきます」と言ったことに対して、共産党の志位議長は、
「『全員に馬車馬のように働いてもらう』にものけぞった。人間は馬ではない。
公党の党首が使ってよい言葉とは思えない」と反論しました。典型的な揚げ足取
りです。Xの一般ユーザーが「じゃあ出馬もしないでください」と返されてしまい
ました。公平に見て、議長の一本負けでしょう。
 けれども、総裁の発言には問題はなかったのでしょうか。前後にあった「ワー
クライフバランスを捨てる」との発言との関連で、労働強化につながる発想だと
いう批判はあり売るでしょう。志位議長の批判もこの方向からなのですが、ほか
にも大きな問題があります。
 比喩としての馬車馬という言葉は一般の騎乗馬との比較で使われます。車を引
かされている馬は、急坂を駆け下りたり障害物を飛び越えたりは出来ません。た
だただ、目の前の道を進むのみです。だから、馬車馬という言葉は通常悪い意味
で使われます。つまり、何も考えずに、命令されたことをただただ実行するタイ
プの労働者のことです。
 目下の人間に「馬車馬になれ」という場合、二つの意味があります。ひとつは
「余計な判断はせずに言われたことだけやれ」という意味、もうひとつは単純に
「さぼってないで働け」というやつです。今回の高市新総裁はどうだったのでし
ょう。ほとんどの批判者は後者の意味にとっています。直前に「だって今、人数
少ないですし、もう全員に働いていただきます」とおっしゃっているので、まあ
妥当な解釈なんでしょう。
 けれども、今の自民党の危機の原因は、国会議員をはじめとする党員の怠慢な
のでしょうか。どちらかと言えば、裏金作りやら統一教会との関係やら、一所懸
命にいらんことをして国民の顰蹙をかったことが大きいのではないでしょうか。
 とすれば、総裁の発言には「これからは妙なことを考えずに党本部の指示にし
たがって動け」という含意があったのではないでしょうか。だとすれば、国民の
代表である国会議員に対して随分失礼な言い草です。志位議長はなんでこのあた
りを批判しなかったのでしょうか。「うちじゃ昔からやってるから」なんて言わ
ないでくださいね。

高市総裁の「馬車馬」発言批判の志位議長に 「では出馬もしないで」とツッコミ,
zaqzaq,https://www.zakzak.co.jp/article/20251006-5L3GTAIPLFBQRHMYZ7WUKYXWMM/


昭和と令和がクロスするとき

 さて、田原総一朗氏のケースです。一番詳細かつ正確に報道されていると思わ
れるサイトから引用します。

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福島氏は「今までの言動で、選択的夫婦別姓に反対で、ジェンダー平等にも後
ろ向きだと思っている」と高市氏の姿勢を批判し、「全く男性原理そのもので
(政治を)やるんだったら、女性であることの意味もないじゃないですか。だか
ら、やっぱり(選択的夫婦別姓に)賛成してほしいと思いますよ」とした。
田原氏は福島氏の発言に割り込むようなかたちで、「高市に、大反対すればい
いんだよ。なんで高市を支持しちゃうの?」と切り込んだ。辻元氏と福島氏が
「支持してないよ!」とすると、田原氏は「あんなやつは死んでしまえと言えば
いい」とした。
辻元氏が「田原さん、そんな発言して...高市さんと揉めたでしょ、前も」と
嗜めるも、田原氏は「僕は高市と激しくやり合った」と主張していた。

田原総一朗氏「あんなやつは死んでしまえ」発言、ネット民は「死んでくださー
い」発言のフワちゃん想起「この差はなに?」,Jcasニュース,
https://www.j-cast.com/2025/10/22508581.html
------------------------

 これ、暴言というより語彙の貧困じゃないでしょうか。「殺す」ではなく「死
んでしまえ」を使い、さらに「と言えばいい」と発言を他者に委ねる形にする...
...殺人教唆やら脅迫やらにしては、えらい腰の引けた発言です。要は、もっと
「大反対」しろと言いたいのですが、ほかにアイキャッチーな表現が見つからな
かったので「死」を使っちゃったということです。
 辻本さんにたしなめられてもきちんと対応できなかったのは、意地になってし
まったのでしょう。録画後の編集を当てにして気が緩んでいたのかも知れません
が、正直に言えば、やはりお年かなという気がします。
 もし、福島氏や辻本氏が「夫婦別姓を指示しないなら死んでしまえ」なんて言
ったら、高市さんだったら「そんなん言われんでも50年もしたら死にますがな。
あんたらも同じやろ」ぐらいの「答弁」はしそうです。なにしろ「お茶を飲む」
を「茶ぁしばく」、「食事をする」を「飯どつく」と言うこともある関西の言語
環境を3方とも、よくご存じでしょうから、うまく処理してしまうでしょうが、だ
れかがネタに回収できなかったらスベったまま収集がつかなくなるのが、今回の
田原発言なのです。
 あちこちで指摘されていることですが、この件の責任は田原氏よりも番組にあ
ります。録画なんですから、うまく編集すれば何事も無かったはずです。なぜそ
うしなかったのか。私には可能性が2つあると思います。ひとつは、辻本氏の窘め
が面白かったからです。党派を超えて窘められる司会者なんてあんまりいません。
 もうひとつは、ノスタルジーです。「出演者の中途半端な発言を煽って、より
過激な本音を引き出す」というのは、バブルを代表する硬派の深夜番組で「朝生
(朝まで生テレビ!)」で一世風靡した田原氏の十八番です。私自身、この発言を
最初に聞いたとき「懐かしい。田原さんらしいな」と思ってしまいました。「激
論!クロスファイアー」を見ている人の大部分は、朝生の栄光を知っていると思
われますから、番組担当者は「ちょっとばかり、昭和の(バブルの)香りをお茶
の間にお届けするか」などと考えたのではないでしょうか。そして、発言の平成
的な意味での不適切さが、令和のマスゴミ嫌いのSNS世論とクロスしてしまい大炎
上したわけです。

朝まで生テレビ!,Wikipedia,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E3%81%BE%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93
!


そろそろフラジャイルのついて研究しませんか

 セクハラやパワハラについても、大炎上が起こるのは、昭和の価値観と令和の
価値観が交差する場合です。悪いと知りつつこわごわやっているような事例は、
炎上などせずに、内々にか適正にか知りませんが処分されて終わりです。けれど
も、「コミュニケーションの一環だ」とか「俺たちもみんな経験したことだ」と
かを、開き直りではなく本気で言い出す加害者がいて、誰かがそれを拾い上げて
パスを繋ぐと大炎上劇場の始まりになります。
 まあ、今の日本人がなんとなく合意している価値観では当然のころでしょう。
けれども、潜在的被害者があまりにもフラジャイルに(傷つきやすく)なったり
して、みんなが防衛的になり、少しでもリスクのあることはしなくなるのが良い
とも思えません。
 もう20年前の話ですが、研究者としてのキャリアの最後で赴任した本務校では、
セクハラ研修を受けたのをきっかけに(念のため言っておきますが全教員向けの
研修です。私個人向けのものではありません)、それまでの勤務先とは明らかに
違う冷たい対応を学生にするようになりました。
 特に、女子学生には「男女が密室で二人きりになることはリスクのある行為で
ある。ほかの先生はどうか知らんが、私の研究室にひとりで来るときは、レイプ
される覚悟をしておくように。そうそう、最近はジェンダーフリーで芸域を広げ
ているから、本年度からは男子も同様である」などとゼミや授業で言い放ち、用
事のある学生とは事務室で会うようにしました。あるいはオンライン(当時はテ
キストベース)を利用しました。
 やってみると、これが楽なんですね。二人きりでないと出来ないような深い話
をシャットアウトできるからです。やるにしても、通り一遍の対応で済ませられ
ます。家族や友人関係のことなら「まあ、仲良くやりなさい」、進路のことなら
「頑張れ」でOKです。何年かこれをやると、以前のような濃厚な指導や相談は面
倒でもうできなくなります。
 心理学の故河合隼雄先生なら、「学生にレイプの覚悟をさせるのなら、教員の
方もレイプ冤罪の覚悟をしろ」とおっしゃるでしょう。まあ、幸か不幸かそれほ
どの思い入れを持てそうな学生とはついに出会いませんでした。
 話が「揚げ足取り」から随分離れました。「殺す」とか「死んでしまえ」とい
う言い方は、たとえ比喩であっても嫌がるひとが一定数出てきたの事実です。発
言者がAIなどを使って逃げてしまうことは可能でしょうが、これを際限なくや
りだすと基本的なコミュニケーションにも、いずれ支障が出てくるでしょう。そ
うなると必ず、「言葉で傷つくのは傷ついた方に責任がある。勝手に傷ついとけ」
なんて言い出すやつが出て来るでしょう。
 フラジャイル問題はどうやら先進国共通のようです。恐らく「人間とはどうい
う場合によりフラジャイルになるのか」とか「言葉で傷ついた人はどういう過程
で回復するのか」みたいな問題意識は、これから重要になると思われます。心理
学や言語学などの研究者に期待したいところです。

移民問題の本音

 嫌なニュースでした。後味の悪さではトランプ・ミャクミャク・熊・早苗、の四天王を押さえて、この夏一番だったと思います。
 JICA(独立行政法人国際協力機構)が、アフリカの4ヶ国と国内4都市をペアリングして国際交流をすすめる「アフリカ・ホームタウン」構想を今年8月に発表しながら、移民の大量受け入れにつながるとの批判を受け、9月に撤回してしまいました。
 昨今の排外主義化の一例とされそうな話ですが、この件は一方的にJICAの不手際と考えるべきだと思います。まず、あまりにも関係諸国、諸都市に対して失礼だからです。こちらから声をかけながら、移民に来て欲しくないという理由で一方的に話を壊したのですから、先方の担当者はかなり顔を潰されているはずです。もしかしたら、熱心な反日主義者の誕生です。
 一方、国内の都市では、「今の行政は市民に隠れて移民を大量に受け入れようとしている」との勘ぐりを受けました。自治体の側にそこまで遠大な計画があったとは思えないですが。これだけ話が広がってしまうと、日本人が排外主義的だとの第三国での評判も結構深刻です。
 つまり、「アフリカ・ホームタウン」は、構想結構な額の税金を使いながら、あちこちに迷惑をかけたあげく、成果どころか多額の「借金」を残して撤退したわけです。なんでこんなことになったのでしょう。

 ジャイカがわしい独立行政法人

 もともと、公益法人とか行政法人とかいう組織には、利権や腐敗の温床になりやすい構造があります。つまり、「本当に公益やら行政やらを実行するなら、選挙という統治が(曲がりなりにも)機能している国なり自治体に、なぜさせないのか」という疑問をどうしてもつきまとうからです。
 JICAの場合も、国際協力一般に関与する団体であり、ODAを事実上司り昨年度の行政コスト(予算?)が、約3000億円もある組織です。青年海外協力隊をやっていることでも有名です。独立行政法人とのことですが、何のために何から「独立」しているのでしょうか。世論から独立して官僚やOBの利権を守る組織......とまでは言いませんが、「感情的で無知な俗論から外交の専門家の判断を守る」ぐらいのイメージだと思うのですがいかがでしょうか。
 ただし単純にこうした発想を、傲慢で非民主的であると断罪してしまうことにも問題はあります。最高裁判所・日本銀行そして「今は亡き」日本学術会議など、世論と一定の距離をおくことで社会の安定を守る組織というのは、どんなに民主的な国でも必要ありそうです。JICAに関して例を考えれば、たとえばODAにふるさと納税のような制度を持ち込み、途上国どうしの返礼品競争になるのは、さすがに具合が悪いでしょう。
 けれども、意図的に世論から距離をおく組織というのは、戦前の統帥権干犯問題と同じ構造とメンタリティーがあり暴走する可能性が常にあるということは、当事者を含めて警戒をしておくべきことです。

 一発退場ホームタウン

 今回の「アフリカ・ホームタウン」構想がいきなり炎上したのは、JICAという組織のわかりにくさも根底にありそうです。特に移民労働者に対する態度が不明なことです。たとえば、ホームページに「NGO、民間企業、地方自治体等のパートナーと連携した活動や、日本に対する適正な労働者の送出しの促進を目的とした開発途上国と術協力事業の推進のために活用いたします」などというすごい言葉が出てきます。いつから「労働者」を途上国から受け入れを推進する国に、日本はなったのでしょうか。普通なら「研修」やら「高度人材」やらの言い訳を付けて書くところですが、ダイレクトに本音の?「労働者」という言葉を使っています。外国人労働者の受け入れの是非以前に、こんな大問題を平然と広報していられる組織が、何千億の税金を使っていることの方が恐ろしい気がします。
 ところが、「アフリカ・ホームタウン」構想撤回を伝えるページでは、「その上で(今後も国際交流を促進する取組を支援していく上で)、JICAとしては、これまで移民を促進するための取組は行ってきておらず、今後も行う考えはないということを、改めてこの機会に表明いたします」と断言しています。「労働者」と「移民」の違いはあっても、矛盾したことを平気で書いているのです。
 セキショナリズムの意思統一ができていないのなら、国際的な分断に手を付ける前に、組織内の分断をなんとかしてくれと言いたくなります。もし、広報の統括責任者がこの矛盾を放置して良いと考えているのなら、国際世論どころか国内世論をなめるなと言いうべきでしょう。いや、せめてもう少し上手な嘘をついてくれとお願いしましょう。

外国人材受入れ・多文化共生支援,https://www.jica.go.jp/activities/schemes/multicultural/index.html
「JICAアフリカ・ホームタウン」構想について,https://www.jica.go.jp/information/notice/2025/1573131_66416.html
 さらに 「アフリカ・ホームタウン」構想について調べてみましょう。まず、対象国と相方になる自治体を並べます。(かっこ)内はおよその人口や公用語、主な鉱産資源です。また、自治体の方も人口を入れておきました。

モザンビーク(3100万 ポルトガル語 LPG)  → 愛媛県今治市(14.1万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%B8%82
ナイジェリア(2億3200万 英語 石油) → 千葉県木更津市(13.7万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%B4%E6%B4%A5%E5%B8%82

ガーナ(3200万 英語 金 石油) → 新潟県三条市(8.9万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%B8%82

タンザニア(6700万 英語 金 ニッケル) → 山形県長井市 (2.4万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%B8%82
 場所を確認しておきましょう。ナイジェリアとガーナは大西洋に、モザンビークとタンザニアはマダガスカル島の裏側でインド洋に面した国です。日本を基準にすれば地球の裏側にあるような場所で、直行の航空便はなく乗り換えを含めて15時間以上。格安航空券をつかっても往復で15万円ぐらいはします。はっきり言えば、地理的に遠い国々なのです。
鉱産資源にも恵まれ、これからの経済発展に期待ができそうで、念のため言えば、戦乱や大規模な自然災害などで大量の難民が出るような失敗国家ではありません。欧米列強の元植民地ということで、旧宗主国の言語などが国内の共通語・公用語として使われており、小学校以上の授業は英語という国もあります。つまり、大量の移民希望者が出る理由も、移住先にわざわざ日本を選ぶ理由もないのです。
 JICAは、こんな遠方から多数の移民を呼び込むことを本気で考えていたのでしょうか。おそらく違うと思います。事実上最大の移民呼び込みプロジェクトである悪名高き技能実習生制度の胴元は、厚生労働省とその関係法人です。何か移民利権のようなものは、基本的にこっちに行くはずです。
 JICAは良くも悪くも国際交流を促進するための組織です。なぜ、国際交流を進めるかといえばJICAだからです。よく言われるように、日本人の作る官僚型組織は、最初に組織の目的が与えられると、そこを疑うことは一切せずに、価値が形骸化しようが弊害化しようが、いつまでも動き続けるものです。おそらく国際交流のために作られた組織は、誰かが叩き潰すまで国際交流活動をやっているのでしょう。
 もう少し具体的に説明すると、官僚組織は予算と権限を守るために実績を上げ、それを大げさにアピールするものです。JICAとしては、おとなりの中国と比べて、見劣りするアフリカ諸国とのパイプを太くして、関係予算と権限と人員を確保することに最大の関心があるのです。
 だから、今回のように現地との関係悪化の可能性が大きくなると、さっさと撤退するのです。多くの日本人の作る組織は、こういう場合には延々と悪あがきをして傷を拡げるのですが、さすがは国際社会の荒波で鍛えられた逃げ足、見事でした。

 奴隷としての技能研修生

 世界中でほとんど誰も言っていないことですが、移民にならない権利というのがあるべきだと思います。多くの人は、自分が生まれた国で幸せに生涯を送りたいと思うはずです。ただし、一部の例外として外国に祖国より魅力的な「何か」を見つけた人のみが、一時的にしろ永久的にしろ異国で生活をすることになる。「何か」は仕事や宗教かもしれません。自然環境やスポーツかも知れません。かけがえのない誰かなのかもしれません。文化や民族などという「ばけばけしい」方もおられるでしょう。
 けれども、祖国にいては健康で文化的な生活どころか命さえ守れないというような難民じみた移民。もうすこし言えば、自国に大きな不満がありどこか別の国で生きたいという国民が大量に出る場合の話です。「大きな不満」には、所得の少なさ、治安や衛生環境の悪さ、教育問題、いわれのない差別などがありそうです。こういう場合、移民を受け入れることは緊急援助としての意味はあっても、問題の根本的な解決とはほど遠いものです。どう考えても、不満を持っている人のうちごく一部しか、移民として脱出することは出来ないのですから。さらに言えば受け入れ国側には、「帰れない移民」の弱みにつけ込んで、思う存分に搾取してやろうという輩が、官民を問わずウヨウヨ居ます。
 さっきも名指しにした技能実習生制度など、公設民営のタコ部屋です。こう言うと、制度の本来の趣旨やら成功例やらを持ち出しての反論がありそうですが、一定の期間やってみて一定以上の失敗例が出るものを、いつまでも税金でやってはいかんと思うのですが。ちなみに、「一定」というのは幅のある概念ですが、技能実習生制度に関しては十分、ボロクソに批判されるだけの「一定」でしょう。
 もう少し具体的にやりましょうか。途上国から連れてこられた「実習生」は、多くの場合、日本の若者が寄りつかないような劣悪な職場で実習することになります。もちろん、まともなオンジョブトレーニングなんかある訳ありません。
 現場で先輩の背中を見て「技」を「盗め」などと寝言を言わないで下さい。語学の壁もなく故郷からの移動も楽な日本人が、一向に「盗み」に来ない「技」って何なんでしょう。猿にでもできそうな仕事を、猿以下の待遇でやらされている例だって少なくありません。何を学ぶのでしょう。
 さらに、たとえば農業の場合、気候も食習慣も違う国で技術を身につけても、故郷でどの程度役に立つのか心許ない話です。工業製品の場合も、同じような機械で同じような製品を作るときにしか使えないノウハウを学んでも仕方ないでしょう。確かに鋳物や旋盤など町工場系の職人技というのも確かにありますが、こういうのは機械に代替される可能性が常にあります。製品もろとも技術自体が不要になることさえあります。日本人の若者が学びに来ないものを、日本語の通じない外国人に短時間で教えようとして、うまく行くと考える発想が恐ろしいと思います。
 途上国の若者を騙して連れてくるとハッキリ自覚しているのなら古典的悪人ですが、工場や畑から実習生が大量に脱走したあと、「最近の若者は辛抱が足らん」などとピンボケした感想をもつ経営者は古典的愚者です。。

 ならない権利・出さない義務

 この長屋の大家さんは、昨今の排外主義的な動きを見て「日本人は幼児的なので、これ以上移民を入れる能力がない」とおっしゃっていますが、少し補足が必要かと思われます。幼児的なのは排外主義者だけではなく、移民受け入れ主義者の大部分がそうなのではないでしょうか。
 我が国で少子化対策など労働力不足の話をすると必ず出てくるのは、IT化と外国人の受け入れのセットです。つまり外国人は機械と同列なのです。機械とはある目的を達成するための人造物で、破損や劣化で機能しなくなったり、より効率的な新しい機械を入手したり、目的自体が消滅したりすれば、粗大ゴミになる代物です。生身の人間をこういう風に扱えば、それは立派な奴隷制度です。
 移民を積極的に受け入れる側は彼らを「連れてこられた連中」だと思い、排除する側は「乗り込んできた連中」と見なす。それだけの違いです。これらを幼児的と呼ぶのは、さすがに幼児に失礼な気がします。どちらも、ただただ薄汚い思想です。そして、さらに救いがないのは、移民というものの実体を見れば、こうした見立てはあながち間違っているとも言い切れないことです。前者の例は、バビロン捕囚、奴隷貿易......、後者はゲルマン民族大移動、メイフラワー号......、「連れてこられた」わけではなく、「乗り込んできた」わけでもない移民なんて、地球上に存在したことがあるのかどうか不明です。
 移民という発想には、多かれ少なかれ人間の醜い部分が投影されやすく、このことは受け入れ側だけではなく、一旗揚げにやってくる側にも言えると思います。言い方を変えれば、人間の「悪い意味で幼児的」な部分を反映してできた社会システム、つまり必要悪のひとつが移民なのでしょう。
 理想を言えば「人間には移民にならない権利があり、統治者には移民を出さない義務がある」とするべきです。そしてこのことを誤魔化さずに、何をやっても矛盾がでる現状にゲッソリしながら、それでもなお目の前にいる人たちに何をしたら良いのか悩むのが、大人の態度だと思います。

移民問題の本質,http://blog.tatsuru.com/2025/09/23_1430.html

 高松での裸婦像の撤去について議論は今回で終わります。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html
  無難な選択 【裸婦像をめぐるラフな議論 その6】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/22_0738.html 

 数年前、自宅から脱走した愛犬を探していて、夕刻に大阪市内の靱公園に迷い込んだことがあります。近くの方はご存じかもしれませんが、あの公園には、等身大で着色までされたリアルな人物像が数体設置されています。散歩中の近所の方かと思い「白い迷子犬を見かけませんでしたか?」と声をかけそうになり、ギョっとしました。人間でないものが人間の形をしているのです。なんとも不気味なでした。
前にも書きましたが、私自身はリアルな人物像が苦手です。それだけではなく、公共の場所には、メッセージ性のあるアートは極力置かないでほしいと思っています。「勝手に税金を使って趣味や主張をするな」と言いたい方なので、裸婦像の撤去を求める方の気持ちも分からないではありません。今回は、像に抗議している側の違和感や嫌悪感について考えてみたいと思います。

性表現規制が育てた暴力的性風土

 中世と言われる時代から世界中どこでも、性を規制する側の論理は「猥褻からの社会秩序の防衛」でした。一時期、ヌードが反体制的で解放の象徴とされたのは、それに対する反発が発端だったのでしょう。
 けれども、歴史を経て生き残った近代国家の社会体制はガッチリと仕上がっており、良くも悪くも猥褻ごときではビクともしそうにありません。一方、商業的な性表現は氾濫することになります。典型例はバブル期の我が国です。
 けれども、日本では直接的な性器や性行為の露出は規制されています。陰毛でさえ公然と写真集に掲載されたのはバブル崩壊期の1991年。そのためなのか、我が国の商業的性表現はかなり歪み、一部は男性の攻撃性と強く結びついたものになりました。極端に言えば、「力ずくで女性が嫌がる事をさせる」のが最大の関心事で、昨年(2024年)大炎上したCX文化(例;オールナイトフジ)などその典型でした。これを「脱がせる文脈」と呼びたいと思います。暴力的な性コンテンツの氾濫により、「性表現には必ず性被害が伴う」という、極論気味ですが無視できない視点も登場しました。
 もともと性被害というのは流血に匹敵する残酷さと、被害者の子孫にまで影響しかねない拡大性がありながら、本質的には心理的なものです。目に見えないものは過小評価や過大評価の恐れが大きい......というより、性被害は過小評価か過大評価しかできないのかもしれません。「大丈夫、ひと風呂浴びたらチャラでしょ」と言うのは明らかに過小評価、「あなたは事実上、殺されたのです」と言うのは過大評価。でも、本当に本気で被害者に本気で寄り添うつもりなら、どちらの視点も必要なものです。
 加えて、PTSDなど、他者が評価すること自体が被害を拡大させる(セカンドレイプ化)こともあります。結局、性被害をめぐる論争は感情のぶつけ合いになり、声が大きい方が勝つことになりがちです。

  裸婦像のもたらす性被害    

 話を高松の裸婦像に戻しましょう。この作品による「被害」について2つに分けて考えてみましょう。モデルさん本人のものと現在の公園訪問者のものです。言い換えれば「見られることの被害」と「見せられることの被害」です。
 像の建立は1988年とのことですから、当時10代前半ならおそらく団塊ジュニア世代でしょうか。モデルになられた理由、アトリエではどんな姿でおられたのか、完成時にどう思ったか、今はどう感じているのか、いろんな問いが思い浮かびます。けれども、本人からの申し出がない以上、勝手に性被害者扱いするのはお節介というものです。もしかしたら、特定のモデルさんは、もともと実在しなかったのかも知れません。
 もうひとつ屋外彫刻固有の問題があります。寿命がやたらに長いのです。よく、ウェブ上のコンテンツは流失したら削除不能と言われますが、ほとんどの場合、飽きられれば消えていき数年もすれば検索すら難しくなるります。けれども、公が管理するブロンズ像は、意図的に撤去されなければ、最大何百年も公然と存在するでしょう。もし不本意な作品だった場合、これはモデルさんにとっては致命的なことです。
 仮に、制作時には気に入っていても、若いときの裸像をいつまでも(成長後・老後・そして死後も)公園に展示されていることを、気持ちよく容認できるとは限りません。その街に住むことや、その公園を訪問することが楽しいかどうかも、さらにまた別の問題です。
 この記事で、再三指摘した来たようにほとんどの裸婦像は抽象性に徹して、モデルが特定されないものも多数ありますが、それにはこうした理由もありそうです。今回の撤去騒動についても、モデルさん(おられればですが)はどう感じているのでしょうか。ホっとしているのか、寂しく思っているのか、腹が立つのか、どうでもいいのか......御本人が声をあげておられない以上、考えても仕方ないことかも知れませんが。

 ミラーニューロンの被害

 さて、もうひとつの「見せられる側」の話です。最初に引用した記事では、「未成熟な少女像は同世代の子どもたちに"自分がさらけ出されている"かのような感覚を呼び起こし、それが抵抗感につながっているのかもしれない。」とされています。眼前にある他人の痛みや不快を自分のことのように感じる感覚、これは脳内のミラーニューロンの働きとされていて、極めて人間的なものです。想像力の源泉、民度の基盤とも言えそうです。
 芸術としての裸婦が崇拝され、作品への批判がタブー視されているところで、「(女)王様は裸だ」と、最初に声を上げた方は賞賛に値します。像をただの飾りものと考えず、モデルの心情に想像力を拡げたのは、地域の民度の高さを示すものでしょう。
 ただ、できればもう一歩進んで、「なぜ、この子は、"さらけ出"ることを選んだのだろう」「彫刻家は何を表現したかったのだろう」ということも、考えてみて欲しかったとも思います。
 この記事では、長々と公共の場所に裸婦像が多数建てられることについて論じてきました。抽象的なテーマを人物像で表すには、余計な個別性をもたない裸婦が都合が良く、喩えて言えば、「裸婦は白飯のようなもの」で見る側に解釈が委ねられている。というようなことを書きました。

 もはや「白飯」ではない

 けれども、高松の像が完成したころと、日本社会の状況は大きく変化しました。まず栄養状態の向上による性の早熟化、そしてそれに伴う性対象の低年齢化があります。そしてもうひとつ、性的な自己決定権の明確化です。「脱がせる文脈」の登場し、その後、それに対する嫌悪感が社会的に共有されました。
 なにしろ、小学校教師が勤務校で盗撮をする時代です。子供も親も防衛的に考えざるを得ません。また、誰かが(この件ではモデルさんが)性的自己決定権を奪われている(いた)可能性があれば、抗議するのが市民の義務のようになっています。もはや裸婦像は当たり障りのない「白飯」ではないのです。

 ブロンズ像も成長する

 ここまで書いていて、ふと......古くなった白飯はどうなるのかと考えていて、うまく行けば麹になると気づきました。白飯と違ってアルコールを分泌したりするので、どこにでも出せるものではありませんが、ただの白飯よりは麹の方が値打ちがあります。汎用性は失われますが、ある種の価値が醸し出されています。
 古い裸婦像が「脱がせる文脈」での抗議を受けることも困ったことばかりではない、という気もしてきました。ブロンズ像の少女が、地域の同世代の女性(「少女」とは敢えて書きません)の口を借りて「私、もう恥ずかしい」と言い出したとしたら、成長の証であり、建立時に意図された「郷土の発展」が、十分に表現できてたことにならないでしょうか。

裸婦像は時代に合わない?,FNNプライムオンライン,https://www.fnn.jp/articles/-/923656

 感動ポルノじみて来ますので下手な文学的表現はもうやめますが、作品に創作時の意図を超えた新たな文脈が加わるとしたら、それはそれで素晴らしいことでしょう。
 少なくとも、作者に卓越した技能があってのことです。実際、日本中で乱造された裸婦像の中には、批判さえ受けずに、劣悪なメンテと酸性雨のせいで劣化が進み、あわれな骸をさらしているものも山ほどあります。
 高松の公園の作品は市が委託して作った作品です。「時代が変わったから、お前の作った猥褻物を撤去する」では、あまりにも作者に失礼です。「あの娘も、どうやら大人になったみたいですね。このままでは可哀想です。きっと先生の腕が良すぎたんでしょう」という発想で、まずは議論を始めていれば良かったのではないでしょうか。
 もう一度、創設時点に戻って考えてみたいと思います。まず、裸婦像でないなら、瀬戸大橋の見える公園に何を置いたら良かったのか考えてみましょう。着衣の人物像、「軍服、白衣、スーツ、作業着」何を着ても「郷土の偉人」に見えてしまい、これまた感動ポルノに一直線です。男性裸像の場合は、生殖器の処理や体型の選択という難題があります。
 結局、無難に人物像をつくるなら裸婦になってしまいます。そして高松での例でもそうでしたが、「未来」や「発展」をテーマにすると少女像になりがちです。これを差し障りがあると考えるなら、構想の段階で人物像を造ること自体を断念すべきだったと思います。
 また逆に「裸婦はいやらしくない」と無条件で考えている人は、「脱ぐ文脈」からの距離で発言しているのでしょう。モデル自身が性的アピールをしているわけではありませんから、彫刻家が真面目に作っている限り裸婦像は「いやらしくない」という考え方です。

「いやらしさを感じるバカはいない」設置当時の市長は驚き にわかに物議醸す"裸婦像"の行方 「時代遅れで今の時代にそぐわない」と静岡市長が苦言 中には印象派の巨匠・ルノワールの作品も,
https://www.fnn.jp/articles/-/804363

 むしろ製作時には「脱いじゃう文脈」の混入の方を、彫刻家は警戒していたはずです。渾身作を笑われてはたまりませんから。
 けれども、その後に猖獗を極めた「脱がせる文脈」で考えれば、「裸婦像は性犯罪の一場面を描写している」ようにも見えるわけです。作品に「脱ぐ文脈」や「脱いじゃう文脈」がないことも災いして、「なぜ裸なのか」について説明責任のようなものが生じます。当初は全く想定していなかった視点からの批判が後になって出てきたのですから、設置者にとっては言いがかりみたいなものです。けれども、公共性が求められる場所では決して無視できない論点です。

 民度の高い議論の必要性

 ではどうすべきなのか。裸婦像というものの現代的な位置づけを再定義してみたり、「見る権利」と「見せられない権利」との折り合いを考えることもしないで、いきなり問答無用の撤去では、あちこちにタチの悪い分断のタネを残すことになると思います。「性被害者に冷淡な街」にも「大きな声にはアッサリおもねる街」にも、「芸術観がころころ変わる街」にも、高松市はなりたくないでしょう。
 できれば、制作者側と撤去希望者側が、現地で話し合う機会がつくられるべきだと思います。私が担当者だったら、撤去希望者側には像設立の意図や経緯を理解してもらい、一度何も考えずに(文脈との切り離し)、モノとして像の美しさを見て欲しいと言いうでしょう。一方、制作者側には、あえて性的ないやらしい目(脱がせる文脈)で像を見ることを勧めます。そして市側など中立の立場の方には、両方の視点で見てほしいと言います。
 また、どうしても像を見ることが嫌だという方には、「なんで嫌なのか」を制作者にも理解してもらえるように語って欲しいと思います。さらに、こういう場で全く発言する気も無い人がいても、それもまた大切な立場です。そういう方がおられたという事実も参加者で共有するべきです。まずは像への向き合い方の多様性を大事にしましょう。
 その後、力づくのイデオロギーのぶつけ合いではなく、想像力を駆使して多用な立場・視点・趣味・価値観に近づいてみる。こうした民度の高い議論できたのならば、最終的には職権による強制力で解決せざるを得ないことになったとしても、参加者全員にとって得るものが大きいのではないでしょうか。
 今後、経済的に落ち目になることを避けられない我が国で、最後まで誇りに出来る、あるいは誇りにすべきは、われわれ自身の民度しかないでしょう。「金だけ今だけ自分だけ」に居着いている余裕は、今の日本人にはないと思います。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html


 考える人を考えない人

 もうひとつ男性裸像で厄介なのは体型の選択ではないでしょうか。クレッチマー博士の三分類で考えるとしましょう。博士によれば、人間の体型には細長型、肥満型、闘士(筋肉)型の三種類があるそうで、少なくとも西洋文化圏では、体型をこの三種類に分ける思想が一般的であったと言えるでしょう。 

クレッチマーの性格類型論(体格タイプ論),ITカウンセリングLab,https://it-counselor.net/psychology-terms/kretschmer-type-theory
 男性像でガリガリに痩せた細長型を採用したらどうなるでしょう。おそらく、飢餓、感染、虐待、奴隷などと言った方向に作品は向かっていくでしょう。嫌でも政治的な物語になります。
 逆に、ふくよかな肥満型にすると、退職、傲慢、搾取、などという印象が立ち上がって来ます。裕福で鷹揚な東洋人が連想されることもありそうです。まあ鼓腹撃壌の物語ぐらいですか。
 古代ギリシャローマの男性裸像は圧倒的に、いかにも健康的な筋肉型です。もちろん傑作も多い定番スタイルなのでしょうが、闘士型という別名の通り戦士かアスリートにしか見えなくなってしまいます。男性裸像では体型が、衣服と同様に作品の固有性・具体性を勝手に表現しがちで、抽象的なイメージの造形をしたい場合には、厄介なノイズになります。
 中肉中背の目立たない体型にすれば良いようなものですが、特徴のない退屈な男性像に限定されるぐらいなら、裸婦の方がよほど自由度があります。中肉中背の男性裸像での、ほとんど唯一の成功例はロダンの「考える人」でしょう。

考える人 (ロダン),ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA_(%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3)

 この作品は、裸像であることがすぐには思い出せないほどの自然な造形になっています。体型や生殖器も全く印象に残りません。けれども今後、同様のポーズの作品を誰かが作ると、二番煎じとかアイデアの盗用などと言われて終わりです。あまりにもナチュラルな造形で、ブロンズ像である限り変化のつけようがないのです。だから彫刻家はこの手の企画を、はじめから考えないでしょう。
 裸婦では、体型が固有性具体性を主張することはあまりないでしょう。かなり乱暴な言い方ですが、平均的で目立たない乳房を付けておけば、体型が自己主張することは避けやすそうです。乳房が一種のコートのような働きをするので、「すこし痩せ型」か「ぽっちゃり型」ぐらいしか印象に残りません。言い換えれば、中肉中背のありふれた体型でも乳首がアクセントになって、「いかにも退屈な造形」にはなりにくいのでしょう。かなり抽象性の高い造形でも、乳首が省略されにくい理由の一つだと思います。
 ただし、抽象を目指す作者としては、裸婦の胸には「コレハ、ラフゾウデアル」以上の余計なことは喋ってほしくないはずで、目立たない造形が望まれます。そういえば、いわゆる「巨乳」やいわゆる「貧乳」の裸婦像はほぼありません。あえて採用すれば、男性裸像の体型と同じ問題がおこります。だから抽象的なテーマであればあるほど、胸が目立たない少女像になりがちなのでしょう。

 白御飯の柔軟性

 これまでの議論をまとめてみましょう。人物像の場合、着衣や体型は作品に固有性・具体性をもたらす強い作用があます。そうした方向性を嫌う抽象的なテーマを求めるなら、それらは不都合なノイズとして作用してしまうので、結局、裸婦像それも少女像が一番自然でやりやすいということになります。
 だから、モデルさんの名前のついた裸婦像(「○子像」とか)は極めて少なく、かなり写実的なものでもモデルが特定されているものは少数のようです。美術史的な理由でモデルを詮索することも、あまり積極的に行われているようではありません。あくまで抽象性が尊重されています。
 何度も書きますが、抽象性が高く鑑賞者に多様な解釈を許すような趣旨の場合、着衣などの脇役が無要な自己主張をしない裸婦像は定番なのです。言い換えれば、何かを訴えるための裸婦ではなく、余計なメッセージを抑制するための裸婦なのです。そして、あらゆる不要な文脈から距離を置く造形が求められるからです。
 たとえて言えば、裸婦は白御飯です。一椀の白飯だけを見ても、どのような料理が出てくるのかわかりません。けれども、千枚漬けと沢庵と塩昆布が添えてあれば、懐石のシメの赤だしが横に並べられそうです。アラレと刻み海苔とわさびが添えられていれば、お茶漬け......それも鯛の刺身と出汁が出てきそうです(ごまダレなんか、たまらないですね)。趣を変えてラッキョウと福神漬けなら、インド方面へ向かう......主役に柔軟性があるほど、力のある脇役に方向性を決められてしまうことが多いのです。
 これが、チャーハンや炊き込み御飯なら、何を添えても自分の世界に持っていってしまいます。コース料理の自由度を一番阻害しないのが白飯なのです。
 このことは、裸婦像と水着像との比較で考えればよくわかるでしょう。まずスーパーの二階で売ってるようなビキニやサザエさんが着そうな水着を着せて、瀬戸大橋に臨む公園で像を建てたら「近くに海水浴場があるんだ」と思われそうです。競泳用水着なら、「夏の国体があったらしいね」となります。古めかしいスクール水着なら「廃校の思い出」あたりでしょう。水着一枚で像の方向性がきまってしまい、どうしても話が小さくなります。

 マヌケな力士像と手抜きの裸婦像

 だからと言って男性の裸像は、よほどの傑作以外はこっけい感が出ます。特に日本人で裸体の男性像を作ると力士風になりかねません。まわしの無いおすもうさん。「全裸山」とか「小便小結」(要給水設備)とか言われそうです。ゆるキャラにでもすれば見物客が集まり、「脱いじゃう文脈」での町おこしと言えば町おこしですが、自治体も住民もたまったものではありません。彫刻家のキャリアにも暗い影を落とすでしょう。大相撲協会も激怒......誰がこんなチャレンジをするもんですか。
 こう考えると、自治体などが依頼製作をするときに裸婦が選ばれやすい理由もわかります。像が具体的になればなるほど、後年にモデルについて物議をかもしやく、また逆に忘れられて時代遅れにもなりやすいからです。だから、公共の場で抽象的なテーマで人物像を作る場合、「消去法も含めていろいろ考えた末に裸婦」というパターンになりがちだったのでしょう。
 さらに、各地で同じような意図の像が量産されはじめると、この傾向には拍車がかかります。無難で前例があるものほど行政に選ばれやすいからです。ただし、流行があまり極端になり粗製濫造気味になると、見る側に飽きられて「なんだ、また裸婦か」と思われ、無視されるようになります。実際、素人目でも「チャチャっと適当に作ったな」と言いたくなる像は日本中にあります。ひどい場合には、どこかの裸像をモデルにした裸像ではないかと思われるのもありますが、こういうのは、あまり問題にもなりません。
 今回の高松の例のように、不愉快を感じてもらえたということは、ある意味では芸術家としては勝利なのかも知れません。見る人の心に強いインパクトを与えられたわけですから。けれども、それだけに勿体ないとも言えますし困ったことだとも言えるでしょう。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html

 表現力が限定された塑像では、着衣が大きな発言力を発揮することは、前回【その4】でお話ししました。だから、抽象性をキープするための裸像という考えなのでしょう。実は、高松の像の作者も、「着物(服)は階級を表す」という理由で、裸像を選択したとおっしゃっています。けれども、それならばなんで女性なのでしょうか。考えてみれば、著名な男性の裸像は、特に近現代のものは皆無です。たった一つの大傑作を除いて。
 原因を考えてみましょう。ひとつは、【その2】でも書きました男子生殖器の処理の難しさです。【その3】のジーンズと同様、柔らかいものを金属で表現することは困難を極め、ひとつ間違えれば安物のアニメに出てくる安物のロボットの安物のノズルになってしまいます。素人や学生さんの作品なんかでよく見かけます。逆に言えば、ブロンズ像の男性器で明快な猥褻を表現できたら、それは類を見ない傑作になるでしょう。少なくとも私は見たことがありません。
 ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での作品も多数存在します。私が知っているものでは2つのグループに分けられます。まずは、日本各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
 もうひとつのグループと考えているは、小便小僧でほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「おしっこで火事を消した」というのが由来だそうです。この話もフロイト的に、「男性器の攻撃性や射精の象徴」と考えられなくもありません。
 けれども、オリジナルの小便小僧も世界中にあるほとんどのレプリカ像も、こうしたイメージにはほど遠い、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、男性器を彫塑にすると豊穣どころか、退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったり来る造形になりがちです。
 男性裸像、特に成人の股間に何もつくらないのはあまりにも不自然ですし、だからと言ってリアルな性器を配置すると、単純に笑われてしまうリスクがあります。妥協案なのでしょう。屈強な成人男子の像に、小便小僧のような幼児の男性器を配置して誤魔化すというのがよく見られる手法です。

 ダビデ像,【イタリア】なぜ彫刻には包茎が多いのか?,フィレンツェからボンジェルノ,http://yukipetrella.blog130.fc2.com/blog-entry-261.html
 おそらく女性器でも同様なのでしょう。生殖器が見える裸婦像は皆無です。それどころか、性を徹底的に回避しているように見えます。やはり多産(生殖)から豊穣への連想で、裸婦のモティーフが多用されるようになったいう推測には、無理があるようです。

 ちょっとだけよ

 どうも、性表現というものは猥褻よりも笑いに強い親和性があるようです。「古事記」にある有名な話ですが、女神アマノウズメが性器を露出して踊ったところ、八百万の神々は大笑いをしました。でも、なんで笑うのか分かりません。幼児が「ちんちん」などと連呼して一人で笑い転げている姿をよく見かけますが、同じ感覚なのでしょうか。
 もうひとつ、1970年代に一世を風靡したドリフターズのTVコント番組「8時だョ!全員集合」。一時期、最大の見せ場のは加藤茶氏(かとちゃん)の「ちょっとだけよ」でした。令和の今では説明が必要ですね......当時のストリップショーでの踊り子のセリフなので、「裸を見せてあげるのは、ちょっとだけよ」という意味です。
 ところが、「ちょっとだけよ」はそれまでのコントの流れとは全く関係のないところで、突然登場します。武士・警官などから踊り子姿への早変わり、照明、音楽(生バンドでした)なども突然転換する大がかりなギミックでした。かとちゃんが出てくれば「ちょっとだけよ」が始まることは、見ている全員が知っていたはずで意外性は全く無いのですが、いつも唐突にはじまりました。

 裸婦の方向性を決定する「物語」

 おそらく、性的なコンテンツが、「エロスを醸し出すか笑いを呼ぶか」、「あるいは嫌らしくなるか可笑しくなるか」の分岐は、背景にある物語との文脈にありそうです。
 現代人が意図的に自らの裸を誇示するのは他者との性的コミュニケーションを求めていると考えられると前にも書きましたが、コンテンツがその本来の性的な物語に乗っかれれば、普通の性的コンテンツになります。
 エロ本には最初に着衣の写真があります。全ての風俗嬢は服を着て客の前に現れます。裸そのものではなく裸になることで、性的なコミュニケーションを求めている女性を演じるわけです。とりあえず、こうしたコンテンツと物語の関係を「脱ぐ文脈」と呼ぶことにしましょう。
 浮世絵が春画として世界的に評価されたのは、一幅の屏風で物語を表現できる日本美術独特の表現が影響していると思います。磁気ビデオテープにはじまり、DVD、そして動画配信、物語を表現できる映像メディアの普及を、性的コンテンツ需要が支えたことは、家電関係者の間では常識です。
 一方、「古事記」や「ちょっとだけよ」の場合、性的ではない状況にいきなり裸(またはそれを暗示する人物)が登場して爆笑がおこります。どうやら、あるべき物語と不似合いな性表現には、笑いで反応するような回路が私たちの脳にはあるのでしょう。混入が唐突であればあるほど、この回路は活性化します。こうした状況を「脱いじゃう文脈」としましょう。
 アートの世界では、デッサンも写真も基本的に一枚一枚が独立しています。モデルが画家やカメラの前に出てから、私服を脱ぐこともありません。前後のあらゆる文脈を断ち切った、それ以上でもそれ以下でもない即物的な裸体が求めらます。
 このとき、何らかの理由(技術的未熟さなど)や作為で、無関係な物語が混入すると、「脱いじゃう文脈」が成立し、裸体やそれを暗示するキャラ(「ちょっとだけよ」の踊り子さんなど)は、笑いの素材になってしまいます。
 それなりのエロ小説を書ける高校生は結構いそうですが、彼らに紙粘土を渡して「何か、エロいモノを作ってごらん」と言えば、ほぼ確実に笑いのおこるような「作品」を作ってしまうでしょう。「無理です」と断る子が大半かも知れません。
 物語りと折り合いの悪い彫像。特に屋外展示では、日常という最強の物語の中に作品がいきなり放り込まれ、時として意図しない「脱いじゃう文脈」が登場して嘲笑をあびてしまいます。

 競艇場の悲しきポルノ

 一昔前には「感動ポルノ」という言い方がよくありました。不幸な生い立ちや傷害を乗り越えた話などの場違いな押しつけが、「脱いじゃう文脈」で読まれてしまうため、性的な要素が全く無くてもポルノなのでしょう。
 たとえば、あるギャンブル団体のボスが実母を背負った像が日本中にあるのは有名ですよね。子供のとき「どこへ捨てに行くの」と母に聞いて激怒されたことあります。前の晩に読んでもらった「姨捨山」が頭に残っていたのでしょう。せめて、「ババア汁作るんだよね」とでも言うべきでした。確かに下で背負っていたのは狸でしたから。
 それにしても、私なら、息子ともども後世の人にまで笑われるより、人知れず山奥に捨てられるかジジイ汁にでもされた方が、まだマシのようにも思います。たとえば競艇場など、親子関係とも老人問題ともおよそ無関係な場所に、唐突に親孝行などというモチーフを持ち込むから、「脱いじゃう文脈」の親孝行ポルノになってしまうのです。
 以上をまとめると、裸体をコンテンツにする場合、純粋なアートにしたいのなら物語性を極力排除し、エロスを求めるならそれに相応しい物語を添付し(脱ぐ文脈)、笑いを取りたいなら唐突に不適切な物語をぶつける(脱いじゃう文脈)と、成功率が上がるということになりそうです。
 前回も書きましたが、男性裸像がコミカルになることを防ぐ最もありふれた方法は、ミケランジェロのダビデ像のように、乳幼児の性器をつけて誤魔化してしまうことです。つまり日常生活の場への性の持ち込みを最小化する戦略です。いかにもわざとらしい造形が「作品の傷」になりがちですが、仕方ないのでしょう。この問題は決して、裸婦ではおこりません。生殖器が見えないほうがむしろ自然だからです。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html

 次に、「アジア太平洋戦争後平和になり、戦前戦中に作られた軍人さんの立像の代わりに、公的な場に裸婦像が多作されるようになった」とする説を検証してみましょう。
 武士や軍人の銅像は造りやすそうです。戦わせて良し、武器を持たせてよし、倒れてより、耐え忍ぶもよし、ビッグネームなら平服で前を睨んでいても絵になります。寄付も公金も獲得しやすかったでのしょう。
 すぐには何の人か分からない文民では、こうは行きません。たとえば、財界人にソロバンを持たせるわけにもいかず、別に説明がいります。文民の像で一番多いのは、おそらく学者さんたちでしょう。たいていの大学には、創立者の胸像があります。毎年末には、サンタクロース姿の碩学も多数おられます。歴史のあるキャンパスでは、そこらじゅう像だらけだったりします。
 面白いところでは、渋谷のハチ公の飼い主さんも駒場の大学におられます。もちろん研究者としての功績によるもので、模範愛犬家としてではありません。キャンパスの改装で一時撤去するとき、わざわざ学生たちが渋谷まで運んで、ハチ公と対面(再会?)させたという話もあります。
 けれども、戦後は軍人に代わって研究者や文化人の胸像が量産されるようになったわけではありません。民主的な価値観の中で、そんなことを望むのは恥ずかしいと思う人が増えたからでしょう。
 院生時代の私の指導教授。学生たちと各種胸像の横を歩くとき、「間違ってもこういうの作るなよ」と何度もつぶやいておられました。私たちは「これだけおっしゃるのは、よほどお姿を残されたいのだな」と解釈して、「オレたち成功したら、カニ鍋屋の看板みたいにギッチンギッチン動く巨大なやつを建てよう」と誓い合いました。幸い今のところ誰一人として成功しないまま、世間に散らばっています。代わりに、この長屋で大家さんの......やめておきましょう。
 さて、軍人・政治家・作家・科学者......偉人には全て固有名詞があります。建ててしまったあと、革命のスキャンダルでモデルが極悪人認定されてしまうと、叩き壊さざるを得ないことになります。一種の公開処刑ですから像の芸術性は一切考慮されません。
 こうした事情もあり、固有名詞のある像やイデオロギー色の強い像の建立を、本人も含めて誰も希望しなくなったことが、裸婦像量産の契機になったというのはありそうな話です。    
 けれども、二つの大きな疑問が残ります。まず第一に着衣ではだめなのかということ、第二になぜ女性ばかりなのか、ということです。一つずつ見て行きましょう。

 昔、ジーンズにはメッセージがあった

 第一の問いのヒントになりそうな作品を、数年前に見かけました。ジーンズをまとい上半身だけが裸という女性のブロンズ像です。この作品で一番印象に残ったのはジーンズ生地の質感でした。金属で布を表現するのですからかなり無理があり、デニム地が、ブリキ製のバケツのように見えてしまいました。材質上の違和感が強烈過ぎて、モデルさんの事などは全く覚えていません。
 けれども、考えてみれば県立美術館に出品するような彫刻家が、技術的な難しさを知らずにジーンズを使用しとは考えられません。また、美術館がわざわざ失敗作を収蔵品にするとも思えません。
 歴史的にジーンズは思想性の強いアイテムでした。まず、黒人奴隷の労働着という暴力的なルーツがあります。学園紛争のころ若い女性がジーンズを着用するのには、「私たちは、男性と同じように活動する」という強いメッセージがありました。
 約半世紀前の学生運動全盛期の話ですが、大阪大学で外国人非常勤講師がジーンズ着用の女子学生を授業から閉め出したため、学生たちから猛反発を受けて辞任に追い込まれるという騒動までありました。ちなみに、その先生の本務校は、この長屋の大家さんが長年教鞭をとっておられらた泣く子も黙る某女子大で、決して女性差別的な人ではなかったようです。逆に言えば、それだけ強烈な意味が、当時は女性のジーンズ姿にはあったのでしょう。

働く女性の50年史(9),福沢恵子公式サイト,http://www.keiko-fukuzawa.jp/15733036764245
北原恵,ウィキペディア,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%81%B5https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%81%B5

 話を作品にもどしますが、おそらく制作者は何らかのメッセージを込めて、モデルにジーンズを着用させたのでしょう。たとえば私が思いついたのでは、伝統的なジェンダー(上半身)と男性と同等に活動する女性(下半身)との分裂です。
 こういう作品には時間の概念もはいってきます。裸婦がジーンズを着用したのか、さらに何か着衣が加わる途中なのか、逆に脱ごうとしているのか......多様な解釈が可能とは言え、作品の方向性が、着衣によってかなり限定されているように思います。言い方を変えれば「ジーンズが威張っている」のです。当然、制作者の意図なのでしょうが、こうしたことを避けたい場合もあるでしょう。
 もうひとつ、日用的な衣類が登場したことで、その裸婦の具体性・個別性に注目が集まります。こうなってしまうと、「この女性(実在するとして)はどこまで納得してモデルになったのか」とか「この作品は彼女の人生に、どんな影響をおよぼしたのだろうか」とか「有名作品として自分の裸像が半永久的に展示されることを、どう思っているのか」などと余計なことを考えてしまいます。こうした思慮を芸術に持ち込むことが適切なのかどうかは、議論の余地がありそうですが、少なくとも制作者が意図したことではなさそうです。ですから、着衣像を裸婦像とでは、意図するものがまるで違い、抽象的なテーマの場合、着衣がノイズになってしまう可能性がありそうです。
 さて、今回記事をまとめるにあたって、記憶をたよりに該当の像をさがしてみました。おそらく滋賀県守山市の佐川ミュージアムで見た佐藤忠良の作品だったようです。残念ながら、その彫像そのものの画像は公開されていませんので、別の場所にあるよく似た像の画像を示しておきます。

「ジーンズ・夏」佐藤忠良,屋外彫刻の青空広場,https://publisann.com/%E3%80%8C%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%A4%8F%E3%80%8D%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BF%A0%E8%89%AF/

 また、唯一の着衣が大きな意味を持つという私の考えは、どうやら作者なり佐川美術館の意図だった(知らなかった)らしいということも付け加えておきます。

佐藤忠良 身にまとう,佐藤忠良館,https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/2014/02/post-38.html

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html

困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 それにしても、戦後、公共の場所に量産された人物像は、なんで女性が圧倒的に多く、それも裸像なんでしょう。よくある説明は、「多産ということが豊穣につながるから伝統的に女性の性が強調される」というものです。ギリシャのペルセポネー、縄文のビーナスなどを引き合いに出す議論です。
 けれども、出産や性交をリアルに表現した像は、一神教による性的タブーが強くなった中世以降どころか、ギリシャ・ローマ、東洋美術でも、さらには埋蔵文化財でも皆無です。人間の生殖と農業の豊穣を無理に結びつけるよりは、すなおに健康的な体型の人物像は豊かな社会の象徴、ぐらいに考えた方が実体に合うような気がします。人間にかかわる全てのことを、性や性欲に結びつけて解釈しようとするのは、フロイト信者の常習的勇み足なのではないでしょうか。

ペルセポネー,ウィキペディア,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%83%BC  

縄文のビーナス,ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

 ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での彫塑は多数存在します。よく知られているものは2つのタイプに分けられると思います。まずは各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
 もうひとつのグループと考えているは小便小僧、ほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「火事を消した」というのが由来だそうです。この逸話からフロイト的に、「性的抑圧の強いキリスト教文化圏で、男性器や射精の攻撃性を象徴してる」と考えられなくもありません。
 けれども、オリジナルの少年像も世界中にある多数のレプリカも、こうした攻撃的なイメージを表現しているとはとても言えない、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、生殖器を立体的に造形すると豊穣どころか退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったりくる造形になりがちです。
 実は、高松の像の作者も、生命力の象徴として少女を選ぶ理由に生殖を上げていますが、よくある形式的な説明だと思います。ある個体を自身の生命力と別の個体を作る生殖とは、似ているようで全く別の概念だからです。近未来に新たな生命を宿す可能性があることを理由に、「女児は男児にはない特別な生命力がある」というは、よく考えてみれば変な理屈なのです。
 誰かが発見した「生命力に溢れた女児」というモチーフが、あちこちで採用されているうちに、いつのまにか「女児は男児にはない生命力に満ちている」という、ぼんやりした話になってしまったのではないでしょうか。女児のみが多用されるようになった本当の理由が、別にあるように思います。もう少し別の議論も見てみましょう。

 母性とはほど遠い裸婦像

 類似の思想に、裸婦は母性を通じて豊穣を表しているという考え方があります。ちなみに、「母性」という言葉も誤解が多いものだですが、もともとは、「子供を産み育てる機能」ぐらいの即物的な言葉なのでしょう。「母性保護」なんていう言い方もありました。「女性従業員の母性保護のために、社員食堂を禁煙とします」なんていう感じです。
 フェミニズム界隈では、ジェンダー差別の要因のひとつだからという理由で、「母性など存在しない」とか「母性神話」などとクソミソですが、母性というモノが存在するのかという議論と、もし存在するとしたらフェミニズム的な「男女平等の徹底」というイデオロギーと、どう整合させるかという議論は分けて考えるべきです。
 フェミニズムは価値判断を含むのですからイデオロギーの一種で、それが正しいかどうかは、主観ないしは宗教でしか判断できないはずです。言い換えれば「正しい」かどうかの議論は無意味。「なんで男女は平等なのか」と聞かれたら、答えようがないでしょう。
 ついでにもうひとつ、「フェミニズム的な社会がうまく機能するか」というのも、さらに別の問題です。男女平等を尊重する西洋文明的な国(日本やロシア、イスラエルなんかも含む)で、多かれ少なかれ少子化がおこっていない所はありません。社会が消滅したらどんなイデオロギーも同時に消滅します。この論点だけで本一冊ぐらい書けそうですので、今は深入りしませんが、いずれ長屋でやってみたいと思います。で、裸婦像への母性の影響の話に戻ります。
 単体の人物像で明確に母性を表現しようとしたら乳房ぐらいしか、アイテムがありません。確かに、縄文のビーナスなど一部の埋蔵文化財では乳房が異様に強調されています。ほぼ草食だった古代のホモサピエンスにとって、一番身近な動物性タンパク食品は母乳でしたから、母性が豊穣の象徴だった時代や文化があったとしても不思議ではありません。
 けれども、同じ母性のイメージが近現代の裸婦像にまで継続していると考えるのは、無理がありそうです。現代人の感覚では、性器ほどではありませんが乳房も、やはり強調してしまうと滑稽になります。巨乳という言葉には少なからず侮辱的な響きがあります。戦後日本で量産された裸婦像で、胸が強調されたものはあまり見かけません。
 聖書に源泉をもつ聖母子彫刻など、母性が重要なモチーフになっているアートもありますが、絵画と比較すれば作品数が少なく、またそれらを裸婦と呼ぶことにも無理があります。そもそも異教徒の国日本では、およそはやらないテーマです。
 それどころか、特に戦後の日本に限定すれば像のモデルは年少者が多く、ときには「ロリコン」呼ばわりされるぐらいで、これらが母性を表現しているとはとても言えません。なぜ低年齢の女性の像が多いのかは後で考察するつもりでが、ほとんどの裸婦像作者は最初から母性など表現する気はないのでしょう。
 戦後のある特定の時期に、日本で裸婦像が量産された理由については、その前の時代のことなども含めて、じっくり検討したほうが良さそうです。